明浦路司をメダリストに   作:asim

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8 絶望の理由

2005年。

ブラウン管テレビの画面の右上には、うっすらと『アナログ』の文字が映っている。

ニュースでは連日のように地元で開催されている愛知万博の映像が流れ、街中には緑色の森の精霊を模した愛らしいマスコットグッズが溢れかえっていた。

 

世間はどこか浮き足立ったお祭り騒ぎに沸いていたが、日本のフィギュアスケート界の内側だけは全く異なる、肌が粟立つようなピリピリとした緊張感に包まれていた。

 

来年に控えた、4年に一度の冬の祭典。オリンピックイヤーが目前に迫っていたからだ。

 

特に男子シングルの代表枠を巡る空気は、かつてないほど重く、そして過酷なものだった。

理由は明白である。たった一つの絶対的な例外がそこに存在していたからだ。

 

夜鷹純。

前回のオリンピックでは年齢制限の壁に阻まれ、圧倒的な実力がありながら出場すら叶わなかった若き天才は、新ルールになった今でも誰の手も届かない絶対王者としてシニアの頂点に君臨していた。

彼が代表の1枠を、いや、オリンピックの金メダルそのものを確実に手にするだろうという事実は、スケート関係者の間ではもはや覆しようのない共通認識となっている。

 

だからこそ、残されたわずかな代表枠を巡って、シニアのトップ選手たちは文字通り血を吐くような潰し合いを強いられていた。

 

前年からIJSが本格導入され、選手たちが生き残るために美しさを捨ててレベルのタスク処理に走っている。だが、オリンピックイヤーを迎えた今年の氷上は、去年の比ではないほど異様であった。

 

それは、世界中のリンクで同時多発的に引き起こされていた狂気である。

 

四年に一度の、もしかすると人生で最後になるかもしれない大舞台。その切符を手に入れるためなら、長年培ってきたプライドや美意識すらも容易く捨て去る。音楽の調和も、プログラムの優雅さも関係ない。ただひたすらに新ルールにすがりつき、なりふり構わず0.1点でも多く点数をかき集めようとする亡者たちの姿がそこにはあった。

 

勝つための戦略としては、間違いなくそれが正しい。

美しさを犠牲にするその光景が異様で無様であることなど、滑っている本人たちが一番よく分かっているはずだ。それでも、オリンピックの魔力に取り憑かれた世界中のトップスケーターたちは皆、狂気の正解に手を染めるしかなかったのだ。

 

点数のためのスケート。

それが、オリンピックを前にした2005年における、世界のフィギュアスケート界の残酷なリアルだった。

 

-*-*-*-

 

息が、できない

 

キスクラのベンチに倒れ込むように座り、男は喉から血の味がするほど荒い息を吐き出していた。

太ももは乳酸で焼け焦げるように熱く、感覚すらない。

先ほど終えたばかりの自分のフリースケーティング。それは、音楽を表現する余裕など1秒たりともない、ただひたすらにレベル4の条件をもぎ取るための苦しいタスク処理。無様に腕を振り回し、顔を歪めて回り続けた。応援の声、観客の拍手すら、どこか同情を含んでいるように聞こえてしまう。

 

電光掲示板には自分の順位である1位が掲げられている。

だが、男は自嘲気味に笑うしかなかった。

次に滑るのが『彼』だったからだ。

 

リンクの中央。大歓声に包まれて、夜鷹純が静かにポーズを解いた。

そこから始まるのは、異次元の滑りだ。男が血反吐を吐いて行っている、点数のための不格好な作業とは完全に次元の違う世界がそこにはあった。

 

落ちろ!お前も一度は落ちてこい!

 

男は祈るしかない。

あれを完走されては困る。

プライドを捨て、点数に走った。すべては勝つために。

 

だが、男の血を吐くような祈りは、絶対王者の前ではあまりにも無力だ。

 

新ルールの最高難度であるレベル4のステップ。男が上半身をバタつかせて必死に要件をこなしたその場所で、夜鷹純は深いエッジの傾きを保ったまま、まるで重力が存在しないかのように優雅にリンクを舞う。

極端な柔軟性を求めるスピンも、彼がやれば音楽の静寂に溶け込む芸術の一部として昇華される。息つく暇もない複雑な要素のつなぎ(トランジション)から、高く、美しく、正確なジャンプが次々と決まっていく。

 

ルールという窮屈な鳥籠の中で、一人だけ空を飛んでいる。

圧倒的。ただひたすらに、暴力的で美しい。

 

フィニッシュのポーズと共に、地鳴りのような歓声が会場を揺らした。男は、キスクラのベンチで、ただ呆然とその光景を見つめることしかできなかった。

やがて電光掲示板に表示されたのは、先ほど自分が命を削って出したスコアを、何十点という途方もない大差で蹂躙する圧倒的な世界最高得点。

 

誰も勝てない。あんな次元に立てる人間など、世界中のどこを探しても存在しない。

 

…俺は、何のためにスケートをやっているんだろうか。

 

ふと、胸の奥に冷たく暗い疑問が沸き上がる。

楽しくない。ちっとも楽しくないのだ。

かつて、純粋に氷の上で風を切るのが好きで始めたはずのスケートは、今やルールに縛られ、美しさを捨てて不格好に点数を拾い集めるための苦行に成り下がっている。しかも、その泥水のような苦行の果てには、夜鷹純という絶対に越えられない壁がそびえ立っている。

