明浦路司をメダリストに   作:asim

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25 支配構造

ねじ曲がった運命はまた、奇跡によって捻じ曲がるもの。

 

スイス・ローザンヌ。レマン湖のほとりに建つ重厚な石造りの建物、国際スケート連盟(ISU)本部。

その最上階にある豪奢な役員会議室は今、かつてないほどの重苦しい沈黙と、底知れない恐怖に包まれていた。

 

長テーブルの奥、ISUの絶対的な権力者である会長は、目の前の革張りのソファに深く腰を掛ける極東の若き実業家に対し、冷や汗が背中を伝うのを必死に堪えていた。

 

『明浦路』。

我々スケート界の人間にとって、今やその苗字を知らぬ者は一人としていない。

今年度のジュニア大会すべてに出場し、そのすべてで優勝。それどころか、ショートプログラムからフリースケーティングに至るまで、ただの一度としてミスを犯さないという異常な記録を打ち立て続けている日本の怪物少年。もはや同年代に並ぶ者はおらず、世代を超えたシニアの現役トップ選手たちですら、彼に及ぶ者は数えるほどしかいないとはっきり言える、あの絶対的な魔王――明浦路司。

目の前に座る男、明浦路仁は、その怪物の実の叔父であり、そして彗星のごとく現れた正体不明の莫大な資産家だった。

 

「……明浦路氏」

 

会長は、震えそうになる声を葉巻の煙と共に無理やり飲み込み、威厳を装って口を開いた。

 

「わざわざ極東からお越しいただいたことには感謝する。だが、失礼ながら君の会社が一体何を作っているのか、我々は知らない。フィギュアスケートは、19世紀から続く伝統と格式あるスポーツだ。得体の知れないベンチャー企業の資金を入れて、我々が築き上げてきたブランドを汚すわけにはいかないのだよ」

 

それは、伝統という名の鎧を着込んだ、ISUとしての最後の虚勢だった。

リーマン・ショック。100年に一度と言われる未曾有の世界金融危機は、実体経済を容赦なく破壊し、ISUの屋台骨すらも完全にへし折ろうとしていた。つい先日、将来有望な若手選手に対するシニアGPシリーズの特別推薦枠をすべて白紙撤回するという苦渋の決断を下したばかりだ。背に腹は代えられない。大会を運営するための金が、文字通り底を尽きかけているのだ。

それでも、得体の知れない個人投資家に、この神聖な氷の上のビジネスを牛耳られるわけにはいかない。

 

だが。

会長のその言葉を聞いた仁は、ひどく退屈そうにため息をつくと、懐からブラックベリーを取り出した。パキパキ、と物理キーボード特有の硬い操作音を響かせてキーを小さく弾き、最新のドル・フラン相場を画面で確認する。

そして、それをカツンと大理石の机の上に置いた。

 

「ブランド、ですか」

 

仁の口元から、氷の刃のように冷酷な笑みがこぼれる。

 

「……今月の監査報告書を、本当に隅までお読みになりましたか? 会長」

「な、何を……」

「あなたの言う伝統あるブランドを支えていたメインスポンサーの日本の家電メーカーは、昨日付で広告予算の50パーセントカットを決定しました。北米の金融系スポンサーに至っては、すでに倒産手続きに入っている。このままいけば、来年度のGPファイナルのリンクの看板は、その半分が真っ白なベニヤ板になりますよ」

「っ……!」

「伝統や格式で、腹は膨らみませんよ、会長。選手たちの強化費も出せない、大会の箱すら維持できない。そんなものがブランドと呼べますか?」

 

痛いところを正確に抉り出され、会議室に同席していた役員たちが一斉に青ざめる。

彼らの絶望をせせら笑うかのように、仁はスーツの内ポケットから分厚い契約書の束を取り出し、机の上を滑らせた。

 

「他社が逃げ出した枠、そしてこれから数年でISUが失う予定のスポンサー料。そのすべてを、私が買い取ります。契約期間は10年。支払いはすべて前払いで、通貨は暴落リスクのないスイスフラン指定で構いません」

 

提示された金額のゼロの数を見た瞬間、会長の心臓が早鐘のように鳴り始めた。

狂っている。スポーツのスポンサー契約などという次元の額ではない。国家のインフラ整備にでも使われるような、天文学的な数字だ。これだけの現金があれば、迫り来る冬季五輪はおろか、その先の大会まで、ISUの運営基盤は盤石なものになる。

 

「こ、これほどの資金を……我々に提供すると……?」

「ええ。……その代わり、条件は一つです」

 

