もし綾小路清隆がホワイトルーム出身じゃなくて、ホワイトマッシュルーム農家出身だったら   作:東頭鎖国

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一年生編

 綾小路清隆は、ホワイトルーム出身ではない。

 

 彼が育ったのは、国家機密の天才児育成施設ではなく、綾小路家が経営する大規模ホワイトマッシュルーム農家だった。

 

 そのため、彼は万能ではない。

 

 成績は普通。

 

 運動能力も普通。

 

 喧嘩はできない。

 

 心理戦も得意ではない。

 

 人の嘘を見抜くことも、クラス全体を裏から操ることもできない。

 

 ただし、ホワイトマッシュルームについてだけは異常だった。

 

 傘の開き具合。

 

 軸の太さ。

 

 表面の白さ。

 

 菌床の湿度。

 

 換気の良し悪し。

 

 収穫適期。

 

 鮮度管理。

 

 流通時の温度。

 

 それらに関してだけは、同年代どころか、そこらの青果担当者よりも詳しかった。

 

 これは、そんな綾小路清隆が高度育成高等学校に入学し、卒業後にホワイトマッシュルーム農家を継ぐまでの話である。

 

 

 ◇

 

 

 綾小路清隆は、特別な少年ではなかった。

 

 成績は普通。

 

 運動能力も普通。

 

 喧嘩はできない。

 

 人心掌握もできない。

 

 ただし、ホワイトマッシュルームについてだけは、異常だった。

 

 高度育成高等学校に入学した時、彼は密かに思っていた。

 

 この学校で、その知識が役に立つことはまずないだろう。

 

 実際、最初の一ヶ月はそうだった。

 

 授業では平均点。

 

 体育でも平均。

 

 友人作りはやや苦手。

 

 会話の話題はすぐホワイトマッシュルームに寄ってしまう。

 

 堀北鈴音には「あなた、能力の偏り方がおかしいわ」と言われた。

 

 櫛田桔梗には「綾小路くんって、きのこの話をしてる時だけ目がちょっと真剣だね」と苦笑された。

 

 須藤健には「お前、きのこ博士かよ」と呼ばれた。

 

 それでも綾小路は、平穏に暮らしていた。

 

 十万ポイントを配られた時も、彼は普通に喜んだ。

 

 そして校内ショップでホワイトマッシュルームを探した。

 

 なかった。

 

 ブラウンマッシュルームしかなかった。

 

「この学校、思ったより厳しいな」

 

「たぶんそこじゃないわ」

 

 堀北にそう言われた。

 

 

 ◇

 

 

 一学期。

 

 最初の月のポイントがほぼゼロになった時、Dクラスは大騒ぎになった。

 

 原作のような綾小路なら、ある程度察していたかもしれない。

 

 だがこの綾小路は普通だった。

 

「まさか授業態度が全部反映されているとは思わなかった」

 

「あなた、本当に気づいていなかったの?」

 

「ああ」

 

「あなた、妙に落ち着いているから何か分かっているのかと思ったわ」

 

「顔に出にくいだけで、普通に困っている」

 

 堀北は深いため息をついた。

 

 Dクラスは、普通に失敗した。

 

 誰かが裏で損失を抑えたわけでもない。

 

 誰かが密かに学校の仕組みを見抜いていたわけでもない。

 

 ただ、失敗した。

 

 だが、その失敗によって、堀北は少しずつ動き始めた。

 

 平田もクラスをまとめようとした。

 

 櫛田も明るく振る舞った。

 

 須藤は怒り、池と山内は騒ぎ、綾小路は静かに困っていた。

 

 その姿は、整ったホワイトマッシュルームの箱詰めとは程遠かった。

 

 だが綾小路には、少しだけ分かることがあった。

 

「このクラス、湿度が高すぎるな」

 

「何の話?」

 

「空気が悪い」

 

「最初からそう言いなさい」

 

 堀北は呆れたが、その後、教室の換気を始めた。

 

 不思議なことに、それだけでも少しだけ空気は軽くなった。

 

 綾小路清隆、Dクラスにおける初めての貢献。

 

 それは、換気だった。

 

 

 ◇

 

 

 中間試験。

 

