もし綾小路清隆がホワイトルーム出身じゃなくて、ホワイトマッシュルーム農家出身だったら   作:東頭鎖国

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三年生編

 三年生になった。

 

 高度育成高等学校での最後の一年。

 

 Aクラスで卒業すれば、将来はほぼ保証される。

 

 それを目指して、各クラスは残された時間を削り合う。

 

 坂柳有栖。

 

 龍園翔。

 

 一之瀬帆波。

 

 堀北鈴音。

 

 それぞれのクラスが、それぞれの形で頂点を狙っていた。

 

 そして堀北クラスには、綾小路清隆がいた。

 

 ただし、万能の怪物ではない。

 

 ホワイトルーム出身ではない。

 

 ホワイトマッシュルーム農家出身である。

 

 成績は、少しだけ平均より上になった。

 

 運動能力は、普通。

 

 喧嘩は、弱い。

 

 策略は、そこそこ考えるようになったが、龍園や坂柳には到底及ばない。

 

 人心掌握などできない。

 

 ただし、ホワイトマッシュルームの品質判定、鮮度管理、湿度管理、食材ロス削減、衛生管理、きのこ関連の危機察知能力だけは、学年最強だった。

 

 その一点だけで、彼は三年生になっていた。

 

 本人もよく分かっていた。

 

 この学校で生き残れたのは、自分がすごかったからではない。

 

 堀北が伸びたからだ。

 

 須藤が変わったからだ。

 

 軽井沢が自分の足で立つようになったからだ。

 

 平田が折れても戻ってきたからだ。

 

 櫛田が仮面だけではなく、傷ごと残ることを選んだからだ。

 

 そしてクラス全体が、少しずつ腐らない箱になったからだ。

 

 綾小路は、ただ湿度を見ていただけかもしれない。

 

 だが、それでも三年目は来た。

 

 

 

 

 春。

 

 始業式の日。

 

 教室には、去年とは違う緊張感があった。

 

 もう、猶予は少ない。

 

 Aクラスとの差を詰めなければならない。

 

 それも、ただ勝つだけでは足りない。

 

 致命的な失点を避けながら、他クラスを上回る必要がある。

 

 堀北は教壇の前に立った。

 

「今年が最後よ」

 

 声は落ち着いていた。

 

 一年生の頃のような、孤立した鋭さはない。

 

 二年生の頃のような、肩に力が入った感じも薄い。

 

「私たちはAクラスを目指す。そのために、全員が自分の役割を理解して動く必要があるわ」

 

 須藤が真剣な顔で頷いた。

 

 平田は静かに周囲を見ていた。

 

 軽井沢は机に頬杖をつきながらも、目は逃げていない。

 

 櫛田は笑っていた。

 

 その笑顔は、昔より少し雑だった。

 

 だが、そのぶん本物に近かった。

 

 堀北は最後に綾小路を見た。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「あなたには、今年も裏方をお願いするわ」

 

「分かった」

 

「具体的には、体調管理、休憩管理、食事管理、空気が悪くなった時の換気」

 

「任せてくれ」

 

「それから、きのこ関連の危機管理」

 

「そこは一番任せてくれ」

 

 教室のあちこちから笑いが起こった。

 

 昔なら、そこで綾小路は少し浮いていただろう。

 

 だが今は違う。

 

 クラスメイトたちは、綾小路がそういう人間だと知っている。

 

 できないことの方が多い。

 

 でも、できることだけは妙に深い。

 

 その奇妙な安心感が、堀北クラスの一部になっていた。

 

 

 ◇

 

 

 三年生最初の大きな特別試験は、進路査定試験だった。

 

 内容は単純ではない。

 

 生徒一人ひとりが希望進路を提出し、その進路に必要な能力を学校が複数項目で評価する。

 

 学力。

 

 対人能力。

 

 実務処理能力。

 

 協調性。

 

 リーダーシップ。

 

