明浦路司をメダリストに 作:asim
2009年の全日本選手権から数ヶ月後。
2010年のオリンピックは、世界中のフィギュアスケートファンにとって、ある種の絶望を深く刻み込む大会となった。
世界各国の歴戦の猛者たちが、それぞれの持てるすべてを懸けて頂点を競い合うはずだった夢の舞台。それは、突如として現れた日本の16歳の少年によって、あまりにも残酷に、そして美しく蹂躙された。
明浦路司。
彼が氷上に降り立った瞬間から、世界は彼が支配する冷徹な舞踏の単なる観客へと成り下がった。他を全く寄せ付けない異次元の技術と、息を呑むほどの絶対的な静寂。叩き出された空前絶後の世界最高得点は、これから彼が長く君臨し続ける『氷上の魔王の時代』の、ほんの幕開けに過ぎなかった。
誰も届かない深淵の玉座。オリンピックは、明浦路司という絶対王者の圧勝で幕を閉じた。
——それから約4年後。2014年、冬。
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右足を覆う黒い医療用サポーターは、思っていたよりもずっと重くて、息苦しい。
リビングのソファに座りながら、小学6年生の結束実叶は、鈍く痛む自分の右足首を見下ろしていた。
ノービスAの大切な時期。そんな時に負ってしまった大骨折から、もう半年近くが経つ。ギプスこそ外れたものの、失われた氷の感覚と、ジャンプを跳ぶ恐怖心は一向に消えなかった。
最初の頃は「早く治して氷に乗らなきゃ」と焦っていたけれど、最近はそれすらも薄れつつあった。
スケート靴を履かない日々。
冷たいリンクの空気も、氷を削るエッジの音も、少しずつ遠ざかっていく。それが自分の新しい日常へと変わっていってしまうような、得体の知れない不安感が実叶の胸を浸食していた。
「あーもう、いのり! そっち行かないの! 今火を使ってるから!」
キッチンから、母親の慌ただしい声が響く。
まだ4歳の妹、いのりが台所へちょこちょこと歩いていくのを、母は夕飯の支度をしながら片手で抱き上げた。エプロン姿の母の顔には、隠しきれない疲労が滲んでいる。
……お母さん、毎日すごく忙しそう。
実叶は、ソファの上できゅっと膝を引き寄せた。
毎日働いて、家事をして、いのりの面倒を見て。その上、私がスケートを続けるとなれば、遠征費や靴代、高いクラブの月謝までかかってしまう。
ただでさえリハビリにお金がかかるのに。もし完全に治ったとしても、休んでいる間に周りの子たちにはすっかり置いていかれている。ジャンプの感覚だって戻らないかもしれない。私がこのままスケートにしがみつくことは、お母さんを苦しめるだけなんじゃないか。
悪い状況は、思考をどんどん暗い方向へと引きずり込んでいく。
こんな怪我をしたのは、もう辞めなさいという神様からの合図なのかもしれない。私が「スケートを辞める」と言えば、お母さんはきっとホッとするはずだ。
実叶が、重い決断を言葉にして吐き出そうと、母親の背中を見つめたその時だった。
『――さあ、最後のジャンプ。トリプルアクセル……降りました! 完璧な着氷です!!』
つけっぱなしになっていたテレビから、アナウンサーの興奮した声が飛び込んできた。
ロシアのソチで開催されている冬のオリンピック。男子フィギュアスケートの中継だ。
情熱的で、どこか哀愁を帯びたフラメンコ・ギターの激しい旋律。それに合わせて画面の中を滑っているのは、日の丸を胸に背負った日本の代表選手――蛇崩遊大だった。
画面越しの彼は、狂気すら感じるほどの凄まじい気迫でステップを踏んでいた。氷を割り、命を削るような、修羅の踊り。
『ステップシークエンス、レベル4! 会場が手拍子に包まれる! そして……フィニッシュ!!』
ジャカッ、というギターの最後の一音と共に、遊大が氷を鋭く削ってポーズを決める。
直後、テレビのスピーカーが割れんばかりの大歓声が響き渡った。画面の中の遊大は、氷に突っ伏し、肩で激しく息をしながら吠えるように天を仰いでいる。
『やり遂げました、蛇崩遊大! 会心、いや、執念のノーミスです!!』
解説者の声が、微かに震えていた。
『彼はシニアに上がる直前で、選手生命を脅かすほどの大怪我を負いました。その怪我と長引くリハビリの影響で、4年前のオリンピック選考にはあと一歩届かず、涙を呑んだと言っても過言ではありません』
『ええ。その彼が、地獄のような苦しみを乗り越え、ついにこの世界最高峰の舞台で、自らのスケートを完全に証明してみせました!』
その言葉が、実叶の脳天を雷のように打ち抜いた。
シニアに上がる直前で、大怪我……。
それは、今の自分と同じだ。
一番大事な時期に怪我をして、夢から引きずり下ろされた。4年前のオリンピックに届かなかったということは、どれほどの絶望と、途方もないスケートのない時間を味わったのだろうか。
それでも、彼は諦めなかったのだ。
氷から引き剥がされても、周りに置いていかれても。決して辞めずに喰らいつき、今、あんなに美しくて恐ろしい滑りで、世界中の人を熱狂させている。
「……っ」
実叶の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
お母さんのためだとか、怪我がどうだとか。そんなものは全部、スケートから逃げるための言い訳だった。
辞めたくない。……私だって、滑りたいっ!!
