明浦路司をメダリストに 作:asim
この年のフィギュア界は狂気的だった。
全試合IJSによる採点システムに変わったことで、それに合わせた演技を全選手が強いられることになった。
ISUはスピンやステップで基礎から沿い高評価のレベル4までを獲得するための条件を明確にリスト化した。
『難しい姿勢のまま8回転する』
『スピン中に明確なエッジチェンジを行う』
『ステップ中に上半身を大きく使う(総時間の3分の1)』
これらが明文化された結果、選手たちは『曲調にあっているか』や、『美しいか』という芸術性を考えるよりも、『いかにこの条件リストをもれなく消化するか』といったタスク処理に追われるプログラムを組むようになった。これが後に、『金太郎飴現象』と呼ばれる、プログラム画一化の始まりである。
そしてリンクの上には、点数をかき集めるための不自然な動きが横行することになる。
レベルを稼ぐ手っ取り早い手段として、極端な柔軟性を求める『ビールマンスピン』が流行した。
本来そう言ったタイプではない体の硬い選手や男子選手までもが無理やり取り入れた結果、回転スピードは遅く軸もブレブレの、ただ点数のためだけにやっている不格好なスピンが蔓延。
さらに、難しい姿勢のまま8回転という条件を満たすため、曲がアップテンポに盛り上がろうが静かな見せ場だろうがお構いなしに、一か所で苦悶の表情を浮かべてジッと耐えるように周り続ける選手が続出。
ステップに至っては、上半身の動きという条件を満たすためだけに、優雅さの欠片もなくひたすら腕をパタパタと振り回す、通称『暴れるステップ』が当たり前のように踏まれていた。
なぜ、そこまでして美しさを犠牲にするのか。
それは、最高評価である『レベル4』の壁があまりにも高すぎたからだ。レベル4の獲得条件は鬼のように厳しく設定されていたからだ。
氷の上をスーッと美しく滑るような時間は一切ない。次から次へとエッジの向きを変えなければならず、ガリッ、ジャリッというエッジ音が絶え間なくリンクに響かせる。深いエッジに乗ったまま急激なターンを連続で行うため、太ももへの乳酸の溜まり方が尋常ではない。ステップが終わるころには足が鉛のように重くなり、その後のジャンプに致命的な影響を与える。
誰もがレベル4を目指し要素を詰め込んだが、あまりに要件が複雑で体力をゴリゴリ奪うため、大半の選手はレベル3を取るのでもやっとだった。
『今のフィギュアスケート界の試合を見たらわかる。…司は同じになるなよ』
大会のバックヤードで、夜鷹純が最後に残した言葉の意味。
それを司が本当の意味で理解したのは、後日、ジュニアやシニアの先輩たちの試合映像を見た時のことだった。
画面の中で先輩たちは、理不尽なシステムに生き残るため、形振り構わず必死にもがいていた。それはアスリートとしての正当な生存戦略であり、血の滲むような試行錯誤の結晶だ。
だが、その結果として氷上に生み出されたのは、音楽との調和やスケート本来の美しさがシステムに食い殺されていく、残酷な現実だった。
絶対王者である夜鷹純の目に、それがどれほど無様な光景として映っていたのか。
美しい世界であるはずのスケート界が崩れ去っていくような感覚を司は味わっていた。
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仁が司のために用意した、リンクに併設された豪華なミーティングルームには、重苦しい沈黙が降りていた。
革張りのソファに深く腰掛けるのはオーナーであり、司の叔父の仁。その対面には、腕を組んで眉間におぞましいほどの皺を寄せる堂島コーチ。そして、机の上に広げられた膨大なルールの資料を前に、司は唇をきつく噛みしめていた。
課題は一つ。来季、ノービスAで勝ち上がるための『プログラム構成と戦略』についてだ。
「…結論から言います。確実に勝つためには、司くん、君も『これ』をやらなければなりません」
堂島が机の上に置いたのは、先日司が見て絶望した、あの不格好なスピンや、腕を振り回すステップの参考映像の切り抜きだった。