 専門性。

 

 そして、クラス全体の進路達成率。

 

 つまり、個人戦でありながら、クラス戦でもあった。

 

 堀北はすぐに分析した。

 

「進路希望を適当に出すと不利になるわ。自分の能力と噛み合ったものを選ぶ必要がある」

 

 幸村が頷く。

 

「学力組は進学系で固められる。問題は、まだ希望が曖昧な連中だな」

 

 須藤が手を挙げた。

 

「俺はスポーツ系で行く」

 

「それは分かりやすいわ」

 

 軽井沢は少し考えた。

 

「私は……接客とか、販売とか、そういうのもありかも」

 

 平田は人材系や教育系に興味を示した。

 

 櫛田は広報、接客、対人調整。

 

 そして綾小路。

 

 堀北が紙を見る。

 

「綾小路くん。あなたの希望進路、これは何?」

 

「ホワイトマッシュルーム農家」

 

「でしょうね」

 

「実家を継ぐ可能性がある」

 

「むしろそれ以外を書かれた方が困惑するわ」

 

 進路査定で、綾小路は初めて公式に強かった。

 

 学力はそこそこ。

 

 対人能力は普通。

 

 リーダーシップは低め。

 

 運動も普通。

 

 だが、専門性だけが異常値だった。

 

 学校側の面接官も困惑した。

 

「綾小路くん。ホワイトマッシュルーム栽培における重要項目は?」

 

「温度、湿度、換気、衛生、菌床管理、収穫タイミング、出荷までの温度変化です」

 

「では、収穫適期の判断基準は?」

 

「傘の開き、軸の太さ、表面の張り、色、重量感、周辺個体との密度です。市場規格によって若干変わります」

 

「……なるほど」

 

「必要なら実演できます」

 

「いや、今は結構です」

 

 評価表にはこう記された。

 

『専門性:極めて高い。ただし範囲が極端に限定される』

 

 堀北は結果を見て言った。

 

「あなた、本当にそこだけで生きていけそうね」

 

「そうだと助かる」

 

「褒めているのよ」

 

「ありがとう」

 

「ただし、一般教養も落とさないで」

 

「分かった」

 

 この試験で、堀北クラスは予想以上に得点を伸ばした。

 

 理由は、全員が自分の弱みを隠すのではなく、役割として整理できたからだった。

 

 万能な生徒はいない。

 

 だが、誰かの弱みを別の誰かが埋める。

 

 その考え方が、三年目になってようやくクラス全体に浸透していた。

 

 

 ◇

 

 

 試験後、坂柳有栖が綾小路の前に現れた。

 

 相変わらず、静かで優雅だった。

 

「綾小路くん」

 

「坂柳」

 

「進路査定、ずいぶん良い評価だったようですね」

 

「専門性だけは」

 

「ええ。専門性だけは」

 

 坂柳は楽しげに笑った。

 

「もしあなたがホワイトルーム出身だったなら、私はあなたとの勝負にもっと執着したでしょう」

 

「俺は違う」

 

「知っています。ホワイトマッシュルーム農家出身」

 

「ああ」

 

「ですが、不思議ですね。私は今のあなたにも、別の興味があります」

 

「なぜだ」

 

「あなたは、自分が天才でないことを受け入れている。そこが面白い」

 

「受け入れるしかないからな」

 

「普通の人間は、自分の普通さをなかなか認められません」

 

「俺の場合、比較対象がホワイトマッシュルームだからかもしれない」

 

「また変なことを」

 

 坂柳はくすりと笑った。

 

「あなたのクラスは、去年より強くなりました」

 

「堀北たちが頑張った」

 

「ええ。あなたではない」

 

「そうだな」

 

「でも、あなたがいなければ、少し違った形になっていたでしょう」

 

 坂柳は杖を軽く鳴らした。

 

「あなたは王ではない。騎士でもない。盤上の駒ですらないかもしれない」

 

