明浦路司をメダリストに 作:asim
一方、絶対王者が蹂躙したリンクとは別の異国の地で、全く違うベクトルで世界に爪痕を残した男がいた。
白鳥珠那である。
「Thank you! みんな、応援ありがとね!」
割れんばかりの大歓声と、雨のように降り注ぐ花束。リンクの中央で、珠那は観客席の四方に向かって満面の笑みで手を振り、軽やかに投げキッスを送っていた。
結果から言えば、彼の順位は表彰台ギリギリの銅メダル。純粋な技術点やジャンプの難易度で言えば、上位の選手には及ばない部分もあった。だが、彼が放つ圧倒的な華と、観客の視線を一瞬にして惹きつけて離さない天性の表現力は、間違いなくその日、優勝した選手以上に会場の空気を支配していた。
カメラのフラッシュを一身に浴びながらリンクを周回するその姿は、生まれながらのスターそのものだった。
「おつかれ」
バックヤードのロッカールームに戻り、ベンチに腰かけている友人、鴨川洸平はねぎらいの言葉をかける。洸平もまた、アイスダンスの選手として同じ大会に派遣されていたのだ。
洸平の声を聞いた瞬間、珠那の顔からあの弾けるようなアイドルの仮面がスッと消え去った。代わりに浮かび上がったのは、色濃い徒労感と、隠しきれない悔しさだった。
「いや、このままじゃ駄目だ」
珠那は洸平の隣にどっかと腰を下ろすと、両手で顔を覆い、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「大した歓声だったぜ。客席、お前目当ての奴らで沸いてたんじゃないか?」
洸平が慰めるように言うと、珠那は顔を覆った手のひらの隙間から、ひどく沈んだ声を出した。
「客のウケはよかった。表現力の点数だって自己ベストだ。……でも、結果はギリギリの3位だぞ。上の連中には、ジャンプの技術点で圧倒的に離されてる」
珠那の脳裏に浮かぶのは、海を隔てた別の大会で暴れ回っているであろう同世代の怪物たちの姿だ。
「司は、息をするように異次元のジャンプを跳んで圧倒的な1位を獲ったってニュースで見た。遊大だって、あんなぶっ壊れた足で死に物狂いでポイントを稼いでるはずだ。それに比べて俺は……自分の武器を全部出し切って、ノーミスで滑り切って、それでもアイツらの背中すら見えない」
才能の差。圧倒的な技術の壁。
自分がどれだけ観客を魅了し、完璧な笑顔を振り撒いたところで、シングル競技という土俵の上では天才たちには一生勝てないという残酷な現実が、珠那の心を重く押し潰していた。
「俺の武器は華だ。魅せ方なら誰にも負ける気はしない。けど、シングルの採点システムじゃ、ジャンプの難易度でどうしても天井が来る。……あいつらと同じルールで戦ってる限り、俺は絶対に一番にはなれないんだ」
ポツリと零した言葉には、自身の実力不足に対する深い絶望が滲んでいた。
「だったら、どうするんだ?」
洸平の静かな問いかけに、珠那はゆっくりと顔を上げた。
悔しさに赤く染まった目元。しかし、その瞳の奥の光までは死んでいなかった。
「さあね。……でも、ただの天才の引き立て役で終わってやるつもりはないよ。俺が一番輝ける戦い方が他にあるなら、何をしてでも見つけ出してやる」
深く落ち込み、自分の限界を誰よりも冷静に理解させられながらも、決して氷から降りることは選ばない。
白鳥珠那は静かなロッカールームの中で、天才たちへの敗北感を噛み砕きながら、新たな道への渇望を確かに宿していた。
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しかし、どれほど強い覚悟を抱こうとも、フィギュアスケートの冷酷な採点システムが魔法のように覆ることはない。
数週間後。背水の陣で挑んだ自身にとってのJGPシリーズ第2戦において、珠那は持てる力のすべてを氷上に叩きつけた。
ロッカールームでの誓い通り、彼は己の最大の武器である「華」を極限まで研ぎ澄ませてみせた。極度の疲労に苛まれながらも完璧なアイドルの仮面を被り通し、指先一つで会場中を熱狂の渦に巻き込んだ。割れんばかりのスタンディングオベーションは、彼がその日一番観客の心を奪った勝者であることを証明しているかのようだった。
