明浦路司をメダリストに   作:asim

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5 司の時代

氷を削る音が、前とは全然違う。

深く、鋭く。まるで自分の足が、スケート靴を透過して直接氷に突き刺さっているかのような感覚だった。

 

「司くん!そのままスピード落とさずに踏み切れ!」

 

リンクサイドに立つ堂島先生の指示が飛ぶ。

司は滑走のスピードを一切殺すことなく、教え込まれたばかりの複雑なステップを踏みこんだ。息が切れそうになるほど濃密な繋。そこから、ほとんど助走を感じさせないタイミングで左足のアウトエッジを深く倒し込み、前向きに氷を蹴り上げる。

 

視界がものすごい勢いで回転し、ふわりと重力が消える感覚。

そして次の瞬間、音もなく右足のアウトエッジが氷を捉えていた。トリプルアクセル。着氷時の衝突感を殺し、ただ滑らかな後ろ向きの推進力だけが残る。

 

「……よし、軸が完璧に真っ直ぐだ。降りた後の流れも申し分ない」

 

ストップウォッチを首から下げた堂島先生が、小さく頷きながらノートにペンを走らせる。司は大きく息を吐き出しながら、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んでリンクを滑り続けた。

 

ここ最近、目まぐるしく環境が変わっていった。

このスケート靴もそうだ。

数カ月前に仁叔父さんと堂島先生に連れられて足の型を取りに行って完成させたスケート靴。成長に合わせて合わなくなったら、遠慮なくすぐに言うんだぞ。と仁叔父さんは言っていた。

 

見るからに高価そうな靴に普段から使うのは躊躇われるのだが、そんな靴が3足もある。

初めてこれを履いて滑ったときは、まるで翼を得たような気分になった。どれだけ踏み込んでも吸い付くように感じる。以前ならぶれていたような足首も、踏み込む力を逃がさず、すべてジャンプの高さへと変えてくれる魔法の靴だった。

 

変わったのは道具だけではなかった。

メディカルスタッフの佐藤さんが、何度かリンクに来て体の調子を確認していく。食べるものや、普段からの体の動かし方などを指導される。司には正直必要なのかも分かっていないが、勝つためには全力を尽くすべきだということは理解している。

 

さらに、海外から振付師、ジョン・パーカー先生もやってきた。

都度、通訳の人に話してもらっていたけど、だんだん煩わしくなってそのまま指示を出してきたりした。

言葉は通じないけど、身振り手振りでめちゃくちゃ厳しいステップやスピンの姿勢を要求してくる。ただジャンプを跳ぶだけじゃ許してくれない。指先の角度、顔の向き、氷を押すタイミング。すべてを音楽に合わせるための、息継ぎの暇も感じないプログラム。

 

厳しいけど、決して嫌ではない。

むしろ、新しい技術を吸収して、自分の滑りが劇的に変わっていくのがわかって、毎日が最高に楽しい。

 

リンクの中央でゆっくりとスピードを落として、自分の足元を見つめた。

 

現実離れしている。普通の小学生が送る人生ではないだろう。色々な大人たちの期待が背に重くのしかかっている。

ただ、エッジを通して伝わってくる氷の冷たさや、風を切って滑る喜びの感情はあの日から何も変わってはいない。

 

今でも思い出せる。初めて氷上に降り立った時を——

 

-*-*-*-

 

すべてが始まったのは、あの正月。

 

実家のリビングでブロックおもちゃを片付けていた司を、仁叔父さんが連れ出したあの日。

両親や騒がしい弟たちもつれて、やってきたの仁叔父さんが丸ごと買ったというスケートリンク場。

 

初めて足を踏み入れたスケートリンクに司が感じたのは、何もないただの真っ白な板だと感じただけだった。冷蔵庫のように空気が冷たくて、ツンとした独特の匂いがした。

 