「じゃあ何だ」

 

「盤面の湿度管理係」

 

「それは強いのか?」

 

「少なくとも、木製の盤には必要かもしれません」

 

 綾小路には、褒められているのか分からなかった。

 

 

 

 

 夏。

 

 夏の特別試験が発表された時、三年生全体がざわついた。

 

 試験名は、総合実務競争。

 

 各クラスが複数の実務課題に挑み、品質、効率、利益、チームワークで評価される。

 

 課題はランダム。

 

 接客。

 

 資料作成。

 

 倉庫整理。

 

 調理。

 

 簡易営業。

 

 イベント運営。

 

 そしてその中に、一つだけ妙な項目があった。

 

『農産物品質管理』

 

 綾小路クラスが一斉に彼を見た。

 

 須藤が叫んだ。

 

「来たぞ!」

 

 軽井沢が笑う。

 

「綾小路接待試験じゃん」

 

 堀北は冷静に言った。

 

「浮かれないで。農産物全般なら、ホワイトマッシュルームとは限らないわ」

 

「確かに」

 

 綾小路は頷いた。

 

「トマトなら普通だ」

 

「でしょうね」

 

「レタスも普通だ」

 

「それもでしょうね」

 

「ホワイトマッシュルームなら勝てる」

 

「ピンポイントすぎるのよ」

 

 試験当日。

 

 課題として出されたのは、複数の食材の品質判定と保管計画だった。

 

 野菜、果物、卵、肉、魚。

 

 そして、きのこ類。

 

 しいたけ。

 

 しめじ。

 

 えのき。

 

 エリンギ。

 

 ブラウンマッシュルーム。

 

 ホワイトマッシュルーム。

 

 綾小路の目つきが変わった。

 

「来たな」

 

 須藤が小声で言う。

 

「綾小路が戦闘モードに入った」

 

「きのこ限定のね」

 

 軽井沢が答えた。

 

 綾小路はホワイトマッシュルームを手に取った。

 

 その瞬間だけ、彼は本当に強かった。

 

「これは鮮度良好。ただし保管時の水滴跡が少しある。早めに使うべきです」

 

「これは傘が開き始めている。スライスして加熱用なら問題ありません」

 

「これは不可。変色が進んでいます」

 

「これは良い。香りも問題ありません」

 

 他の食材については、クラスの別メンバーが対応した。

 

 調理は軽井沢と櫛田を中心に回す。

 

 接客は平田と櫛田。

 

 体力作業は須藤たち。

 

 資料化は幸村。

 

 堀北が全体指揮。

 

 綾小路は、きのこ類と保管環境だけを見続けた。

 

 結果、堀北クラスは農産物品質管理で大きく得点した。

 

 特に食材ロスが極端に少なかった。

 

 龍園は結果を見て笑った。

 

「またきのこで点取ってんのか、お前ら」

 

 堀北が冷静に返す。

 

「取れる点を取っただけよ」

 

「それで最後に勝たれると腹立つな」

 

 龍園は綾小路を見た。

 

「おい、きのこ。お前、卒業したら本当に農家やんのか」

 

「可能性は高い」

 

「似合ってるぜ」

 

「ありがとう」

 

「褒めてねえよ」

 

「そうなのか」

 

 龍園は鼻で笑った。

 

「でもな、商売やるなら値付けは覚えろ。お前、文化祭の時も安売りしすぎだった」

 

「参考にする」

 

「本気で参考にすんな。調子狂う」

 

 この頃には、龍園も綾小路を敵というより、妙な専門職として見ていた。

 

 潰す対象ではない。

 

 ただ、放っておくと変な場面で点を取ってくる。

 

 龍園にとっては、それが少し腹立たしかった。

 

 

 ◇

 

 

 三年生の夏を過ぎる頃、一之瀬帆波のクラスは大きく揺れていた。

 

 善性。

 

