明浦路司をメダリストに   作:asim

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13 影の時間

冬の冷気が張り詰める中、全日本ジュニアフィギュアスケート選手権大会の幕が上がる。

この大会は、全国から集まった精鋭たちがシニアへの登竜門として、そして同世代の頂点を目指して激突する最高峰の舞台だ。

 

競技は2日間にわたって行われる。

初日のショートプログラム(SP)で、まずはその時点の順位が決定される。そして、その中から上位24名だけが、2日目のフリースケーティング(FS)へと駒を進めることができる。25位以下には、フリーを滑る権利すら与えられずに大会を去ることになる、過酷なサバイバルだ。

 

昨年の大会では、当時ノービスからの推薦枠で出場した明浦路司が、並み居る年上のジュニア選手たちを抑えて優勝を果たすという、夜鷹純以来の快挙を成し遂げた。

同じくノービスからの推薦で出場していた蛇崩遊大も、その正確なスケーティングで奮闘したものの、結果は5位。

 

あれから1年。

司はノービスA二連覇という圧倒的な実績を引っさげ、再び推薦枠としてこのリンクに帰ってきた。一方の遊大は、正式にジュニアへと昇格し、この一年間、成長痛という肉体の枷と戦いながら、誰よりも泥臭く己の牙を研ぎ続けてきた。

 

会場となるリンクには、フリーとはまた違う、SP特有のヒリヒリとした緊張感が漂っている。

 

ショートプログラム。それは単なる『短い時間の演技』ではない。

あらかじめ決められた七つの必須要素(エレメンツ)を、短い時間内にすべて完璧に組み込まなければならない、極めて厳格な規定演技なのだ。

ジュニア男子に課せられている要素は以下の通りだ。

 

1つ、ダブルアクセル。これは単独で跳ばなければならない。なお、ジュニアのSPにおいてトリプルアクセルはルール上禁止されている。

2つ、3回転以上の単独ジャンプ。これはただ跳ぶだけでなく、複雑なステップから直ちに跳躍に入ることが義務付けられている。

3つ、コンビネーションジャンプ。3回転+2回転、または3回転+3回転の連続ジャンプ。

4つ、フライングスピン。空中に高く跳び上がってから回転姿勢に入るスピン。

5つ、キャメルスピンまたはシットスピン。途中で必ず足換えを行うこと。

6つ、コンビネーションスピン。キャメル、シット、アップライトという三つの基本姿勢をすべて組み込むこと。

7つ、ステップシークエンス。リンクを大きく使い、複雑なターンとステップを踏み続けること。

 

抜け道は一切ない。

出場するすべての選手が、これら7つの要素を同じようにこなす。だからこそ、ジャンプの高さ、スピンの回転速度、ステップの深さといった基礎の質の差が、残酷なまでに明確にスコアとして浮き彫りになる。

フリーのように要素数で挽回することができないため、ジャンプで一度でも転倒や抜けがあれば、その時点で致命傷となる。たった一つのミスが、上位24名の枠から選手を容赦なく引きずり落とすのだ。

 

張り詰めた空気の廊下に、不意に、波紋のようなざわめきが広がった。

視線の先には、荷物を肩にかけ、堂島コーチと共に悠然と歩いてくる少年の姿があった。

 

明浦路司。

 

昨年、推薦枠の身でありながらジュニアの頂点を掠め取った神の子。その姿が見えた瞬間、周囲の選手たちの顔に、隠しきれない動揺と、ある種の諦観が混じった色が浮かぶ。

 

「…またあいつと同じ氷に乗るのかよ」

「勘弁してくれ。あんなのと同世代に生まれた時点で、俺たちの競技人生は詰んでるんだ」

 

年上の選手たちが漏らす、呪詛にも似た嘆き。司が通り過ぎるだけで、そこには敗北の予感という名の影が落とされていく。だが、当の司はそんな周囲の視線など意に介さず、真っ直ぐに控室へと向かっていた。

 

その時、ふと司の足が止まった。

視線の先に、壁にもたれかかって集中を高めている一人の少年がいたからだ。

 

「来たよ、遊大くん」

 

声をかけられた蛇崩遊大は、鋭い視線を司に向けた。

司の目は、即座に遊大の足元へと向けられる。練習着のタイツの下からでも分かるほど、彼の右膝には痛々しいまでに厳重なテーピングが巻かれていた。

 

「大丈夫なのか? その、膝…」

 

隠しきれない心配が、司の声に滲む。司にとって、遊大はただ倒すべき相手ではなく、同じ高みを目指して切磋琢磨してきた大切なライバルだ。その様子が明らかに万全ではないことに、胸が痛んだ。

 

しかし、遊大は鼻で笑うと、壁から背を離して真っ直ぐに司を見据えた。

 

「……心配いらへん。ただの成長痛や」

 

遊大の声には、苦痛を押し殺したような硬さがあった。13歳。急激に伸びた身長に、筋肉と骨の成長が追いつかない。膝の皿の下がズキズキと疼き、ジャンプの着氷のたびに雷に打たれたような衝撃が走る。

 

「骨が伸びとるだけや。俺の身体が、もっとデカい出力に耐えられるように、規格を書き換えとる最中なんや。」

 