だが、無機質な電光掲示板に弾き出された結果は、またしても残酷な3位だった。
表現力でどれほど高い数字を叩き出そうと、基礎点の高い高難度ジャンプを軽々と決める上位陣との技術点の差は、気迫や覚悟だけで埋まるものではなかったのだ。
2大会連続の銅メダル。
世界という舞台において、決して恥じるような成績ではない。むしろ大健闘と呼べるものだ。しかし、世界から上位8名だけが進出できるJGPファイナルの切符を掴むには、あまりにも中途半端な結果だった。
全7大会の日程がすべて終了し、最終的なJGPランキングが発表された日。
「……総合9位、か」
珠那は自嘲気味に息を吐き出した。
ボーダーラインである8位の選手とのポイント差はわずか。だが、そのわずかな差こそが、凡人と天才を隔てる分厚く絶対的な壁だった。
ランキング9位。それはつまり、上位8名のうち誰かが欠場しない限り、ファイナルの舞台には立てない補欠1番手で終わったことを意味している。
奇跡の大逆転など起きない。覚悟を決めたからといって、急に空高く跳べるようになるわけではない。それが、才能と技術が支配するスポーツのリアルだった。
「ま、こんなもんか。俺は俺のやり方で客を沸かせたし、文句はないけどさ」
誰に言い訳するでもなくそう呟きながら、珠那はPCの電源を落とした。
同世代のバケモノである明浦路司と蛇崩遊大は、当然のように上位8名に名を連ね、12月のファイナル進出を悠々と決めている。彼らが頂上決戦で殺し合う姿を、自分はリンクサイドではなく、観客席から眺めることになるのだろう。
そう思っていた。
この直後、11月に開催される全日本ジュニア選手権の舞台で、極限まで張り詰めていた一本の糸が、無残な音を立てて断ち切られることなど、この時の珠那は知る由もなかった。
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11月。国内の若きスケーターたちが鎬を削る、全日本ジュニア選手権が開幕した。
すでに世界戦であるJGPシリーズを勝ち抜き、12月のJGPファイナル進出を決めている明浦路司や蛇崩遊大のようなトップ選手にとって、この国内大会は単なる調整や消化試合に見えるかもしれない。
しかし、フィギュアスケートの過酷な生存競争において、それは明確な間違いである。彼らにとって、全日本ジュニアは決して手を抜くことの許されない、極めて重要な意味を持つ戦いだった。
最大の理由は、この大会の上位入賞者に与えられる特権にある。
全日本ジュニアで表彰台に上った選手は、12月末に開催される国内最高峰の舞台——シニアの猛者たちがオリンピック代表や世界選手権の切符を争う全日本選手権への推薦出場権を得ることができるのだ。
それはつまり、10代のジュニア選手が、現在日本の頂点に君臨するシニアのトップスケーターたちと同じリンクに立ち、直接己の才能を叩きつけることができる唯一にして最大のチャンスを意味していた。
さらに、これは単なる名誉の話ではない。明確な実利が絡んでいる。
翌シーズンからのシニア転向を見据えている選手たちにとって、全日本ジュニアのタイトルと全日本選手権での活躍は、連盟からの特別強化選手の指定や、来季のシニアグランプリシリーズの派遣枠を勝ち取るための最も強力なカードとなる。
日本という選手層の厚い国で、シニアに上がって即座に世界戦の枠を貰うためには、ジュニアの段階で国内に敵なしという圧倒的な実績と政治力を連盟に見せつけておく必要があるのだ。
JGPファイナルが、同世代の頂点を決める戦いだとすれば、全日本ジュニアはシニアの領域へ殴り込むための通行手形を奪い合う戦いである。
だからこそ、誰も休まない。誰も立ち止まらない。
来季のシニア転向を最短で目指す遊大にとって、そして彼を完膚なきまでに叩き潰そうとしている司にとって、ここは絶対に譲れない戦場だった。
JGPファイナルという大一番を翌月に控えていようとも、彼らは手負いの獣のように飢えた目で、全日本ジュニアのリンクへと足を踏み入れていた。