混沌の魔女と獣人の子   作:鉄鎖亡者

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母の回顧 その6

 可能であるなら、転移術を使ってでも、我が家へ送り出したいくらいだった。

 しかし、陣を伴わない転移は事故の可能性も多く、特に他人相手はとても危険だ。

 

 それだけでなく、今の場合だと妊婦への負担の方が心配だった。

 転移というのは、実は身体に大きな負担が掛かる。

 

 健康で五体満足の相手に使う分には、影響は殆ど感じない。

 しかし、疲弊した相手に使用するのは、多くの場合推奨されないものだった。

 

 特に今のニコレーナは、ただでさえ病弱だったところに、今の疲弊がある。

 妊娠している事も加味すれば、到底転移など試す場合ではなかった。

 

 だから馬車の調達を優先したし、それでも不十分だと分かった今、割れ物を扱うように手ずから運ぶことになっている。

 

「……今更だが、大丈夫か? 気分が悪くなったりは?」

 

「恐ろしい感じはします。でも、貴女がしてくれる事ですから……。身を任せて受け入れるだけです」

 

「もうすぐ到着だ。でも、無理と思ったら言ってくれ」

 

 ニコレーナは返事こそしなかったが、身体を固くさせて頷いた。

 

 そうして風と一体になって走ると、公国と共和国を繋ぐ玄関口、国境に隊商宿を構える街へと辿り着いた。

 

 人の往来が盛んで、とりわけ馬車の行き来が激しい。

 

 人口の坩堝みたいな場所だが、公国へ入国しようとする商人は、やはり人間に限られる。

 

 獣人の商人もいるのだが、そうした商人は、これから公国へ向かう人間への商売であったり、あるいはこれから共和国へと向かう人間への商売を専門にしている。

 

 それでも、人間と獣人の間に目立った差別は見られない。

 完全な平等とまでいかないものの、明らかな排斥など起こっていなかった。

 

 これが公国と共和国との、圧倒的な違いだった。

 

 法の上では、しっかりと平等と明記されているので、下手な事をしたら周りの獣人が黙っていない。

 

 人口の上でも人間と獣人の割合は殆ど変わらないので、一方を弾圧などしようものなら、大変な事態に発展しかねないという実際的な問題もあった。

 

「もっと内陸に進めば、格差は更に少なくなるんだが……。今は落ち着いて休む方が重要だな。ここで宿を取ろう」

 

 宿にも多くの種類があり、そして格式の違いもある。

 安い宿は、それこそ食事も出ないし、寝る場所が提供されるだけで仕切りすらない。

 

 本当に、ただ雨風を凌げる場所というだけで、荷物を抱えて眠らねば安心できないような宿は珍しくなかった。

 

 そんな場所で静養も何もないので、私たちが泊まるのは当然、鍵付きの安全な部屋を提供する宿だ。

 

 向かった先は、決して大きいという訳ではない。

 しかし、中流階級が利用するには十分な宿で、オーナーが自ら店番をしているような所だった。

 

 愛想良い笑みを浮かべていたオーナーは、私が入店するなり、おや、と目を丸くさせる。

 

「これは珍しい。……いやはや、お久しぶりですな。相も変わらぬご様子で……。獣人のお嬢さんなど連れて、一体どうされたのです?」

 

「少し、行きずりで、面倒を見る事になってね……。一晩の宿を借りに来た」

 

「まっこと、愚問でしたな。お部屋なら、すぐにご用意できますよ。……しかし、一晩でよろしいので?」

 

「そうだな……」

 

 問われて少し考え込む。

 

 ここで一晩と言い切れば、もし明日、多数の商人が部屋を求めてやって来た時、譲る必要が出てくる。

 

 そういう約束だった、と言われたら、事前に明言していた私が悪い。

 そう考えて考えを改めると、首を横に振って答えを返した。

 

「悪いが、期限を設けずに借りられないか。この娘の容態次第、という事にさせて貰いたい」

 

「……確かに、顔色がよくありませんな。……ご病気で?」

 

 舐める様に見つめて、見定めようとするオーナーは咎められない。

 宿で病気を蔓延させたとなれば、今後の評判に傷がつく。

 

 しばらく、客の入りは酷く寂しいものになるだろう。

 雑居宿ならばともかく、こうした宿屋が病人の宿泊を嫌がるのは、むしろ当然だった。

 

「いや、病人ではない。妊婦なんだ。移動疲れで体調を崩していてね。きちんとした宿で休ませてやりたい」

 

「なるほど、然様でしたか。不躾な視線と質問、平にご容赦を」

 

 私とニコレーナ、それぞれに頭を下げてから、オーナーはにこりと笑みを浮かべた。

 

「貴女様が保障して下さるなら、否やはございません。しかし、それならば……お湯をお持ちいたしましょうか。見れば、少々旅汚れが付いているご様子。それでは休まるものも、休まりますまい」

