廊下に人気はなかった。エレベーターで最上階まであがる。階段を上り、屋上まで続く扉の前にみぞれちゃんとよこみちゃんがいた。
先に気が付いたのはよこみちゃんの方らしかった。彼女は目を見開いた。鼻先を上げ、恐ろしいものを見るように私を見た。
「あ、あの……桜さん。あの人は……」
「あー、食べちゃった」
「え?」
みぞれちゃんが驚いたような顔を浮かべる。同じく鼻先を上げる。眉間に皺を寄せ、よこみちゃんを守るように前に出た。
「そう警戒しなくても。何せ、同族だからね。身体は反応しないし、何より『血の契約』があるじゃないか。私は君に逆らえないでしょう? 逆らう意味もないし」
「……それはそうだけど、私は、貴方が理解できない。ずっと理解できないと思っていたけれど、今はそれ以上に」
「そうかしらん? 朱族が人を食らうのは普通のことじゃないの」
「でも、桜さんは、あの人と仲良かったじゃないですか! そういう友達の、融和の……」
「そうそう、友達の、それどころか恋人の。穿って言えば一夜の関係を目指していたとも」
「なら」
「でも食べちゃった。仕方ないね、脳裏さんが気を許し過ぎちゃったから」
たはーっと私は笑ってみた。「それにしても意外だね」と私は言ってみた。
「よこみちゃんはともかく、みぞれちゃんまでショックを受けるんだ。脳裏さんが死んじゃったことについて」
「それは、当たり前でしょ」
「そうかな。だってあの人、この状況ではどうでもいい人だったじゃない。人臓院にしても祀場にしても、私が殺したってどうでも良いような人でしょう?」
「それはそうだけど、それは私の話でしょ」
「うん?」と私は首を傾げた。どうにもみぞれちゃんは、本気で怒っているようだった。
「いやいや、それはおかしいだろう。憤るなら、どうして守ってやらなかったのさ。友情を重んじるというのならさ」
たった今、よこみちゃんを守るように私と相対しているように、脳裏さんの死に憤るというのなら、脳裏さんもまた守ってやれば良かった。そうではなく、どうでも良いというのなら、どうして怒るのだろう。
「おかしいのは貴方の方でしょ」とみぞれちゃんは、目を細めながらも僅かに後退って、言った。
「貴方の言う通り、私からしてみれば、あの人はどうでも良かった。でも、それは私達だけの事情で、都合でしかない」
「それはみぞれちゃんが、本気で私を殺そうとしているように?」
「え?」
よこみちゃんは、小さく呟いてみぞれちゃんの顔を見た。彼女は何も言わなかった。しかしその沈黙は肯定に等しいだろう。
「都合を押し付けることは、暴力と一緒だと分かっている」とみぞれちゃんは言った。
「でも、それで怒ったり、憎んだりするのが普通じゃない。人臓院の人間は悍ましくて、恐ろしくて、私は味方なんてしたくない。だけど、貴方だけは味方したいんじゃなかったの? 貴方だけが、彼女を友達だと思っていたんじゃなかったの?」
「友達というよりは恋人になりたかったね。是非ともお姉様と呼ばせたかった」
「……その、軽口。だから、おかしいの。私を恨まないの? 憎むのが普通じゃない。『血の契約』があるから? それだって、逆らえないという仕方なさではあるけれど、憎まないのはおかしい」
「なるほど」
段々と、言いたいことが分かってきた。というよりは、祀場みぞれという人間そのものか。
彼女はきっと、現実の仕方なさというものに直面しすぎて、それに逆らう事も出来ないのだろう。だからこうして、現実の仕方なさを私に強いる側になっても、その仕方なさというものを、どこか自分とはかけ離れた、単なる物理法則を用いるような形でしか使えないでいる。
だが、それでも感情は自由だと言いたいわけだ。現実の仕方なさの前に屈服しながらも、怒ることと恨むことは自由だと。
だからこそ、私がこうして会話できているのが、不思議で不気味でたまらないと。
「しかし、恨んでなどいないとも。いや、恨んでいるのかな? ムカつくとかはちょっとばかし思っているのかもしれない」
「それは、どういう」
「どうだろうな? 私にもよく分からない。脳裏さんが死んだってどうでも良いのかもしれないね」
わざと露悪的に言ってみた。「いや、しっくりこないな」と私は呟いた。そうじゃない。
「え?」とみぞれちゃんが声を漏らした。私は屋上に繋がる扉を開けた。目から、わざと血の涙を流しながら。
「私、大切に思っていた人を殺してしまいましたわ! どうしましょう!」
屋上は暗く、静かだった。ホテルの看板に四方を囲まれ、ボイラーや空調機の機械音だけが響いている。
時雨は屋上の隅にいて、鉄骨は駆動する空調機の前に佇んでいた。彼は目を細め、首を捻った。私もまた、首を捻った。
