明浦路司をメダリストに 作:asim
夏。JGPシリーズに派遣される選手たちが一堂に会する、連盟での事前説明会。
今年、過酷なサバイバルを勝ち抜き、世界への切符を手にした男子シングルの選手は8名。
会議室には、重く息苦しい空気が漂っていた。
本来であれば、同世代のトップ選手同士、互いの健闘を誓い合うような和やかな空気が流れてもおかしくはない。しかし、長机の端に座る二人が放つ異様な熱量が、他の6名の選手たちを完全に沈黙させていた。
明浦路司と、蛇崩遊大。
「……遊大くん、本当にその足で世界戦を回るつもり?」
静寂を破ったのは、司の涼やかな声だった。
司が視線を落とした先には、ジャージの下に装着された、遊大の膝を固めるための頑丈なサポーターの膨らみがある。
春の選考会で血を吐くような強行出場をした頃に比べれば、最悪の痛々しさは引いている。とはいえ、決して完治したわけではない。いつ破綻してもおかしくない爆弾を抱えたまま世界を転戦するという綱渡りの状態に、他の年長選手たちが腫れ物に触るように遠巻きにしている中、司だけは無遠慮に、だがどこか楽しげに言葉を投げた。
「当然。俺はポイントを落とさんで」
遊大は視線を上げず、ただ己の膝をなぞりながら低く唸るように答える。
「俺の派遣は第2戦と、第5戦や。司は?」
「第1戦と、第4戦」
司は事も無げに答えた。JGPシリーズにおいて、この二人が同じ大会に派遣されることはない。連盟が確実にそれぞれの大会で優勝を獲り、ポイントを稼がせるために、エース級の二人を意図的に分散させているからだ。
「12月に戦おうね」
司がふわりと微笑む。それは、互いが確実にポイントを稼ぎ、世界の上位8名だけが進める「JGPファイナル」へと進出することを微塵も疑っていない、残酷なまでの絶対的自信だった。
遊大もまた、ゆっくりと顔を上げ、獣のような鋭い目で司を睨み返した。
「ああ。そこで、お前を超える」
バチッ、と。
言葉以上の熱量が二人の間で火花を散らす。
そのやり取りを黙って聞いていた他の選手たちは、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
その息詰まるような緊張感をあっさりとぶち壊したのは、部屋の壁際に寄りかかっていた一人の少年の声だった。
「はいはい、殺伐とするのはそこまで。せっかくの世界戦前だってのに、華がないねぇ」
突然、極限まで張り詰めていた司と遊大の間に、ひょっこりと、しかも目を思い切り剥き、口をアヒルのように歪めたとんでもない変顔が割り込んできた。
わざとらしく大げさな溜息をつきながら、その変顔のまま歩み寄ってきたのは、白鳥珠那だった。
司と同い年であり、彼もまたこの過酷な選考を生き残り、世界への切符を手にした代表選手の一人である。
極限まで張り詰めていた司と遊大の間に、珠那は恐れる様子もなく割って入った。
他の代表選手たちが関わり合いを恐れて息を潜める中、彼だけは違った。春の選考会で二人の理不尽な才能と狂気をまざまざと見せつけられ、一度は主人公にはなれないと絶望を味わいながらも、決して折れることなく自分の戦い方を見出した男の強かさがそこにあった。
珠那は、その顔面崩壊レベルの変顔をパッと解除し、今度は嘘のように完璧なアイドルの笑顔に切り替えると、怪我を抱える一つ上の先輩である遊大を指差した。
「蛇崩先輩も、あんまり無理して本番前に壊れないでよね。司くんも、余裕ぶってる足を掬われないようにね」
珠那は、怪我を抱える一つ上の先輩である遊大と、同い年のバケモノである司を交互に指差して、ふっと不敵な笑みを浮かべた。
「君らが血みどろになって潰し合ってる間に、俺が世界中の客の視線を全部かっさらっていくから。首洗って待ってなよ」
シングルの頂点を争う二人に対し、純粋な技術や狂気ではなく、表現と華で世界を魅了してやるという、珠那なりのトリッキーだが堂々たる宣戦布告。
遊大は鼻で笑って視線を外し、司は「楽しみにしてるよ」と涼やかな笑顔を返した。
……なんだよ、こいつら。
他の5名の選手たちは、ただ呆然と3人のやり取りを見つめていた。
互いを喰い殺そうとする2人の怪物と、その間に割って入り、自分のスポットライトを強奪しようと企む異端児。
死に物狂いで掴み取った世界戦という大舞台は、彼らにとっては自分を証明し、他者を圧倒するための単なるステージに過ぎない。
世界のライバルたちはおろか、同じ部屋にいる日本代表の先輩たちのことすら、彼らの目には一切映っていないのだ。
ただ己の野望だけを見据える異端の才能たち。
彼らが牽引する最悪で最高の世代と共に、世界を転戦する過酷なJGPシリーズの幕が切って落とされた。
これから行われる各大会には、それぞれの国を代表する20〜30名ほどの精鋭たちが集う。その中で、12月に開催される頂上決戦JGPファイナルへの切符を掴めるのは、全8大会を通じて獲得ポイントの上位に立った、たった8名だけだ。
ファイナル進出のためのボーダーラインは、狂気じみたほどにシビアである。
与えられた2回のチャンスの両方で、確実に上位の成績を残さなければならない。突破の最低ラインとされる目安は、2大会での銀メダルと銅メダルの組み合わせ。だが、それすらも他の選手の順位のばらつきによっては脱落の可能性があるグレーゾーンの年もあるほどだ。
