明浦路司をメダリストに 作:asim
案の定というか、大谷翔平への投資計画は失敗した。
岩手の実家を突き止めることまではできたが、見ず知らずの男が突然大金をボンと渡して、「ハイ! 将来何百倍にもして返してね!」とはいかなかった。一歩間違えれば通報案件である。
最強の青田買いの夢は、現実という名の高い壁の前にあっさりと散った。
とは言え、俺のメインバンクには依然として莫大な資金が眠っている。
2001年の春に確実に弾け飛ぶITバブルを無傷で逃げ切るため、ヤフーやドコモの株を高値で売り抜けつつ、暴落に備えてせっせと手堅い資産に分散する日々を送り——気がつけば、また年が明けていた。
去年の正月の件から知らない親戚やら覚えてもいない友人を名乗る奴らからひっきりなしに連絡が来る。
この時代個人情報はどこかに捨てられているため、拡散し放題だ。
そのせいで引っ越しもした。
いちいち対応なんてしていなかったが、以降兄家族とも距離を置いていた。成金に群がるハイエナの群れに、兄貴たちまで巻き込みそうで心配だったからだ。
「……さて、そろそろ確定申告の準備か」
2000年度の利益を計算してみると、吐き気がするような納税額が並んでいた。
節税対策として、あえて赤字を垂れ流させている『あの場所』の収支報告書と領収書を整理しなければならない。
「あれからあのリンク場、行けてないな」
あの時、氷の上で無様に転び続けていた司の姿。あれを最後に、俺の『メダリスト』チート投資計画も、大谷翔平へのアプローチと同じく空振りに終わったと結論づけていた。
俺は重い腰を上げ、一年ぶりに対象の物件へと向かう。
俺は自分の所有物であるリンクの裏口に立った。
「お久しぶりでございます、オーナー!」
中に入ると、支配人が一年前よりもさらに揉み手を激しくして駆け寄ってきた。
「おう。客の入りはどうだ? 相変わらず赤字か?」
「い、いえ! オーナーの莫大な資金援助のおかげで設備も一新できまして! それに何より……オーナーの『ご親族』がいらっしゃいますので!」
「ん? ああ、兄貴の家族か。たまに来てるって聞いてるよ。好きに使わせてやってくれ」
俺が適当に手をヒラヒラさせて受け流すと、支配人はなぜかブルブルと震え出した。
「た、たまになどというレベルではありません! 司様です! 司様はこの一年間、一日も休まず、文字通り毎日このリンクに通い詰めておられます!!」
「……は?」
毎日? 六歳、いや今は七歳になった子供が、毎日だと?
聞き返そうとした俺の耳に、リンクの方から鋭い氷を削る音が響いた。
シュッ……ターン!
「なんだ……?」
俺は支配人を放置して、メインリンクの脇にある厚いアクリル板のフェンスで仕切られたサブリンクへと急いだ。
本来は初心者用やホッケーの自主練に使われる程度の控えめなスペースだ。だが、そこは今や、外の世界から切り離された異界と化していた。
シュッ……ターン!
アクリル板越しに響いてくる、重く鋭い破裂音。
見れば、無人のサブリンクの中で、小さな影が猛スピードで滑走していた。
「……司?」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
一年前、壁にしがみついてプルプルと震えていた生まれたての子鹿は、そこにはいなかった。
コーナーを曲がるたびに深くエッジを傾け、氷を削る。その加速は、狭いサブリンクだからこそ、より凝縮された暴力的な鋭さを放っている。
司はスピードに乗ったまま後ろ向きに踏み切り——軽やかに宙を舞った。
クルクルッ、ターン!
空中で二回回り、完璧な姿勢で氷に着氷する。
ダブルルッツ。二回転ジャンプの中で難易度が高いとされる技を、七歳の子供が、あんな狭い壁際ギリギリでいとも簡単に降りてみせた。
「……おい、支配人。なんだありゃ。なんでこんなに司がうまくなってるんだ?」
「お、オーナー……お忘れですか? 一年前、オーナー自ら私に仰ったではありませんか」
支配人が、冷や汗を拭きながら困惑した顔で俺を見た。
「『司には特別な環境を用意してやれ。あのサブリンクをあいつ専用の練習場にして、いつでも好きな時に、二十四時間鍵を開けて入れるようにしておけ』……と。お兄様にもその旨をお伝えし、合鍵を預けてあります」
「……俺が、そう言ったのか?」
「はい。オーナー直々のご命令でしたので、あちらを司様専用プライベートエリアとして整備し、一般客の立ち入りを一切禁じております」
……マジか。俺、そんな太っ腹なこと言ったっけ?