貸し靴を履いて、恐る恐る氷上に足を踏み出す。ツルツルと滑る不安定な足場。最初は手すりから手を離した途端に派手に転んでお尻や膝を強く打った。父に心配されながらも何度も転んだ。

 

それでも、立ち上がって少しずつ前に進めるようになった。

エッジが氷を掴み、自分の足の力だけでスーッと真っ白な氷上を滑りだしたあの瞬間。

顔に当たる冷たい風が、胸の奥を一瞬で熱くさせるような感覚があった。

 

ただ氷の上を滑る。ただそれだけのことが、どうしようもなく楽しかった。陸上を走るのとは全く違う、重力から少し解放されたような不思議な浮遊感。

それまでは、勉強やスポーツ、遊びに情熱を持ったことはなかったが、この日から司は取りつかれたように滑った。

 

両親は、下の子たちの世話で手一杯。司が毎日リンクに通い詰めても気にも留めなかった。お金の心配もいらなかった。何しろリンクのオーナーは仁叔父さんだ。靴も貸してくれる。

 

学校が終わるとランドセルを放り投げ、暗くなるまでリンクで滑り続ける。ただあてもなくひたすら氷上をぐるぐると回っているだけで楽しかった。

 

「司くん。今日も来たんだね。靴はいつものところだから」

「うん!ありがとう!」

 

その日も、支配人の田中さんに挨拶して、ただグルグルと滑るはずだった。

休憩所のストーブの横に置かれた、色褪せたブラウン管テレビに映った『彼』を見るまでは。

 

時期は3月の上旬。テレビでは、数日前に海外で行われた『世界ジュニアフィギュアスケート選手権』のスポーツニュースの特集が流れていた。

そこに映っていたのは、日本の代表ウェアを来た15歳の少年だった。

 

夜鷹純。

今でこそ絶対王者として誰もが知る名前だけれど、当時の司はフィギュアスケートのルールすら知らなかった。

そんな司でも、画面の中で彼が滑り出した瞬間には息をすることさえ忘れる衝撃だった。

 

圧倒的なスピードでリンクを支配する力強いスケーティング。そして、まるで羽でも生えているかのように高く、遠く飛び上がった。

ギュルッ!という擬音が聞こえてきそうなほどの回転をして、寸分の狂いなく片足で氷に降り立つ。実況アナウンサーが「トリプルアクセルを見事着氷!」と興奮気味に叫んでいた。

 

その姿は、俺が毎日やっている氷の上を滑るだけの遊びとは全く次元の違う、魔法のような儀式に見えた。

 

「いやー、夜鷹純は流石にすごいねぇ」

 

と後ろで見ていた田中さんが感嘆の声を漏らした。

司はテレビから目を離せないまま、田中さんにすがりつくように言った。

 

「田中さん!俺も、あれやりたい!」

「え?あれって…ジャンプかい?いやいや、司くん、そりゃ無理だよ」

 

田中さんは困ったように笑って、ぶんぶんと首を振った。

 

「一般のお客さんが滑ってる外周エリアはジャンプを跳ぶのは、他の人とぶつかったら危ないから禁止されてるんだ。それに、素人が見様見真似であんな真似したら、大けがするよ」

 

司は悔しさに唇をかんだ。

頭の中では、夜鷹純があの圧倒的な高さへと飛び立っていく放物線が何度も何度もリフレインしている。今すぐ氷の上に立って、自分の足でその感覚を試してみたい。

俺があまりにも納得のいかない、不満そうな顔でテレビを見つめ続けていたからだろう。田中さんは「うーん」と困り果てたように頭を掻いた。

 

「……仕方ないなぁ。オーナーの親戚特権ってことで、今日だけ特別だよ」

 

田中さんはそう言うと、司を連れてリンクへと向かった。

リンクの中央にはカラーコーンが置かれ、一般の滑走エリアとは区切られたスペースがある。そこでは、このリンクを拠点にしている地元のクラブチームが本格的な練習を行っていた。

