明浦路司をメダリストに 作:asim
氷の上に立ち、開始位置でポーズを取る。
張り詰めた冷気が頬を刺す中、俺は静かに目を閉じ、自分の内側へと深く潜り込んでいった。
目を開ければ、そこには直前に滑った明浦路司が残した、圧倒的で絶望的な余韻がまだ色濃く漂っている。天才がリンクを支配し、観客も、審査員も、次に滑る俺以外の選手たちも、すべてがあのバケモノのスケートに心を奪われていた。
だが、そんなことは今の俺には関係ない。外野がどれほど司の幻影に酔いしれていようが、俺がやるべきことはただ一つだけだ。
この1年間、来る日も来る日も血反吐を吐きながら身体に叩き込んできたプログラムという名の勝利の方程式。それをこの3分半の間に、氷の上で1ミリの狂いもなく展開し、一つのエラーも出さずに完遂すること。それだけだ。
曲が鳴り響く。
第一のタスク。助走から深く左足のアウトエッジを倒し、最初のコンビネーションジャンプへ。
全身のバネを使い、氷を蹴り上げて高く跳び上がる。空中で身体をきつく締め、回転軸を極限まで細く保つ。3回転ルッツ。完璧な着氷。だが、ここで一瞬でも気を抜くことは許されない。降りた瞬間の勢いを一切殺さず、右足のトウを深く突き立て、即座に次の3回転トゥループへと身体を跳ね上げる。
流れるような軌道と、余裕のあるランディング。
完璧!
頭の中にある仮想のスコアボードに、基礎点と、確実にもぎ取ったGOE(出来栄え点)のプラスがカチンと音を立てて加算されたのを確信した。
息をつく暇もなく、休まず滑り続ける。続く第2のタスク、単独の3回転フリップ。これも踏み切りのエッジを正確にコントロールし、ブレのない軸を保ってクリーンに着氷する。
そのまま第3の要素、フライングキャメルスピンへと飛び込む。
空中で水平姿勢を作り、着氷と同時に猛烈な回転へと移行する。IJSのルールで最高のレベル4をもぎ取るための条件は酷だ。ただ回ればいいわけではない。回転中にエッジをチェンジし、フリーレッグを掴んでドーナツスピンへと移行し、さらに姿勢を複雑に変化させなければならない。
凄まじい遠心力が身体を外へ外へと引き剥がそうとする。それを、鍛え上げた鋼の体幹だけでねじ伏せる。視界が高速でブレる中、頭の中で冷静に回転数をカウントする。一、二、三……。規定の回転数をきっちりと満たしたのを確認し、スピンを解く。
よし!
続けて第4の要素、3種類目となる3回転ループ。これも氷の感覚を足裏で正確に掴み、難なくクリアする。ここまでは完全にノーミスだ。
そして第5の要素、シットスピン。
俺は滑走の勢いを乗せたまま、軸足に全体重を乗せて極限まで低くしゃがみ込む。フリーレッグを前に伸ばし、太ももが氷スレスレになるほどの低い位置で高速回転に入る。
司が先ほど見せたような、音楽に溶け込む優雅なスピンではない。腰の位置が少しでも高ければレベルを取りこぼす。太ももの筋肉がブチブチと千切れそうなほどの負荷に悲鳴を上げる。だが、俺はレベル4の条件を満たすためだけに顔を上げ、苦悶の表情を隠すことすらなく、ただ規定回数を耐え抜いた。
スピンを終え、プログラムは後半のストレートライン・ステップへと突入する。
ここからが本当の地獄だ。リンクの端から端まで、一直線に複雑なターンを刻み続ける。氷を深くえぐるようなガリッ、ジャリッという鋭いエッジ音が、会場に響き渡る。
ステップでレベル4を取るためには、エッジの深さやターンの正確さだけでなく、上半身の十分な稼働を審査員に見せつけなければならない。俺はすでに疲労が蓄積し始めている全身の筋肉をバネのように使い、大きく腕を振り回して激しくターンを繰り返した。
一つターンを踏むごとに、足首から太ももにかけて、どろりとした重い乳酸が急速に溜まっていくのが分かる。肺が焼け焦げるように熱く、呼吸をするたびに喉の奥から鉄のような血の味がせり上がってくる。
足がもつれそうになる。それでも俺は、一つひとつのターンを明確に踏み分け、評価を下げるような妥協を一切許さなかった。
…いける。点数は積み上がっとる。
ステップを終え、プログラムもいよいよ終盤。残すジャンプはあと二つ。
ここから跳ぶジャンプは、基礎点が1.1倍になるボーナスゾーンだ。俺の頭の中にあるスコアボードの数字は、すでに司の叩き出した技術点に肉薄していた。ここまでの要素はすべてノーミス。スピンもステップも、レベルの取りこぼしは絶対にないはずだ。
足はすでに鉛のように重く、感覚すらなくなりつつある。
だが、俺の心臓はかつてないほど激しく、早鐘のように打ち鳴らされ、強烈な歓喜の予感に打ち震えていた。
——あと少し。この3回転サルコウからのコンビネーションを降りれば…1.1倍ボーナス込みで俺は、あの明浦路司に勝てる!
