明浦路司をメダリストに   作:asim

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久々に主人公登場。
閑話休題。


22 一方その頃

2007年、12月末。

六本木の高層タワーマンションの最上階。明浦路仁は、壁一面に並べられた複数の大型モニターが放つ冷たい光を浴びながら、手元のブランデーグラスを静かに揺らしていた。

 

モニターの半分には、リアルタイムで赤と緑の数字が滝のように流れる海外の金融市場のチャート。

そしてもう半分のモニターには、先ほどまで行われていた全日本フィギュアスケート選手権の録画映像が、音もなく再生され続けている。

 

「……4位、ね」

 

画面の中で、理不尽な採点結果を前にしても決して泣かず、ただ静かに、底知れない狂気を瞳に宿した甥っ子の姿を見つめながら、仁は低く笑った。

 

技術では完全に大人たちを凌駕していた。それでも、審判という名の「大人たち」は、シニアに上がりたての中学生という理由だけで、司からメダルを奪い取った。

格。実績。暗黙の了解。

才能という絶対的な価値を、社会のシステムや同調圧力でねじ伏せようとするその浅ましい構造を目の当たりにして、仁の胸の奥底で、ひどく冷たくてどす黒い炎が静かに燃え上がっていた。

 

『――仁さん、本当に……本当にやるんですか?』

 

デスクに置かれたスピーカーフォンから、懇意にしている外資系証券のトップ・プライベートバンカーの、震えるような声が響いた。

 

「ああ。現在保有している米国株のポジション、すべてキャッシュ化してください。そして、その資金のすべてに限界までレバレッジをかけて、米国の金融セクター全体に全力で空売りを仕掛けます。特にリーマン・ブラザーズ、ベア・スターンズ、それからAIG。関連するCDO(債務担保証券)を対象としたCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)も市場に出ているだけ買い占めてください」

『し、正気ですか!? 今、米国市場は多少調整が入っていますが、サブプライム問題はすでに底を打ちました! 年明けには確実に反発します! FRBも利下げに動いているんですよ!? ここで米国の巨大金融機関を空売りするなんて、国家を相手に喧嘩を売るような自殺行為――』

「底を打った? 誰がそんな寝言を言ってんです? 格付け機関?」

 

仁は氷のように冷たい声で、バンカーの言葉を遮った。

 

「あれはただのゴミの詰め合わせよ。返済能力のない人間に貸し付けた住宅ローンを、切り刻んで混ぜ合わせただけの粗悪品。トリプルAのメッキが剥がれれば、世界中の銀行が連鎖的に吹き飛ぶ。……来年の秋、世界は一度焼け野原になりますよ」

『仁さん……っ! いくらあなたでも、今回ばかりは――』

「いいから、指示通りに動け。俺は今、ひどく腹立ってんだよ。俺の可愛い甥っ子を正当に評価できなかった『大人たちの社会』が、どうにも目障りで仕方ねぇ」

 

通話を切り、仁は再びモニターの司へと視線を戻す。

シニアの壁。大人の事情。

ならば、大人の事情そのものを金で買い叩き、司のためだけの盤面を作り上げてやればいい。

 

「見てな、司。お前を正当に評価しないような安い大会なんて、こっちから願い下げだ。再来年、世界中の銀行が吹き飛んで、ISUのスポンサーが軒並み死に絶えた時……俺が、お前のために、莫大な資金でフィギュアスケート界のシステムそのものを買い上げてやる」

 

歴史上最大級の金融危機、リーマン・ショック。

世界中の投資家が血の涙を流して破産していくその裏で、未来を知る転生者・明浦路仁は、ただ甥っ子に最高のスケートをさせるためという狂気的な理由だけで、国家予算にも匹敵する兆単位の富を築き上げようとしていた。

 

-*-*-*-

 

2008年、春。

都内にある歴史ある料亭の個室で、仁は出された春塗りの椀物に口をつけながら、退屈で死にそうな己の心を必死に押し殺していた。

 

