明浦路司をメダリストに   作:asim

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11 終わりと始まり

翌年の2月。世界中のフィギュアスケートファンの視線は、4年に一度の夢の祭典――冬季オリンピックへと注がれていた。

だが、人々が本当に熱狂し、待ち望んでいたのは、五輪という舞台そのものではない。そこで頂点に立つであろう、一人の天才の戴冠式を見届けることだった。

 

シニア絶対王者、夜鷹純。

 

彼が五輪のフリースケーティングで氷上に描いたのは、もはや競技という枠を超越した神話だった。

曲目は、荘厳なるクラシックの王道。冒頭、静寂を切り裂くように踏み切ったのは、当時としては不可能に近いとされた完璧な高さと幅を持つ4回転ルッツからのコンビネーションジャンプだった。着氷は羽のように軽く、氷の飛沫すら美しい。

新ルールであるIJSが要求する窮屈なタスクの数々——苦しい姿勢のスピンも、エッジを深く倒し続ける複雑なステップも、夜鷹が滑ればすべてが音楽を表現するための必然へと姿を変えた。

他の選手たちが血反吐を吐いて適応しようとした理不尽なシステムを、夜鷹純は完全に支配し、なおかつ誰よりも美しく、優雅にねじ伏せてみせたのだ。

 

圧倒的。その一言に尽きた。

他の追随を一切許さない、2位以下に絶望的な大差をつける世界最高得点。

誰もが認める、歴史上最も美しい金メダリストの誕生。世界中がスタンディングオベーションで彼を讃え、夜鷹純の時代はこれから先も長く続くのだと信じて疑わなかった。

 

――だが。

金メダル獲得の直後、世界を駆け巡ったのは歓喜ではなく、悲鳴だった。

 

『夜鷹純、現役引退を電撃表明』

 

五輪直後のプレスカンファレンス。無数のフラッシュを浴びながら、首に金メダルを提げた夜鷹は、どこか退屈そうな、冷めた瞳でマイクに向かってこう言い放ったのだ。

 

「僕ができることはもうすべて終わりました。…スケートは、もう十分です」

 

それは、頂点を極めた者による、あまりにも残酷で身勝手な幕引きだった。

絶対王者の突然の喪失。その余波は、瞬く間にフィギュアスケート界全体を飲み込む巨大な渦となる。

世界中で夜鷹ロスが叫ばれ、スケート人気は急落の危機に晒された。スポンサーは撤退をちらつかせ、焦りを募らせたのは他でもない、国際スケート連盟(ISU)の大人たちだった。

 

このままでは、フィギュアスケートという競技そのものの熱が冷めてしまう。

夜鷹純に代わる、新たなスターを、新たな天才を、一刻も早くシニアの舞台へ引きずり上げなければならない。

 

その焦燥が生み出した歪みは、やがて異例のルール改訂となって現れる。

6月。スケート連盟の総会にて、一つの重大な決定が下された。

 

『シニア大会への出場年齢制限を、現行の17歳から、15歳へと引き下げる』

 

表向きは若手選手の育成と早期の国際経験を積ませるためという美辞麗句が並べられた。だが、その裏にあるのは明らかに、夜鷹純という神を失った大人たちの焦りそのものだった。

 

そして、この決定は、日本のジュニア界に潜むあるバケモノの運命を、劇的に加速させることになる。

 

年齢制限の引き下げ。それはつまり。

全日本ノービスで圧倒的な蹂躙劇を見せつけ、ジュニアへと昇格したばかりの明浦路司が、本来の予定よりもずっと早く――シニアの猛者たちがひしめく世界へと放たれることを意味していた。

 

-*-*-*-

 

夜鷹純の電撃引退と、それに伴う年齢制限の引き下げ。

フィギュアスケート界を揺るがす大ニュースが世間を騒がせる中、明浦路仁は久々に堂島と顔を合わせていた。

 

「——4年後。2010年のオリンピックに向けた育成プランに書き直さないといけなくなりました」

 

静かな室内で、堂島は分厚い資料を机に叩きつけるように置いた。

仁はその資料に目を落とす。そこには、2006年度から適用される競技企画と、司を4年後の頂点へと導くための過酷なロードマップが記されていた。

 

「これまではシニア参戦に17歳という猶予がありました。だからジュニアでじっくり基礎を固めるつもりだったんですが……15歳に引き下げられた今、司くんは予定よりずっと早くシニアの猛者たちの中に放り込まれる。そしてそれは、4年後のオリンピックに、彼のシニアとしてのキャリアが完全に合致しています」

 

堂島は指を立て、仁に向けて、ジュニアとシニアの間にそびえ立つ『三つの絶望的な壁』についての解説を始めた。

 

