明浦路司をメダリストに 作:asim
10月の終わり。全日本ノービス選手権が閉幕してから数週間後、俺の経営するスケートリンクはかつてないほどの熱気に包まれていた。
「はい、初心者クラスの入会ですね。ありがとうございます。申し訳ございませんがただいま満員となっておりまして……」
受付のスタッフが、朝から鳴りやまない電話に嬉しい悲鳴を上げている。
ガラス越しに見下ろすリンクは、色とりどりのウェアを着た子供たちで芋を洗うような騒ぎだ。
『全日本ノービスB、明浦路司のノーミス優勝』。
明浦路司が叩き出したその実績は、名古屋のしがないローカルリンクを、一夜にして、日本一の天才を育てた名門クラブへと変貌させた。
我が子にもその魔法をかけてほしいと群がる親たちの月謝で、リンクの経営状況は劇的に黒字化へ転じている。
俺は満足げに鼻を鳴らし、オフィスに置かれた革張りのソファに深く腰を下ろした。
目の前のローテーブルには、この数週間で山のように送られてきた名刺や企画書の束が散乱している。
「……嗅覚だけは一人前だな、どいつもこいつも」
俺は呆れたように吐き捨て、一番分厚い大手クラブからの封筒をゴミ箱へ放り投げた。
たかが9歳の子供に群がる、金の亡者とハイエナども。俺が莫大な私財を投じ、堂島と二人三脚で誰の目にも触れさせず育て上げてきた司を、今更はした金で横取りできるとでも思っているのだろうか。
司の才能を安売りする気は毛頭ない。あいつのスケートに泥を塗るような不純物を排除し、無限にスケートに没頭できる環境を盤石にする。それが、パトロンである俺の役目だ。
ふと、テーブルの端に置かれたスポーツ紙の小さな見出しが目に入った。
『ノービスに現れた夜鷹二世』『第二の化け物誕生か』。
「……夜鷹純の再来、か」
忌々しい見出しを指先で弾く。
現在のフィギュアスケート界において、夜鷹純という存在は絶対的な神に等しい。ノービス時代から圧倒的な力で他をねじ伏せ、今なお頂点に君臨し続ける若き天才。世間の連中からすれば、司の圧倒的な滑りを見て、その絶対王者の姿を重ね合わせるのは自然なことなのだろう。
だが、冗談ではない。
司は夜鷹純の
「相変わらず、何やら不穏な笑みを浮かべておられますね」
落ち着いた、しかし芯の通った声と共に、初老の男がオフィスに入ってきた。コーチの堂島だ。使い込まれたジャージを律儀に着こなし、首からはストップウォッチを下げている。
「リンクの稼働率を見て満足していただけですよ。堂島先生こそ、少しは休まれてはどうですか。全日本が終わったばかりですから」
「休んでいる暇などありませんよ。司くんは、昨日教えたばかりのステップを自分なりに昇華させようとして、転んでは立ち上がっています。あの子の情熱を見ていると、私の体力の限界など些細なことに思えてきますよ」
堂島は穏やかに微笑みながらも、その眼光には指導者としての強い熱が宿っていた。
俺はコーヒーを二つ淹れ、片方を堂島の前に置く。そして、オフィスの扉を静かに閉めた。
「さて。世間の喧騒は俺が引き受けます。ここからは、来シーズンに向けた密談です」
俺はスポーツ紙の『夜鷹二世』という見出しを指差した。
「世間は司を『夜鷹の再来』と呼んで騒いでいますが、俺からすれば不愉快極まりない。ただの二番煎じ扱いだ」
「無理もありませんよ」
堂島はコーヒーに口をつけ、静かに首を振った。
「司くんはまだ、夜鷹くんの記録を抜いてはいない。ノービスB時代に3回転ルッツからの3回転ループ、さらにはトリプルアクセルを習得。トップ選手の登竜門である長野の全国有望新人発掘合宿では毎回シードに選出され、そのままノービス4連覇を達成……。日本スケート連盟にとって、夜鷹純の残した足跡は神格化された聖域です。来年、司くんがただ順当にノービスBを連覇した程度では、世間は『やっぱり夜鷹の背中を追っている』としか評価しないでしょうな」
「どうすれば夜鷹純を超えられますか?」
俺の問いかけに、堂島は持参した分厚いファイルをデスクの上にドンッと置いた。