 須藤の退学危機が浮上した。

 

 堀北は焦った。

 

 平田は協力を申し出た。

 

 櫛田はクラスメイトに声をかけた。

 

 綾小路も一応、勉強会に参加した。

 

 だが、彼は人に勉強を教えるのが得意ではなかった。

 

「須藤。この問題は……」

 

「分かんねえ」

 

「俺も少し怪しい」

 

「お前もかよ!」

 

「平均くらいなら取れるが、人に説明できるほどではない」

 

 須藤は頭を抱えた。

 

「頼りにならねえ!」

 

「すまない」

 

 ただし、理科の菌類の範囲だけは別だった。

 

「担子菌類と子嚢菌類の違いは──」

 

「そこだけめちゃくちゃ流暢だな!」

 

「ホワイトマッシュルームは担子菌類だ」

 

「知らねえよ!」

 

 結局、須藤を救ったのは、堀北の根気と、平田のフォローと、櫛田の人脈だった。

 

 綾小路はせいぜい、実家から届いてきたマッシュルームで勉強の休憩時間にスープを作ったくらいである。

 

 だが須藤は、そのスープを飲みながら言った。

 

「なんか、頭に入る気がする」

 

「それは気のせいだ」

 

「気のせいでもいいんだよ」

 

 綾小路は少し考えた。

 

 ホワイトマッシュルームには旨味がある。

 

 旨味は人間の緊張を少し和らげる。

 

 ならば、勉強そのものは教えられなくても、勉強する環境なら多少は整えられるのかもしれない。

 

 中間試験は、どうにか乗り切った。

 

 綾小路の点数は、やはり平均だった。

 

 菌類の小問だけ満点だった。

 

 

 ◇

 

 

 無人島特別試験。

 

 夏。

 

 無人島特別試験が始まった。

 

 この試験で、綾小路清隆は初めて明確に役立った。

 

「食料は直射日光の当たる場所に置くな」

 

「水場の近くは便利だが、湿気がこもる」

 

「野生のきのこは食べるな」

 

「白いから安全という考えは捨てろ」

 

「むしろ白い毒きのこもある」

 

「食うな」

 

 Dクラスの中で、彼の発言は急に重みを持った。

 

 池が森の中で白いきのこを見つけて叫んだ。

 

「綾小路! これホワイトマッシュルームじゃね!?」

 

「違う。食うな」

 

「でも白いぞ!」

 

「白いきのこが全部ホワイトマッシュルームなら、世界はもっと単純だった」

 

「かっけえこと言ってるけど、内容きのこだな」

 

 綾小路は、野生きのこの危険性をひたすら説いた。

 

 その結果、Dクラスは食中毒を出さなかった。

 

 これは地味だが大きかった。

 

 他クラスの一部では、食材管理に失敗して腹を壊す生徒が出ていたからだ。

 

 綾小路は戦略面ではあまり役に立たなかった。

 

 他クラスのリーダーを見抜くこともできなかった。

 

 龍園の策も分からなかった。

 

 伊吹が怪しいことも、何となくしか分からなかった。

 

 ただ、伊吹がDクラスの拠点に来た時、彼は言った。

 

「濡れた服をそのままにしておくと体調を崩す」

 

「……何よ急に」

 

「あと、靴も乾かした方がいい。湿気はよくない」

 

「私を疑ってるの?」

 

「いや。湿気を疑っている」

 

 伊吹は本気で困惑した。

 

 結果として、原作ほど綺麗な勝ち方はできなかった。

 

 堀北は体調を崩し、情報も一部抜かれた。

 

 龍園にはかなり出し抜かれた。

 

 だがDクラスは、サバイバル環境そのものには強かった。

 

 食料のロスが少ない。

 

 水場管理が安定している。

 

 体調不良者が少ない。

 

 拠点の衛生状態が良い。

 

 この地味な積み重ねで、Dクラスは大崩れを避けた。

 

 試験後、堀北は悔しそうに言った。

 

「勝ち切れなかったわね」

 

「ああ」

 

「でも、あなたがいなければもっと酷かった」

 

「そうか」

 

「ええ。少なくとも、きのこで誰も死ななかった」

 

