明浦路司をメダリストに   作:asim

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6 スケートの転換

静寂。そして、すすり泣き。

全日本ノービス選手権、ノービスBクラスの全滑走が終了した直後のバックヤードは、およそ子供たちのスポーツとは思えない、まるで葬儀場のような重苦しい空気に包まれていた。

誰もが言葉を失い、リンクの頭上に掲げられた巨大な電光掲示板を呆然と見上げている。

 

壁際のベンチでは、精一杯の演技を終えたはずの子供たちが、親の胸に顔を埋めて震えている。彼らは皆、各地方ブロックを勝ち抜いてきた才能あるスケーターたちだ。今日のために、遊びたい盛りの時間をすべてリンクでの過酷な練習に捧げ、親もまた莫大な費用と時間をかけて子供をサポートしてきた。

だが、その血の滲むような努力のすべてが、今、たった一人の11歳の少年によって、文字通り次元の違いという残酷な現実で叩き潰されたのだ。

 

彼らの視線の先、冷たく光る電光掲示板には、ただ一人の異常なスコアが燦然と輝いていた。

今年から国内のノービスは『IJS(国際スケート連盟新採点システム)』が採用されている。ジャンプやスピンの一つ一つに基礎点が定められ、そこにGOE(出来栄え点)が加減点されるこの絶対評価のシステムは、選手間の実力差を、旧採点方式以上に無慈悲な数値として可視化してしまった。

 

2位以下の選手たちが団子状態のスコアでひしめき合う中、ただ一人、1位『明浦路司』のスコアだけが、まるでシニアの大会から間違えて紛れ込んだかのように、途方もない大差をつけて孤立している。

 

それもそのはずである。

美しく軽やかなスケーティングに、夜鷹純よろしく、難度の高いジャンプをバンバン跳んだにも関わらず、すべて着氷。

2年連続で明浦路司という怪物は完走しきったのだ。

 

「…次元が違う。あれが本当に11歳の滑りか?」

 

壁際で腕を組んでいたベテランコーチの一人が、唸るように絞り出した。

その周囲に集まっていた他のクラブコーチ陣も、嫉妬や悔しさを通り越し、ただ純粋な畏怖の表情を浮かべて頷く。

 

「ジャンプの高さや回転速度だけではない。なぜあの複雑なステップの中でスピードを落とさず踏み切れる…」

「回転軸のブレなさ、ポジションチェンジの滑らかさ…。柔軟性、体幹も、11歳の少年が出していいレベルではない」

 

彼らはスケートを教えるプロだ。だからこそ、司が氷上でやってのけたことの異常性が痛いほどに理解できてしまう。

——そして、その「異常なまでの完璧さ」を、かつてないほど無慈悲な点数差として可視化させてしまったのが、今年から導入された新採点システムだった。

 

旧採点システムであれば、ジャンプさえよければノービスBで勝つことは難しくなかった。

今年からノービスBにも採用された新採点システムIJSでは、技術点(TES)+演技構成点(PCS)-減点で総合得点が出される。

ジャンプにはルールブックで定められた点数が厳格に定められ、エッジエラーや回転不足がないかを客観的に判定し、基礎点を与える。

実行された技の質を「-3から+3」までの7段階で評価される。高さや距離が十分か、着氷がスムーズか、力みがなく自然かなどのガイドラインに基づいて加点・減点される。最高点と最低点を除いた平均点が実際の出来栄え点(GOE)が基礎点に加算される。

 

この上で演技構成点が加算される。

スケート技術、要素のつなぎ、演技力/遂行力、振付/構成、音楽の解釈によって評価される。

このうち、要素のつなぎは非常に厳しく、少しでもミスをすれば即0点になる。実際に今年の選手でここに加点が入っている子はそもそも少ない。単純なクロスオーバーをして、じっくり構えてジャンプを跳ぶという安全策を取った選手以外は皆0点にされていた。(司を除く)

 

さらに言えば、ジャンプを失敗した瞬間の減点率がおかしな状態だった。ジャンプの失敗によって、つられて振付/構成やスケート技術などの演技構成点が合わせて減点。

つまり、ノーミスでない限りあらゆる点数が連動して下げられてしまう。

 

これらによって、今年はあらゆる選手がこの新採点システムによって順位が入れ替わった。旧採点では、ジャンプの難易度と着氷だけで押しきれていた選手たちが、スピンのレベルを取りこぼし減点、ステップの踏み外しの減点、そして何よりジャンプ失敗による演技構成点の低評価によって沈んでいった。

 

「IJSでなければ…」

 

コーチの一人が恨みがましく吐き捨てたのも無理はない。

 

「夜鷹純の再来。いや、まだ現役選手だが。彼以上かもしれん」

「あれに勝つ構成を?ただでさえ新システムによる減点が厳しい中で?」

「うちの子が同じ世代でなくて本当によかったよ」

 

一人のコーチが吐き捨てるように言うと、別のコーチが引き攣った笑顔を浮かべた。

同じ世代に生まれなくてよかった。

それは、勝負の世界において最大の賛辞であり、同時に、同世代の選手たちへの残酷な死刑宣告でもあった。

もはや、明浦路司は同世代のライバルではない。『天災』のような抗いようのない圧倒的な暴力として受け入れられようとしていた。

 

-*-*-*-

 

表彰台の真ん中で首にかけられた金のメダルは、ずっしりと重くて、ひんやりと冷たかった。

 

ノービスBで2連覇。あの夜鷹純の記録に一歩近づく。

新ルールでの大会で多くの選手が翻弄される中をやり切った達成感はこれまでの比ではなかった。

すべての努力が圧倒的点数という目に見える形で報われたのだ。うれしくないはずがなかった。

 

