明浦路司をメダリストに 作:asim
その日は絶好調だった。
朝の公式練習から信じられないほど体が軽く、ずっと爆弾として抱えていたはずの膝の痛みすら、もはや過去の幻だったのではないかと錯覚するほどだった。
全日本ジュニア選手権。
リンクの中央に立ち、ポーズを決めた蛇崩遊大の目には、確かな勝利への道筋と、来季のシニアの舞台しか映っていなかった。
曲が鳴る。滑り出しから、すべてが完璧だった。
高いスピードに乗ったまま、高難度のジャンプを次々と正確に着氷していく。観客のボルテージが上がり、遊大自身も、己が限界を突破してさらなる高みへ到達したのだと信じて疑わなかった。
——しかし、スポーツの神様は、限界を誤認したアスリートに対してどこまでも冷酷だった。
演技の後半。
ジャンプを着氷し、次の動作へと移るために体重を乗せ、深くエッジを倒した、その瞬間だった。
膝ではない。これまで痛む膝を無意識に庇い、着氷の絶大な衝撃と遠心力のすべてを黙って引き受け続けていた股関節の奥底で。
ブチッ、と。
太く強靭なケーブルが弾け飛ぶような、致命的な破断音が遊大の脳内に響いた。
「…あっ」
誰かの声が会場に響いた。
次の瞬間、遊大の視界が大きく天地を返し、背中から冷たい氷に叩きつけられていた。
転倒。それ自体はフィギュアスケートにおいて珍しいことではない。すぐに立ち上がり、演技を再開しなければならない。遊大の脳はそう命令を下した。
だが、体が動かない。
立ち上がろうと足に力を入れた途端、腰から下を鋭い刃物でえぐり取られたような尋常ではない激痛が走り、遊大は氷の上に無様に這いつくばった。
「クソッ…クソッ…あ゛あ゛あ゛…!」
音楽が響き続ける中、必死に立ち上がろうと藻掻き、その度に力なく氷に崩れ落ちる遊大の姿に、会場の歓声はざわめきへ、やがて悲鳴に変わっていく。
自力で立ち上がることはおろか、膝をつくことすら叶わない。
慌てて駆け寄ってきた医療スタッフが、その場で遊大の身体を氷に横たえ、即座にリンクサイドへ鋭い合図を送った。
運び込まれたオレンジ色の担架の上に、抗う力も失った遊大の身体が固定されていく。
氷の上を滑るように運ばれ、担架ごと無機質に運び出されていくその姿は、つい数秒前まで頂点に手をかけていた若きエリートのそれとは、あまりにもかけ離れた残酷な光景だった。
-*-*-*-
全日本ジュニア選手権、男子FS。
「…3位」
関係者用のモニターを見上げながら、白鳥珠那はギリッと奥歯を噛み締めた。
ジャージの袖を強く握りしめる彼の中にあるのは、どろりとした濃密な悔しさだけだった。
暫定3位。
表彰台圏内とはいえ、この後にはまだ最終滑走グループの化け物たちが控えている。最終的な順位がどうなるかは火を見るより明らかだった。
次の蛇崩遊大の演技ももうすぐ終わる。
圧巻の滑り、ジャンプを見せた彼はどうみても自分の順位を超えた数値になるだろうと、珠那は思わずモニターから視線を外した。
…あいつらに勝つにはどうすればいいんだ。
才能の壁、技術の壁。目を背けたくなるような残酷な現実から逃避するように、うつむいて床の傷を見つめる。
予定通りの構成なら、ここで割れんばかりの大歓声が上がるはずだった。遊大がプログラムの最後を飾るジャンプを着氷し、会場が熱狂の渦に包まれる瞬間が来るはずだったのだ。
——しかし。
一瞬、会場が異様なほどに静まり返った。
歓声も、拍手も起こらない。
その直後、バタバタと大人たちが血相を変えて慌ただしく走り出す足音が、バックヤードの廊下に乱暴に響き渡った。
「……?」
何事かと顔を上げ、再びモニターに視線を戻した珠那は、信じられない光景に息を呑んだ。
たった数秒前まで、圧倒的な力でリンクを支配していたはずの遊大が、氷の上に這いつくばっていたのだ。
ただの転倒ではない。腰から下を抱え込むようにして体をくの字に折り曲げ、立ち上がろうと藻掻いては、力なく氷に崩れ落ちている。これまでどんな激痛にも顔色ひとつ変えなかった彼からは到底想像もつかない、ひどく無防備で痛々しい姿だった。
「おい、嘘だろ……」
慌ててリンクに飛び出していったコーチと医療スタッフが、立ち上がることすらできない遊大に駆け寄る。彼らは遊大の様子を見るなりさらに血相を変え、すぐさま担架を要請した。
やがて真っ白なリンクに運び込まれた担架に乗せられ、遊大はピクリとも動かないまま、力なく外へと運び出されていった。
つい数分前まで、圧倒的な力で未来をこじ開けようとしていたはずの若き天才の、あまりにも唐突で残酷すぎる退場劇。
才能を見せつけられたことへの悔しさなど、完全に頭から吹き飛んでいた。
