明浦路司をメダリストに 作:asim
2009年、秋。五輪の代表選考を兼ねたGPシリーズが開幕すると、日本のフィギュアスケート界を取り巻く空気は、かつてないほどの熱狂と一種のパニック状態に陥っていた。
メディアのスポーツ欄や、今季から導入されたネット配信サービスのコメント欄を連日独占しているのは、代表候補と目されていたベテラン選手たちではない。今年シニアデビューを果たしたばかりの、たった15歳の二人の少年だった。
明浦路司。
昨季のジュニア世界を一瞬にして焼け野原に変えた魔王は、シニアの舞台に上がってもなお、その歩みを一切緩めなかった。
アメリカ大会、フランス大会。彼がエントリーしたGPシリーズのリンクでは、常に同じ光景が繰り返された。並み居る世界王者やシニアのトップスケーターたちが、大人の色気や熟練の表現力(PCS)で高得点を叩き出し、会場をスタンディングオベーションで包み込む。
だが、最終滑走で司が登場すると、そのすべての熱狂が氷点下の静寂へと強制的に上書きされるのだ。
冒頭の4回転サルコウ、そして4回転トウループからのコンビネーション。シニアのトップ層ですら成功率に波がある極限の大技を、司はまるでウォーミングアップのように無表情で、かつ完璧な精度で降りてみせる。
公式大会における全戦ノーミス。
本来、シニアの大会ではあり得ないはずのその異常な記録は、五輪シーズンという異様なプレッシャーの中にあっても一切途切れることはなかった。
「精密機械」「感情を持たない化け物」。世界中のメディアが彼をそう書き立てた。シニア1年目にして、彼は間違いなく世界で最も金メダルに近い男として、フィギュア界の頂点に君臨していた。
そして、その絶対王者の首を虎視眈々と狙うもう一人の怪物が、蛇崩遊大だった。
大怪我による約1年の空白を経て、特別推薦枠でGPシリーズに滑り込んだ狂犬。
彼の復活劇は、ある意味で司以上に観客の心を熱くさせた。怪我の後遺症を感じさせないどころか、休養期間を経て己の身体の使い方を極め、さらに高く、ダイナミックに進化したトリプルアクセル。感情を剥き出しにし、リンクの端から端までを全力で駆け抜ける情熱的なステップ。
司が氷の魔王ならば、遊大は炎の怪物だ。
彼はロシア大会や日本大会に出場し、シニアの強豪たちを気迫で薙ぎ倒して次々と表彰台に上った。司の背中を追う一番手として、その存在感と勢いは日を追うごとに恐ろしいほどに増していた。
もちろん、既存のシニア選手たちも黙って彼らに道を譲るわけではない。
ベテラン、鴗鳥慎一郎。彼はかつて夜鷹純という規格外の才能に蹂躙された世代の生き残りとして、長年培ってきたスケーティング技術と、誰よりも深いエッジワークを武器に、GPシリーズでも手堅く表彰台に絡む安定した成績を残していた。彼には、若者たちには出せない滑りの深みと、五輪を懸けたベテラン特有の重い執念があった。
また、魚淵翔も持ち前の豊かな表現力と、質の高い4回転ジャンプを武器に健闘を見せている。
彼らは決して弱いわけではない。むしろ、例年のレベルであれば十分に日本代表のトップを争えるだけの実力者たちだ。
だが――世間の目とメディアの扱いは、あまりにも残酷だった。
『天才ルーキー達の革命』
『異次元の天才たち、スケート界をジャックか』
テレビのゴールデンタイムも、雑誌の表紙も、取り上げるのは司と遊大の華と圧倒的な才能ばかり。鴗鳥や魚淵がどれだけ素晴らしい演技で自己ベストを更新しようとも、翌日のスポーツニュースではベテランの意地と数秒のダイジェストで片付けられ、特集はすべて化け物たちに割かれる。
世代交代という言葉では片付かない、理不尽なまでの才能の暴力。シニアの選手たちの間には、抗いようのない焦燥感と、濃密な絶望が蔓延し始めていた。
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そんな華やかなGPシリーズの喧騒から完全に切り離された場所で、一人、冷たい氷と向き合い続けているスケーターがいた。
白鳥珠那。
かつてジュニアの舞台で、司や遊大と共に神童と呼ばれながらも、彼らの異常な才能の前に真っ先に心を折られかけた青年である。
今季、シニアに上がった珠那の元に、華やかなGPシリーズへの招待状は届かなかった。
理由は明確だ。昨季の世界ランキングのポイント不足、そして何より、彼にはシニアのトップで戦うための絶対的な武器――4回転ジャンプがないからだ。
「……くそっ、また抜けた」
誰もいない深夜の地方リンク。4回転トウループの練習で激しく氷に叩きつけられた珠那は、荒い息を吐きながら冷たい天井を睨みつけた。
肩が痛い。腰が軋む。何度跳んでも、軸がブレて転倒するか、回転が抜けてしまう。
珠那の実力は、決して低いわけではない。彼のトリプルアクセルは美しく、3回転の連続ジャンプの質は世界でもトップクラスだ。表現力も高く、本来であれば、シニア1年目から十分に国際大会で戦えるだけのポテンシャルを持っている。
だが、彼にとって不運だったのは、ただ一つ。世代が悪かったのだ。
明浦路司と蛇崩遊大。
ジュニア時代から当たり前のように4回転を跳び、規格外のスコアを叩き出す彼らの存在は、日本の、いや世界のフィギュアスケートのスタンダードを、一気に数年分引き上げてしまった。
連盟の強化部も、審査員たちも、無意識のうちに彼ら二人を基準にして他の選手を評価してしまう。
「美しい3回転のコンビネーション? 素晴らしい。……でも、明浦路くんと蛇崩くんは4回転を跳ぶよね?」
その目に見えない評価基準のインフレが、4回転を持たない珠那から、シニアの国際舞台で活躍するための切符を容赦なく奪い取った。
すべては、あの二人の怪物のせいだ。周囲の大人たちは皆「白鳥くんは世代が悪かったね」と同情の声を向ける。
だが、当の珠那自身は、折れてなどいなかった。
「……世代が悪かった、か」
痛む体に鞭打って、珠那は再び氷の上に立ち上がる。
同情など反吐が出る。あいつらがバケモノなら、自分がそれに食らいつくための牙を磨けばいいだけだ。
GPシリーズに呼ばれなかったのなら、泥臭い道を歩くしかない。
珠那は、華やかな国際大会をテレビ越しに睨みつけながら、国内の地方大会(ブロック大会)、そして東日本選手権へとエントリーしていた。
テレビ中継もない、観客もまばらな地方のリンク。そこを一つずつ這い上がり、確実にポイントと実績を積み重ねる。すべては、年末に行われる最終決戦――全日本選手権への切符を手にするためだ。
待ってろよ、司、遊大……。お前らが上でどれだけ暴れようが、最後に五輪の切符を決めるのは全日本だ。
4回転の練習は続ける。だが、それだけに固執はしない。己の絶対的な武器である完璧な3回転と、誰よりも美しいスケーティングにさらに磨きをかける。
天才たちに踏み躙られ、絶望を味わった秀才は、暗闇の中で静かに逆襲の刃を研いでいた。
目指すは、全日本選手権での下剋上。
華やかな表舞台と、泥臭い裏道。それぞれの道を歩むスケーターたちの運命は、五輪代表を決める決戦の地に向けて、一本の線へと収束していこうとしていた。