つまり、どちらか1つの大会で致命的なミスを犯し、表彰台を逃してしまえば、その時点でファイナルへの道は事実上絶たれる。
たった一度の不調や不運すら許されない。常に背水の陣を強いられる極限のプレッシャーが、10代の若きスケーターたちの両肩に重くのしかかる。
この残酷で狭き門を突破し、12月の約束の地で再び相見えるため、それぞれの決戦の地となる異国のリンクへと降り立った。
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アーサー・レインは、自他共に認めるアメリカの神童だった。
幼い頃から氷上のエリート教育を受け、数々の国内大会を総なめにしてきた彼にとって、このJGPシリーズは、自らの才能を世界に知らしめるための単なるお披露目公演に過ぎないはずだった。
第1戦。滑走順を待つリンクサイドで、アーサーは次に氷へ向かう日本の小柄なスケーターを値踏みするように見つめていた。
明浦路司。ノービスから上がってきたばかりで、国際大会での実績はない無名選手。
「日本のレベルも落ちたものだ。あんな華奢な子供を派遣してくるなんて」
しかし、プログラムの曲が鳴り、その子供が滑り出した瞬間、アーサーの傲慢な思考は真っ白に塗り潰された。
エッジが氷を捉える摩擦音すら聞こえない、異常なまでの滑らかさ。そして、何の前触れもなく、まるで散歩の途中でスキップでもするかのように、明浦路司は軽々と宙へ舞い上がった。
恐ろしいほどの高さと、針の穴を通すような完璧な回転軸。力みなど一切感じさせない無重力の跳躍から、音もなく氷へと舞い降りる。
「……は?」
アーサーの口から、間抜けな声が漏れた。
何かの間違いだ。ジュニアの、しかも初陣の選手が、あんな次元の違うジャンプを息をするように跳んでいいはずがない。
だが、司の演技は止まらない。ジャンプ、スピン、ステップ。そのすべてが、アーサーが血の滲むような努力で積み上げてきたスケートの常識を、根本からへし折っていく暴力的な美しさに満ちていた。
観客は静まり返っていた。歓声を上げるのも忘れ、ただ目の前で顕現した理不尽な才能に魂を奪われていたのだ。
演技終了後、スタンディングオベーションの嵐の中で、アーサーは自身の手がガタガタと震えていることに気がついた。
自国の神童と呼ばれたプライドは、たった数分で塵芥のように粉砕された。彼と同じ時代に生まれたことが、スケーターとしての最大の悲劇だ。アーサーだけではない。その大会に出場したすべての海外選手が、同じ絶望を味わうことになった。
明浦路司は、この第1戦と続く第4戦において、他を全く寄せ付けない異次元の高得点を叩き出し、当然のように2戦連続の金メダルを獲得。圧倒的な絶対王者として、早々に12月のJGPファイナルへの切符を確定させたのである。
-*-*-*-
ブレードが氷を削る冷たい音が、静まり返ったアリーナに響き渡る。
蛇崩遊大は、JGPシリーズ第5戦のフリースケーティング、その最終盤のステップを踏んでいた。
…いける!
息は上がり、筋肉は悲鳴を上げているはずだった。しかし、遊大の頭の中は信じられないほどクリアだった。
何より、春先の選考会で彼を狂人のように見せていたあの絶望的な膝の痛みが、今は嘘のように引いていた。
選考会以降、遊大はただ無謀に滑り続けていたわけではない。
世界で戦うためのポイントを死守するため、あらゆる手を尽くした。専門医を回り、悲鳴を上げたくなるような激痛を伴うマッサージや治療に耐え、筋力で関節を保護するための地道なトレーニングを狂ったように繰り返した。ガチガチに固めたテーピングの巻き方も、負荷を逃がすためにミリ単位で調整を重ねてきた。
その執念が、ついに実を結んだのだ。
もちろん完全に痛みが消えたわけではない。だが、ジャンプの着氷時に全身を貫いていたあの雷のような激痛は、確実に鈍く、コントロール可能なレベルにまで抑え込まれていた。
これなら、跳べる…!
プログラムの最後を締めくくるジャンプ。遊大は深くエッジを倒し、持ち前の爆発力で高く跳躍した。
空中で鋭く軸を作り、回転し、そして――氷へと舞い降りる。
着氷。膝が衝撃を吸収し、滑らかに弧を描いて流れていく。痛まない。耐えられる。
フィニッシュのポーズを決めた瞬間、会場から割れんばかりの歓声が降り注いだ。
遊大は荒い息を吐きながら、強く、強く拳を握りしめた。
結果は、文句なしの表彰台。第2戦での好成績と合わせ、これで世界の上位8名のみが集う頂上決戦ISUジュニアグランプリファイナルへの進出条件を完璧にクリアした。
「よくやったぞ、遊! これでファイナルだ!」
キス・アンド・クライでコーチが興奮気味に肩を叩く。遊大はただ静かに頷き、電光掲示板に表示された自分のスコアを見つめていた。
——明浦路司。
あの理不尽な天才と同じ、12月の舞台。首の皮一枚ではなく、確かな実力と結果をもって、俺はあいつの前に立つことができる。
俺の足は、確実に良くなっている。このままいけば、ファイナルで必ずあいつを喰える。
世界戦で結果を残した高揚感と、肉体が快方に向かっているという手応えが、遊大に絶対的な自信を与えていた。