「第一の壁は、演技時間です。ジュニアのフリースケーティングが四分間であるのに対し、シニアは四分三十秒。たった三十秒と思うかもしれませんが、極限まで体力を削り合うアスリートにとって、この四分三十秒は魔の時間です」

 

ジュニアの四分間は、司の才能と今の体力なら全速力で駆け抜けられる距離だ。だが、シニアのプログラムは、ジャンプが一つ増えて最大八要素になるだけでなく、最後の三十秒間にスピンやコレオステップが容赦なく詰め込まれる。

 

「体がまだ出来上がっていない十五歳の子供が、大人の体力に合わせて作られた四分三十秒を滑れば、後半で必ずスピードが垂れる。最後の三十秒で心臓を素手で掴まれるような酸欠に陥るんです。そこでエッジが1ミリでも甘くなれば、審査員はそれまでのすべてを『子供のスタミナ不足』として切り捨てます」

 

堂島はさらに二本目の指を立てた。

 

「第二の壁。それは四回転です。今のシニア男子で戦うには、四回転トゥループが事実上のパスポートになっています」

 

司がどれだけ美しいトリプルアクセルを二本揃えようが、シニアのトップ陣は鼻で笑うだろう、と堂島は吐き捨てるように言った。

 

「あそこは、四回転を跳ばない奴は男じゃないという空気が支配する修羅の庭です。命を削って四回転を回した者だけが、初めて同じ人間として認められる。司がどれだけ氷上で美しく舞おうと、四回転という暴力を持たない限り、連中の輪には入れません」

 

そして、堂島は最も重苦しい声で、三本目の指を立てた。

 

「だけど、最大の壁は技術じゃない。……仁さんはロビーポイントという言葉を知っていますか?」

 

仁が首を振ると、堂島は答えた。

 

「…ジャッジの間に存在する、暗黙の序列のことです」

 

2006年現在、新システムであるIJSが導入されてなお、フィギュアスケート界には、この選手はこのくらいの点数という政治的な序列が根強く残っていた。

 

「シニアのジャッジ席に座る老人たちの目には、司のスケートはデータではなく生意気なガキの越境としか映らない。ノービスBの始まりと同じです。彼らが持つ採点表のPCS(演技構成点)欄には、無言の『新人割引』が適用されているんです。もし司が今のままシニアの大会に出て完璧な演技をしたとします。本人も、私たちも、観客でさえもスタンディングオベーションをするような滑りを。……ですが、電光掲示板に出るPCSは、ジュニア時代と大差ない数字になります」

 

技術(TES)や出来栄え(GOE)でどれだけプラスをもぎ取っても、構成点が不当なまでに伸びない。それがシニアの不条理だ。

 

「技術は一流でも、人間としての厚みを認められないんです。十五歳の子供が氷の上で語る愛や絶望なんて、何十年もスケートに人生を捧げた審判たちにとっては、薄っぺらな模倣に過ぎない。シニアのジャッジは、司の技術を認めても、司の魂をすぐには認めない」

 

体力、暴力的な技術、そして大人の政治。

そのすべてをあと数年でひっくり返さなければ、オリンピックの金メダルなど夢のまた夢だ。

 

「まだノービスAに上がったばかりで話す内容ではなかったですね。でも、ジュニア時代にどれだけ世界に顔を広げられるかが、4年後に関わってくるようになってしまったということをご認識ください」

 

堂島の重い言葉を聞き終えた仁は、ふと窓の外を眺めた。

練習リンクの端で、司が一人、うつむいたまま動かずに氷を見つめている姿が見えた。

 

昨年の全日本ジュニア選手権。司はそこでも他を寄せ付けない圧倒的な実力を見せつけ、いとも容易く優勝をかっさらってみせた。

だが、当の司の背中には、一切の覇気がなかった。

 

「……当の本人は、シニアの壁どころか、スケートそのものに関心を失いかけてるようだな」

 

仁がぽつりと呟くと、堂島も苦々しい溜息をついた。

司にとって、夜鷹純は単なる憧れや目標ではなかった。いつか同じ氷の上で戦い、その手で直接引きずり下ろすべき、唯一無二の神だったのだ。

 

「夜鷹純を倒せないシニアなんて、意味がない……か」

 

司は夜鷹の引退会見以来、目に見えて落胆していた。

年齢制限が引き下げられ、シニアへの扉が早く開いたところで、一番倒したかった相手がもうそこにはいない。焦がれ続けた神様が、自分と剣を交える前に勝手に戦場から去ってしまったのだ。その喪失感は、少年の心にぽっかりと巨大な穴を開けていた。

 

「嘆いてばかりではいられないんですが…。こればっかりは当人の気持ち次第ですね。仁さんからも何か言ってあげてくれませんか?司くんを再び奮い立たせる何かを」

 