「それは大事だ」

 

「大事だけれど、誇り方が難しいわ」

 

 その日から、Dクラス内で綾小路の評価はこうなった。

 

 頼れる。

 

 ただし、きのこと湿気限定で。

 

 

 ◇

 

 

 船上特別試験。

 

 船上で行われた干支グループの優待者探し。

 

 これは綾小路にとって最悪の試験だった。

 

 相手の嘘を読む。

 

 発言の裏を探る。

 

 グループ内の心理戦を制する。

 

 そんな能力はない。

 

 綾小路清隆は、ホワイトマッシュルームの収穫適期なら分かる。

 

 だが人間の裏の顔は分からない。

 

「誰が優待者だと思う?」

 

 軽井沢恵に聞かれた時、綾小路は正直に答えた。

 

「分からない」

 

「本当に?」

 

「ああ。人間は傘が開かないからな」

 

「何それ」

 

「マッシュルームなら分かる」

 

「じゃあ今、何も分かってないってことじゃん」

 

「そうなる」

 

 軽井沢は呆れた。

 

 ただ、この普通さが逆に作用した。

 

 綾小路は誰からも強く警戒されなかった。

 

 龍園ですら、彼を見て笑った。

 

「お前、本当にきのこしかねえんだな」

 

「そうだ」

 

「つまんねえな。いや、逆に面白えか」

 

 綾小路は心理戦で勝てなかった。

 

 だが、誰かを追い詰めることもなかった。

 

 軽井沢の抱えていた問題にも、原作のように鋭く踏み込むことはできなかった。

 

 ただ、彼女が明らかに疲れていることだけは分かった。

 

「軽井沢」

 

「何?」

 

「食べた方がいい」

 

「は?」

 

「顔色が悪い。腹が減っていると判断を誤る」

 

「……あんた、そういうとこだけ変に見てるよね」

 

「農家では、体調管理も作業の一部だ」

 

「それ、心配してるってことでいいの?」

 

「たぶん」

 

「たぶんって何よ」

 

 軽井沢は文句を言いながらも、差し出された軽食を受け取った。

 

 船上試験の結果は、Dクラスにとって微妙だった。

 

 大勝ちはしない。

 

 大負けもしない。

 

 綾小路は何も見抜けなかった。

 

 ただし、グループ内で誰も倒れないように、水分と食事だけはやたら気にしていた。

 

 そのせいで彼は、一部女子から「地味に面倒見がいいきのこの人」と呼ばれるようになった。

 

 

 ◇

 

 

 体育祭。

 

 ここで綾小路清隆は、普通に普通だった。

 

 短距離走。

 

 普通。

 

 綱引き。

 

 普通。

 

 騎馬戦。

 

 普通に怖い。

 

 リレー。

 

 普通。

 

 突然とんでもない脚力を見せることは当然なかった。

 

 堀北は言った。

 

「あなた、本当に隠してないのね」

 

「隠していない」

 

「ここまで普通だと、少し安心するわ」

 

「安心されても困る」

 

 須藤は大活躍した。

 

 だが、龍園クラスの妨害により、Dクラスは荒れた。

 

 綾小路は策を見抜けない。

 

 龍園と正面から戦う度胸もない。

 

 殴られたら普通に痛い。

 

 それでも彼は、ひとつだけ気づいた。

 

「須藤、休め」

 

「ああ!? 今休めるわけねえだろ!」

 

「汗をかきすぎている。水分と塩分を取れ。筋肉の問題以前に、判断が鈍る」

 

「うるせえ!」

 

「このままだと、終盤で崩れる」

 

 須藤は怒鳴った。

 

 だが、平田と堀北も説得し、短い休憩を入れた。

 

 結果として、須藤は最後まで持った。

 

 Dクラスは勝てなかった。

 

 けれど、崩壊もしなかった。

 

 体育祭後、須藤はぼそっと言った。

 

「お前、運動は普通だけど、休ませるタイミングだけは妙にいいな」

 

「農作業で無理をすると、翌日に響く」

 

「また農家かよ」

 

「農家だ」

 

「……まあ、助かった」

 

 須藤は視線を逸らした。

 

