明浦路司をメダリストに   作:asim

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14 気合のジャンプ

痛みが走る。

前日のSPでは、この両膝を蝕む成長痛を庇うあまり、ひたすら無難にまとめることしかできなかった。

難易度を落とし、着氷の衝撃を和らげるためにジャンプの高さも抑えた。

 

結果は、首位の司から絶望的なまでに引き離された7位。

今の限界値で簡単なことを完璧にやると割り切ったはずが、痛みに怯えた体では、その完璧すらも表現できていなかったのだ。

 

このままでは終われない。このまま終われば、司の背中すら見えずに全日本ジュニアを去ることになる。

それだけは、絶対に許せなかった。

 

「膝を壊す気か!?」

 

薄暗い通路に、コーチの怒声が響いた。

痛み止めの錠剤を水で流し込もうとした遊大の腕を、コーチの太い指が強く掴む。

 

「今のボロボロの状態で4回転なんか跳べばどうなるか、分かってるやろ! スケート人生は、今日で終わりじゃないんや!」

 

大人の、そして指導者としての真っ当な正論だった。しかし、今の遊大の耳には一切届かない。

頭の中は、SPで大きく出遅れた7位という絶望的な数字と、首位に立つ司の影に完全に支配されていた。

 

「今日、ここで司に勝てないなら……この先のスケート人生なんていらん」

 

静かで、しかし狂気を孕んだ遊大の声に、コーチが息を呑む。

熱を持った目で、遊大はコーチを真っ直ぐに見据えた。

 

「明日、足が動かなくなってもいい。俺は今日、すべてを懸けてあいつに勝つんや」

 

振り払うように腕を解き、遊大は光の差すリンクへと歩みを進めた。止めることは、もう誰にもできなかった。

 

この時代の4回転は男子シニアクラスならば世界頂点への登竜門。ジュニアクラスならば異次元のオーバースペックだ。

成功すれば10点近い高得点が期待できるが、失敗すれば大きな減点になるハイリスク、ハイリターン。

跳べば勝ちではない。当然他の結果もそれなり以上の結果を出さなくてはならない。

『難しいことをやって転ぶ』よりも『少し簡単なことを完璧にやる』ことが評価される中で、司にここから勝つためには『難しいことやって転ばすに完璧にやる』ことが必須条件になってしまった。

 

——第3グループ、最終滑走。

 

名前をコールされ、氷の上に立つ。

会場の空気が冷たく肌を刺すが、不思議と膝の痛みは感じなかった。極限の集中力と多量のアドレナリンが、脳内の痛覚を完全に麻痺させている。

目線の先、リンクサイドに司の姿があった。

 

見てろ。絶対にお前を引きずり下ろしてやる

 

曲が鳴り始める。

最初の要素は、ジュニアクラスにオーバースペックな大技——4回転トゥループ。

遊大は助走のスピードを限界まで引き上げた。

 

踏み切りのタイミング、氷を蹴る角度、空中に飛び出す瞬間の軸の細さ。

すべてが完璧だった。頭の中のイメージと身体の動きが完全に一致する。

 

いける!

 

遊大自身も、固唾を呑んで見守るコーチも、その瞬間、成功を確信した。

 

しかし。

どれだけ魂を燃やそうと、どれだけ今日という日にすべてを懸けようと。

氷は、どこまでも無情だ。

 

気合や執念だけで、物理法則と肉体の限界をねじ伏せられるほど、フィギュアスケートという競技は甘くない。

 

ドンッ、という鈍い音が響いた。

回転は完全に回り切っていた。しかし、着氷の全荷重を受け止めた瞬間、悲鳴を上げていた右膝はあっけなく砕けた。

激痛と共に足の力が抜け、遊大の身体は無防備に氷の上へと叩きつけられた。

 

「あっ……!」

 

会場から悲鳴のようなため息が漏れる。

火花が散るような激痛が、麻痺していた脳を容赦なく殴りつける。だが、遊大は倒れた勢いを利用してすぐさま立ち上がり、次の要素へと向かった。

 

勝負は、もう終わっていた。あの転倒の減点を経れば、ここからどう足掻いても優勝には届かない。

それでも彼は、決して足を止めなかった。

 

跳ぶたびに、着氷するたびに、膝から激痛が走る。

立て直しを図った3回転ルッツは踏み張れずエッジが浅くなり、レベル4を狙ったスピンは痛みを庇って腰を落としきれない。

勝負をかけた後半の連続ジャンプは踏ん張りが効かずに単独になり、負担が最大になる3回転ループは無残にも1回転にすっぽ抜けた。

 

崩壊していく点数。惨めなほどボロボロの演技。

あまりの痛々しさに目を逸らす観客もいる中、遊大はただ、残されたすべての力を氷に叩きつけるように最後のストレートラインステップを踏み続けた。

 

顔を歪め、息を乱し、リンクの端で力尽きそうになりながらも、執念だけで滑り切る。

そして、音楽の終わりに僅かに遅れながら、最後のコンビネーションスピンを終えてフィニッシュポーズをとった。

 

荒い息絶え絶えの中、遊大は氷に手をついたまま、しばらく立ち上がることができなかった。

 