この一瞬の慢心が勝負を決した。
すべてを計算し尽くした機械のように無心でタスクをこなしていた俺の心にふと、強烈な『欲』が顔を出した。
司を超え、全日本の頂点に立つ自分の姿。表彰台の真ん中で金メダルを掲げる光景。
勝てる。あの絶望的な点数を、誰も届かないと思われた天才の領域を、俺の泥臭い執念が上回る。
そう思った瞬間だった。
わあぁぁっ、という、会場を包み込む地鳴りのような歓声が、突如として鼓膜を打った。
先ほどまで俺の周囲にあった、氷とエッジの音だけの『自分だけの世界』が唐突に消え失せた。リンクの外には大勢の観客がいて、審査員がいて、そして司が見ている。世界が一気に広がり、押し寄せてきた。
一瞬、張り詰めていた集中が途切れる。
そのわずかコンマ数秒の心の揺らぎが、無意識のうちに俺の身体の力みを、踏み切りのタイミングを、ほんのわずかに変えてしまった。
第7の要素、3回転サルコウ。
踏み切るために左足のインエッジに乗った瞬間、肩にほんの少しだけ余計な力が入った。
氷を蹴り、空中に飛び上がった瞬間、自分の身体の軸が外へと逃げていくのがはっきりと分かった。
…あ
着氷。左足のエッジが氷に深く弾かれ、身体が大きく右へと傾く。
転倒だけは絶対に避ける。その本能だけでなんとか耐えた。だが、着氷の姿勢が完全に乱れ、フリーレッグが氷についてステップアウトしてしまった。
これでは、後に続くはずだった2回転トゥループが跳べない。コンビネーションが単独ジャンプになり、予定していた基礎点が大きく吹き飛んだ。
致命的なミス。一瞬、頭の中が真っ白になりかける。
だが。
…止まるな! 最後までやり切れ!
俺は奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばり、込み上げてきた絶望を無理やり喉の奥へと押し込んだ。
すぐに立て直し、続く第8の要素、締めとなるダブルアクセルへ向かう。助走のスピードが足りない分を、意地と怒りだけで補って踏み切り、完璧な高さで着氷する。
そして最後、第9の要素であるコンビネーションスピン。
すでに意識が飛びそうなほど体力が尽きかけている中、俺は軸を1ミリも動かすことなく、姿勢変化と足換えを完璧に遂行した。
完遂させる。最後の最後を、レベル4をもぎ取る執念だけで回りきった。
曲が終わる。
最後の手を天に突き上げるフィニッシュポーズのまま、静寂の中、俺は荒い息を吐きながら、リンクの氷をジッと見つめていた。
やがてキスクラで表示された俺の得点。順位は『2』。
サルコウでのコンビネーション抜けによる基礎点の喪失。それが致命傷となり、司の点数には届かなかった。
「……クソッ」
膝の上で、拳が白くなるほど強く握りしめる。
悔しい。はらわたが煮えくり返るほど悔しい。
あの時。あのサルコウの直前に、『勝てる』なんていう余計な欲さえ出さなければ。ただ無心で跳んでさえいれば。
たらればの感情が、黒い渦のように胸の中を渦巻いていた。俺の1年間の血と汗は、たった一瞬の欲のせいで、銀メダルという結果に終わってしまったのだ。
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キスクラで悔しさに俯く蛇崩遊大の姿を、堂島は観客席の最前列から静かに見下ろしていた。
隣には、先ほどの驚愕の演技を終えた教え子、明浦路司が立っている。
「……見事な執念でした」
堂島は腕を組み、誰に言うでもなく低く呟いた。
ベテランコーチとしての堂島の目から見れば、蛇崩遊大が氷上に描いたプログラムは、見事なまでに画一化されたIJSルールへの模範解答だった。