 綾小路は少しだけ頷いた。

 

 

 ◇

 

 ペーパーシャッフル。

 

 クラス同士で問題を作り合う特別試験。

 

 ここでDクラスは、櫛田桔梗の裏切りという問題に直面した。

 

 しかしこの綾小路は、櫛田の本性を完璧には見抜けていなかった。

 

 何となく違和感はあった。

 

 だが、それだけだ。

 

「櫛田は、少し無理をしている気がする」

 

 綾小路がそう言うと、堀北は眉をひそめた。

 

「それはどういう意味?」

 

「分からない。ただ、表面が綺麗すぎるマッシュルームは、たまに裏側を確認した方がいい」

 

「人間をマッシュルームに例えるのはやめなさい」

 

「すまない」

 

 櫛田との勝負は、ほぼ堀北が自力で向き合うことになった。

 

 綾小路は裏から完全に支配することはできない。

 

 だが、問題作成の場面で彼は妙な存在感を見せた。

 

「理科の問題に菌類を入れるべきだ」

 

「却下よ」

 

「なぜだ」

 

「出題範囲として偏りすぎるから」

 

「だが、相手が油断する」

 

「あなたが満点を取るだけでしょう」

 

「それはそうだ」

 

 結局、菌類問題は一問だけ採用された。

 

 その一問は、相手クラスの多くが落とした。

 

 Dクラス内でただひとり、綾小路だけが満点を取った。

 

 試験後、堀北は言った。

 

「あなたのきのこ問題、地味に効いたわ」

 

「そうか」

 

「でも次からは一問までよ」

 

「二問では駄目か」

 

「駄目」

 

 櫛田との関係は、原作ほど一気に整理されなかった。

 

 堀北は櫛田の危うさを知った。

 

 綾小路も、少しだけ彼女の裏側を知った。

 

 だが、綾小路にはそれを制御する力がない。

 

 彼はただ、櫛田に言った。

 

「無理をしすぎると、傷む」

 

「それ、またマッシュルームの話?」

 

「半分は」

 

「もう半分は?」

 

「たぶん、心配だ」

 

 櫛田は笑った。

 

 いつもの笑顔ではなかった。

 

「綾小路くんって、変なところで真っ直ぐだよね」

 

「そうか」

 

「うん。ちょっと腹立つくらい」

 

 櫛田はそう言って去っていった。

 

 完全な和解ではない。

 

 解決でもない。

 

 だが、何かが少しだけ変わった。

 

 

 ◇

 

 

 龍園との対立。

 

 体育祭、ペーパーシャッフルを経て、龍園はDクラスへの圧力を強めた。

 

 だがこの世界の龍園は、綾小路を黒幕とは見ていなかった。

 

 なぜなら、綾小路が本当に普通だからである。

 

 ただし、妙に気になる存在ではあった。

 

「おい、きのこ」

 

「綾小路だ」

 

「どっちでもいい。お前、Dクラスで何してんだ?」

 

「生活している」

 

「そうじゃねえよ」

 

「たまに湿度を見ている」

 

「本当に何なんだお前」

 

 龍園は笑った。

 

 だが、軽井沢の件でDクラス内が揺らいだ時、綾小路は一人で屋上へ向かって龍園を倒すことはできなかった。

 

 格闘能力がない。

 

 殴られたら負ける。

 

 普通に怖い。

 

 だから彼は、一人で行かなかった。

 

 堀北に相談した。

 

 平田にも相談した。

 

 須藤にも相談した。

 

 軽井沢本人にも、できる範囲で確認した。

 

 結果、Dクラスはぎこちないながらも集団で動いた。

 

 スマートではない。

 

 秘密裏でもない。

 

 龍園を完全に出し抜くこともできない。

 

 だが、軽井沢を一人にしなかった。

 

 屋上では、龍園が不満そうに笑った。

 

「なんだよ。ぞろぞろ来やがって」

 

 須藤が前に出る。

 

「てめえ、ふざけんなよ」

 

 平田が止める。

 

「暴力は駄目だ」

 

 堀北が冷たく言う。

 

「あなたのやり方は、証拠を残しすぎているわ」

 

 軽井沢は震えていたが、逃げなかった。

 

