明浦路司をメダリストに 作:asim
2009年12月末。
寒風が吹きすさぶ巨大アリーナは、その外の冷気とは裏腹に、一歩足を踏み入れれば肌が粟立つほどの異常な熱気と緊張感に包まれていた。
全日本フィギュアスケート選手権。
フィギュアスケーターにとって、この大会は単なる日本一を決める場ではない。4年に一度、己の人生と競技生活のすべてを懸けて掴み取るオリンピックへの最終選考会である。
会場の至る所に日の丸が掲げられ、観客席を埋め尽くす1万人以上のファンたちの間にも、推しの選手を祈るような、あるいは悲壮感すら漂う重苦しい空気が立ち込めていた。
そんな五輪選考特有の重さが充満するバックヤードの片隅で、二人の15歳が静かに向かい合っていた。
「……いよいよやな、司」
スポーツドリンクのボトルを握りしめ、蛇崩遊大は唸るような低い声を出した。
その全身からは、触れれば火傷しそうなほどの凄まじい気迫と闘志が立ち上っている。GPシリーズを戦い抜き、怪我の後遺症など微塵も感じさせない120%の仕上がり。遊大の目は、完全に獲物を狩る猛禽のそれだった。
「調子は良さそうだね、遊大くん」
ストレッチをしながら、明浦路司はいつもと変わらぬ、氷点下のように冷たく涼やかな声で返した。
「ああ、完璧や。俺のスケート人生で、今が間違いなく一番仕上がってる」
遊大は自らの胸をドンと叩く。
「GPシリーズで結果は残した。世界中の連中に俺のジャンプは見せつけた。……やけど、そんなもんは今日ここで勝てなきゃ全部ゴミ屑や。オリンピックに行くのは3人。やけど、俺と司にあるんは優勝による1枠」
実績枠も、将来性枠も、シニア1年目の彼らには計算できない。大人の事情やシニアの格をねじ伏せるには、絶対的な優勝しかないのだ。
「ああ。だから勝つ」
「だから勝つんは俺や」
遊大は司の目の前まで歩み寄り、その涼しげな瞳を真っ直ぐに睨みつけた。
「いいか、司。俺は今日、死ぬ気で滑る。全身全霊や。だからお前も……絶対にミスなんかすんなよ。言い訳のできない完璧な状態で、俺がてっぺんから引きずり降ろすんや」
「……」
司は一瞬だけ目を丸くし、そして、小さく、だが確かな歓喜を含んだ笑みをこぼした。
「ああ……全力で、叩き潰すよ」
大人の都合など一切介在しない。純粋な才能と技術、そして狂気の殺し合い。
二人の天才の間に散った火花が、全日本という決戦の舞台に最後の火を点けた。
-*-*-*-
全日本フィギュアスケート選手権。
国内最高の権威を持つこの大会は、毎年ゴールデンタイムに地上波で華々しく全国中継される。
だが、約30名にも及ぶ出場選手たちのすべてのショートプログラムとフリースケーティングが、お茶の間の画面に届けられるわけではない。
この時代のフィギュアスケート界は、残酷なまでに厳格なピラミッド構造によって支配されている。
テレビ局のカメラが本格的に回り始めるのは、全日本の常連やGPシリーズで活躍するスター選手、有力ジュニア推薦選手たちが集う第4グループや最終グループ以降のみ。それより前の時間帯、まだ客席もまばらな昼下がりのリンクでは、世間の光が一切当たらない死闘が繰り広げられている。
地方ブロック予選の激戦を血反吐を吐く思いで勝ち抜いた下位突破者。地方大会で確かな実績を積んできた上位勢。そして、未来を期待されて推薦枠をもぎ取ったジュニアの若手選手たち。
彼らは、テレビには決して映らない第1から第3グループに割り当てられ、己のスケート人生のすべてを懸けて冷たい氷の上を滑っていた。
そして、そのむき出しの残酷なピラミッドの底辺に――白鳥珠那はいた。
出番を待ちながら、珠那はリンクサイドで静かに目を閉じ、冷たい空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。
……4回転の成功率は、良くて3割だ。
練習でもまともに決まらない極限の大技。だが、今のシニアで跳ばないという選択肢はない。あいつら――明浦路司や蛇崩遊大という化け物たちと同じ盤面に立ち、彼らを引きずり降ろすためには、このリスクを背負って飛ぶしか道はないのだ。
今日、ここで勝てなければ……次のオリンピックは4年後。そんな途方もない時間、あいつらの背中を追いかけ続ける精神力も、資金も、身体も、もう俺には残っていない。
フィギュアスケートは残酷だ。一度開いた圧倒的な才能の差は、時間と努力をどれだけ費やそうとも、決して埋まらないことがある。
だから、今日。今日ここで勝てなければ、スケートを辞める。
退路はとっくに断った。
悲壮感はない。ただ、己のスケート人生のすべてをこの4分半に焼き付けるという、静かで熱い覚悟だけがあった。
名前がコールされ、珠那は静かに氷の中央へ滑り出す。
曲が鳴り響く。静寂を切り裂く旋律に乗せ、珠那は氷を深く蹴り、一気に加速していく。
冒頭、己のスケート人生のすべてを懸けた最初のエレメンツ。リンクの端を鋭いエッジで抉りながら、極限までスピードを乗せて踏み切り姿勢に入る。
狙うは、4回転トウループ。
明浦路司や蛇崩遊大といった天才たちが、まるで呼吸でもするかのように涼しい顔で跳んでみせる、新時代の絶対条件だ。
跳べ……! 回り切れ……ッ!