音楽との調和やスケート本来の流麗さを削ぎ落とし、ただ採点表の要件を満たすためだけに構築された不格好なプログラム。だが、そのタスク処理の精度は正確無比の一言に尽きた。スピンのポジション、ステップのエッジの深さ、上半身の稼働。どれをとってもミリ単位の狂いもなく、審査員に『レベル4』を出させるためだけに計算し尽くされていた。
だが、それゆえに代償も大きい。
極限まで腰を落とすシットスピンや、休む間もなく全身をバネのように使い、荒れ狂うように踏み続けるストレートライン・ステップ。これらは人間の身体構造に真っ向から反する、文字通りの酷使だ。点数のために不自然な姿勢を強要される動きは、選手の筋肉から容赦なく体力を奪い去っていく。
「後半のサルコウ。あれはもう肉体の限界でした」
堂島は冷静に分析する。
遊大はタスクを完璧にこなした。いや、こなしすぎてしまったのだ。ボーナスゾーンに入り、あの3回転サルコウの踏み切りに向かった時点で、彼の足はもう限界をとうに超えていたはずだ。太ももは乳酸でパンパンに膨れ上がり、筋繊維は悲鳴を上げていた。
脳がどれだけ正確な指令を出そうと、極限まで酷使された肉体が、ほんのコンマ数秒、その指令に追いつけなかった。システムに完璧に適応しようとした結果、そのシステム自身が強要する過負荷によって肉体が悲鳴を上げた。それが、あの着氷の乱れという物理的な結果だ。
そこまで思考を巡らせた堂島は、ふと、隣に立つ自分の教え子へと視線を移した。
ならば、この子は…。
遊大があれほどの身体的負荷を強いられたのは、ルール通りに愚直にタスクをこなしたからだ。
では、司はどうだったか。
司は、遊大がやったような無様なタスク処理を一切拒絶した。息継ぎの暇すらない複雑なステップから一切のタメを作らずにジャンプを跳び、苦しい姿勢のキープすら音楽に溶け込む芸術として昇華させた。
だが、美しく優雅に見えるからといって、身体への負担が軽いわけでは決してない。むしろ逆だ。
流れを一切途切れさせずに最高難度の要素を連続で繰り出し、さらに高い芸術性まで維持する。客観的に見れば、司が肉体にかけている負担と負荷は、遊大と同等か、あるいはそれ以上のはずだった。
なのに、隣に立つこの少年は、それ以上の尋常ではない負荷を身体に掛けながら、あのプログラムを、ただの一度のミスもなく最後まで滑り切ってのけたのだ。
堂島の中で長年培われてきたノービスクラスのトップ選手という普通の基準は、先ほどの蛇崩遊大が体現した極限の滑りによって、一度完全にリセットされていた。ルールの限界に挑み、肉体を壊す寸前まで研ぎ澄ました遊大の姿こそが、この過酷な新ルールにおける人間の努力の到達点なのだと。
その新しい基準が堂島の中に打ち立てられた結果――堂島は内心で、背筋が凍るような震えを覚えた。
人間の到達点を、隣にいるこの少年は、いとも容易く、息一つ乱さずに飛び越えてみせたのだ。
蛇崩遊大という秀才が身をもってルールの過酷さと人間の限界を証明してくれたからこそ、明浦路司という規格外の才能の異常性が、より残酷なまでに浮き彫りになっていた。
堂島は自らが指導する教え子でありながら、その底知れぬ才能に改めて戦慄する。
「……だが、コンビネーションが抜けた直後に立て直し、ダブルアクセルと最後のスピンを完璧にねじ伏せたのは脅威ですね」
堂島は再びリンクへ視線を戻し、小さく息を吐いた。
足が死に体になっている状態で、残りの要素を気力だけで完遂させた遊大のメンタルもまた、常軌を逸している。
勝敗という残酷な結果以上に、堂島はこのノービスAという舞台で激突した二人の少年の、異次元の戦いに深く息を呑んでいた。