 綾小路は後ろの方にいた。

 

 普通に怖かったからだ。

 

 だが、言うべきことだけは言った。

 

「龍園」

 

「あ?」

 

「湿気は、放置すると広がる」

 

「またきのこか」

 

「問題も同じだ。隠しても、いずれ臭いが出る」

 

 龍園は一瞬黙った。

 

 そして笑った。

 

「お前、喧嘩は弱そうなのに、言うことだけ妙に腹立つな」

 

「喧嘩は弱い」

 

「認めんのかよ」

 

 龍園は完全敗北しなかった。

 

 だが、Dクラス全体が初めて「誰か一人を見捨てない」形で動いた。

 

 龍園はそれを見て、つまらなそうに舌打ちした。

 

「群れてるだけの雑魚かと思ったが……まあ、前よりはマシか」

 

 この件以降、軽井沢は綾小路を見る目を少し変えた。

 

「ねえ」

 

「何だ」

 

「あんた、もっと上手くやれたんじゃないの?」

 

「無理だ」

 

「即答?」

 

「俺は強くない」

 

「……知ってる」

 

「だから、誰かに頼るしかなかった」

 

 軽井沢は少し黙った後、小さく笑った。

 

「それ、案外悪くなかったかもね」

 

 綾小路は答えに困った。

 

 ホワイトマッシュルームは、人に頼らない。

 

 だが人間は違う。

 

 少なくとも、この学校では。

 

 

 ◇

 

 

 冬の混合合宿。

 

 複数学年、複数クラスが入り混じるこの試験は、体力と協調性、生活管理が問われた。

 

 ここで綾小路はまた地味に役立った。

 

「寝具を湿らせるな」

 

「汗をかいた服は放置するな」

 

「集団生活では換気しろ」

 

「風邪は一人から広がる」

 

「食事を抜くな」

 

 彼の言うことは地味だった。

 

 だが合宿では、その地味さが効いた。

 

 坂柳有栖はこの時点で綾小路に対して、原作ほどの強い執着を持っていなかった。

 

 なぜなら、彼はホワイトルーム出身ではないからだ。

 

 坂柳は綾小路を見て、静かに首を傾げた。

 

「あなたが、噂の綾小路くんですか」

 

「噂?」

 

「ホワイト……」

 

「マッシュルーム農家だ」

 

「……ええ。存じています」

 

 坂柳は少しだけ沈黙した。

 

「本当に、そちらなのですね」

 

「そちら?」

 

「いえ。こちらの話です」

 

 坂柳は興味を失いかけた。

 

 だが、合宿中に生徒たちの体調管理を淡々と整える綾小路を見て、別の意味で興味を持った。

 

「あなたは、人を盤面の駒として見るタイプではないのですね」

 

「将棋はあまり得意ではない」

 

「そういう意味ではありません」

 

「そうか」

 

「どちらかと言えば……農園を見る人、でしょうか」

 

「農家だからな」

 

 坂柳はくすりと笑った。

 

「面白いです。才能の方向性が、あまりにも狭い」

 

「よく言われる」

 

「ですが、狭い才能は、時に広い凡才より価値があります」

 

「そうなのか」

 

「ええ。少なくとも、あなたの周囲は少しずつ育っています」

 

 綾小路には、その言葉の意味がよく分からなかった。

 

 ただ、Dクラスの空気が以前より悪くないことだけは分かった。

 

 

 ◇

 

 

 三学期。

 

 クラス内投票が告げられた。

 

 賞賛票と批判票。

 

 クラスメイト同士で票を入れ合い、最下位が退学する。

 

 この試験は、Dクラスにとって残酷だった。

 

 そして綾小路にとっても、どうにもならない試験だった。

 

 彼には票を操作する力がない。

 

 裏で全員の心理を誘導することもできない。

 

 山内春樹は、浅はかな行動を重ねた。

 

 周囲の反感を買った。

 

 誰かを貶めようとした。

 

 そして、クラスの中で孤立していった。

 

 綾小路は山内と話した。

 

「山内」

 

「なんだよ、きのこ」

 

「今のままだと危ない」

 

「は? お前に何が分かんだよ」

 