現実から目を背けていたほんのわずかな時間に、誰もが確信していたはずの未来が、音を立てて崩れ去ってしまったのだ。
珠那はただ呆然と、主を失い無人となったリンクを映し出し続けるモニターの画面を見つめていることしかできなかった。
-*-*-*-
遊大に下された診断は、股関節唇損傷。
長期間にわたり膝を庇うような不自然な着氷を続けた結果、大腿骨と骨盤を繋ぐ軟骨組織が負荷に耐えきれず、完全に破綻したのだ。
全治は短く見積もって3ヶ月。競技復帰のためのリハビリを含めれば半年以上。もしメスを入れることになれば、以前と同じ可動域やパフォーマンスが戻る保証はない。それは、シニア転向を最短で目指していた遊大にとって、選手生命を脅かす事実上の死刑宣告に等しかった。
全日本選手権への推薦枠も、最短でのオリンピックの夢も、一瞬にして音を立てて崩れ去った。
そして何より――明浦路司と約束した、12月のJGPファイナルの舞台に立つことは、物理的に不可能となった。
同世代を牽引するはずだった怪物の、あまりにも突然で呆気ないエリートコースからの転落劇。
そして、遊大がファイナルを欠場するということは、フィギュアスケートの厳格なシステム上、たった一つの事実が自動的に実行されることを意味していた。
――空席となった1つの椅子。
JGPランキング9位。あと一歩のところでファイナル進出を逃し、すでに今シーズンの国際大会を終えたつもりでいた次点の選手、白鳥珠那の元へ。
同い年のライバルの崩壊という最悪の形による繰り上がりの切符が、唐突に転がり込んできたのである。
-*-*-*-
全日本ジュニア選手権から数日後。
いつもの練習リンクの控え室で、珠那はコーチから差し出された一枚のプリントを、まるで汚物でも見るかのような冷めた目で見下ろしていた。
『ISU ジュニアグランプリファイナル 出場選手変更のお知らせ』
そこに書かれていたのは、蛇崩遊大の怪我による無念の棄権と、補欠1番手であった白鳥珠那の繰り上がり出場の決定通知だった。
「……連盟からの正式な通達だ。パスポートの準備はできてるな、珠那」
コーチの声には、手放しの喜びは微塵もなかった。他人の、しかも同じ日本代表として世界を戦った同世代の致命傷を踏み台にして得た切符だ。素直に喜べる人間など、この陣営には一人もいない。
「……悪趣味ですよね、ほんと」
珠那は力なく笑い、ベンチに深く背中を預けた。
天井を仰ぎ見る彼の脳裏には、数日前のリンクで芋虫のようにのたうち回っていた遊大の姿が、生々しく焼き付いて離れなかった。
「俺は、自分の実力で客を沸かせて、自分の力でスポットライトを強奪したかったんですよ。あんな……あんな死人の靴をひっぺがして履くみたいな真似してまで、あの舞台に立ちたかったわけじゃない」
ギリッ、と。
珠那はジャージの膝を強く握りしめた。
「あいつら、俺のことなんか一切見てなかった。遊大先輩も、司も。二人でファイナルに行って、そこで殺し合うことしか考えてなかった。……なのに、なんだよこれ。バカみたいじゃないか」
悔しかった。
技術で勝てない現実よりも、蛇崩遊大の代用品としてあの舞台に放り込まれる今の自分の境遇が、たまらなく惨めだった。
欠場が出たから、お前に枠が回ってきた。おめでとう。
そんな同情と哀れみの混じった視線の中でリンクに立つことなど、プライドが許さなかった。
「辞退、するか?」
沈黙を見かねたコーチが、静かに問いかける。
権利はある。準備不足やメンタルを理由に辞退し、さらに下の順位の選手に枠を譲ることもできる。誰も珠那を責めはしないだろう。
だが。
「……誰が、辞退なんかするもんですか」
珠那はゆっくりと顔を上げ、濁った瞳の中にギラリとした強い光を宿してコーチを睨み返した。
「泥水すすってでも、俺は行きますよ。ここで逃げたら、俺は一生、あいつらの人生のモブキャラで終わっちまう」
立ち上がり、スケート靴の紐を乱暴にきつく縛り上げる。
ファイナルの舞台には、あの理不尽な天才、明浦路司が待っている。同等の狂気を持っていたはずの遊大を失い、完全に一人で頂点に君臨するバケモノが。
「代用品だろうが何だろうが、リンクに立っちまえばこっちのターンだ。……同情なんてクソ食らえ。俺のスケートで、世界中の客の記憶から『蛇崩遊大の欠場』なんて事実、全部上書きして消し去ってやりますよ」
それは、絶望的な才能の壁を前にしても決して折れない、白鳥珠那という男のしたたかで傲慢な本性だった。
最悪の形で手に入れた、世界最高峰の舞台。
遊大の無念を背負うような綺麗な真似はしない。ただ己のエゴと野望のためだけに、ポーランドで開催されるJGPファイナルの地へと向かう。
同世代の怪物、明浦路司と相見えるために。