 信頼。

 

 助け合い。

 

 それらは一之瀬クラスの強みだった。

 

 だが、最後の一年では、それが弱点にもなる。

 

 誰も切れない。

 

 誰も疑えない。

 

 誰も厳しいことを言えない。

 

 綾小路は、一之瀬と偶然話す機会を得た。

 

 彼女はいつものように笑っていたが、疲れていた。

 

「綾小路くんは、すごいよね」

 

「何がだ」

 

「自分の得意なことがはっきりしてる」

 

「狭いだけだ」

 

「でも、それがあるのは羨ましいよ」

 

 一之瀬は自嘲気味に笑った。

 

「私、みんなを助けたいって思ってたんだけど、それだけじゃ駄目なのかな」

 

 綾小路は少し考えた。

 

 こういう時、何を言えばいいのか分からない。

 

 人間はマッシュルームではない。

 

 だが、マッシュルームの話しか、自分にはできない。

 

「甘さと腐敗は違う」

 

「え?」

 

「ホワイトマッシュルームは、鮮度が良い時は甘い香りがする。でも、傷むと匂いが変わる」

 

 一之瀬は不思議そうに聞いていた。

 

「甘いことが悪いわけじゃない。ただ、傷んでいるのに甘いと思い込むと危ない」

 

「それ、私のクラスのこと?」

 

「分からない。ただ、見ないふりはよくない」

 

 一之瀬はしばらく黙った。

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「綾小路くんの例えって、相変わらずきのこなんだね」

 

「それしかない」

 

「でも、ちょっと分かった気がする」

 

 この一言で一之瀬が完全に変わるわけではない。

 

 彼女の問題は、そんなに簡単ではない。

 

 だが、少しだけ考えるきっかけにはなった。

 

 

 ◇

 

 

 秋。

 

 三年生の文化祭。

 

 堀北クラスでは、ほとんど満場一致で出し物が決まった。

 

「去年の続きでいいんじゃね?」

 

 須藤が言った。

 

「ホワイトマッシュルーム亭、リベンジだろ」

 

「去年は成功したじゃない」

 

 堀北が言う。

 

「だからこそ、今年はさらに上を狙う」

 

 軽井沢がスマホを見せた。

 

「去年のお客さん、けっこう覚えてるんだよね。SNSっぽい校内掲示でも話題になってたし」

 

 平田が頷く。

 

「改善点を入れれば、もっと利益を出せると思う」

 

 櫛田も言った。

 

「接客導線、去年より良くできるよ」

 

 綾小路は静かに言った。

 

「今年は、ホワイトマッシュルームのアヒージョも出したい」

 

 教室が少し沸いた。

 

「洒落てるじゃん」

 

「匂い強そう」

 

「パンとセットにすれば売れるかも」

 

 堀北は表情を引き締めた。

 

「衛生管理と火の扱いは?」

 

「手順書を作る」

 

「原価は?」

 

「去年の反省を踏まえる。龍園にも言われた」

 

「なぜ龍園くんの助言を取り入れているの?」

 

「値付けに関しては正しかった」

 

「そこは否定できないわね」

 

 今年のホワイトマッシュルーム亭は、本気だった。

 

 メニューは改良された。

 

 値段も適正化された。

 

 仕入れ量も去年より精密になった。

 

 綾小路は実家と交渉し、父から厳しい条件付きで最高品質のホワイトマッシュルームを送ってもらった。

 

『清隆。去年より多いな』

 

「はい」

 

『保管は』

 

「冷蔵設備を増やしました」

 

『調理導線は』

 

「昨年の反省を反映しています」

 

『価格設定は』

 

「値上げしました」

 

『よろしい』

 

 父は満足そうだった。

 

『清隆。商売とは、安く売ることではない。価値を正しく伝え、正しい価格で届けることだ』

 

「分かりました」

 

『ようやく農家らしくなってきたな』

 