「分からないことの方が多い。ただ、今のお前は周囲を見ていない」

 

「説教かよ」

 

「違う。忠告だ」

 

「うるせえな。お前みたいな普通の奴に言われたくねえよ」

 

 その言葉は、綾小路に刺さった。

 

 普通。

 

 実際その通りだった。

 

 だから、山内を救うことはできなかった。

 

 投票の日。

 

 山内は退学となった。

 

 クラスは静まり返った。

 

 須藤は拳を握った。

 

 池は顔を伏せた。

 

 櫛田は笑えなかった。

 

 堀北は厳しい顔をしていた。

 

 綾小路は、何も言えなかった。

 

 人間は、マッシュルームではない。

 

 傷んだ個体を取り除けば箱全体が守られる、などと簡単には言えない。

 

 山内は商品ではない。

 

 規格外だから捨てられたわけではない。

 

 彼は彼自身の行動の結果として、この学校を去った。

 

 だが、それでも。

 

 もっと早く、誰かが何かを言えていたら。

 

 もっと違う環境を作れていたら。

 

 何か変わったのではないか。

 

 綾小路は、その日初めて、農場で学んだ言葉を嫌だと思った。

 

 環境がすべて。

 

 もしそうなら。

 

 山内をああした環境を作っていたのは、自分たち全員ではないのか。

 

 退学後、堀北が言った。

 

「あなたのせいではないわ」

 

「そうかもしれない」

 

「そうよ」

 

「でも、何もできなかった」

 

「私もよ」

 

 堀北の声は硬かった。

 

「だから、次は変えるしかない」

 

 綾小路は頷いた。

 

 万能ではない。

 

 だからこそ、失敗する。

 

 失敗するから、覚える。

 

 それは、ホワイトマッシュルーム栽培と少しだけ似ていた。

 

 ただ、人間の場合は、失敗の重さが違いすぎた。

 

 

 ◇

 

 

 一年最後の特別試験。

 

 選抜種目試験。

 

 各クラスが種目を選び、ランダムに選ばれた競技で争う。

 

 Dクラスは悩んだ。

 

 堀北は冷静に戦力を分析した。

 

 平田は協力を取り付けた。

 

 須藤は運動系で貢献できる。

 

 幸村は学力で強い。

 

 軽井沢は人間関係の調整に動いた。

 

 櫛田は複雑な立場ながらも協力した。

 

 そして綾小路は言った。

 

「ホワイトマッシュルームの選別を種目に入れたい」

 

 会議室が静まり返った。

 

 堀北が眉間を押さえた。

 

「あなた、正気?」

 

「正気だ」

 

「そんな種目、相手が受けると思う?」

 

「ランダム選出なら可能性はある」

 

「学校側が認めるかどうかの話よ」

 

「農産物の品質判定は、観察力と知識と集中力を問う競技になる」

 

 平田が困ったように笑った。

 

「確かに、ルール化はできそうだけど……」

 

 須藤が笑った。

 

「いいじゃねえか! きのこで勝ったら面白えだろ!」

 

 池も乗った。

 

「相手絶対できねえよ!」

 

 堀北はしばらく黙った。

 

「……分かったわ。一枠だけよ」

 

「ありがとう」

 

「ただし、他の種目も真面目に考えること」

 

「ああ」

 

 こうしてDクラスの選抜種目の中に、異様な競技が混ざった。

 

 ホワイトマッシュルーム品質選別。

 

 内容は、複数のマッシュルームの中から、規格、鮮度、傷、変色、傘の開き具合を判定し、出荷可能なものを正確に選ぶというものだった。

 

 学校側はなぜか認めた。

 

 茶柱佐枝は書類を見て、微妙な顔をした。

 

「綾小路。これは何だ」

 

「種目です」

 

「見れば分かる」

 

「観察力を競います」

 

「……お前、本当に変な方向でしか目立たないな」

 

「すみません」

 

「謝るな。余計に反応に困る」

 

 対戦相手はAクラス。

 

 坂柳有栖は、Dクラスの提出種目一覧を見て、初めて声を出して笑った。

 

「ホワイトマッシュルーム品質選別……?」

 