「——それでね、明浦路さん。うちの娘も最近、フィギュアスケートの観戦にハマっているそうで。明浦路さんがリンクのオーナーだと知って、ぜひ一度お話を伺いたいと」

 

上座で好々爺のような笑みを浮かべているのは、国内メガバンクの筆頭専務である郷田。そしてその横で、計算し尽くされた清楚な笑みを浮かべているのが、娘の沙耶香だった。

35歳、独身。一流大学を出ていながらフリーターを経験し、そこからヤフー株への一点張りという神がかった投資手腕で彗星のごとく財界に現れた、底知れない資産家。

そんな仁の元には、ここ数ヶ月、こうした政略結婚を企むハイエナたちからの見合い話が雨あられと降り注いでいた。

 

「ええ、そうなんです! 私、フィギュアスケートが大好きで……! 明浦路さんのリンクにも、有名な選手がいらっしゃるんですか?」

「……ええ、まあ。私の甥が少々やっておりまして。有望な選手ですよ」

 

仁は当たり障りのない笑顔を浮かべながら、テーブルの下で隠し持っていたブラックベリーの画面を親指で弾いた。

 

……米国の住宅着工件数、また予想を下回ったか。いいぞ、もっと落ちろ。このまま住宅バブルの崩壊が加速すれば、俺の仕込んでいる空売りの利益は天文学的な数字になる。

 

目の前の清楚な令嬢の猫撫で声など、仁の鼓膜には一切届いていなかった。

彼の脳内を占めているのは、来たるべき世界恐慌へのカウントダウンの計算だけである。

 

「明浦路さんは今後、どのような事業展開をお考えで?」

 

郷田専務が、探りを入れるような鋭い視線を向けてくる。

 

「投資家として一代で財を成された手腕には感服いたします。しかし、そろそろ確固たる身の丈に合った地盤を持ち、堅実な資産運用へと舵を切るべき時期ではないかと私は思うのですよ」

 

要するに、うちの娘を貰ってメガバンクの傘下に入れ、その莫大な資産をうちの銀行で運用させろ、という露骨な要求だった。

 

「……堅実な資産運用、ですか」

 

仁はブラックベリーを懐にしまい、ゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、先ほどまでの愛想笑いとは全く違う、捕食者のような冷酷な光が宿っていた。

 

「郷田専務。御行はたしか、米国の住宅ローン担保証券(MBS)の組み入れ比率が、国内でもトップクラスに高かったのではありませんか?」

「は……? ええ、まあ。利回りが高く、格付け機関のお墨付きがある安全な金融商品ですから……それが何か?」

 

自信満々に答える郷田を見て、仁は心の底から呆れ果てた。

あと半年もしないうちに、その安全な金融商品がただの紙屑になり、あなたの銀行の自己資本を消し飛ばすというのに。

 

「いえ。ただ、もし私に家族という守るべき地盤ができたのなら、あんな中身の分からない毒まんじゅう(金融商品)に手を出している銀行に、大切な資産を預けるような愚かな真似は絶対にしないだろうなと、そう思っただけです」

「なっ……! 毒まんじゅうだと!? 格式ある米国の金融機関を侮辱するおつもりか!」

 

顔を真っ赤にして激昂する郷田を放置したまま、仁は静かに立ち上がった。

時計を見る。まもなくニューヨーク市場が開く時間だ。こんな泥舟に乗った無能な大人たちの相手をしている暇はない。

 

「それから、お嬢さん」

「え……? は、はい」

「フィギュアスケートがお好きとのことでしたが、相手の歓心を買うために嘘をつくにしても、もう少し勉強してからにした方がいいですよ。本気で氷の上に人生を懸けている人間に対して、あまりにも失礼だ」

「あ……っ」

 

図星を突かれた沙耶香の顔から、一瞬にして血の気が引く。

時計を見る。まもなくニューヨーク市場が開く時間だ。まもなく、ベア・スターンズ証券の経営危機のニュースが世界を駆け巡る。こんな薄っぺらな大人たちの相手をしている暇は、一秒たりともない。

 

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