明浦路司をメダリストに 作:asim
氷に叩きつけられる鈍い音が、誰もいない早朝のリンクに響き渡った。
「……ッ、クソ……!」
蛇崩遊大は、氷に投げ出された身体を無理やり起こし、肩で激しく息をした。
痛む右膝をさすりながら、自分が削った氷の軌跡を忌々しげに睨みつける。
トリプルルッツ。
かつての遊大なら、目を閉じていても寸分の狂いなく降りられたはずの、最も得意で計算し尽くされていたジャンプ。それが今、どう足掻いても軸が傾き、氷に弾かれてしまう。
踏み切りのタイミング、エッジの倒し方、空中で身体を締める力の入れ具合。頭の中にある方程式は、何一つ間違っていないはずなのに。
「……また身長、伸びたんちゃうか?」
リンクサイドから、長年彼を指導してきたコーチが、心配そうな顔で声をかけてきた。
遊大は舌打ちをして立ち上がり、無言でフェンスへと近づく。
「先週測った時は、一ヶ月で一センチ伸びとった。体重も増えとる。……膝の成長痛も、誤魔化しきれんようなってきたわ」
遊大は吐き捨てるように言い、自分の長い足を見下ろした。
十三歳。ノービスを卒業し、ジュニアクラスへと昇格したばかりの遊大を襲った最大の試練は、シニアを見据えた過酷なプログラム時間でも、周りのライバルたちの技術でもなかった。
他でもない、急激な成長期を迎えた自分自身の肉体だった。
フィギュアスケーターにとって、成長期は恐怖の代名詞だ。
身長が伸び、骨格が変わり、筋肉の付き方が変わる。それはつまり、これまでミリ単位で調整してきたジャンプの重心や回転軸が、毎日のように勝手にズレていくことを意味する。
昨日まで完璧にハマっていた計算式が、今日起きたら全く使い物にならなくなっている。昨日まで自分の手足だと思っていたものが、まるで他人の借り物のように重く、長く、思い通りに動かない。
「……俺の武器は、正確なタスク処理やったのに」
エッジカバーをつけながら、遊大はギリッと奥歯を噛み締めた。
ノービス時代、明浦路司という絶対的なバケモノに喰らいつくため、遊大は自らの感情を殺し、IJSのルールを極限までハックした機械になった。その圧倒的な精度と再現性こそが、凡人である彼が天才の背中を追うための唯一の命綱だったのだ。
だが今、その機械のパーツサイズが日替わりで変異している。
プログラムを滑り切るどころか、基礎的なジャンプすらまともに降りられない。身体の不調と痛みが、遊大の積み上げてきた自信と計算を、根底から粉々に砕きつつあった。
『……全日本ノービスA、明浦路司が二連覇!2位に大差をつける圧巻のスコアで——』
ふと、休憩室のテレビから流れてきたスポーツニュースの音声が耳に飛び込んできた。
画面の中では、あの憎たらしいほどに美しい司が、涼しい顔でリンクの中央で歓声に応えている。司は遊大がいなくなったノービスの舞台で、何の苦労もなく、あっさりと連覇を果たしていた。
司の得点を見た瞬間、遊大の胸の奥で、どす黒い焦燥感がマグマのように沸き立った。
…置いていかれる。
俺が自分の身体の変化に振り回され、泥水で溺れかけている間に、あいつははるか高い空の上へと羽ばたこうとしている。
年齢制限が引き下げられた今、司はジュニアの期間を最短で駆け抜け、一気にシニアの頂点——オリンピックへと向かうだろう。
ここで俺が立ち止まれば、司との差は永遠に埋まらない。全日本ジュニアという、あいつと再び同じ氷に立てるチャンスすら、今の無様な身体では手に入らないかもしれない。
「遊、今日はもう上がりなさい。これ以上は身体を壊す」
コーチの静かな、けれど毅然とした声が、遊大の焦燥を遮った。
「成長期は誰にでも来る。今焦って無茶をして、取り返しのつかない怪我をしたら…それこそ、やつと同じ舞台には二度と立てなくなるぞ」
その言葉に、遊大の肩がピクリと震えた。
痛いほど分かっている。壊れた機械を無理やり動かせば、完全にスクラップになるだけだ。今の自分に必要なのは、無謀な反復練習ではなく、日々の身体の変化を冷静に受け入れ、一つひとつ方程式を組み直していく気の遠くなるような忍耐なのだと。