 神室が横から覗き込む。

 

「何だこれ」

 

「彼らしいですね」

 

「いや、彼らしいって何だよ」

 

「綾小路くんは、どうやら本当にそこだけの人です」

 

 

 ◇

 

 

 試験当日。

 

 Dクラスは苦戦した。

 

 学力ではAクラスが強い。

 

 戦術面でも坂柳は優秀だった。

 

 堀北はよく指揮したが、全体の地力差は大きい。

 

 須藤は運動種目で奮闘した。

 

 幸村も筆記で粘った。

 

 平田は安定していた。

 

 だが、それでも届かない。

 

 そして最終盤、ランダムで選ばれた種目が発表された。

 

『ホワイトマッシュルーム品質選別』

 

 会場がざわついた。

 

 Dクラスが一斉に綾小路を見た。

 

 綾小路は静かに立ち上がった。

 

 この瞬間だけは、普通ではなかった。

 

 用意された台の上には、数十個のホワイトマッシュルームが並んでいた。

 

 Aクラス代表は困惑していた。

 

 坂柳でさえ、杖を握ったまま興味深そうに見ている。

 

「始め」

 

 合図と同時に、綾小路は動いた。

 

 速い。

 

 ただし、身体能力が速いのではない。

 

 判断が速い。

 

 傘の縁を見る。

 

 軸の切り口を見る。

 

 表面の微細な傷を見る。

 

 白さの違いを見る。

 

 湿気によるぬめりを確認する。

 

 過成熟を弾く。

 

 輸送時の圧迫痕を見抜く。

 

 鮮度は良いが規格外のものを除外する。

 

 傷は浅いが変色が進む可能性のあるものを落とす。

 

 手つきは迷いなく、淡々としていた。

 

 須藤が呟いた。

 

「何か……初めて綾小路が強そうに見える」

 

 池が頷いた。

 

「あいつ、きのこ持つと別人だな」

 

 堀北は腕を組んだまま言った。

 

「悔しいけれど、あれに関しては本物ね」

 

 結果。

 

 綾小路清隆、圧勝。

 

 満点。

 

 審査員役の教員ですら引くほどの精度だった。

 

「この個体は一見問題ありませんが、軸の根元に圧迫があります。明日には変色します」

 

「こちらは傘の開きが進んでいます。加熱用なら可ですが、今回の出荷規格では不可です」

 

「これは合格です。ただし保存温度が二度高ければ半日で品質が落ちます」

 

 坂柳は小さく拍手した。

 

「見事です、綾小路くん」

 

「ありがとう」

 

「本当に、そこだけは誰にも負けないのですね」

 

「ああ」

 

「素晴らしいです。あまりにも限定的で、あまりにも真剣で、少し羨ましいくらいです」

 

「そうなのか」

 

 だが、試験全体ではDクラスはギリギリの勝負だった。

 

 ホワイトマッシュルーム選別で得た一点が、最後に効いた。

 

 堀北の采配。

 

 須藤の成長。

 

 平田の調整。

 

 幸村の学力。

 

 軽井沢の根回し。

 

 櫛田の協力。

 

 そして綾小路の、あまりにも狭い専門性。

 

 それらが重なって、DクラスはAクラス相手に辛うじて勝利した。

 

 坂柳有栖は敗北後、実に複雑な顔をしていた。

 

「まさか、私がホワイトマッシュルームで敗れるとは思いませんでした」

 

「俺も、そういう試験になるとは思わなかった」

 

「あなた、面白いですね」

 

「そうか」

 

「ええ。強者ではない。怪物でもない。ですが、自分だけの畑を持っている」

 

「畑というか、栽培棟だ」

 

「細かいですね」

 

 坂柳はくすりと笑った。

 

 一年が終わる頃、Dクラスは少し変わっていた。

 

 最初はまとまりがなかった。

 

 失敗も多かった。

 

 山内を失った。

 

 龍園に怯えた。

 

 櫛田の問題も完全には解決していない。

 

 坂柳にも実力差を見せつけられた。

 

 それでも、クラスは前に進んでいた。

 

 その中心にいたのは、堀北だった。

 