 

もう、辞めてしまいたい。

こんな無意味で無様なスケートに、これ以上自分の人生を費やす価値があるのか。

 

だが——

 

「よくやったぞ。立派な銀メダルだ」

 

隣で、長年連れ添ってきたコーチが、涙ぐみながら震える手で男の肩を力強く叩いた。その声には、1位になれなかった悔しさよりも、残酷な生き残り競争を勝ち抜いた安堵が滲んでいる。

ふと視線を上げた観客席のずっと上の方には、これまで途方もない費用を払い、自分の人生のすべてを懸けて応援してくれた両親が、涙ぐみながら拍手を送っている。

 

…辞められるわけがない。

 

男は、目に涙を浮かべながら、血の滲むような思いで唇を嚙み締めた。

気合を入れなおす。

 

どれだけ才能の差に絶望しようとも。自分がやっているスケートが、どれだけ無様で不格好であろうとも。

ここでスケート靴を脱げば、今まで自分を支えてくれた人たちの想いも、スケートに捧げてきた自分の人生そのものも、すべてが無意味なゴミになってしまう。

 

だから、滑らなければならない。

から元気でもいい。這いつくばってでも、無様に腕を振り回してでも、点数にしがみついて滑り続けるしかないのだ。

せめて、自分のこれまでの人生を肯定するために。

 

-*-*-*-

 

「…見たかい?司くんには、この夜鷹純くんのレベルまでプログラムの完成度を引き上げなくてはなりません」

 

堂島コーチの厳格な声で、モニターに映っていた夜鷹純の圧巻のフリースケーティングがプツリと消えた。

場所は変わり、仁の持つスケートリンク。氷の削れる鋭い音と、司の荒い息遣いだけが、静まり返った空間に響き渡っている。

 

ルールに媚びて不格好に点数を拾うシニアの選手たちを尻目に、堂島が司に課したのは『美しさを一切損なわず、息継ぎの暇すらない最高難度のステップとジャンプを両立させる』という、まさに悪魔のようなプログラムだ。

 

「もう一度! ルッツへの入りが遅い! ステップから流れるように踏み切り!」

 

堂島の檄が飛ぶ。司は額の汗を拭う暇もなく、何度も何度も氷を蹴る。

決して簡単ではない。IJSの複雑なレベル要件を満たす濃密なステップを踏みながら、スピードを一切殺さずに高難度のジャンプへ移行する。それは、体力を極限まで削り取る、本来なら人間の骨格と限界に反するような動きだ。

 

だが——

 

…また、キレが上がっている。

 

リンクサイドで腕を組む堂島は、内心で戦々恐々としていた。

一度見た動き、一度指摘された修正点を、司は乾いたスポンジのように吸収し、次々と自分のものにしていく。先ほど映像で見た夜鷹純の体の使い方、エッジの倒し方すらも、脳内で完璧にトレースし、今まさに氷上で再現しようとしているのだ。

 

やはりこれだ。見たものをそのままやってのけてしまう、この異常なまでのセンス。

 

当の司本人は、堂島の驚愕など知る由もない。

ただひたすらに、己の限界と向き合っていた。

 

複雑なターンから、一瞬のタメも作らずにトリプルルッツへ向かうための助走。

 

ガッ!

 

踏み切りの直前でブレードが氷に弾かれ、司はリンクに叩きつけられる。

いつものことだ。完璧とはいかない。頭の中で動きを再確認する。次にはうまくいく。

 

もう一度と、立ち上がった時、何かが変わった感覚が司を襲う。

踏み込むブレードが、自分の重心、姿勢、手の位置それらが見える。まるで俯瞰しているかのように今まで曖昧だったものがはっきりと脳内に浮かび上がってくるように。

 

なんだ…これは、気持ち悪い。

 

「司くん、今の転倒は右肩の開きが早すぎ——」

「分かっています。もう一回、行きます」

 

堂島の言葉を遮り、司は再び滑り出す。

助走。複雑なステップ。

さっき失敗した、あのジャンプが迫る。

だが、今の司に迷いは微塵もない。俯瞰する視界が、己の身体のわずかなズレを瞬時に計算し、自動的に補正していく。

 

右足のアウトエッジが深く氷を捉え、限界点でため込んだ上半身の捻りを開放した瞬間。ドンッ!という力強い踏み切り音と共に、司の身体がふわりと宙に舞った。

 

高く、細く、美しい回転軸。

そして、

 

シュッ…という、絹を裂くような滑らかな音共に、完璧な着氷。

スピードは落ちていない。いや、むしろジャンプを降りた勢いをそのまま推進力に変え、流れるように次のスピンへとつながっていく。

 

完璧だ。

リンクサイドの堂島が、言葉を失って息を呑むのが見える。

 

司は、氷上を滑りながら確かな手ごたえに口角を上げた。

 

掴んだ!

 

もう失敗することはない。

自分の身体が、完全に自分の支配下にあるという絶対的な確信。

大人が作った窮屈なルールの鳥籠も、今の司には関係ない。司は司のやり方で絶対王者の喉首に食らいつく。

 

11歳の少年の身体の中に、誰にも負けない絶対的な王の資質が芽生えた瞬間だった。

 




読み返したら気になるところが多々あったので、修正しました。
大きくは変わりません。
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