 文化祭当日。

 

 ホワイトマッシュルーム亭は、去年以上の人気を集めた。

 

 坂柳が来た。

 

 龍園が来た。

 

 一之瀬も来た。

 

 下級生も来た。

 

 教師も来た。

 

 茶柱はアヒージョを食べて、少しだけ目を見開いた。

 

「美味いな」

 

「ありがとうございます」

 

「綾小路。お前、卒業後は本当に農家でいいのか?」

 

「はい」

 

「そうか」

 

 茶柱は皿を置いた。

 

「お前には、妙な才能がある。だが、それを恥じる必要はない」

 

「恥じてはいません」

 

「ならいい」

 

 少し離れたところで、堀北がその会話を聞いていた。

 

 彼女は何も言わなかった。

 

 ただ、少しだけ笑っていた。

 

 文化祭の結果、堀北クラスは大成功を収めた。

 

 派手な策ではない。

 

 誰かを出し抜いたわけでもない。

 

 正しい品質の商品を、正しい価格で、正しい導線で提供した。

 

 農家の息子の知識が、クラスの総合力と噛み合った結果だった。

 

 

 ◇

 

 

 冬。

 

 卒業まであと数ヶ月。

 

 その時期に行われた特別試験は、苛烈だった。

 

 クラス同士の勝敗だけではなく、個人の退学リスクが絡む。

 

 三年生の終盤での退学。

 

 それはあまりにも重い。

 

 山内の退学を経験している堀北クラスには、独特の緊張が走った。

 

 誰もが、あの時の空気を覚えていた。

 

 切り捨てるのか。

 

 守るのか。

 

 勝つために、どこまでやるのか。

 

 堀北は言った。

 

「感情だけでは勝てない。でも、誰かを簡単に捨てるクラスにもしたくない」

 

 平田が頷いた。

 

「僕も同じだ」

 

 軽井沢は静かに言った。

 

「でも、守るなら守るで覚悟いるよね」

 

 櫛田が笑わずに言った。

 

「綺麗事だけじゃ残れないもんね」

 

 須藤は拳を握った。

 

「俺は、もう誰かがいなくなるのは嫌だ」

 

 綾小路は黙って聞いていた。

 

 彼には最適解が分からなかった。

 

 坂柳なら、もっと冷静に切るかもしれない。

 

 龍園なら、勝つために犠牲を利用するかもしれない。

 

 一之瀬なら、誰も切れずに苦しむかもしれない。

 

 堀北は、そのどれでもない道を探していた。

 

 綾小路は言った。

 

「一度、全部出した方がいい」

 

 堀北が見る。

 

「何を?」

 

「不安も、不満も、誰が危ないかも。箱の下に隠しておくと、後で悪くなる」

 

 櫛田が苦笑した。

 

「また箱詰めの話?」

 

「ああ」

 

「でも、分かるよ」

 

 クラスは、本音を出した。

 

 それは綺麗な話し合いではなかった。

 

 不満も出た。

 

 責任の押し付け合いもあった。

 

 涙もあった。

 

 怒声もあった。

 

 だが、以前とは違った。

 

 誰か一人を黙って標的にするのではなく、全員で状況を見た。

 

 退学候補になりかけた生徒にも、役割を与えた。

 

 苦手なことを外し、できることに集中させた。

 

 堀北が決断し、平田が支え、櫛田が対人面を補い、軽井沢が裏の空気を拾い、須藤が前に出た。

 

 綾小路は、休憩時間に温かいスープを配った。

 

「こんな時まできのこかよ」

 

 誰かが笑った。

 

「消化がいい」

 

「理由そこ?」

 

「温かいものを飲むと、少し落ち着く」

 

 そのスープは、ホワイトマッシュルームのポタージュだった。

 

 不思議と、教室の空気が少しだけ柔らかくなった。

 

 結果として、堀北クラスは退学者を出さずに試験を乗り切った。

 

