明浦路司をメダリストに 作:asim
2009年、夏。
都内のホテルに設けられた広々とした会議室には、異様なほどの熱気と、肌を刺すような静かな緊張感が満ちていた。
日本スケート連盟が主催するグランプリ(GP)シリーズ派遣選手説明会。
世界を転戦するこの華やかな国際大会の説明会が、例年になく殺気立っているのには明確な理由があった。
2009-2010シーズン。それは、すべてのフィギュアスケーターにとって、己の人生のすべてを懸けるべき特別な1年である。翌2010年2月に開催される『オリンピック』。そのわずかな日本代表の座を巡る血みどろのサバイバルレースが、このGPシリーズの初戦から本格的に幕を開けるからだ。
会議室の最後列。配られた分厚い資料の束に、一人静かに目を通している少年がいた。
明浦路司。
昨シーズン、ジュニアの国際大会を『完全ノーミス』という異常な記録で蹂躙し尽くし、満を持して今季からシニアの舞台へと殴り込みをかける、15歳の『魔王』。
「……隣、いいか?」
不意に頭上から声をかけられ、司が視線を上げると、そこには長身の青年が立っていた。
蛇崩遊大。
怪我による1年近い長期離脱から見事な復活を遂げ、今季のシニアGPシリーズへの切符を手にした司の最大のライバルである。
「…ああ!久しぶりだね、遊大くん。足の具合はどう?」
「完璧。お前をいつでも引きずり降ろせるくらいにはな」
遊大は司の隣のパイプ椅子に腰を下ろすと、少しだけ言い淀むように視線を下げ、自らの膝の上で両手を強く組んだ。
「……なあ、司」
「ん?」
「俺が今、この席に座れてるのは……お前の叔父さんのおかげだ」
絞り出すような遊大の声には、普段の好戦的な響きは一切なく、深い実感と重みがあった。
年明けの1月、リーマン・ショックの煽りを受けたISUから、遊大のシニア特別推薦枠は一度白紙にされた。スポンサーが軒並み撤退し、実績のない故障明けの選手を呼ぶ資金などないと言い渡されたのだ。絶望の淵に突き落とされ、オリンピックへの夢も完全に断たれたはずだった。
しかし春になり、事態は急転直下する。
『突如として現れた日本の巨大なスポンサー企業が、ISUの財政危機を丸ごと救済した』というニュースが業界を駆け巡った直後、ISUは手のひらを返すように遊大の推薦枠を復活させたのだ。
その救世主となった企業のトップが、目の前に座る少年の叔父・明浦路仁であることは、遊大の耳にも届いていた。
「ISUの連中、春になった途端に媚びへつらうような電話をかけてきよったよ。……全部、お前の叔父さんがISUの首根っこを金で掴んでくれたからだろ」
「さあね。叔父さんのビジネスの話は、俺にはよく分からない」
司は資料から目を離さず、いつものように淡々と返した。
「でも、遊大がいないシニアの舞台にならなくてよかったと思っているよ」
「……本当に、感謝してる。お前の叔父さんがいなけりゃ、俺のスケート人生はあそこで完全に終わってたかもしれない。命を救われたって、伝えといてくれ」
遊大はそう言うと、司に向かって深く、真っ直ぐに頭を下げた。
プライドの高い彼が、最大のライバルに対して見せた心からの誠意。司はわずかに目を丸くした後、ふっと口元を綻ばせた。
「……分かった。伝えておく」
その返事を聞いた瞬間、遊大は頭を上げ、今度はいつものような猛禽類のように鋭い、ギラギラとした闘志の炎を瞳に宿して司を睨みつけた。
「でもな、司。それとこれとは話が別や」
「うん?」
「恩は一生忘れない。お前の叔父さんには頭も上がらない。……だが、リンクの上に上がれば、大人の事情もスポンサーの力も一切関係ねえ。五輪の切符を賭けて、お前をぶっ倒して一番高い表彰台に登るのは、俺や」
その清々しいほどの宣戦布告に、司の胸の奥で、冷たい狂気が心地よく跳ねる。
これだ。大人の都合でねじ曲げられた点数なんかじゃない。この熱量を持った才能と真っ向からぶつかり合い、すべてを技術(TES)でねじ伏せてこそ、自分が生きている意味がある。
「ああ。……受けて立つ、遊大」
司の瞳が、氷の刃のように冷酷に、そして歓喜に細められた、その時だった。
「相変わらず君たちは血の気が多くて熱いですね。オリンピックシーズンとはいえ、私も少し見習わないと」
ふんわりとした、少し間の抜けたような朗らかな声が二人の間に割って入った。
司と遊大が顔を上げると、そこには穏やかな笑みを浮かべた青年が立っていた。
「あ、お久しぶりです。鴗鳥先輩」
「久しぶりです、鴗鳥さん」
鴗鳥慎一郎、24歳。
日本男子フィギュアスケート界において、確かな実力を持ちながらも、どこか飄々とした雰囲気を漂わせるベテランスケーターである。
「二人とも、GPシリーズへようこそ」