 支えたのは平田であり、軽井沢であり、須藤であり、他のクラスメイトたちだった。

 

 綾小路清隆は、決して裏の支配者ではなかった。

 

 ただ、必要な時に換気をした。

 

 食料を管理した。

 

 体調を気にした。

 

 きのこを食べるなと言った。

 

 ホワイトマッシュルームを選別した。

 

 それだけだ。

 

 ある日、堀北は言った。

 

「あなた、結局最後までよく分からない人だったわ」

 

「そうか」

 

「普通なのに、普通じゃない」

 

「ホワイトマッシュルーム関連以外は普通だ」

 

「そこが普通じゃないのよ」

 

 綾小路は返事に困った。

 

 堀北は窓の外を見た。

 

「でも、あなたが普通でよかったのかもしれない」

 

「なぜだ」

 

「何でもできる人間が一人で解決していたら、私は変われなかったと思うから」

 

「そうか」

 

「ええ。あなたが頼りにならない部分が多かったから、私たちは自分で動くしかなかった」

 

「褒めているのか?」

 

「半分くらいは」

 

「残り半分は?」

 

「呆れているわ」

 

 綾小路は少しだけ笑った。

 

 その表情を見て、堀北はわずかに目を細めた。

 

「あなた、笑うのね」

 

「普通には」

 

「そう」

 

 

 ◇

 

 

 春休み前。

 

 綾小路のもとに、実家から荷物が届いた。

 

 中には、白く整ったホワイトマッシュルームが詰められていた。

 

 添えられた紙には、父の字でこう書かれていた。

 

『清隆へ。

 

 一年目はどうだった。

 

 環境は人を育てる。

 

 だが、環境を整えるのもまた人だ。

 

 お前は農家の息子だ。

 

 どこへ行っても、よく見て、よく育てろ』

 

 綾小路は紙を畳んだ。

 

 ホワイトルーム出身ではない。

 

 最高傑作ではない。

 

 人間離れした怪物でもない。

 

 ただのホワイトマッシュルーム農家の息子。

 

 能力は偏っていて、戦略も苦手で、喧嘩も弱く、勉強も平均。

 

 それでも、一年を生き残った。

 

 Dクラスも、生き残った。

 

 山内はいなくなった。

 

 その事実は消えない。

 

 だが、残った者たちは進む。

 

 綾小路は共有キッチンに向かった。

 

 フライパンを温め、バターを落とす。

 

 薄く切ったホワイトマッシュルームを並べる。

 

 じゅう、と小さな音がした。

 

 そこへ須藤が来た。

 

「お、またきのこか」

 

「ああ」

 

 軽井沢も顔を出す。

 

「いい匂いするじゃん」

 

 平田が笑う。

 

「みんなで食べてもいいかな?」

 

 櫛田が少し遅れて現れた。

 

「私もいい?」

 

 堀北は呆れた顔で立っていた。

 

「あなたたち、勝手に集まりすぎよ」

 

「嫌なら食べなくてもいい」

 

「食べないとは言っていないわ」

 

 綾小路は皿を並べた。

 

 一人分ではない。

 

 最初から、何人かで食べる量を作っていた。

 

 須藤が一口食べて言った。

 

「うめえ」

 

 軽井沢も頷く。

 

「普通においしい」

 

 櫛田は微笑んだ。

 

「綾小路くん、これだけは本当にすごいよね」

 

「これだけって言うなよ」

 

 須藤が笑った。

 

 堀北は静かに口に運び、少しだけ表情を緩めた。

 

「悪くないわ」

 

「それはよかった」

 

 綾小路は思った。

 

 マッシュルームは、環境で育つ。

 

 だが、料理になれば、誰かと分け合うこともできる。

 

 それは農場では学ばなかったことだった。

 

 一年の終わり。

 

 Dクラスは、まだAクラスには遠い。

 

 綾小路清隆も、特別な怪物ではない。

 

 けれど彼には、ひとつだけ誰にも負けないものがある。

 

 ホワイトマッシュルーム。

 

 それだけでどこまで行けるのかは、誰にも分からない。

 

 だが少なくとも、次の一年。

 

 Dクラスの食卓と湿度管理だけは、かなり安心だった。

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