仁は机の上に身を乗り出し、獲物の喉元に牙を突き立てるように言った。

 

「ISUの技術委員会に、私の会社の人間をアドバイザーとして受け入れてもらう」

 

「なっ……! ぎ、技術委員会だと!?」

 

役員の一人が立ち上がり、怒号を上げた。

 

「スポンサーが採点やルール作りの根幹に介入するなど、前代未聞だ! そんな要求が通るわけがないだろう!」

 

激昂する大人たちを前にしても、仁の表情は微塵も揺るがない。

むしろ彼の心の中では、この滑稽な状況に対する冷たい歓喜が渦巻いていた。

 

……笑いが止まらないな。

 

未来を知る転生者である仁にとって、今のISUは『底値で放置された極上の優良資産』に他ならなかった。

本来であれば、数千億円規模の価値を持つ世界的なスポーツ権益。それが今、リーマン・ショックという一時的なパニックによって、たった『10分の1』の価格で買い叩ける状態に陥っているのだ。

しかも、ただの投資ではない。ISUの技術委員会に食い込み、ルールメイキングの根幹に影響力を持てばどうなるか。ジャッジの傾向、司が出場する大会のスケジュール調整、さらにはライバル選手たちの動向や怪我の情報まで、すべてを情報の中心で完全にコントロールできるようになる。

 

かつて、全日本選手権で司が味わった大人の事情によるPCS(演技構成点)の抑え込み。あのような理不尽なシステムによる暴力は、二度と起こさせない。

自分は、ただ可愛い甥っ子に最高のステージを用意するためだけに、この腐りかけた組織を根こそぎ買い上げるのだ。

 

「介入、ではありません。あくまで進化の提案ですよ」

 

仁は静かに立ち上がり、会議室の窓から見えるヨーロッパの美しい街並みを見下ろした。

 

「私の会社は未来を作っています。今後数年で、フィギュアスケートの採点は人間の目視だけでは限界を迎える。私は、より正確なジャンプの回転不足やエッジエラーを判定するデジタル採点システムの導入を支援します。さらに、選手の負担を減らすリンクの冷却効率の改善、そして何より……テレビの放送権料が下落していくこれからの時代に備えた、全世界に向けた独自の配信プラットフォームの構築を無償で提供しましょう」

「配信プラットフォーム……だと……?」

「ISUを、古臭い貴族の社交場から、莫大な利益を生み出す最先端のエンターテインメント・ビジネスへと変えて差し上げましょう、と言っているんです」

 

仁の言葉は、未知の概念に怯える老人たちの脳を直接揺さぶった。

スマートフォンという概念すらまだ普及しきっていないこの時代に、仁が提示した未来の青写真はあまりにも鮮烈で、そして恐ろしいほどの説得力を持っていた。

 

「……冬季五輪を前に、選手たちの強化費を削るおつもりですか? 放送権料も目に見えて下がっている。今、ここで私の手を払えば、ISUは早晩、完全に解体の危機に瀕することになる。……どうしますか、会長?」

 

静かな、しかし絶対的な死刑宣告。

会議室は、水を打ったような静寂に包まれた。役員たちは誰一人として反論できず、ただ助けを求めるように会長へと視線を向ける。

伝統か、それとも破滅か。

いや、選択肢など最初から存在しなかったのだ。この若き日本人は、ISUが絶対に断れないタイミングで、絶対に断れない金額の札束で、彼らの心臓を完璧に握り潰したのである。

 

長い、長い沈黙の後。

会長は、小刻みに震える手で眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭った。その額には、びっしりと冷たい脂汗が浮いていた。

 

「…………その、技術委員会への参加の条件について。……より詳しく、聞かせてもらおうか」

 

会長はそう絞り出した後、震える唇を噛み締め、ヨーロッパ貴族特有の往生際の悪いプライドを守るように付け加えた。

 

「……だが勘違いしないでいただきたい。これはあくまで、スケート界の近代化のための、一時的な協力であると議事録には残させてもらう」

 

深くソファに座り直した会長のその言葉は、国際スケート連盟という巨大な組織が、たった一人の投資家の前に完全に屈服し、身売りを受け入れた瞬間だった。

 

「賢明なご判断に感謝します。詳細は、後日うちの法務チームからお送りしましょう」

 

仁は満足げに微笑むと、机の上のブラックベリーを拾い上げ、踵を返した。

 

 




ちゃぶ台返し。

この時代、調べれば調べるほど、明浦路司が活躍できる土台がない。
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