 

「そうだな、頼めるか」

 

 汚い格好でベッドに入るな、と婉曲に伝えられただけなのだが、ニコレーナはそれに気付かず、むしろ感激して頭を下げた。

 

 実際、ニコレーナには汚れを落とし、清潔さを取り戻す必要がある。

 

 私は敢えて何も言わないまま、二階の一番奥まった部屋へ案内させた。

 そうして、案内が終わると、室内の簡単な説明だけして、オーナーは去って行く。

 

 室内は豪華でも質素過ぎもしない、中流に相応しい適度な広さの部屋だった。

 

 壁は漆喰で塗り固められており、清潔感もあって、備え付けのベッド以外には、テーブルと一揃いの椅子がある。

 

 窓は南側と東側に一つずつあり、日当たりも良好だった。

 

 少々の荷物を安全に保管できるスペースもあり、中流向けの宿屋として、凡そ全てが揃っていると言って良い。

 

 オーナーは良い部屋を提供してくれた様だ。

 

「豪華な宿なのですね……。さぞ、値段も張るのでは……」

 

「そういうこと、今は気にしなくて良い。……いや、不安があって当然か。借りが積み重なっていくのが見えて、途方に暮れる気持ちになるのも、よく分かる」

 

 ニコレーナからすれば、望外の喜び、と浮かれてばかりもいられないだろう。

 

 妊娠している間はろくに働ける訳でもなく、最低でも安定期までは、宿代と食事代がひたすら積み重なっていく事になる。

 

 そのうえ、出産したら、そこで終わりではない。

 今度は自分と生まれたばかりの子を食わせる必要があるし、その世話に掛かる苦労もある。

 

 頼る親類や友人、その他全ての伝手もなく、まったく独りで全てを賄う必要があるのだ。

 

 将来を考える程に、不安が募るに違いない。

 私はニコレーナを部屋の隅に立たせ、まず簡単に風魔術で砂埃を払い落とした。

 

「わっ、うっぷ……」

 

「我慢してくれ。お湯を使う前に、簡単に旅の汚れを落としてしまわないと……」

 

 足の先から頭まで、風が纏わりついて砂と埃を浮かし、空中に巻き上げる。

 

 私が離れた位置にある窓に手を翳し、そこを開け放つと、巻き取った砂埃は外へと投げ捨てられていった。

 

 それだけの事でも、少しはスッキリして見えるものだ。

 その時、扉を叩く音が聞こえて、宿屋の下働きがお湯を張った桶を持って来た。

 

「こちら、一人分でよろしかったでしょうか? 追加でお支払い頂ければ、また持って来ますけど……」

 

「いや、大丈夫だ。それより癒師を呼んで貰うことは可能か? お産の専門がいたら、なお喜ばしいんだが……」

 

「呼ぶとなると……、時間も掛かりますし、料金もそれなりになりますよ」

 

「体力的に、相当不安があるんだ。休ませてやりたいんだが、早く診て貰いたくもある。多少、割高なのは仕方ない」

 

「いえ、そこまでして頂かなくとも……」

 

 ニコレーナは料金について聞かされた後、即座に固辞する姿勢を見せたが、私は強く言い切った。

 

「自分の顔色を理解してるか? 疲れだって相当だろう。ここは遠慮する所じゃないぞ」

 

「しかし、そうは言っても……」

 

「いいんだ、私が決めた事なんだから。今は遠慮なんかせず、その分あとで返してくれたらいい」

 

 ニコレーナは更に言い募ろうとはしたが、続く言葉は出なかった。

 甘えたい気持ちと、恩を受けるまま縋っ良いのか、その(はざま)で揺らいでいる。

 

 だが、考えている間にも、私は下働きに命じて下がらせた。

 

 そうして、一人ではろくに身体も拭けないニコレーナに代わり、私自身が代わりに旅の汚れを落とす。

 

 お湯の入った桶に布巾を突っ込み、きつく絞って、最初に首筋から撫でていく。

 最初に砂埃は取り除いたはずだが、濡れた布巾で拭くと、どれだけ汚れていたかひと目で分かる。

 

「こんな事までさせて……」

 

「言ったろう? 乗りかかった船だ。運が良かったと思って諦めろ」

 

「それは運が悪い時に言う台詞なんじゃ……」

 

「まぁ、似たようなものだろう」

 

 互いに笑い合いながら支度を済ませ、身綺麗になったらベッドに寝かせた。 

 

 疲れ切っていたというのは誇張でではないのだが、このような状態でもニコレーナはどこまでも気丈だった。

 

 しかし、柔らかな布団に身体を横たえた時、どうやら緊張の糸が途切れたらしい。

 あっという間に眠りに付き、その日は全く目を覚まさなかった。

 

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