明浦路司をメダリストに 作:asim
電光掲示板に表示された『4』という数字を、俺、蛇崩遊大は血の味がするほど唇を噛み締めて睨みつけていたのを覚えている。
去年の全日本ノービス選手権、ノービスAクラス。俺の順位は4位だった。メダルにすら手が届かない。
去年から国内のノービスにも本格導入された新採点システム(IJS)は、俺たち選手にとって残酷な魔物だった。
旧採点方式なら、ジャンプを一つミスしたところで、他のジャンプや持ち前のスケーティングの勢い、そして芸術性で十分にリカバリーが効いた。だが、IJSは違う。
フリースケーティングの後半、俺は得意のルッツジャンプで転倒した。その瞬間、ジャンプの基礎点は削られ、GOE(出来栄え点)は無慈悲にマイナスを叩き出し、さらには連動してPCS(演技構成点)まで引きずり降ろされた。
たった一度の転倒。たった一瞬のブレが、数字の暴力となって俺の首を絞め、表彰台から完全に引きずり下ろしたのだ。
「……今年こそは」
あれから一年。俺はノービスAの2年目、つまりこのクラスの最上級生になった。
この一年間、俺はIJSというルールの中で確実に勝つために、文字通り血反吐を吐いてきた。
確実にレベル4を取るための窮屈なスピン、減点されないためのステップ。息苦しいルールの枠組みの中で、絶対に転倒しない狂気的な安定感を身体に叩き込んだ。
すべては、全日本の頂点に立つため。
そして――あの『バケモノ』に、雪辱を果たすためだ。
-*-*-*-
迎えた、全日本ノービス選手権の会場。
全国から集まった猛者たちの熱気と、張り詰めた空気が漂う巨大なアリーナのエントランス前で、俺はそいつを見つけた。
大きなスケートバッグを背負い、前を歩く後ろ姿。ノービスBの時よりも少しだけ背が伸びている。だが、周囲の空気を自分のものにしてしまうような、あの独特の威圧感は一切変わっていない。
「――おーい、司!」
俺が声をかけると、そいつは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
明浦路司。
俺がノービスBの2年目だった時、1年目として下の階級から上がってきて、圧倒的な実力差で俺たちを蹂躙した理不尽の塊。
「遊大くん!」
俺を見ると、司はパッと明るい笑顔を浮かべ、小走りでこちらへ駆け寄ってきた。
さっきまで背中から放っていた威圧感が嘘のように、無邪気で年相応の少年の顔になる。氷の上ではあんな神様みたいなバケモノじみた滑りをするくせに、リンクを降りればただのスケートが好きな友達だ。このギャップには、昔からどうにも調子が狂わされる。
「よっ。いよいよ全日本やな、司。相変わらず、すげー気迫背負ってんな」
「遊大くん、今年は同じ大会だね!」
嬉しそうに目を細める司に、俺は軽く拳を握ってその肩をポンと小突いた。
「ああ。司がノービスAに上がってくるんを、首を長くして待ってたで」
俺がニヤリと笑うと、司も嬉しそうに頷いた。
「ノービスBの時みたいに、今年も一人で好き勝手やらせるつもりはない。お前がいなかった去年、俺がどれだけこの新ルールの中で血反吐を吐いて、プログラムを仕上げてきたか……今日の試合でたっぷり見せたるわ。あの時の雪辱、今日ここで果たさせてもらうぜ」
冗談めかした口調だが、その奥には絶対に負けないという本気の闘志を込めた。
すると、司の顔からフッと友達としての無邪気な笑顔が消え、代わりに氷上で見せる「勝負師」としての鋭い熱が瞳に灯った。
「……ああ。俺、遊大くんと同じ舞台に立てるの楽しみにしてた」
司は俺を真っ直ぐに見つめ返し、力強く頷いた。
「全部出し切って、今年も俺が勝つよ」
「今年は俺が勝つ!」
-*-*-*-
全日本ノービス選手権、男子Aクラス。
前半である第1グループの滑走が終わった段階で、会場の空気はすでに一つの正解に支配されていた。
リンクサイドで見ていた俺は、彼らの演技を静かに分析していた。
第1グループの選手たちが氷上に描いたのは、見事なまでにルールへ適応したプログラムだ。
レベル獲得の要件を満たすためだけに極限まで姿勢を保つスピン。ステップは優雅さよりも、確実に上半身の稼働をアピールする構成に徹している。