 完全勝利ではない。

 

 損失はあった。

 

 ポイントも削られた。

 

 だが、誰も失わなかった。

 

 試験後、須藤は綾小路に言った。

 

「お前、山内の時のこと、覚えてるか」

 

「ああ」

 

「俺も忘れてねえ」

 

「そうか」

 

「今回は、違ったな」

 

「ああ」

 

 綾小路は短く答えた。

 

 違った。

 

 それだけで、十分だった。

 

 

 ◇

 

 

 卒業直前。

 

 最後の特別試験が告げられた。

 

 名称は、卒業総合選抜試験。

 

 学力、運動、実務、交渉、判断、協調。

 

 三年間で培ったすべてを使う総合戦。

 

 各クラスは代表を選び、複数の種目で争う。

 

 Aクラス卒業を決める、最後の戦いだった。

 

 堀北クラスは、もうかつてのDクラスではない。

 

 だが、相手も強い。

 

 坂柳。

 

 龍園。

 

 一之瀬。

 

 誰も簡単には譲らない。

 

 試験前夜、堀北は綾小路を呼んだ。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「あなたに聞いておきたいことがある」

 

「俺に分かることなら」

 

「あなたは、このクラスでよかった?」

 

 綾小路は少し黙った。

 

 質問の意味を考える。

 

 もし別のクラスだったら。

 

 坂柳のクラスなら、もっと洗練された環境だったかもしれない。

 

 龍園のクラスなら、もっと強引に動くことを覚えたかもしれない。

 

 一之瀬のクラスなら、もっと優しさに触れたかもしれない。

 

 だが、堀北クラスには、失敗があった。

 

 湿度が悪かった。

 

 換気も足りなかった。

 

 傷んだ部分を見逃した。

 

 それでも、少しずつ整えた。

 

 全員が、少しずつ変わった。

 

「よかったと思う」

 

「理由は?」

 

「このクラスは、最初はあまり良い状態じゃなかった」

 

「否定できないわね」

 

「でも、変わった。人間はマッシュルームより難しいが、面白い」

 

「最後まで比較対象はマッシュルームなのね」

 

「それしかない」

 

 堀北は小さく笑った。

 

「あなたらしいわ」

 

 

 ◇

 

 

 最終試験当日。

 

 堀北クラスは全力でぶつかった。

 

 学力種目では幸村たちが奮闘する。

 

 運動種目では須藤が躍動する。

 

 対人種目では平田と櫛田が強い。

 

 判断系では堀北が指揮を執る。

 

 軽井沢は細かな人間関係の揺れを拾う。

 

 綾小路は、やはり裏方だった。

 

 だが最終盤。

 

 学校側が用意した最後の種目が発表された。

 

『総合商品企画・販売実務』

 

 各クラスに同一の食材と資材が配られ、短時間で商品を企画し、価格を設定し、販売シミュレーションを行う。

 

 評価項目は、品質、利益率、説得力、実現性。

 

 配られた食材の中に、ホワイトマッシュルームがあった。

 

 堀北がゆっくりと綾小路を見た。

 

「最後に来たわね」

 

「ああ」

 

 須藤が笑った。

 

「決めろよ、きのこ」

 

 軽井沢が言った。

 

「ここで外したら一生言うから」

 

 櫛田が微笑む。

 

「大丈夫。綾小路くんなら、きのこだけは信じられる」

 

「だけは余計だ」

 

 平田が穏やかに言う。

 

「頼んだよ、綾小路くん」

 

 綾小路は頷いた。

 

 最後の種目。

 

 彼は初めて、正面に立った。

 

「ホワイトマッシュルームを主役にする」

 

 堀北が頷く。

 

「具体案は?」

 

「三年間でやったことの集大成だ」

 

 商品は、ホワイトマッシュルームのポタージュと、バター焼きのセット。

 

 文化祭で得た販売経験。

 