「新採点システムが採用されてすぐのノービスBではまだ、問題ありませんでしたが、ノービスA、そして全日本ジュニアの推薦枠を争う舞台となれば話は別です。ステップやスピンのレベルを取りこぼせば、基礎点だけで取返しのつかない差をつけられる。ジャンプの質やスケーティングの美しさだけでひっくり返せるほど、この新ルールは甘くない」
堂島の言葉は、コーチとして冷徹な事実だった。
だからこそ、司は手元の資料から顔を上げ、はっきりと首を横に振った。
「嫌です!」
「司くん」
「こんなの…スケートじゃない。点数を拾うためだけに、音楽を無視して不格好に回って、無様に腕を振り回すなんて、絶対に嫌だ!俺は、こんなスケートをするために練習してきたわけじゃない!」
司の脳裏には、夜鷹純の冷たい瞳が焼き付いていた。
『大人の引いたルールという安全圏の中で、綺麗にプログラムをなぞるだけの操り人形。そんな無様な真似をするなら、一生僕の偽物だ』
あんなふうになりたくない。あんな滑りで勝っても、あの男を引きずり下ろすことなんて絶対にできない。
強くにらみ返してくる司の瞳を受け止め、堂島は深く、重い溜息を吐いた。
「司くんの気持ちは痛いほど分かる。私とて、自分が手塩にかけた教え子に、あんな醜悪な真似はさせたくない…ですが——」
「圧倒的なスケーティング技術を身に着けます。誰にも文句を言わせないほど完璧に!」
真っすぐとした司の瞳が堂島に突き刺さる。
司の叫びを聞いた堂島は、そこで視線を動かし、ずっと黙って2人のやり取りを聞いていた仁を見た。
「仁さん。私は、仁さんから莫大な報酬を受け取って雇われているプロのコーチです。プロとして、スポンサーの投資に勝利という最高の結果で報いるという義務が私にはある。本来であれば、美しさを捨ててでも確実に勝つ構成を組まなくてはなりません」
そこで一度言葉を切り、堂島はチラリと司を見た。
そして、覚悟が決まったように、オーナーである仁に向かって深く頭を下げる。
「ですが…仁さん。どうか司くんを信じてこの勝つための最善の戦略を捨てさせていただけないでしょうか?茨の道になりますが、必ず勝たせます。私の指導者としてのすべてを懸けて、最善を尽くします。どうか——」
日本トップクラスのコーチが、プライドを捨ててスポンサーに頭を下げた。
司もまた、息を呑んで仁を見た。仁は司の才能を誰よりも信じ、投資してくれている。だが、彼は同時に冷徹なビジネスマンでもある。ここで首を縦に振ってもらえなければ、すべてが終わる。
重い静寂の中。
仁は組んでいた足をゆっくりと下ろし、机の上の資料を一瞥した。
そして、鼻でふっと笑った。
「堂島先生。頭を上げてください。一つ勘違いされているようだ」
「と、言いますと…?」
「私がこの子に湯水のように金を突っ込んでいるのは、ちまちました点数稼ぎの報告書を見るためじゃありません。ルールに媚びた、型抜きクッキーみたいな無様なスケートに、何千万も投資するほど暇じゃない」
仁は鋭い鷹のような目で、堂島、そして司を順番に射抜いた。
「私が買ったのは、『世界中がひれ伏すような、圧倒的で極上のスケート』です。音楽も無視して氷の上でバタバタと溺れるような真似は承知しません」
「仁叔父さん…!」
司の顔に、パッと明るい光が差した。
頭を上げた堂島は目を丸くした後、肩の力を抜いて「…やれやれ」と小さく笑い声を漏らした。
「仁さん、司くん。安全な点数を捨てて勝つということは、他のすべての要素で他者を絶望させるほどの圧倒的な質をたたき出さなければならない。悪魔のような体力と技術が必要になるでしょう」
またチラリと堂島は司の方を見る。
司もまた覚悟を決めて小さく頷いた。
仁はおどけたように言う。
「だからこそ、貴方に高い金を払っているんでしょう?司の楽しい、美しいスケートを一切殺さずに、ルールごとねじ伏せて勝つ。それを考えるのが貴方の仕事だ」
仁の無茶苦茶な要求に、堂島は口元に獰猛な笑みを浮かべた。
それは、規格外の才能を前に勝負師としての本性を完全にむき出しにした瞬間だった。
この時代に戦っていた、現役選手に最大限の敬意を。