「……実叶? どうしたの、足が痛む!?」
泣き出した実叶に気づき、母親が慌てて駆け寄ってくる。その後ろから、いのりも心配そうに覗き込んでいた。
実叶は、涙をごしごしと乱暴に拭い、泣きはらした目で母親を真っ直ぐに見上げた。
「お母さん、私……スケート、辞めたくない」
「実叶……?」
「痛くても、絶対に諦めない。いっぱいリハビリして、遅れた分も絶対に取り戻すから。私、もう一回氷の上で跳びたい……!」
それは、悪い思考に飲み込まれかけていた少女が、自らの意志で呪いを打ち破った瞬間だった。
母親は驚いたように目を丸くし、やがて優しく微笑むと、実叶を強く抱きしめた。
その姉の横顔を、いのりはただじっと見つめていた。キラキラと輝く不思議なものを見るような、無垢な瞳で。
実叶はふと妹の視線に気づくと、涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑い、いのりの小さな手をぎゅっと握った。
「いのり。お姉ちゃんがリンクに戻ったら……一緒に来よう。お姉ちゃんが、いのりにスケート教えてあげる」
「うんっ!」
いのりは、満面の笑みで大きく頷いた。
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あの時のことは今でも覚えている。
お姉ちゃんが涙を流しながら「スケートを教えてあげる」って言ってくれたあの日、テレビに映っていた、もう一人の選手の滑り。
研ぎ澄まされた刃のような細く美しい軸が、氷上で舞っている。
高くふわりと宙へ舞い上がるジャンプなのに、氷に降り立った時の音すらしない。すべてを凍てつかせるような、静かで完璧なストローク。
私もあんな風に滑りたい。
画面の中で氷を意のままに操る彼の姿は、4歳だった私の目に、本物の魔法のように焼き付いた。
激しい熱狂をたった一滑りで絶対零度に変えてしまうような、底なしに美しくて、残酷なスケート。それはどんな童話の魔法使いよりも、圧倒的で、鮮烈な魔法だった。
そして今――。
私は、あの魔法の続きを自らの足で刻むために、ここに立っている。
『次は、ノービスB女子。滑走順24番、結束いのりさん』
場内アナウンスが響き、ひんやりとしたスケートリンクの空気が肌を撫でる。
観客席からは、お姉ちゃんが身を乗り出して私に大きく手を振ってくれているのが見えた。
私はエッジカバーを外し、深呼吸をする。
冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み、目の前に広がる真っ白な氷を見つめる。
あの日、画面越しに見たあの景色に。あの疾走に、少しでも近づく。
私は氷の上へと一歩を踏み出した。
シュッ、とエッジが滑らかに氷を削る。幼い頃、お姉ちゃんの手を引かれて初めて氷に乗った時の喜び。そして、いつかあの人のように、世界を魅了するスケーターになりたいという、強烈な飢え。
リンクの中央へと進み、開始のポジションにつく。
あの日のテレビの中の選手みたいに。
この氷の上を、私だけの魔法で完全に染め上げるために。
誰よりも速く、誰よりも高く、この氷の上を自由に羽ばたくために。
音楽が鳴り響く。
氷を蹴り出した結束いのりの瞳には、かつて代々木やソチのリンクを絶対零度で支配した魔王と同じ、深淵のように静かで、恐ろしいほどの光が宿っていた。
姉を救った執念の熱によって呪いを打ち破られ、最速で氷の上に解き放たれた真の天才少女。
彼女が世界を震わせる本当の物語は――今、ここから鮮烈に幕を開ける。
続きません。
これにて完結です。
オリンピック編は申し訳ないですが、カットします。
書いてみたら、オリキャラまみれになって面白くありませんでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
PS.要望が非常に多ければ続きを書くかもしれません。
続編について
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続編を望む
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完結でよい