 進路査定で整理した専門性。

 

 実務試験で培った保管とロス管理。

 

 体育祭や試験準備で学んだ体調管理。

 

 そして、龍園から学んだ値付け。

 

「安売りしない」

 

 綾小路は言った。

 

「価値を説明する。品質を見せる。保存と調理の根拠を提示する。納得して買ってもらう」

 

 堀北はわずかに目を見開いた。

 

「あなた、成長したわね」

 

「龍園のおかげかもしれない」

 

「それは少し嫌ね」

 

 企画発表で、綾小路は前に出た。

 

 相変わらず、派手な話術はない。

 

 声も大きくない。

 

 だが、説明は正確だった。

 

「ホワイトマッシュルームは、香りと食感が重要です。今回の商品では、加熱時間を短くし、主役としての存在感を残します」

 

 彼は品質管理表を出した。

 

「保管温度、調理時間、ロス率を想定しています。仕入れから提供までの流れも単純化しました」

 

 価格表を出す。

 

「去年の文化祭では、価格設定が低すぎました。今年は、品質に見合う価格にしています」

 

 審査員が聞いた。

 

「なぜホワイトマッシュルームを主役に?」

 

 綾小路は少しだけ考えた。

 

「地味だからです」

 

 会場が少しざわついた。

 

「派手ではありません。肉や魚ほど目立たない。ですが、扱い方を間違えなければ、香りも食感も出せる。主役にも脇役にもなれる。保存は繊細ですが、そのぶん丁寧に扱えば価値が出る」

 

 彼は続けた。

 

「この三年間、俺のクラスもそうでした」

 

 堀北が静かに目を伏せた。

 

「最初から優秀だったわけではありません。傷もありました。失敗もしました。腐りかけた時もありました。でも、捨てずに見て、整えて、役割を変えて、何とかここまで来ました」

 

 綾小路は、審査員ではなく、クラスメイトの方を見た。

 

「だから、この商品はうちのクラスに合っています」

 

 それは上手い演説ではなかった。

 

 だが、綾小路清隆が三年間で初めて、自分の言葉でクラスを語った瞬間だった。

 

 坂柳は静かに微笑んだ。

 

 龍園はつまらなそうに、しかしどこか満足げに笑った。

 

 一之瀬は目を細めた。

 

 堀北は、何も言わなかった。

 

 結果発表。

 

 僅差だった。

 

 どのクラスも強かった。

 

 最後まで分からなかった。

 

 だが、最終種目で堀北クラスは高得点を取った。

 

 それが、決定打になった。

 

 堀北クラスは、Aクラスに届いた。

 

 

 ◇

 

 

 そして、卒業式の日。

 

 堀北クラスは、Aクラスとして卒業した。

 

 かつてのDクラスが、最後にそこまで辿り着いた。

 

 須藤は泣きそうになっていた。

 

 平田は穏やかに笑っていた。

 

 軽井沢は「泣いてないし」と言いながら目元を押さえていた。

 

 櫛田は、作り物ではない笑顔を浮かべていた。

 

 堀北は、凛としていた。

 

 だが、その目には少しだけ柔らかさがあった。

 

 卒業式後、綾小路は校舎裏にいた。

 

 そこに坂柳が来た。

 

「卒業おめでとうございます、綾小路くん」

 

「坂柳も」

 

「結局、あなたは最後まで怪物ではありませんでしたね」

 

「ああ」

 

「でも、退屈でもありませんでした」

 

「そうか」

 

「ええ。ホワイトマッシュルームで敗北したことは、一生忘れないでしょう」

 

「忘れてもいいと思う」

 

「嫌です。面白いので」

 

 坂柳は静かに去っていった。

 

 次に龍園が来た。

 

「おい、きのこ」

 

「綾小路だ」

 

「卒業したら本当に農家か?」

 

「たぶん」

 

「値付け間違えんなよ」

 

「気をつける」

 