「いや、違うな。こうじゃない。騒ぐほどじゃないが、やっぱり喪失感だ。がっかりだな」
目から流していた血を止め、拭うまでもなく肌に吸う。「がっかりだ。残念だ」確かめるように呟く。
「私はがっかりしたんだな。そうだ。そういうことらしい」
鉄骨は言った。
「お前、何がしたいの?」
「さあ?」
「あの人臓院を殺したのは、臭いで分かるよ。ほんの少し前に血を吸った臭いがする。で、何がしたくてそんな真似をする?」
「さあ? あっ、やっちゃったから、せめて悲しむべきかと思ったとか?」
「あっそ」
鉄骨は興味なさげに私から視線を切り、「おう」と時雨に向けて言った。遅れてみぞれちゃんとよこみちゃんが彼の傍に向かう。
「では、これより契約に基づき、伊藤桜と真削鉄骨の果たし合いを行います」
時雨が腕を上げる。「果たし合いね」契約に基づき。そんな契約をした覚えはない。なんで組織間のあれこれに振り回されて私がこんな事をしなくちゃいけないのか。
そりゃ、私がその組織間のいざこざにつけ込んで、安全を求めたからである。そりゃそうだが、やっぱり釈然としないのは。
「なーんか、ダウナーになっているからだろう」
やっぱり残念だったからだ。脳裏さんを殺しちゃったのは残念だった。
私は両手を上げ、笑って言った。
「ごめん、ちょっと喪に服して良い?」
「はあ?」
「いや、何か戦う気が起きなくてさー。やっぱ平和が一番だよね。話し合いで解決しようよ! だって私達って融和派だもん」
「……おい、祀場」
鉄骨は拳を構えたまま時雨に顎で示した。そして時雨が言うまでもなくみぞれちゃんは「ふざけないで」と言ってくる。
「がっかりって、何よ。友達を殺して、何それ。本当に悲しんでいるの?」
「君にとってはそんなに友達ってのは大事なのかい。私を殺そうとしている癖に文句を言うほどに」
「それは……仕方がないことでしょ。貴方は殺しすぎた。流血機関も退魔七家も、積極的に殺さなければならないほどには。私はただ、その窓口をやっているだけで……」
「無自覚的な暴力って醜悪じゃありませんかしらん?」
手をぶらぶらと遊ばせながら私は言ってみた。どの口でと言ったところだろう。少なくとも、私に殺された人々は、自覚的だろうと醜悪に違わないと言うに決まっている。
しかしふと、よこみちゃんが「そう、かもよ」と、弱々しく言った。
「みぞれちゃん、こんなのおかしいよ。殺すつもりだって、そんなの聞いてないよ」
「それは……話す意味もないでしょ。仕方のないこと。よこみには関係ないことで、関わるようなことじゃない」
「でも、桜さんだって、ああ言いながら、悲しんでいるんでしょ?」
よこみちゃんが目を向けてきた。「そうなん?」と言いながら鉄骨がぶん殴ってくる。
「そうかしら?」
「どうしてお前が聞くんだよ」
「いやあ、何か私ってのがよこみちゃんの中で違う形にあるようで。まるで新聞紙や週刊誌のように」
そいつはちょっと面白いと、鉄骨の拳をギリギリで避けながら私は言った。なあなあで始まってしまったが、やっぱり勝てるビジョンはない。
「だから、そう! 私ってば本当は悲しかったのよ! だからよこみちゃん、私に味方をして下さいませ!」
「桜さん……! そうだよね! みぞれちゃん、やっぱり私は……!」
「やめなさい、よこみ! 貴方も、こちらに近付かず、口を開かず、もう戦って!」
みぞれちゃんは、自棄になったようにそう言うと、私の中に何かを送り込んできた。直接的ではなく概念的な、強制力に従って私の身体は動こうとする。
これが『血の契約』に基づいた命令権というやつだろう。身体の方は真面目に朱族をやっているものだから、脳裏さんの死にもピンピンしているくせに、こうしてみぞれちゃんの命令は素直に受け付けてしまう。
いや、素直かな? 振り抜かれた鉄骨の拳を、勝手に避ける身体にそう思った。
こいつはどこまで勝手に動くんだろう。私とは文字通りの一心同体で、同じく私の、切り離しようがないものだが、意思の力ではどこまでこちらの命令が効くのだろう。
たとえば、下位の朱族が上位の朱族を、命令に背いて殺す事が出来るのか。
「ねえみぞれちゃん! どう思う!?」
「もう黙りなさいよ!」
「そんな命令したらもっとダウナーになっちゃうじゃん!」
ちょっとムカついたので試しに殺す気で喉を刺そうとしてみた。そうしたら刺せちゃった。
「あっ、ヤベッ」
「は、あ……?」
「ごめんマジでごめん本気じゃなかったマジでごめん」
「ご」とみぞれちゃんが血を吐く。「なん」と時雨が硬直した。よこみちゃんは声も出せずに目を見開いていた。
指先は勝手に朱色の血液を吸収しているが、同時に物凄く震えている。身体の奥深くで何かが傷付いた感覚がある。一方で、私自身はすっきりとした気分になりつつあった。