-*-*-*-

 

「遊大!」

 

駆け寄ってくる司。

リンクサイドから退場しようとする遊大の体は、コーチの肩を借りなければ立っていられないほどボロボロだった。顔面は蒼白で、荒い息を吐くたびに全身が痙攣するように震えている。

それでも、焦点の定まりきらない目は、真っ直ぐに司を射抜いていた。

 

「…なんや、同情でもしに来たんか」

「違う!遊大くん、なんであんな無茶を…!」

 

司の声は震えていた。

無謀な構成。玉砕と分かっていて突っ込んでいったジャンプ。怒りなのか、それとも遊大の常軌を逸した執念に対する戦慄なのか、司自身にもわからなかった。

 

「…言ったやろ。お前に勝つって。…ま、結果はご覧の有様やけどな」

 

自嘲気味に笑う遊大。しかし、その目の中に宿る闘志の炎は、微塵も消えていなかった。点数も順位もどうでもいい。ただ司に勝つという一心だけで己の肉体を差し出した男の顔だった。

 

その目を見た瞬間、司の中で張っていた何かの糸がプツリと切れた。

 

遊大は、選手生命を懸けてまで『異次元の扉』をこじ開けようとした。

今のままでは駄目だ。

ただ無難に勝ちに行くだけでは足りない。

そんな勝ち方をして、一体誰が胸を張れるのか。他の誰が納得しようと、司自身が絶対に許せなかった。

 

「…勝つために」

 

司は低く呟き、きびすを返した。そして、リンクサイドで待機する自身のコーチの元へと足早に向かう。

 

「先生、構成を変えます」

「司くん?どうした、もうすぐ最終グループのコールだぞ。早くアップに…」

「冒頭のコンビネーション、単独の4回転トゥループに変えます」

 

コーチの顔色が一瞬で青ざめた。

 

「正気かい!?今のプログラムでも狂気的なんだよ?それでも、このまま予定通りの構成で滑り切れば、確実に優勝できる。さらなるリスクを背負う必要なんてどこにも…!」

「必要なら、あります」

 

司は、ロッカールームへと消えていく遊大の背中を鋭く見つめた。

その横顔は、先ほどの遊大と全く同じ、静かな狂気を帯びていた。

 

「あいつが自分の足をぶっ壊してまで限界を超えようとしたのに、俺が安全な道を通って優勝したって…あいつに勝ったことにはならない」

 

首から提げる金メダルなど、もはやどうでもよかった。

ここで4回転から逃げれば、一生、遊大のあの執念に負けたままになる。遊大が示した限界の先という無念を晴らせるのは、今、この氷の上に立つ自分しかいない。

 

「俺は跳びます。完璧に決めてみせます」

 

引き留めるコーチの声を背に受けながら、司はジャージを脱ぎ捨てた。

誰のためでもない、最大のライバルである遊大への最大の敬意を胸に、司は闘気が渦巻く氷上へと足を踏み入れた。

 

-*-*-*-

 

リンクの中央。司は静かに息を吸い込んだ。

この場所を満たしていた遊大の悲壮な熱気を、冷たい空気ごと肺の奥へと収める。

 

静寂を切り裂くように、プログラムの曲が鳴り響いた。

滑り出しのひと蹴りから、変わる世界。氷に愛されているかの如く、滑らかに、そして、暴力的なまでのスピードを生み出していく。

 

最初のカーブを抜け、司は迷うことなくそのジャンプへの軌道に入った。

本来ならば、ここで4回転に挑む必要などない。司の持つ技術や完成度を考えれば、手堅く質の高い3回転でまとめるだけで、安定して確実に勝利を手にできたはずなのだ。

しかし、司にその選択肢はなかった。

 

遊大…俺は跳ぶぞ。お前が命懸けでこじ開けようとした扉を越えて、本当の意味でお前に勝つ!

 

左足のトゥを深く氷に突き立て、司の身体が空高く舞い上がる。

無重力空間にいるかのような圧倒的な高さ。細く、一直線に保たれた完璧な回転軸。

それは未知の領域。まだ発展途上であるノービスの小さな身体には、本来耐えきれないほどのすさまじい遠心力が全身を襲う。

 

一回転、二回転、三回転——

 

回れ!当然のように!俺の身体が、細胞が、そうあるべきだと錯覚するほどに…!

 

そして、四回転。

 

『シュッ』という氷を優しく撫でるような着氷音。

司は右足一本でふわりと降り立ち、流れるようなトレースを描き出した。

 

『4回転トゥループ、完璧な着氷』

 

一瞬の静寂の後、会場が爆発したような歓声に揺れた。

 

遊大の4回転は、命を削った絶唱だった。

天才たちを超えて、自らの最強を証明するための全身からの叫び。

司の4回転は、運命が味方したかのような必然だった。

血を吐くような努力でようやく届きかけた秀才たちの執念すらも、いともたやすく上書きしてしまう、無慈悲なまでの才能の証明。

 

そのあまりに美しき着氷は、4回転が人類の限界に挑む大技などではなく、まるで息をするのと同じくらい容易で、ありふれた単なるジャンプであるかのように観衆へと錯覚させた。

 

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