「…分かっとるよ」
遊大は、拳から血が滲むほど強く手を握り込みながら、絞り出すように呟いた。
練習したい。滑りたい。司の背中を追いかけたい。
その身を焦がすようなもどかしさを無理やり喉の奥へと飲み込み、遊大はゆっくりとリンクに背を向けた。
今は、耐える時や。身体が出来上がるまで…
テレビ画面の向こうで微笑む天才を横目に、遊大は痛む右膝を引きずりながら、ゆっくりと、だが決して立ち止まることなく、前へ歩みを進めた。
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同じ頃。明浦路司の練習拠点でも、鋭いエッジが氷をえぐる音が響き渡っていた。
だが、その音は遊大が立てていたような、重く苦しいものではない。氷そのものと対話しているかのような、どこまでも滑らかで、それでいて力強い加速音だった。
「……まったく、底が見えないな」
リンクサイドでストップウォッチを握りしめていた堂島は、半ば呆れたような、けれどどこか誇らしげなため息を漏らした。
全日本ノービスAを圧倒的なスコアで連覇し、推薦枠での全日本ジュニア選手権への出場を決めた司。彼が現在滑っているのは、数週間後に迫ったその大舞台に向けたフリースケーティングの通し練習だった。
堂島の目から見ても、今の司がやっていることはジュニアの枠を優に超えている。
「プログラムの密度が、シニアのトップ選手と遜色ないレベルまで上がってる。あれだけ隙間なく動いて、なんで息が上がらないんですかね……」
ジャンプの前の長い助走。スピンの後の息継ぎ。そうした、ジュニア選手なら当然のように設ける空白の時間を、ノービスAの司は複雑なステップと深いエッジワークで完全に埋め尽くしている。
あのアイスショーを見に行ってからだ。司のスケートが、もう一段階上の次元へと昇華したのは。
夜鷹純という目標を失い、一度は虚無に沈みかけた少年は、氷上で競い合うシニアの猛者たちの姿を見て、持ち前の苛烈な炎を取り戻した。
『夜鷹純が残した記録ごと、俺が上書きする』
ただ純粋に神様に憧れていた頃のスケートではない。今の司が氷上に描こうとしているのは、伝説の超越だ。あの絶対王者が得意とした優雅さに、司自身の圧倒的な意志の強さが混ざり合い、審査員に有無を言わさぬ説得力を生み出し始めている。
曲が終盤に差し掛かる。本来なら、とっくに足が鉛のように重くなっているはずの時間帯。
だが、司は一切スピードを落とさないまま、リンクを大きく使ったステップへと突入した。そして、その流れを1ミリも途切れさせることなく、左足のアウトエッジで鋭く踏み切った。
高く、遠くへ。空中で細く美しい軸を作り、軽やかに身体を捻る。
一、二、三――半。
カァンッ、と硬く心地よい音がリンクに響く。
トリプルアクセル。シニアの選手ですら後半に組み込むのを躊躇う大技を、司はプログラムの最終盤、最も体力が枯渇するはずの時間帯で完璧に降りてみせた。
着氷の乱れはない。そのまま流れるようにイーグルへと姿勢を展開し、最後まで音楽の一部であることを崩さなかった。
「……すごいな、本当に」
曲が終わり、涼しい顔でフィニッシュポーズを決める司を見て、堂島は優しく目を細めながらストップウォッチを止めた。
身体が出来上がっていないにもかかわらず、シニア基準の過酷なプログラムを涼しい顔で滑り切るその才能。指導者として、これほど恐ろしく、そして頼もしい教え子は他にいない。
成長期という人間の身体の壁にぶつかり、痛みと戦いながら己の計算式を組み直している蛇崩遊大。
そして、心の枷を外し、己の才能という翼をさらに広げて、見えない神様の背中すら追い越そうとする明浦路司。
数週間後。全日本ジュニアという大きな舞台で、この二つの軌道は再び交差する。
堂島は、リンクから上がってくる教え子にタオルを差し出しながら、来たるべき戦いに静かに思いを馳せていた。