右足のトウを、親の仇のように冷たい氷へと深く突き立てた。
爆発的な力で上空へ跳ね上がる。全身の筋肉を限界まで収縮させ、腕をきつく胸に抱え込んで、空中で猛烈なスピンを作り出す。
一回転、二回転、三回転――。
滞空時間は十分だった。視界を高速で流れる景色が、これならいけるかもしれないという微かな希望を抱かせる。
だが、非情な遠心力が、その希望を空中であっさりと粉砕した。
四回転目に差し掛かるその刹那、空中で限界まで絞り込んでいたはずの軸が、ほんの数センチ、右にブレたのだ。
その瞬間、珠那自身が誰よりも早く失敗を悟った。遠心力に耐えきれず、ロックしていたはずの身体が解けるように開いてしまう。足りない。あと半回転が、どうしても届かない。
重力に逆らえなくなった身体が落下していく。着氷姿勢をとる間もなく、無防備な体勢のまま、珠那の身体は激しい鈍音を響かせて、容赦のない硬い氷へと乱暴に叩きつけられた。
「っ……!」
全身の骨が軋むほどの衝撃。
判定はダウングレード。
基礎点は3回転トウループと同じ4.0点まで下落し、転倒による大きな減点も食らう。最悪の滑り出しだ。続くトリプルアクセルも、4回転の転倒の衝撃で足が震える中、なんとか意地で死守したものの、着氷の姿勢が大きく乱れてしまった。
だが、珠那の瞳から闘志は消えていなかった。
ジャンプ(技術点)で天才たちに劣る選手が、彼らに少しでも肉薄するために取れる戦略は二つしかない。
一つは、スピンやステップで絶対にレベル4を死守し、基礎点と加点(GOE)を取りこぼさないこと。
もう一つは、スケーティングの美しさで演技構成点(PCS)を極限まで引き出し、ジャッジに「転倒はしたが、スケーターとしての質は上だ」と思わせることだ。
珠那は続くフライングシットスピンで、完璧なポジションを保ちレベル4を獲得。ジャンプのミスを質でカバーしにかかる。
プログラム後半。疲労がピークに達する中、3回転ルッツからのコンビネーションはエッジの注意判定を受け、2連続目が2回転になってしまった。
しかし、彼の本当の戦いはここからだった。
2009年当時の男子SPにおいて、最大の勝負所となる直線的なステップ、ストレートラインステップシークエンス。
4回転は司の半分も跳べていないかもしれない。だが、深く傾いたエッジが氷を滑らかに蹴る音、一歩の圧倒的な伸びと音楽との調和は、代々木体育館の静寂を完全に支配していた。
デジタル採点機がジャンプ項目に非情な数字を並べる中で、珠那は泥臭く、しかし誰よりも美しく加点(GOE)を積み上げていく。
終盤のシットスピンでは持ち前の柔軟性を活かした姿勢を見せ、最後のコンビネーションスピンに至るまで、一つ一つのポジションを丁寧に、執念で回り切った。スピン・ステップの全要素で、最高評価のレベル4をもぎ取ってみせたのだ。
演技終了。
肩で荒い息をする珠那に、客席から温かい拍手が降り注ぐ。
キス・アンド・クライで電光掲示板を見上げると、そこには珠那の持つスケーティングの質(PCS)が高く評価された、彼なりの意地のスコアが輝いていた。
だが、暫定順位は8位。
この時点で、全日本選手権優勝、オリンピック出場という夢は事実上、潰えた。
上位陣が文字通りノーミスで滑り切るこの場において、冒頭の転倒とコンビネーションの失敗は、取り返しのつかない致命傷だった。
「……」
じわじわと、視界が滲んでいく。
限界まで張り詰めていた緊張の糸が、プツリと音を立てて切断された。
膝に置いた両手にポタポタと雫が落ちる。ジャージの袖で乱暴に目元を拭うが、一度溢れ出した涙は止まらなかった。客席からの温かい拍手も、隣に座るコーチの慰めの言葉も、今の珠那にとってはただひたすらに残酷でしかない。
……終わった。俺のスケートは、ここで終わりだ。
明日にはまだ、フリースケーティングが控えている。
だが、珠那の心の中で燃えていた炎は、無情な現実の前に完全に鎮火してしまっていた。引退を懸けてすべてを振り絞ったからこそ、限界を悟り、心が完全に折れてしまったのだ。
氷の上に再び立つための気概も、あの理不尽な天才たちに抗おうとする闘志も、今の彼にはもう一滴も残っていない。
今までの人生のすべてを犠牲にして追い求めたオリンピックという夢は、代々木の冷たい氷の上で、静かに、そしてあっけなく幕を下ろしたのだった。