明浦路司をメダリストに   作:asim

31 / 31
31 魔王の舞踏

空前絶後のスコアだ。

鴗鳥慎一郎が滑り切った時点で優勝は彼のものだと思われた中で、蛇崩遊大は完璧な滑りを見せた。

王者は切り替わる。

 

代々木第一体育館を物理的に揺るがすほどの異様な熱狂と、鳴り止まない絶叫。

バックヤードのモニターに映し出されたその1位という圧倒的な事実を前にして、明浦路司はただ静かに、深淵のように暗く冷たい瞳で画面を見つめていた。

 

「…司くん」

 

傍らに立つコーチが、探るような声で口を開いた。

百戦錬磨の指導者である彼でさえ、今のリンクを完全に支配している遊大の熱と、会場に充満する異常なまでの高揚感には、冷や汗を禁じ得なかった。

 

だからこそ、教え子が重圧に押し潰されていないかと心配して、その横顔をそっと覗き込み――コーチは、思わず息を呑んだ。

 

笑っていた。

 

この五輪選考という極限の舞台で。

たった今、ライバルが己の限界を超えた完璧な演技を叩き出し、観客全員が絶対王者の陥落を期待して盛り上がる完全なアウェーの空気の中で。

明浦路司は、三日月のような美しい弧を描いて、ひっそりと、しかし確かな歓喜の笑みを浮かべていたのだ。

 

「司くん……笑ってるのか」

 

信じられないものを見るようなコーチの呟きに、司はモニターからゆっくりと視線を外し、振り返った。

焦りも、強がりも微塵もない。そこにあるのは、極上の玩具を目の前にした子供のような、無邪気で、だからこそ恐ろしいほど純粋な笑み。

 

「あれ?そうですね。俺、笑ってます」

 

司は自分の頬にそっと触れ、不思議そうな、けれどひどく弾んだ声で言った。

 

「おかしいな。みんなが完璧な演技を見せて、普通ならプレッシャーで足がすくむ場面なのに……どうしようもなく、体が軽いんです」

 

カチャン、と。司がスケート靴のエッジカバーを外す音が、張り詰めたバックヤードに異様に鮮明に響いた。

 

「鴗鳥先輩の矜持も、遊大の執念も、本当に素晴らしかった。彼らは己の持てるすべてを懸けて、僕の前に立ちはだかってくれた。……なら、僕も持てる技術のすべてで応えないと、失礼ですよね」

 

コーチは絶句した。

司は、彼らが血反吐を吐いて作り上げたこの異様な熱狂を、プレッシャーでもアウェーの空気でもなく、自分への最高のパスだと受け取っているのだ。他者の人生を懸けた凄まじい熱量すらも、己の限界を引き出すための極上の餌でしかない。

 

やがて、無機質なアナウンスが会場に響き渡った。

 

『最終滑走、明浦路司選手』

 

「行ってきます。彼らが作り上げたこの熱を、一つ残らず凍てつかせてきますよ」

 

歓声が狂乱に変わるリンクへ向かって。

氷上の魔王は一切の気負いもせず、ただ散歩に出かけるかのような自然体で、歩みを進めた。

 

リンクに足を踏み入れた瞬間、司のまとう空気が一変した。

先ほどまで遊大が放っていた、会場を焼き尽くすような灼熱の余韻。それが、司が氷をひと滑りしただけで、一瞬にして絶対零度へと急激に冷やされていく。

異常なプレッシャーを放つ16歳の姿に、観客の歓声がざわめきに変わり、やがて水を打ったような静寂へと変わっていった。

 

リンクの中央で開始のポジションにつく。

張り詰めた冷気の中、響き渡ったのはサン=サーンス作曲『死の舞踏(Danse Macabre)』。

鋭く不気味なバイオリンの旋律が、これから始まる氷上の冷徹な支配を告げるように鳴り響いた。

 

司は無表情のまま氷を蹴り、一瞬にしてトップスピードに乗る。

冒頭、ほとんど助走を感じさせない踏み切りから、ふわりと無重力のように宙へ舞い上がった。

 