遊大は無理やり口角を上げ、不敵な笑みを浮かべてみせた。

身体が他人のもののように重い。計算したはずの重心が毎日のようにズレる。それでも、目の前にいるこの天才にだけは、哀れみで見られたくなかった。

 

「今日こそは勝つ。一ミリの狂いなく完遂して、その余裕そうな面をリザルト画面の2位に叩き落としたる」

 

遊大の瞳に宿る、狂気にも似た執念。司は一瞬圧倒されたように言葉を呑み込んだが、やがて、その瞳にも同じような熱い炎が灯った。

 

「…ああ!わかった。でも今回も俺が勝つよ」

 

二人の間に、火花が散るような沈黙が流れる。

成長という壁に抗い、泥を啜りながら計算式を組み直す執念。

そして、その遥か先を目指して、羽を広げ続ける才能。

 

交わした言葉は短かったが、それで十分だった。司は堂島コーチと共に再び歩き出し、遊大は自らの膝を強く一度叩いて、冷たい氷が待つリンクへと視線を戻した。

 

-*-*-*-

 

観客席の片隅で見ているスケートマニアの一人は、リンクの中央で名前をコールされた少年に目を向けた。

 

――蛇崩遊大。

明浦路司という規格外のバケモノの影に隠れてはいるが、こいつも大概、狂った才能の持ち主だ。男は、同世代の選手たちと共に去年の彼の滑りを見て、肌が粟立つような恐怖を覚えた。

他の世代に生まれていれば、間違いなく世代のトップに君臨していただろう、圧倒的なタスク処理能力を持つ天才。周囲の人間は「司さえいなければ…」と同情するが、それは真実ではない。この世界の中の誰も与り知らぬことだが、蛇崩遊大という少年が持つ、計算と執念という名の狂気は、明浦路司という絶対的な目標が目の前に存在したからこそ、ここまで深く、鋭く開花したのだ。

 

曲が鳴り響き、遊大のショートプログラムが始まる。男は身を乗り出して、その滑りを注視した。

 

「……ん?」

 

だが、すぐに違和感に気づく。

去年のノービス時代に見せたような、身体の限界を無視して極限まで姿勢を低くするシットスピンや、荒々しくレベル4をもぎ取るような殺気立った凄みが、今日の遊大からは感じられなかった。

ジャンプの難易度は落としていないし、基礎点を稼ぐための複雑なステップからの入りなど、随所に点数を掻き集めるための無理は組み込まれている。音楽性や優雅さを完全に放棄し、ただ淡々と数式を解くような姿勢も相変わらずだ。

だが、全体的に見れば明らかに、無難にまとめた、としか言いようのない、セーブされたスケーティングだった。

 

『……おい、見たか。あいつの右膝のテーピング』

『ああ。身長が急に伸びたせいで、ひどい成長痛を抱えてるらしいぜ』

『なるほどな。あの膝じゃ、去年みたいに無茶苦茶な踏み切りやエッジワークはできないってことか』

 

背後の席から聞こえてきた関係者たちのヒソヒソ話に、男は納得して深く頷いた。

そういうことか。身体の規格が毎日のように変わる成長期の不調のせいで、彼の最大の武器である荒々しいが正確無比な極限のスケートができなくなっているのだ。

 

曲が終わる。

遊大は派手なガッツポーズを見せることもなく、ただ痛む膝を庇うようにして、静かに、無難にフィニッシュポーズを決めた。

 

やがて、電光掲示板に彼のスコアが表示される。

ジャンプの抜けや転倒はなかったものの、膝を庇ったことによるGOE(出来栄え点)の取りこぼしと全体的なスピード不足が響いていた。

 

最終的な順位は『7位』。

 

その数字を見た瞬間、男は「終わったな」と内心で呟いた。

少なくとも6位に入らなくてはならなかった。たった一つの順位の差だが、この7位という結果が持つ意味の絶望的な重さを、スケートマニアである男は痛いほど理解していた。

 

明日のFSは、今日のSPの結果で滑走グループが振り分けられる。

上位6名が、最終滑走となる最終グループ。そして7位から12位までが、一つ前の第3グループとなる。

フィギュアスケートの採点には、ルールブックのどこにも書かれていない残酷な暗黙の了解が存在した。人間が採点する以上、ジャッジは無意識のうちに、『最終グループに登場する優勝候補たちのために、一番高い点数を残しておこう』という心理が働くのだ。

 

そのため、第3グループでどれほど神がかり的なノーミスの演技をしたとしても、最終グループのトップ層と同等のPCS(演技構成点)が出ることはまずあり得ない。同じ構成、同じクオリティで滑ったとしても、滑走順が一つ前という物理的な差だけで、PCSで3〜5点ほど見えない減点を受けてしまうのが、この時代のリアルな不条理だった。

 

SPで7位に沈むということは、明日のフリーで主役たちが争う最終グループの枠から弾き出されたことを意味する。

見えない減点という重い枷を背負わされた時点で、蛇崩遊大が明浦路司を逆転して優勝する可能性は、非常に薄いものとなってしまったのだ。

 

 

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