明浦路司をメダリストに   作:asim

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24 変わった世界

明浦路司という男は、もはや競技という言葉の定義すら完全に破壊するような、一方的な蹂躙の記録を打ち立てた。

 

ショートプログラム、フリースケーティングを通じて、彼はただの一度として転倒をせず、ジャンプの抜けすら起こさない。ノービス時代から4回転という極限のリスクを抱えた構成を滑り続けているにもかかわらず、彼の公式大会における全戦完全ノーミスの記録は、途切れるどころかさらに異常な密度で更新され続けていた。

 

いつしか、世界のフィギュアスケート界隈で彼を神童や天才と呼ぶ者は一人もいなくなっていた。

神童という言葉には、まだどこか人間の温かみや、未来への希望が含まれている。だが、感情を一切交えず、ただ冷酷に、完璧な軌道で高難度ジャンプを降り続け、同世代のスケーターたちの心をへし折り続けるその姿に、人々は畏怖を込めて別の名をつけるようになった。

 

『化け物』。

あるいは、ジュニアという小さな世界を氷の玉座から見下ろす『魔王』、と。

 

「……また、ノーミスかよ。頭おかしいんじゃねえのか、あいつ」

 

薄暗い自室。テレビの液晶画面が放つ青白い光に照らされながら、蛇崩遊大は忌々しげに舌打ちをした。

画面の中では、海外のジュニアグランプリシリーズの表彰台のど真ん中で、金メダルを首にかけた司が、相変わらずの涼やかな笑みを浮かべていた。

 

遊大の膝の上には、分厚いアイシングの氷嚢が乗せられている。

あの日、全日本ジュニアのリンクで崩れ落ちた遊大に下された最初の診断は『股関節唇損傷』。全治約3ヶ月という、アスリートにとっては重いが、決して絶望的ではないはずの数字だった。

だが、現実はそんなに甘くはなかった。

 

股関節を庇って無理なジャンプを跳び続けてきた代償は、彼の身体をドミノ倒しのように破壊していたのだ。

股関節の痛みが引いたと思えば、今度はバランスを崩していた右膝の靭帯が悲鳴を上げ、それを庇えば腰の筋肉が炎症を起こし、最終的には足首にまで激痛が走るようになった。連鎖的な故障のループ。

結果として、彼が氷の上でまともに滑れるようになるまでには、当初の3ヶ月を大きく上回る、約8ヶ月という地獄のような治療とリハビリの日々が必要だった。

 

「クソッ……待ってろよ、司。絶対にそこから引きずり降ろしてやる」

 

ゴムチューブを使った地味な筋力トレーニングを繰り返しながら、遊大は画面の中の魔王を睨みつける。

焦りがなかったと言えば嘘になる。自分がプールの歩行訓練や、ベッドの上での退屈な可動域訓練に耐えている間にも、司は遥か遠い世界で圧倒的な記録を打ち立て、誰も手の届かない場所へと飛んでいってしまう。

だが、その強烈な焦燥感こそが、折れそうになる遊大の心を繋ぎ止める唯一の炎でもあった。

あいつを倒すのは、俺だ。他の誰にも、あいつの首は取らせない。

 

そして2008年7月。

長く苦しいトンネルを抜け、遊大はついに完治の診断を受け、本格的な氷上練習への復帰を果たした。

 

もちろん、8ヶ月ものブランクは甘いものではなかった。

復帰直後は氷の感覚すらひどく遠く感じられ、1回転ジャンプからの地道なやり直しを強いられた。だが、ベッドの上で過ごした空白の時間は、彼から筋力を奪ったかもしれないが、代わりに己の身体をミリ単位で見つめ直す圧倒的な体の使い方の技術を与えていた。

焦る気持ちを必死に抑え込み、基礎から徹底的に身体を叩き直すこと、約1ヶ月。

 

「——っし!」

 

リンクの冷たい空気を切り裂き、高く舞い上がった遊大の身体が、鋭く氷を捉える。

トリプルアクセル。1ヶ月間の氷上調整の末にようやく取り戻したその勝負ジャンプは、怪我をする前よりも無駄な力みが抜け、より高く、確かな軸を持った大人びたジャンプへと進化していた。

 

「いいぞ、遊! その感覚だ!」

 

リンクサイドで時計を握るコーチも、興奮したように声を張り上げる。

遊大の目標はすでに定まっていた。ジュニアの舞台にはもう未練はない。見据えるのは、特例でのシニアデビューだ。昨シーズンを丸ごと棒に振ったため、本来であればシニアのグランプリ(GP)シリーズに自力でエントリーするポイント(世界ランキング)は足りない。だが、これまでの実績と、怪我からの劇的な復活というストーリー、そして何より現在の圧倒的なパフォーマンスの復調を武器に、日本スケート連盟を通じてISU(国際スケート連盟)に特別推薦枠での出場を打診していたのだ。

 

手応えは十分にあった。関係者からの感触も悪くない。

シニアの舞台に上がり、実績を積めば、共に上がってくるであろう司を、今度こそ万全の状態で真正面から叩き潰せる。

遊大の未来は、再び明るい光に満ちているように見えた。

 

——だが。

彼が知らない間に、リンクの外の、彼の手が全く届かない大人の世界で、巨大な暗雲が恐ろしいスピードで膨れ上がっていた。

 

-*-*-*-

 

2008年9月15日。

「へえ……アメリカのデカい銀行が潰れたんか。大変やなあ」

 

