明浦路司をメダリストに 作:asim
全日本フィギュアスケート選手権の1日目は終わった。
結果は、大衆の期待を背負った明浦路司の独壇場であった。
ピラミッドの底辺で名もなきスケーターたちが血反吐を吐き、あるいは己のスケート人生を懸けて散っていった泥臭いドラマなど、華やかなメディアは一切報じない。彼らが大々的に映し出すのは、残酷なまでに実力主義の結果だけだ。
1位:明浦路司。
2位:鴗鳥慎一郎。
3位:魚淵翔。
4位:蛇崩遊大。
…
16位:白鳥珠那。
…
これが、日本のトップスケーターたちが死に物狂いで叩き出したショートプログラムの最終順位だった。
蛇崩遊大の仕上がりは、間違いなく120%の完璧な状態だった。
しかし、オリンピックの切符という極限のプレッシャーが棲む全日本のリンクは、16歳の若き狂犬のステップに、ほんのわずかな力みを生じさせた。
ジャンプの着氷での、極めて小さな乱れ。普段の大会であれば力技でねじ伏せられる程度の些細なミスだが、今回は相手が悪すぎた。
鴗鳥や魚淵といった経験豊富なベテランたちが、五輪への凄まじい執念を見せ、一切のミスなく完璧な演技を揃えてきたのだ。
わずかなミスの減点。
その結果、遊大はベテラン勢にスコアを抑え込まれ、4位という悔しいスタートを切ることになった。
だが、遊大の心は折れるどころか、かつてないほどの業火を燃やしていた。
代々木第一体育館、選手控え室。
フリースケーティングを数時間後に控えた張り詰めた空気の中、遊大は一人、静かにスケート靴の紐を締め上げていた。
「……」
キュッ、キュッ、と革が軋む音だけが響く。
昨日の結果は、確かに痛手だ。だが、トップとの点差は決して絶望的なものではない。
大怪我による長期離脱、地獄のようなリハビリ。そのすべてを乗り越えて、ついにここまで来たのだ。あと4分半、最高のジャンプをすべて降りるだけで、ベテランたちの格など粉砕してオリンピックに行ける。
そして何より――あの憎たらしい魔王の無敗記録に、引導を渡すことができるのだ。
「遊大くん」
不意に頭上から声をかけられ、顔を上げると、ジャージ姿の鴗鳥慎一郎が立っていた。
いつもは飄々としている24歳のベテランの顔から、今日ばかりは一切の笑みが消え去り、凄絶なまでの勝負師の目をしている。
「鴗鳥先輩」
「昨日のショート、少し硬かったですね」
声のトーンは優しく、純粋に後輩のミスを心配しているようにも聞こえた。
だが、五輪の重圧という極限状態にある遊大には、それが素直には伝わらない。鴗鳥のギラついた目は全くそうは言っていなかったし、敵情視察でもするかのように、鋭い視線で控え室の周囲を見回していた。
「…」
鴗鳥は一瞬「大丈夫ですか?」言いかけてやめた。同じプロとして失礼に当たるだろうと思ったからだ。
「…手加減はしませんし、できません。今日は僕が勝たせてもらいます」
それは、長年日本のフィギュアスケート界を支え続けてきた大人の、重くて冷たい宣戦布告だった。
夜鷹純という圧倒的な才能に踏み躙られながらも生き残り、今日まで氷の上に立ち続けてきたベテランのプライド。五輪への想いの強さは、決して16歳の若者たちに負けてはいない。
その宣戦布告を受け、遊大は立ち上がり、獰猛な笑みを浮かべた。
「もちろんです。でも、俺が勝ちます」
二人の間でバチバチと火花が散る。
だが、その緊張感を切り裂くように、控え室のドアが静かに開き、一人の少年が姿を現した。
明浦路司。
彼が部屋に入ってきた瞬間、控え室の空気が物理的に数度下がったような錯覚に陥った。
首位発進というプレッシャーの只中にありながら、司の表情には微塵の焦りも、気負いもない。まるで休日の公園を散歩しにきたかのような、恐ろしいほどの自然体。
その深淵のように静かで冷たい瞳が、遊大と鴗鳥を順番に捉える。
「いよいよだ!頑張りましょう!」
司はニカッと微笑むと、彼らの横を通り過ぎ、自分の定位置である壁際のベンチへと腰を下ろした。
それ以上の言葉は交わさない。
彼にとって他の選手たちの気迫や意地は、自分の技術を完璧に引き出すための極上のスパイスでしかないのだ。
やがて、無機質なアナウンスが控え室に響き渡った。