去年の正月の狂乱の中、酔った勢いか何かで、適当に「あいつを特別扱いしておけ」くらいのニュアンスで放った言葉だったのだろうか。全く覚えていない。
「一人であそこまで…」
「いえいえ、流石にお一人ではございませんよ。言われた通り、専属コーチも付けております。ほら、あちらに」
支配人が指さした先を見る。リンクの隅、アクリル板の向こう側のベンチに座る、分厚いダウンジャケット姿の初老の男。手にはバインダーと液晶モニターを開いた小型のデジタルビデオカメラを持ち、氷上の司の一挙手一投足を食い入るように見つめている。ジャンプを跳ぶたびに、ブツブツと何事かを書き込んでいた。
「オーナーが『金に糸目はつけない。日本で一番いい指導者を連れてこい』と仰いましたので、私が直接ヘッドハンティングしてきたのです!あの全日本クラスのトップ選手を何人も育て上げた、泣く子も黙る鬼コーチ、堂島先生です!」
「…堂島?誰?有名なの?」
「ええっ!フィギュアスケート界で堂島先生を知らないなんてモグリですよ! ジャンプの技術指導において右に出る者はいないと呼ばれる名伯楽です! もちろん、前所属クラブへの莫大な違約金や、専属契約料も全てオーナーの口座から自動で……」
俺の口座から!?
いや、確かにメインバンクの残高からごっそり減っていた。だが、確定申告の準備をするまで、俺はそれを『リンクの老朽化した冷設備の修繕費』的な何かだと思ってスルーしていた。まさかウン千万単位の経費が、日本最高峰のコーチの引き抜きと、7歳の子供のための専属契約料だったとは。
俺が眉を顰めて黙り込んだのを見た支配人は、血の気を引かせて慌てた表情を浮かべる。
「事前に確認も致しましたよ!大金ですから!半年前ごろです。お電話を入れた際も『いいよいいよ。好きにやって』と仰いましたので…っ!」
何をやっているんだ過去の俺。
ちょうど酒でも入っていたか?株の売買が忙しい時期にちょうど当たったか?気分よく稼いだ日か?
全く身に覚えがないが、何にせよ結果オーライになったので良しとするしかない。
「ど、どうも。ここのオーナーの明浦路仁です。…その、うちの甥っ子がお世話になって——」
俺が引きつった笑顔で挨拶すると、百戦錬磨のはずのトップコーチは、まるで宝の山を見つけた採掘者のように興奮して鼻息を荒くした。
「お世話だなんてとんでもないです!私は今、とんでもない歴史の目撃者になっていますよ!司君は…彼は化け物です!」
さっきまでの気難しい職人のようだった男の異様な熱量に、俺は思わず後ずさりしそうになる。
「一度見たものを次の瞬間には自分のものにする。納得するまで絶対に氷から上がろうとしない。7歳の身体能力の限界がなければ、今すぐにでも3回転ができることでしょう。よくぞ、この原石を私に託してくださいました」
ガッチリと両手を握られる。俺はただ曖昧に頷くことしかできない。俺、ただ金に物を言わせて適当に言っただけなのに。
「仁叔父さん!」
その騒ぎに気づいたのか、氷上の小さな影がスッとエッジの角度を変え、滑りながらこちらへやってきた。アクリル板の向こうから扉を開けて顔を出した司。
1年までの、親の顔色を窺って息を潜めていた気弱な次男坊の姿は、そこには微塵もない。
全身汗だくで、息を弾ませながらも、その瞳はギラギラと飢えた獣のように、純粋な熱狂に輝いていた。
「見てた!?ダブルルッツ飛べるようになったんだ!先生がね、この踏み切りならそのうちダブルアクセルいけるって!」
無邪気に、しかし確かな自信をもって笑う7歳の天才を見下ろしながら、俺はゴクリと唾を飲み込む。
ああ、間違いない。大谷翔平の比じゃない。俺は、俺の金銭感覚のバグと適当な指示のせいで、日本スケート界の常識を破壊する、とんでもないスケート狂いのバケモノを培養してしまったのだ。
堂島が司に何かしらの指示をだし、また司は滑り出す。
俺は努めて冷静な、大物パトロンとしての顔を作り、堂島コーチに向き直った。
「先生。司はどこかの大会に出たんですか?出ましたよね?いやー、その勇姿、ぜひ生で見たかったですねぇ」
俺が両手をポンと叩いてあっけらかんと言うと、堂島コーチは意外にも首を横に振った。
「いえ、まだ一度も大会には出していません」
「…はい?」