4回転サルコウ。

誰よりも高く、そして恐ろしいほどに静かな跳躍。氷に降り立った時の音すらも観客に悟らせず、着氷後の滑らかな流れは数メートルにも及んだ。これだけで出来栄え点(GOE)満点を確信させる、異次元の完璧な質だ。

 

熱狂に浮かされていた観客の背筋に、ゾクリと冷たいものが走る。

どよめく客席を置き去りにしたまま、司は冷酷なまでに次のエレメンツへと向かった。

続くジャンプ軌道への進入。踏み切り。

 

4回転トウループ―3回転トウループ―3回転ループ。

伝説の3連続ジャンプ。4回転の後に、3回転をさらに2つも繋げる。2009年当時の常識では物理的に不可能とさえ言われていた異常なスタミナと、決してブレない軸の安定感。それを、16歳の少年が涼しい顔で、寸分の狂いもなくコピーしてみせたのだ。

「おおっ……!?」という悲鳴にも似た驚愕が、会場全体から波のように湧き上がる。

 

そのまま流れるように、足換えコンビネーションスピンへ。

軸が一切ブレず、まるで氷上に打ち付けられた独楽のような超高速回転が、観客の目を眩ませる。

 

さらに、狂気の構成は続く。

前向きに力強く踏み切り、3回転アクセルからのシークエンス。

最高難度の3回転半を、連続で2発。先ほど、遊大が己の足の痛みに耐えながら必死に稼いだ技術点(TES)を、司はこのたった一つの要素だけで、いとも簡単に、残酷なまでに突き放していく。

 

やがて曲調が激しさを増し、演技は後半戦へと突入する。

ここからが、司による処刑の時間だ。

 

基礎点が1.1倍となるボーナスゾーン。しかし当然、全選手の足に疲労が絡みつき、動きが止まり始める時間帯でもある。

だが、司のスピードは落ちない。リンクの端から助走をつけ、高く跳び上がる。

 

後半投入の単独の4回転トウループ。

この時間帯に、この日3本目となる4回転を放つ。それは、バックヤードで祈るようにモニターを見つめていたライバルたち全員に引導を渡す、文字通りの絶望の決定打だった。

 

そこから先は、ただひたすらに美しく、圧倒的な蹂躙だった。

深いエッジワークから、GOEの満点を強奪する完璧な3回転ルッツ―3回転トウループ。

 

続くサーキュラーステップでは、リンク全体を円形に使い、猛烈なスピードで氷上を支配する。死の舞踏の旋律に乗って冷笑するように舞うそのステップは、観客の思考すらも飲み込み、会場全体を彼だけの世界へと引きずり込んでいく。

 

複雑なターンを踏んだ直後、ミスを誘発するような難しい入り方から、事も無げに3回転フリップを降りる。

そして、体力が文字通り一滴も残っていないはずの最終盤。プログラム最後のジャンプとして跳んだ3回転ループは、今日一番の美しい弧を描き、ふわりと氷に舞い降りた。

 

フィニッシュ。

音楽の狂気的な幕引きに合わせ、フライングシットスピンで凄まじい加速を見せる。激しいバイオリンの最終音と1ミリの狂いもなく完全に一致し、その動きがピタリと止まった。

 

「…………」

 

演技終了。

リンクの中央で、息を乱すことすらほとんどない司。

数秒の静寂。観客はあまりの衝撃と圧倒的な力の差に、拍手すら忘れていた。やがて、我に返った一人、また一人と立ち上がり……代々木第一体育館は、言葉にならない地鳴りのような歓声に飲み込まれた。

 

誰の目にも明らかだった。

技術、表現、体力、すべてにおいて次元が違う。

彼らが期待した世代交代や狂犬の下剋上といった泥臭い熱狂など、この氷上の魔王にとっては、己の美しく残酷な舞踏を完成させるための、ほんの些細な舞台装置に過ぎなかったのだ。

 

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