『男子シングル、最終滑走グループの選手の皆さんは、リンクサイドへ移動をお願いします。まもなく、6分間練習が開始されます』
その声と共に、上位の選手たちが一斉に立ち上がる。
オリンピックの切符という、たった一つの黄金の果実を奪い合うためのコロッセオへ。テレビ中継のカメラが待ち構える光の中へ、最も苛烈で、最も残酷な最終決戦の幕が切って落とされた。
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テレビ中継のカメラが放つ無数の赤いランプと、代々木第一体育館を埋め尽くす1万人以上の観客の視線。
最も苛烈で、最も残酷な最終決戦。その重苦しい空気を切り裂くように、一人の男がリンクの中央へと進み出た。
24歳、鴗鳥慎一郎。
この極限の舞台で、彼は静かに天を仰ぎ、開始のポーズをとる。
静寂を破り、重厚なストリングスの響きが会場を包み込んだ。
サン=サーンス作曲、『交響曲第3番「オルガン付き」』。
16歳の天才たちが放つ鋭く冷たい覇気とは対極にある、荘厳で光に満ちた、王者の凱旋を思わせる楽曲。高身長で手足の長い鴗鳥が滑り出した瞬間、リンクは一瞬にして彼の大人の色に染め上げられた。
冒頭、ゆったりとした助走から踏み切る。
4回転トゥループ―3回転トゥループ。
彼の代名詞とも言えるジャンプ。長身から繰り出される驚異的な高さ、そして空中で「ズバッ」と一直線に決まる美しい軸。着氷の瞬間、足首の極めて柔らかいクッションが衝撃を完全に吸収し、流麗なチェックポーズへと移行する。
「おおっ……!」という感嘆の声が客席から漏れた。力みを感じさせない、あまりにも優雅な4回転コンビネーション。
続く単独の4回転トゥループも、完璧な着氷を見せる。
かつて負った大怪我。そこから地獄のようなリハビリを経て戻ってきた彼にとって、この大舞台で二つの武器を完璧に揃えることこそが、復活と執念の証明だった。
長身をダイナミックに折りたたんで旋回する足換えコンビネーションスピンで観客を魅了し、続く3回転アクセル―2回転トゥループ―2回転ループの3連続ジャンプも、出来栄え点(GOE)の加点を確信させる抜群の安定感で降りてみせる。
やがて、曲調が大きく転換する。
パイプオルガンの重厚で勇壮な音色が会場を震わせ、演技は基礎点が1.1倍となる後半戦へ突入した。ここからが、執念の男の本領発揮である。
後半冒頭。疲労が忍び寄る時間帯に組み込まれた、単独の3回転アクセル。
高さ、飛距離ともに前半と全く遜色のない圧倒的なジャンプで、会場のボルテージを一段階引き上げる。
そして続く3回転ルッツ。
深く傾けたアウトサイドエッジから真っ直ぐに跳び上がる。その教科書のように美しく正確なルッツは、皆が憧れ、背中を追った本物の軌道だった。
曲は最高潮を迎える。最大のハイライトであるストレートラインステップシークエンス。
勇壮なオルガンの音色に合わせ、鴗鳥はリンクを縦断する。年を重ねて磨き抜かれたダンスの名手としての片鱗。上半身を大きく、ダイナミックに使いながら、指先まで神経の行き届いた所作で観客を煽る。
16歳の若者たちには決して出せない、大人の色気と矜持。その重厚なステップは、見ている者の心を熱く鷲掴みにした。
僕が、勝つ……!
体力が底をつきかける終盤。強靭なフィジカルで軸を一切ブレさせずに3回転サルコウを降りると、最後のジャンプとなる3回転フリップへ。
着氷後の流れるようなエッジワークと、一編の物語の結末を語るかのような気品あふれるポージングに、拍手はすでに地鳴りのように鳴り響いていた。
最後の力をすべて振り絞る、力強いフライング足換えコンビネーションスピン。
パイプオルガンの和音がジャン! と力強く鳴り響き、鴗鳥の動きがピタリと静止した。
「……ッ!!」
演技終了。
リンクの中央で、鴗鳥は天に向けて力強く両拳を突き上げた。
ベテランの意地、大怪我からの復活、そして五輪への執念。そのすべてを4分半の光の中に昇華させた、鴗鳥慎一郎の完璧なマスターピースだった。
キス・アンド・クライで電光掲示板を見上げる鴗鳥。
表示された総合スコアは、間違いなく現時点でのトップ。若きバケモノたちに対して、これ以上ないほど高く、分厚いシニアの壁を築き上げた瞬間だった。