困ったように笑いながらも、鴗鳥の瞳の奥には、長年シニアの厳しい世界を生き抜いてきた者だけが持つ、太くて強靭な芯の強さが宿っていた。
鴗鳥慎一郎というスケーターを語る上で、決して外すことのできない残酷な背景がある。
それは、彼が『夜鷹純』と同世代の選手である、ということだ。
日本フィギュアスケート界の歴史において、最高傑作にして絶対的な伝説。
夜鷹純という規格外のバケモノと同じ時代、同じリンクで滑ることを強いられた同世代のスケーターたちは、そのあまりにも残酷な才能の差を見せつけられ、次々と心を折られて引退していった。
努力が報われないことへの絶望。どれだけ完璧に滑っても夜鷹純の引き立て役にしかならないという虚無感。
その焼け野原のような世代にあって、鴗鳥慎一郎はただ一人、自らのスケートを磨き続け、しぶとく、そして美しく氷の上に立ち続けてきた数少ない生き残りなのだ。
バケモノに蹂躙されても決して折れなかった心を持つ、本物のベテラン。
「鴗鳥先輩も、今年は勝負の年ですね」
遊大が真剣な顔で言うと、鴗鳥は少しだけ照れくさそうに首の後ろを掻いた。
「そうですね。君たちみたいな恐ろしい後輩が下から突き上げてくるんだから、日本代表の3枠に入るのは、純くんと戦うのと同じくらい骨が折れそうです」
冗談めかして言いながらも、鴗鳥は手元の資料――世界中の強豪たちの名が連なるGPシリーズのアサイン表を、指で静かになぞった。
圧倒的な才能で世界を塗り替えようとする15歳の絶対王者、明浦路司。
地獄から這い上がり、すべてを懸けて王者の首を狙う猛禽、蛇崩遊大。
そして、絶望の時代を生き抜き、静かなる闘志を燃やすベテラン、鴗鳥慎一郎。
それぞれが全く異なる背景と覚悟を抱えたまま、会議室の前方で連盟幹部の挨拶が始まる。
五輪への切符を懸けた、フィギュアスケート界で最も過酷で美しい戦いのシーズンが、今、静かに火蓋を切ろうとしていた。
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フィギュアスケートにおいて、オリンピックシーズンは他のどの年とも全く異なる、濃密で異質な空気を孕んでいる。
4年に一度訪れる、アスリートにとっての究極の舞台。来たる五輪において、日本男子に与えられた出場枠は3枠だった。
この国を背負うたった3枚のプラチナチケットを手にするための選考基準は、おおむね以下の3つの枠組みで決定される。
1枠目は全日本選手権の優勝者。
議論の余地なし。国内最高の舞台で頂点に立った者へ無条件で与えられる、絶対的な内定の席である。
2枠目は実績と安定感の採用、ベテラン枠。
全日本の順位に加え、これまでの世界ランキングや今季の国際大会での成績を総合的に評価される枠。オリンピックという魔物が棲む大舞台でも、決してプレッシャーに押し潰されず、確実に結果(メダルや入賞)を持ち帰れると連盟が信頼を置く、実績あるベテラン選手が選ばれる。
3枠目はポテンシャルと将来性の採用。
全日本での活躍や、今季急激にスコアを伸ばしている現在の勢いを評価される枠。今後の日本フィギュア界を背負って立つにふさわしいスケーターを、連盟の期待も込めて選出する、いわば最後の1枠である。
一見すると、この3枠目の切符は、今季シニアデビューを果たす明浦路司や蛇崩遊大のような、若く圧倒的な勢いを持つ天才たちのために用意されているように思えるかもしれない。
だが、シニアの世界は、そして国を背負うオリンピックの選考は、そこまで甘くはできていない。
フィギュアスケートの選考におけるポテンシャルや勢いという言葉には、必ず『シニアとしての最低限の実績』という見えない担保が要求される。
どれだけジュニアの世界で無双し、魔王と呼ばれようが、大人たち(連盟の幹部や審査員)から見れば、シニア1年目のルーキーは大舞台のプレッシャーに耐えきれず、本番で自滅するかもしれない計算のできない爆弾に過ぎないのだ。
ゆえに、この3枠目に選ばれるのは決してポッと出のシニア1年目ではなく、あくまでシニアの過酷な環境にある程度慣れ、その上で今季急激に成績を伸ばしている勢いのある選手に絞られるのが現実だった。
つまり、明浦路司と蛇崩遊大。
この圧倒的な才能を持つ二人の天才ルーキーが、最短ルートで五輪の氷に乗るための条件は、極めてシンプルかつ、残酷なものとなる。
2枠目(実績)も、3枠目(将来性)も、彼らには適用されない。2位でも、3位でも駄目だ。大人の主観や連盟の思惑、見えない格が入り込む余地すら一切与えない暴力的なまでの力で、日本の頂点を完膚なきまでにねじ伏せるしかない。
条件は、1枠目の強奪。
『全日本選手権での優勝』。ただそれだけ。
それ以外に、彼らが五輪の地へ辿り着く道は、一つとして残されていなかった。