「お疲れ様、司くん。完璧だったよ」

「ありがとうございます!」

 

関係者や連盟の大人たちから次々と声をかけられ、ペコペコとお辞儀をしながらバックヤードの通路を歩いている。早く堂島先生や両親、仁叔父さんのところに行って、この重たい金メダルを見せたい。

 

そう思いながら、司は関係者専用の静かな通路の角を曲がろうとした時のことだった。

 

「——君か。僕の再来と呼ばれてる子は」

 

ふと、司の頭上から降ってきた低く冷たい声に、ビクッと肩を揺らして立ち止まった。

視線を上げると、そこには黒のコートを身にまとった長身の青年が壁に背を向けて立っていた。

周囲の光をすべて吸い込むような、鋭く、そしてひどく退屈そうな瞳。

 

「あ…」

 

司は息を呑んだ。

間違いない。擦り切れるほどビデオで見て、そのすべてを真似ようと氷上を這いずり回った、司のスケートの原点。

 

「夜鷹、純…選手」

 

憧れの神様が目の前にいる。

心臓が早鐘のように鳴り始めた。なぜ世界を飛び回っている彼がこんなノービスの会場にいるのかは分からない。

でも、本物の彼は、テレビの画面越しで見るよりはるかに巨大で、圧倒的なオーラを放っていた。

 

司が興奮で言葉を失っていると、夜鷹純は壁から背中を離し、ゆっくりと司の足元から首から下げた金メダルへと視線を移した。

 

「僕の過去の映像を見たようだね。ジャンプの入り方やスケーティングがよく似ている」

「ほ、本当ですか!?俺、ずっと夜鷹選手に憧れて——」

 

褒められた、と思った。

思わず顔を綻ばせた司の言葉は、しかし、絶対王者は酷薄なため息で遮った。

 

「だが、所詮は二番煎じだ。どうして君はあんな温い滑りをしているんだ?」

「…え?」

 

予想外の言葉に、司の笑顔が凍り付いた。

温い?俺の滑りが?

 

「大人が計算して作ったプログラムを、減点されないように、ただ機械みたいに正確になぞっただけ。転ばないように、失敗しないように。…君ならあんな退屈なステップ、無視してもっと高く飛べるはずだ。何故、そうしない?手加減して勝って、うれしいか?」

 

夜鷹純は真っすぐと司を見つめてくる。暗い瞳がまるで突き刺すように、司の奥底を見透かそうとしていた。

 

その瞳には、嫌がらせや悪意といった安い感情は一切ない。ただ純粋な絶対王者としての純然たる疑問と失望だけが浮かんでいた。

だが、その悪意のない言葉こそが、司の中の何かを決定的に逆撫でした。

 

なぞっただけ…?手加減…?

 

ふざけるな。

この複雑なステップの中でのジャンプ。そのためにどれだけ氷に叩きつけられたか。ミスなく完走するためにどれだけ練習してきたか。大人が作ったプログラムだろうが、何だろうが、それを完璧に体現するために流した血の滲むような努力を、『手加減』の一言で片づけられてたまるものか。

 

「手加減なんて…してません!」

 

無意識のうちに、司の口から低く這うような声が漏れていた。

金メダルを握りしめた拳が、小刻みに震えている。

 

「死ぬ気でやりました!一秒だって、手加減なんてしてません!」

 

真っ向から睨みつける司に対し、夜鷹純はわずかに目を細めた。

 

「…くだらないな。点数のためだけに、曲も無視して不格好な姿勢で回り続け、無様に腕を振り回してステップを踏んで……そんな窮屈な枠に自らを押し込めることが、君の目指すスケートなのか」

 

何のことを言っているのか?司はそんなバカげたことはしていない。

見上げると、夜鷹純の視線は確かに司を捉えているのに、その暗い瞳は司ではなく、もっと別の何かを睨みつけているように見えた。

司に向けて放たれた言葉のはずがどこか別の誰かに嘆いているかのような響き。

 

だが、言葉足らずな絶対王者の物言いは、必死に新ルールに適応し、完璧な演技を成し遂げた司にとっては、自らの血の滲むような努力に対する全否定にしか聞こえなかった。

 

「大人の引いたルールという安全圏の中で、綺麗にプログラムをなぞるだけの操り人形。そんな無様な真似をするようなら、一生『よくできた僕の偽物』だ。僕の背中には、永遠に届かない」

 

夜鷹純はそれだけを残し、振り返ることもなく歩き出そうとする。

 

「…待ってください!」

 

静かな通路に、司の鋭い声が響いた。

夜鷹純の足が止まり、わずかに顔だけをこちらに向ける。

 

憧れだった感情は、すっかり冷めきっていた。

代わりに胸の奥でドロドロと煮えたぎっているのは、理不尽な言葉をぶつけられた怒りと、圧倒的な強者への果てしない闘志だ。

 

「俺は貴方を超えてやる!それで今言った言葉を全部覆す!俺は夜鷹純の偽物ではなく、明浦路司だ!」

 

首から下げた金メダルを引きちぎらんばかりに握りしめ、絶対王者の背中を真っすぐに睨みつけた。

睨み返す夜鷹純の瞳に、わずかな驚きの色が浮かぶ。

フッと笑って夜鷹純はまた進み始めた。

 

「今のフィギュアスケート界の試合を見たらわかる。…司は同じになるなよ」

 

そう言って、夜鷹純は去っていった。

 




原作を何度も読み返しましたが、ノービスBから推薦でジュニア大会に行っている描写がなかったので、この世界はそういうもんとします。
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