英語で書かれた表紙には『ISU Judging System(国際スケート連盟 新採点システム)』とある。
堂島は前置きのようにゆっくりと話始める。
「来年からは、いよいよこの『IJS』が国内の全カテゴリーにも本格導入されます。夜鷹純がノービスを蹂躙した時代は、圧倒的な跳躍力による『技の難易度』だけでねじ伏せることができた。だが、これからはジャンプの入り方、スピンの姿勢、ステップの複雑さがすべて細かく数値化され、出来栄え点(GOE)で殴り合う時代の幕開けです」
堂島はマニュアルのページを丁寧に捲りながら、俺の目を見据えた。
「……夜鷹くんと同じトリプルアクセルや連続ジャンプを跳ばせるだけではダメです。最高難易度のステップから完璧な踏み切り。そして、その完璧な流れで降りるトリプルアクセル。それを新ルールにおける『最高評価の加点』が付く完璧な質でねじ込むのです」
堂島の言葉は熱を帯びていたが、直後にその表情はひどく険しいものへと変わった。
「しかし仁さん。それを実現しようとすれば、大きな問題が出てきます」
「問題?」
「ええ。複雑な繋ぎの中で、それらの高難易度ジャンプを跳ばせるとなれば、10歳のあの子の骨格や筋肉にかかる負担は尋常ではありません。ただでさえ成長期で身体が変化する時期です。一歩間違えれば、ジュニアに上がる前に膝や腰が完全に壊れてしまう」
堂島は深く息を吐き出し、指導者としての、そして大人のエゴで子供を酷使することへの葛藤を滲ませながら俺を見た。
「あの子の才能を完成させ、かつ壊さずに守り抜くためには、私の指導だけでは限界があります。…仁さん。スポンサーであるあなたに、特別なサポートをお願いしたい」
堂島は申し訳なさそうに頭を下げる。
「何が必要ですか?何でも言ってください」
「第一に、専属のメディカルスタッフの雇用です。日々の筋肉のケアから、成長痛の管理、怪我の予防まで、プロの目で徹底的に管理する体制が要ります。
第二に、スケート靴とブレードの完全特注です。既製品では、あの子の鋭い踏み込みの衝撃に耐えきれず、逆に足にダメージを与えてしまうかもしれません。トップ職人に足形から専用のものを成長に合わせて作らせる必要があるでしょう。
そして最後に…新ルール基準の圧倒的なステップと芸術点を叩きこむための、トップレベルの振付師の招聘です」
堂島は言葉を切ると、真っ直ぐに俺の目を見据えた。
「どれも、ノービスの子供につけるような規模の投資ではありません。日本のトップシニアと同等か、それ以上の破格の資金が必要です」
「愚問ですね」
俺は迷うことなく即答し、冷めてきたコーヒーを飲みほした。
「そのための先行投資ですよ。金に糸目はつけない。…司を、誰も文句が言えないような圧倒的な世界一にしましょう!」
俺の言葉に、堂島は安堵と武者震いが混ざったような深いため息をついた。その皺の刻まれた顔には、長年氷の上に立ってきた勝負師としての、獰猛な笑みが浮かんでいる。
「…徹底的にやります。財布の底が抜けないよう、せいぜい覚悟しておいてください」
堂島が退出した後、俺は一人でソファから立ち上がり、ガラス越しにリンクを見下ろした。
芋を洗うように賑わう初心者クラスの子供たち。その集団の隙間を縫うようにして、一人だけ次元の違うスピードで駆け回る、小さな彗星の姿がそこにはあった。
ふと、胸の奥を不思議な感情がよぎった。
大金を投じ、最高の環境を整え、その成長を何よりも楽しみに見守る。……身を粉にして働き、自分の子供を勝たせようと苦労する親の気持ちとは、きっとこんな感じなのだろうか。
「…いや」
俺は自嘲気味に鼻を鳴らし、その感傷を振り払った。
違う。俺はただ、絶対に勝つと確信した最強の銘柄にベットしただけだ。
お前はただ、好きなだけその氷の上で舞えばいい。
盤面は、俺がすべて整えてやる。
俺は、リンクの冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、果てしなく続く覇道へと、静かに視線を走らせた。
夜鷹純が化け物すぎて書くのがむずい。