 

「中谷先生、ちょっといいですか」

 

田中さんがリンクサイドから声をかけたのは、チームを指導していた中谷というコーチだった。全国的に無名というわけではないが、トップクラスの選手を何人も抱えているような大物ではない。地元で堅実にスケートを教えている中堅のコーチだ。

 

「実はここのオーナーの親戚の子でして。テレビでスケートを見て自分も跳びたくなったらしいんです。少しだけ、ジャンプの真似事というか、基礎を教えてやってくれませんか。今日だけでいいので」

「……冗談でしょう。バッジテストの初級も受かっていない初心者にジャンプをさせるなんて、足首を折る自殺行為です。遊び場ではないんですがね、ここは」

 

中谷コーチは怪訝そうな顔で俺を見下ろしたが、支配人の頼みとあっては無下にできなかったようだ。「氷の上で両足でピョンと跳ねるだけですよ」と渋々承諾してくれた。

 

「いいかい、君。ジャンプというのはとても危険なんだ。まずはエッジに乗る基礎がないと大ケガをする。だから今日は、両足を揃えてその場で少しだけ——」

 

中谷コーチが手本を見せようとする。

だが、司の頭の中には先ほど見た夜鷹純の映像が完全に焼き付いていた。右腕の引き方、前向きに強く踏み込む左足の角度。理屈ではなく、映像として脳内にこびりついたその動きを、司はただ身体でなぞろうとした。

 

中谷コーチの言葉を半分聞き流し、俺は少しだけ助走をつけて、見よう見まねで氷を力一杯蹴り上げた。

 

「おい、やめっ……!」

 

基礎すらない初心者が、いきなり前向きに全力で踏み切る。中谷コーチの顔が真っ青になり、静止の声が飛んだ。

 

もちろん、15歳のトップ選手が跳ぶようなトリプルアクセルなんて跳べるはずがない。ただの1回転半――シングルアクセル。

だが、その左足の踏み込みの深さと、空中に飛び上がった瞬間の軸の細さ、そして恐怖心を微塵も感じさせない跳躍の高さは、遊びでリンクに通い始めたばかりの初心者のそれとは完全に異なっていた。

 

「なっ……!?」

 

ギュルッ、と空中で鋭く身体が回転する。

見よう見まねのシングルアクセル。当然、着氷に必要なエッジの制御技術などあるはずがない。右足のブレードが氷に触れた瞬間、遠心力を殺しきれなかった身体は激しくバランスを崩し、司は勢いよく氷の上にすっ転んでお尻から滑っていった。

 

だが、それは間違いなく、前向きに踏み切り、空中で回転して、後ろ向きに降りようとしたアクセルの軌道だった。

 

「今のは……本当に初めて跳んだのか?」

「うん。さっきテレビで見たやつ、やってみました」

 

痛むお尻をさすりながら立ち上がった俺を見て、中谷コーチの目の色が変わっていた。面倒な素人の子守りを押し付けられた大人の顔ではない。足首を粉砕してもおかしくない跳躍を、持ち前の身体能力とバランス感覚だけで強引にねじ伏せて生還した、信じられない原石を見つけた驚愕の顔だ。

リンクサイドで見守っていた田中さんも、彼の常識外れの跳躍力に口をぽかんと開けている。

 

「……田中支配人」

 

中谷コーチが、かすかに震える声で田中さんを呼んだ。

 

「今すぐ、スケートを始めさせるべきです。この才能を眠らせるなんて世界の損害だ!ご家族はいらっしゃらないのですか?」

 

この日を境に、司のスケート人生はただの遊びから激変することになる。

日本トップクラスのコーチである堂島先生を大金で引っ張ってきて、司を本気で世界一にするための常軌を逸したプロデュースが始まったのだ。

 




振付師は作中に出てきた人でも良かったんですが、あんまり話を広げるつもりがなかったので、オリジナルキャラです。
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