外野はそれを『芸術性がない』と揶揄するかもしれないが、そんなことは関係ない。IJSという新ルール下では、採点表の条件を一つ残らずクリアするその徹底したタスク処理こそが、勝利を手にするための最も正しく、確かな生存戦略なのだ。
だが、製氷作業を挟んで始まった第2グループ。
その先頭滑走者としてリンクに立った一人の少年が、その正解を根底から粉砕した。
ノービスA1年目、明浦路司。
皆が固唾をのんで見守る中、氷上で始まったのは、圧倒的な才能による蹂躙だった。
曲が鳴り、司が滑り出した瞬間、俺は息を呑んだ。
ジャンプへの助走がない。普通なら跳ぶ前にスピードを調整し、構えに入る隙があるはずだ。だが、司は息継ぎの暇すらない複雑なステップから、一切のタメを作らずに流れるように踏み切り、空中で細く美しい軸を作って降りてくる。
俺たちが確実にレベルを稼ぐために姿勢のキープに全神経を注ぐスピンを、司は音楽の静寂に溶け込むような芸術として、涼しい顔で回りきってみせる。
美しさを一切損なうことなく、最高難度の技術要件をすべてねじ伏せている。
第1グループが提示した勝利のための最適解を、たった一歩の滑りで過去の遺物にしてみせたのだ。
フィニッシュのポーズを決めた司に、割れんばかりの歓声が降り注ぐ。
やがて電光掲示板に叩き出されたのは、絶望的なハイスコアだった。
「…嘘だろ、ノービスの出す点数じゃない」
「化け物だ…。あれに勝てるのは、もはや夜鷹純しかいないぞ…」
関係者や他のコーチたちが集まるリンクサイドのどこかから、震えるような声が漏れ聞こえてくる。
大袈裟な比喩ではない。それほどまでに、司が叩き出した数字と氷上に残した圧倒的な余韻は、この場にいる全員の常識を破壊し尽くした。
この瞬間、大会の基準は完全に狂ってしまった。
司のバケモノじみたスケートを見せつけられた後、続く第2グループの連中は、完全にペースを呑まれてしまった。
司の圧倒的な滑りに当てられ、自分たちがこの1年信じて研ぎ澄ませてきた、勝利への計算を根底からひっくり返された。
急に司の真似をして無理なスピードを出そうとしたり、本来の構成にはない見栄えを意識してステップを踏もうとした結果……次々と氷に沈んでいった。
転倒、抜け、レベルの取りこぼし。プレッシャーと焦りが生んだ、無残な自滅の連鎖。
「…遊」
リンクサイドで出番を待つ俺の肩に、そっと手が置かれる。
振り返ると、長年指導してくれているコーチが、どこか不安げな、祈るような瞳で俺を見つめていた。
「お前は…本当に頑張っている。この1年、誰よりも真面目にルールと向き合ってきた。だから…あいつの点数は気にするな。周りに流されず、お前はお前のスケートをすればいい」
司の叩き出した絶望的なスコアと、次々と自滅していくライバルたち。その異様な空気に呑まれて、俺まで心が折れかけているのではないかと心配しているのだろう。コーチの言葉には、焦る俺をどうにか落ち着かせようとする必死さが滲んでいた。
だが、俺はエッジカバーを外しながら、フッと口角を上げた。
「先生、何言うとんねん。誰が焦ってるって?」
「え…?」
顔を上げ、冷たい氷の張った戦場を真っすぐに見据えた。
「司の滑りは化け物やけど、俺が1年、頑張って磨き上げたもんは、あんなん見ただけで崩れるほどヤワやないで」
俺は、スケートの美しさや芸術性で司に勝とうなんて、ハナから思っちゃいない。それは2年前からわかっている。
俺が作り上げたのは、徹底的にルールを攻略し尽くした最高効率のプログラムだ。あやふやな見栄えなんてものは最初から削ぎ落とし、確実にレベル4をもぎ取るためのステップとスピンだけを極限まで研ぎ澄ませてきた。
「俺はこのシステムの中で、誰よりも確実に点数を叩き出したる。それが、あいつを超えるために選んだ戦い方や」
迷いのない、ギラついた目を見て、コーチはハッと息を呑んだ後、ふっと安堵したように微笑んだ。そして、無言で力強く俺の背中を叩いてくれた。
『16番。蛇崩遊大くん——』
自分の番がやってきた。
やることは変わらない。
俺は深く息を吐き出し、氷の上へと滑り出した。リンクの中央でポーズを取る。
視界の端、リンクサイドから俺を真っすぐ見つめる司の姿が見えた。
刮目しろ、司。これが俺の意地だ!
曲が鳴る。
俺は、自らが選んだ勝利のための最適解へと、全力で踏み出した。
誰も彼もが、このルールに不満があるわけではない。