「あと、安売りすんな。お前んとこのきのこ、悪くねえ」

 

「ありがとう」

 

「褒めてねえ」

 

「そうか」

 

 龍園も去った。

 

 一之瀬は、少しだけ泣きそうな顔で言った。

 

「綾小路くん、ありがとう」

 

「俺は何もしていない」

 

「そういうところ、最後まで変わらないね」

 

「そうか」

 

「でも、きのこの話、少し役に立ったよ」

 

「それならよかった」

 

 一之瀬は笑った。

 

 最後に、堀北が来た。

 

「ここにいたのね」

 

「ああ」

 

「みんな探しているわ」

 

「すぐ行く」

 

 堀北は隣に立った。

 

 しばらく、二人は黙って校舎を見ていた。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「あなた、最初は本当に変な人だと思っていたわ」

 

「今は?」

 

「今も変よ」

 

「そうか」

 

「でも、必要な人だった」

 

 綾小路は少しだけ黙った。

 

「俺は、ホワイトマッシュルーム以外は普通だ」

 

「知っているわ」

 

「最後まで、何でもできる人間にはなれなかった」

 

「ならなくてよかったのよ」

 

 堀北は静かに言った。

 

「あなたが何でもできたら、私たちはここまで変わらなかった。あなたが普通で、頼りなくて、でも一つだけ誰にも負けないものを持っていたから、私たちは自分の役割を探せた」

 

「そうなのか」

 

「ええ」

 

 堀北は少しだけ笑った。

 

「あなたは、最高傑作ではなかった。でも、最高の農家の息子だったのかもしれないわね」

 

「それは褒めているのか?」

 

「今回は、かなり」

 

「ありがとう」

 

 卒業式の後、堀北クラスは最後に集まった。

 

 綾小路は、実家から送られてきたホワイトマッシュルームを使って、簡単な料理を作った。

 

 バター焼き。

 

 ポタージュ。

 

 アヒージョ。

 

 文化祭で作ったもの。

 

 試験前に飲んだもの。

 

 三年間で何度も作ったもの。

 

 それら思い出の品を、みんなで食べた。

 

 須藤が言った。

 

「やっぱうめえな」

 

 軽井沢が言った。

 

「結局、卒業まできのこだったね」

 

 櫛田が笑った。

 

「でも、綾小路くんらしいよ」

 

 平田が頷いた。

 

「うん。すごく」

 

 堀北は一口食べて、静かに言った。

 

「悪くないわ」

 

「最後までそれか」

 

「一番の褒め言葉よ」

 

 綾小路は少しだけ笑った。

 

 ホワイトルームではない。

 

 ホワイトマッシュルーム農家。

 

 そこで育った少年は、天才ではなかった。

 

 怪物でもなかった。

 

 誰よりも強いわけではなく、誰よりも賢いわけでもなかった。

 

 ただ、白いマッシュルームの扱いだけは誰にも負けなかった。

 

 そして、その偏った知識で、少しだけ空気を整えた。

 

 少しだけ誰かを温めた。

 

 少しだけ、腐らないように見ていた。

 

 その結果、クラスは卒業の日にAクラスへ辿り着いた。

 

 綾小路清隆は、皿の上のホワイトマッシュルーム達を見た。

 

 白く、丸く、香りが立っている。

 

 農場で見ていた時とは違う。

 

 これはもう、商品ではない。

 

 誰かと分け合う料理だった。

 

 卒業後、彼がどこへ行くのかは分からない。

 

 実家を継ぐかもしれない。

 

 別の道を探すかもしれない。

 

 けれど、ひとつだけ確かなことがある。

 

 どんな環境に行っても。

 

 湿度と温度と空気の悪さには、きっと気づくだろう。

 

 そして必要なら、窓を開ける。

 

 それが、ホワイトマッシュルーム農家出身の綾小路清隆が、三年間で得た答えだった。

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