練習終わりのロッカールーム。着替えながらテレビでニュースを眺めていた遊大は、トップニュースに躍り出た『リーマン・ブラザーズ経営破綻』の見出しを見て、ひどく楽観的な感想を漏らした。

 

何百億、何千億という金が吹き飛んだらしい。株価が歴史的な大暴落をしているらしい。

だが、スケート靴と氷のことしか頭にない10代の青年からすれば、それは完全に「海の向こうで起きた、自分には関係のない対岸の火事」でしかなかった。

銀行が潰れようが、株価が下がろうが、日本のリンクの氷が溶けるわけではない。明日の練習時間が減るわけでもない。遊大の意識は、ニュースの文字から数秒で離れ、明日のフリープログラムの曲かけ練習でのジャンプ構成へと切り替わっていた。

 

事実、その後の数ヶ月間、遊大のスケート人生は順風満帆そのものだった。

10月、11月と滑り込むにつれて、ブランクの影響は完全に払拭され、ジャンプの精度は怪我をする前よりも遥かに高まっていた。コーチと共に進めていた来季のシニアGPシリーズへの特別推薦枠の交渉も、日本スケート連盟を通じてISU(国際スケート連盟)に順調に話が通っていると聞かされていた。

 

待ってろよ、司。来季は俺もシニアだ。

 

世界が未曾有の混乱の渦に包まれ、金融システムが崩壊の危機に瀕しているというのに。遊大はただ、己の実力が戻ってきたことの喜びに浸り、シニアデビューへの切符が届くのを無邪気に信じて疑わなかった。

 

海の向こうでは、相変わらず魔王明浦路司が、ジュニアの大会を全戦完全ノーミスという異常な記録で蹂躙し続けている。だが、今の遊大に焦りはなかった。自分はもう、あいつと同じ盤面に立つ準備ができているのだから。

 

しかし――。

年が明け、2009年1月。

 

季節外れの冷たい雨が降る日。いつものようにリンクへ向かった遊大を待っていたのは、ひどく青ざめた顔で携帯電話を握りしめているコーチの姿だった。

 

「……先生? どうしたんだよ、そんな顔して」

「遊大……」

 

コーチは遊大の顔を見ると、ひどく苦しそうに唇を噛み、絞り出すように言った。

 

「……連盟から、連絡があった。来季のGPシリーズへの、お前の推薦枠の話だ」

「えっ、マジで!? やっと正式に決まったんか!」

「……いや。白紙になっちまった」

「…………は?」

 

遊大の笑顔が、顔に張り付いたまま硬直する。

 

「白紙って……どういうことや。秋頃には『ほぼ確実だ』って言ってたやんか! 俺のジャンプの映像も見せたんやろ!? 完全に治ってるって――」

「違うんや、遊! お前の実力や怪我の問題じゃない! ……ISUに、お前を呼ぶための『金』がなくなったんや」

 

コーチの悲痛な声が、誰もいないリンクに空しく響いた。

 

リーマン・ショックから数ヶ月。金融界の崩壊は、ついに実体経済へと牙を剥いていた。

企業からの莫大なスポンサー収入と放映権料によって成り立っているフィギュアスケートの国際大会にとって、それは文字通りの致命傷だった。年が明け、大会を支えていた巨大スポンサーたちが、自社の生き残りを懸けて次々と広告費を凍結、あるいは撤退し始めたのだ。

 

ISUの尻には、完全に火がついていた。

大会の運営予算はかつてない規模で急激に削られ、興行としての絶対的な確実性と利益が求められるようになった。そんな極限の緊縮状態の中で、約1年間も表舞台から消えていた故障明けの若手に、貴重な推薦枠と遠征費を割く余裕など、今のISUにはどこにも残されていなかった。

確実な客を呼べる、確実なスター選手だけを呼ぶ。それ以外の若手への投資や特例はすべてカットする。経済のパニックが遅れてやってきた結果、遊大のシニアへの道は、完全に絶たれてしまったのだ。

 

「そんな……なんや、それ……」

 

遊大は、手から滑り落ちそうになるスケート靴のブレードを無意識に強く握りしめた。

鋭い金属が掌に食い込む痛みが、これが現実なのだと告げている。

 

「俺は……完璧に治したんや。地獄みたいなリハビリに耐えて……やっと、やっと司のところに手が届くって……!」

「すまん、遊……。大人の事情なんや。今は、世界中がパニックで……お前たちの未来にまで責任を持てないんや」

 

コーチの震える声を聞きながら、遊大は目の前の白く輝くリンクを見つめた。

氷は、昨日と同じように滑らかで美しい。自分の身体も、今までで一番軽く、力に満ち溢れている。

だというのに、自分の力ではどうすることもできない、スケート靴の刃が一切届かない遥か遠くの経済という理不尽な魔物によって、己のシニアデビューという夢が、いとも簡単に握り潰されたのだ。

 

「……ふざけんなや」

 

遊大の口から、血を吐くような嗚咽が漏れる。

 

海の向こうでは、あいつが――明浦路司が、誰の手も届かない圧倒的な魔王として、ジュニアの世界を悠然と支配し続けているというのに。

自分は、リンクに立つ権利すら、目に見えない大人の都合によって奪い取られたのだ。

 

2009年、冬。

時差を伴って襲いかかった世界経済の崩壊は、フィギュアスケートの盤面を大きく狂わせ、復帰に燃える一人の天才少年の運命を残酷なまでに狂わせていった。

 

 

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