「……何だ、お前」
何だか背後の鉄骨までドン引きしている様子である。みぞれちゃんは信じられないような顔をして、ぱくぱくと口を開閉させていた。
「なに、あなた……。こんなことをして、なんの。なにが……」
「いやほんとその通りでしかないうん。組織に阿ろうってのに組織と敵対して何になるってのマジでだからマジでごめん。こんなことしたらマジで安寧の地がなくなっちゃうってマジでごめん。だからなかったことにならない?」
「ふざっ、ふざけ……」
「あっ、ごめん動揺して血を吸ったままだったわ」
私ってばドジである。そして間抜けである。何が悲しくて全方位に敵を作らなければならないのか。
みぞれちゃんはふらついて、コンクリートの上に転がった。今更ながらに「みぞれちゃん!」とよこみちゃんが縋り付く。縋り付かれながら、みぞれちゃんは何やら私を指差してくる。
「こ、この……『
「うわっ、危ねっ」
指先に氷の異能を集めていたので思わず心臓をぶち抜いてしまった。よこみちゃんが呆然とした顔を浮かべる。錆び付いた機械のようにゆっくりと私を見る。
私は気まずくなり、そして焦りまくりながら言った。
「いやー、ごめん。なんか試したら成功しちゃったわ。南無阿弥陀仏ってね。アーメンってね。ごめんなさいね」
「なんか、試したらって」
「不本意でした。でも、よこみちゃんにしてみたら良かったんじゃない?」
「なにを……」
私はふと思い付いて言った。
「だって私に味方するとかさ、融和はどこに行ったって話じゃん。ひょっとして自分の答えとかないタイプ?」
「それは……」
「だったら私と同じだね! まるで普通の人間のように、その場その場で適当に生きていければ良いのにね! まあ適当にやった結果がこの様だが」
「…………」
よこみちゃんはみぞれちゃんを抱えて、凄まじい顔を浮かべている。
その顔に「ふふふ」と笑って、嫌な予感が二つ同時に来た。後方から拳が、真横から剣が帰来する。慌てて身を屈めて避け、ひゅっと空中に一飛びして距離を取った。
鉄骨と時雨が私を睨んでいる。
「何がしたいのか、ようやく分かったよ。お前、気が狂っているんだな。なら、殺してやるよ」
「こちら、祀場時雨です。状況が変わりました。作戦を発動させて下さい。一刻も早くこいつを殺さなければなりません!」
「邪魔をするなと言いたいところだが、良いだろう。こいつに関しては、ボロ雑巾のように殺してやりたくなってきた」
二人は共に私に向けて殺意を噴出させている。私はどうやら絶体絶命らしいことに「あちゃー」と言ったが、続けて「そんなもんなの?」と少し不満に思った。
「あんなに人を人として思っていないようだったのに、みぞれちゃんにはそんな反応をするのかよ。何だか不平等だね。脳裏さんが生きていたらどう思ったか」
返事はなかった。彼らは硬く唇を閉ざし、私には殺意ばかりを向けてくる。
まあ、脳裏さんにしても私が殺したので、もう何かを言うことはないんだけどね。
「じゃ、とにかく行ってみようか!」
ヘリコプターの音を近くに聞きながら、私は血の槍を形成した。
銃撃音が連なって聞こえた。屋上を覆うホテルの看板に穴が空き、戦闘ヘリのサーチライトが私を照らす。同時に機関砲が私へ向き、秒間何十発とも知れぬ数の弾丸が飛来する。
しかし「効かない効かない」と私は笑った。この身体に既に現代兵器など通用しない。ならば何のためにわざわざ出てきたのか。
放った血の槍は、恐らくは異能の半透明の壁に防がれた。しかし弱いだろう。直ちにひび割れて衝撃が機体を揺らす。
私には敵わない程度の異能者を抱え、尚も頭上に飛ぶヘリは一台だけではない。二台、三台。機関砲が看板を壊し、サーチライトが私を照らす。
その時、輝く弾丸が私の右胸を貫いた。
続けざまに四方八方から狙い撃たれる。「よし!」と時雨が無線機に向けて言った。彼は階段に繋がる扉の向こうに避難していた。
「このまま嬲り殺せます。嬲り殺します! 鉄骨さん!」
「おうよ。この程度なら合わせられるとも」
帰来する赤に青に黄色に、つまり炎の氷の雷の異能を宿した狙撃攻撃。その最中に真削鉄骨は飛び出した。「状況位置!」時雨が叫ぶ。彼の背に弾丸は飛来せず、しかし私の左右からは飛んでくる。曲がりもする。
弾丸は異能者の意思を宿して鉄骨を避け、私を狙ってくる。
「豪華だね」と私は言ってみた。鉄骨の拳が目の前にあった。身体が勝手に動くことはなかった。
故に、私は私自身の意思で避けた。動体視力は最早、人間の比ではない。
「っと!」
避けた先に拳。それを避けた先にも拳。
既に自認は化物だというのに、それでも追い付いてくるのだから、鉄骨にしても大概人間をやめている。