堂島の言葉を受け、仁はゆっくりと立ち上がった。

大人が作った理不尽な壁も、四年後の五輪に向けた合理的なプランも、今の司の耳には届かないだろう。

絶望し、燃え尽きかけている少年の心に再び火を点けるためには、もっと別の、強烈な劇薬が必要なのだと、仁は直感的に理解していた。

 

仁は迷うことなくリンクサイドへ歩み寄り、冷たい氷を見つめたまま動かない甥の首根っこを軽く掴んだ。

 

「……仁おじさん?」

「立て、司。少し出かけるぞ」

「出かけるって、どこへ……俺、今はそんな気分じゃ――」

「いいから来い。お前の神様が捨てた世界が今どうなってるか、その目で確かめに行くんだ」

 

有無を言わさぬ仁の迫力に押され、司は渋々スケート靴を脱いだ。

 

-*-*-*-

 

仁が司を連れてやってきたのは、新横浜スケートセンターだった。

オフシーズンであるこの時期、ISU公認の公式戦はどこにもない。しかし、この場所では毎年、来たるべき新シーズンに向けたトップスケーターたちのお披露目となる特別なアイスショーが開催されていた。

 

『ドリーム・オン・アイス』。

 

会場に足を踏み入れた司は、その異様な光景に目を細めた。

通常のアイスショーのような、観客席を暗くして氷上だけをスポットライトで照らす華やかな演出は、ここにはない。リンクは競技会と全く同じ、均一で真っ白い、明るい照明に照らし出されていた。

そして、滑っている選手たちの服装も、きらびやかな衣装ではなく、練習用の黒い練習着や、新シーズンのプログラムを試すためのシンプルなコスチューム。

だが、その張り詰めた空気は、公式戦さながらの重圧を放っていた。

 

観客席で、司は無言のままリンクを見つめていた。

ショーであるにもかかわらず、滑っている選手たちの目には、獲物を狙うようなギラついた飢えが宿っていた。

彼らは妥協なく4回転ジャンプに挑み、IJSの窮屈なルールに則った複雑極まるステップを踏み倒していく。転倒すら辞さないその気迫は、すでに数ヶ月後に始まるグランプリシリーズ、そして四年後の五輪を見据えた代理戦争そのものだった。

 

「……見ろ、司」

 

隣に座る仁が、リンクで力強く舞う海外のシニア選手を顎でしゃくった。

 

「夜鷹純という絶対的な王者が、この窮屈なシステムに絶望して、勝手に玉座を捨てて消えた。なら、残された連中はみんな絶望してスケートを辞めたか?」

 

司はハッと息を呑み、リンクを見つめた。

違う。誰も絶望などしていない。むしろ逆だ。

 

「夜鷹純がいなくなったことで、重石が外れたんだよ。今、このアリーナにいる連中を見てみろ。誰も下なんか向いちゃいない。あの息が詰まるようなルールの鳥籠の中で……誰が一番高く跳べるか、誰が一番美しく滑れるか、誰が一番『自由』になれるか。玉座が空いたこの世界で、もうみんな狂ったように競い合って、牙を研いでるんだ」

 

仁の低い声が、ショーの歓声を切り裂いて司の鼓膜に真っ直ぐ届く。

明るい照明に照らされた氷上では、次世代の覇権を狙うスケーターが、高難度のコンビネーションジャンプを完璧に着氷し、会場を揺らすような歓声を浴びていた。

 

「神様が消えたからなんだって言うんだ。お前が憧れた男は、この窮屈なルールの中で誰よりも美しく、自由だったから神様になれたんだろ。……なら、次は誰の番だ?」

 

仁は司の肩を力強く掴み、その横顔を覗き込んだ。

 

「いつまでも逃げた神様の幻影を追って、観客席でいじけてるつもりか。それとも、あの鳥籠の中に降り立って、残されたシニアの猛者どもを全員蹴散らして、お前が新しい神様になるか。……どっちだ、司」

 

司の瞳に、競技会と同じ明るい照明が反射した。

虚無に沈んでいたその目に、明確な熱が、そして持ち前の傲慢で苛烈な光が戻ってくるのを、仁は見逃さなかった。

 

司はゆっくりと顔を上げ、氷上で歓声を浴びるスケーターたちを――自分がこれからねじ伏せるべき世界を、真っ直ぐに睨みつけた。

 

「……決まってる」

 

司の口角が、微かに、だが確かに吊り上がる。

 

「俺が、一番高く、美しく、自由になる。……夜鷹純が残した記録ごと、全部俺が上書きしてやる」

 

その言葉には、もう一切の迷いはなかった。

四年後のオリンピックへ向けた、明浦路司の本当の戦いが、今この瞬間から始まったのだ。

 




夜鷹純の引退の理由は、このスケート界のせいだったんだろうなぁ。

司の影響で夜鷹純が残る未来もあるかもしれないと想像しましたが、あの頑固者がそう易々と考えを変えるようには思えませんでした。
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