作ったばかりの大物パトロンの仮面が、ツルリと滑り落ちた。
「え!?なんでですか?素人目で見ても、同世代の大会なんて余裕で無双できるでしょう?」
「同世代の『お遊戯会』で勝たせても、彼の才能とオーナーの資金の無駄遣いですから」
堂島は手元のバインダーをバンッと叩いた。
「フィギュア界の登竜門である全国大会全日本ノービスには『7月1日時点で9歳以上』という厳格な年齢制限があります。つまり、現在7歳の司君には、どんなに実力があっても2年は全国の表舞台には立てないんです」
「え?じゃあこの1年は、ずっとここで練習だけしてたんですか?」
「ええ。このリンク場で、ひたすらバッチテストだけを異常なスピードでパスさせ続けました。すべては、最短距離で世間を震え上がらせるためです」
堂島はニヤリと、それこそ肉食獣のような笑みを浮かべた。
「この夏に行われる、名古屋のローカル大会。ここで司君をデビューさせます」
「ローカル大会?」
「ローカル大会は年齢ではなく、バッジテストの級でクラス分けされます。司君は現在、7歳にして4級を取得している。つまり、本来なら小学校高学年や中学生が出場する4級クラスに、7歳の彼が混ざるということです」
その言葉に、俺は目を輝かせた。
なるほど!同世代の大会で無双するより、ずっとインパクトがある。
「最高じゃないですか、先生!何十人もいる高学年の大会で7歳のチビッ子が、年上の連中をごぼう抜きにして次々となぎ倒していく!まさに痛快な下剋上、スポーツ紙のいい見出しになりそうだ!」
俺が興奮気味に身を乗り出して両手を叩くと、堂島は極めて冷静に首を横に振った。
「いえ、おそらく同クラスの出場者は司君を含めて2~3人。運がよくて4人といったところでしょう」
「……はい?」
俺は思わず、転びそうになった。
「2、3人!?高学年の大会なのに!?」
「ええ。現在の男子フィギュアは圧倒的に競技人口が少ないのです。地方のローカル大会ともなれば、各クラスの定員割れは日常茶飯事。彼が滑り切った時点で、ほぼ入賞は確定するような惨状です」
「なんだそりゃ…」
俺はガックリと肩を落とした。
「じゃあ結局、参加賞で自動的な入賞ぐらいの話じゃないですか。何十人も蹴散らす下剋上ストーリーは…」
不満げにぼやく俺に対し、堂島は手元のバインダーをバンッと叩いた。
堂島が俺を真っすぐに見据える。その奥の瞳が、ギラリと光った。
「目的は2つあります。1つは、司君に『観客と審査官の前で滑る』という公式戦の極度の緊張感を味わわせること。そしてもう1つが…『審査官への顔売り』です」
「顔売り?」
「大会の『6点満点』の採点方式は、審査員の主観に大きく左右される相対評価です。ゆえに、フィギュア界には『無名の新人には絶対に高い点をださない』という、暗黙のルールが存在します。これから彼が全国、ひいては世界へ出ていくためには、まず審査員たちの脳髄に明浦路司という名前と、その悪魔的才能を深く刻まなくてはなりません」
堂島の目が、狂気に濁っている。
「定員割れの過疎大会で構わない。そこで、暴力的なまでの技術力を見せつけ、審査員に、5.0以上の異常なスコアを出させるんです。…オーナー、フィギュアスケート界というのは、驚くほど狭い村社会なんですよ」
「村社会?」
「ええ。採点という主観を下す審査員たちは、同じ日本スケート連盟に属する身内同士です。彼らは、必ず身内で吹聴します。名古屋にとんでもない化け物がいる、とね」
なるほど。メディアや世間などの外側ではなく、業界の内側の権力者たちに口コミという形で潜り込む気か。
堂島はニヤリと、それこそ肉食獣のような笑みを浮かべた。
「そうすれば、噂を聞きつけた業界のトップ連中やライバルクラブのコーチたちが、司君を宣伝してくれるでしょう」
見える、未来の輝かしい図が。
絵空事のようにうまくいく前提の話だが、目の前の司の姿を見れば、それが単なる妄想ではなく、確信に変わる。
氷上で無邪気に、しかし獲物を狙うような鋭い目で次のジャンプの軌道を確認している小さな背中。
「…いいですねぇ、堂島先生。その計画で行きましょう」
俺は悪党のような笑みを浮かべ、堂島と固く握手を交わした。
オリキャラ堂島コーチ。
原作キャラにすればよかったと、最後まで書いてから思った…。