ひたひたと足音に重なって聞こえる水の音。血の音。血の臭い。五月の陽気も、膨らんで爽やかな空気も、頭上に広がる青空さえ嘘に思えるほど強い血の臭い。
私は呼吸の中に血を味わっている。思えば静かに嗅ぐのはこれが初めてじゃないだろうか。今までは殺し合いの最中で、殴り合いの最中であって、そうでなくても突発的な、そんな事は気にしていられない状況だった。
しかし、今だってそうなのだ。このむっとした生々しい、糞尿の臭いを交えて漂う香り。どうしてか、本能的な喜びはなくなっている。
それは静かだからだろうか。延暦と破綻ちゃんはやけに静かだった。散々暴れて、足下には夥しい数の死体を置いているというのに、彼らはにこやかですらある。
「久しぶり。お元気で?」と延暦が一行に向けて手を振った。
一行は震えたまま動けずにいる。顔は青ざめて引きつり、それでも目を動かせないでいる。
「どう……」
「元気じゃなさそうだね?」
「どうして貴方がここにいる……!」
「いや陳腐な質問だなお前……声絞り出してそれかい……」
破綻ちゃんは「おひさ」と言ったが、それにも一行は声を返さなかった。返せなかったか。
「折角、お前のお師匠様が会いに来たのに、それじゃがっかりだよ。どう思うかな、伊藤桜」
延暦は私を見つめた。私は笑ってみた。
「仕方がないのではありませんこと? トラウマを刺激されている真っ最中でしょう。勘弁して差し上げましては?」
「中々慈悲深いことを言うものだね。嘘みたいに慈悲深いことを言う」
「それで、何か御用で?」
私の問いに、延暦は手を白衣のポケットに突っ込んだまま言う。
「いや、別に。通りがかりだよ」
「ありゃ、そうなの」
「佐渡島から朝鮮半島に密入国して大陸に渡るところだったんだ。その行きがけに何か騒がしいなあと思ったから見に来た」
「自由ねーあんた」
「そうでもないよ。世間は色々と言ってくれるけど、こっちだって大変なんだ。というか、何なんだろうね? 『
「さあ」
「『さあ』!? 『さあ』と来たよこれどう思うかな伊藤桜。これ反抗期かな? そろそろ親の下着と自分の下着を一緒に洗わなくなる時期かな?」
「まだ一緒に洗ってんの? 私と同じくらいの歳なのに。それって虐待じゃない?」
「親の下着と娘の下着を一緒に洗うのって虐待なの……?」
延暦は肩を落として「傷付くなー」と言った。
「傷付いたついでに聞くけどさ」
すぐに顔を上げ、彼は言う。
「一、どうしてお前は僕達の名前を知っている。二、どうしてお前は破綻ちゃんの製造時期を知っている。三、その他諸々」
「脳裏さんの物真似にしては最後が雑すぎない?」
「あんな雑魚は雑に扱って良いだろう。死人に口なし! 良い言葉だね。だからお前には口を開いて欲しいな」
「ねえ、破綻ちゃん」と延暦は言った。破綻ちゃんは私との距離を詰め始めた。
こつこつと、ひたひたと。編み上げのロングブーツに音を立てながら、気負った様子もなく歩いてくる。
私は一瞬、構えかけて、しかしその構えに何の意味もないことに気が付き、大人しく両手をあげた。
「白ワンピースに麦わら帽と来て、編み上げロングブーツとか、取り合わせ悪くありませんこと?」
「いやーそれは僕も思うんだけれど」
「思うんだ」
「でも白ワンピースに麦わら帽で、足下はどうするって思って、これが中々嵌まるものが見つからないんだよね。サンダルとかローファーとか色々考えつきはするんだけれど、いっそ素足とか思ったけれど、何か違うなーっていうか」
「そうですのっどおっ」
寄ってきた破綻ちゃんに、当然のように首を絞められる。首を絞められて持ち上げられる。
両足がぶらぶらと宙に浮く。
「それで」
延暦は、その場から一歩も動かぬまま言う。
「僕は人臓院系の技術は好きじゃないから、情報を抜こうと思ったらこうして身体に聞くしかないんだけど。というかこんなことしなくても大概のやつは口を割ってくれるものなんだけど、お前って何なのかな?」
「御用はないんじゃありませんでしたのことよ?」
「嘘だよ、残念でした。まあ、ついでなのは本当だよ。それにしても、この『お前って何なのかな?』って質問は実に陳腐だったね。弟子と同じくらい陳腐だった。何か良い質問ないかな?」
「スリーサイズとか?」
「上から85/52/82だろう。身長163センチ。体重48キロ」
「乙女の尊厳に関わることをバラさないで下さいまし?」
「ちなみに僕のスリーサイズは上から95/74/84だ。身長181センチ。体重80キロ。ジムに通ってるから結構筋肉あるんだよね」
「聞いてねえよ」
「ちなみに破綻ちゃんのスリーサイズは……」
首が絞められる。喉肉を指先で抉られる。
私は口の中に溢れる血を飲み込みながら言った。
「それも虐待ですって」
「これも虐待かぁ……女の子って分かんないね」
「男の子にすれば良かったのに」
「それだと父親は息子に立ち塞がる壁になっちゃうでしょ。僕は息子に倒される気なんかないんだ。まあ本当は、女という概念が必要だったからそうしただけなんだけれど」
「そうなんだ」
「血に親しいのは女だからね。月経、出産、そしてそもそもの血脈を司る者として。男は血を流すだけだけれど、女は血を取り込み、次に繋げる。だから人間の身体でも朱族の真似事が出来るという寸法なんだ」
「お前もやっぱりそうなのかな?」と延暦は言った。「私は人造人間でも改造人間でもありませんわ」と私は言った。
「そして、人臓院人間でもありませんわ。人造人間の人臓院人間つってね」
「ふうん」
「珍しくギャグを言ったのに興味なさげな反応」
「あっ、ギャグだったの? 普通にそう言ったものかと思ったよ。気付かなかったね、ごめん」
「じゃあ、ギャグと思って聞き直して、面白かったですわ?」
「うーん、つまらないね」
延暦は笑っていた。私もまた笑っていた。
「なんで?」
「僕って自分と似ているタイプは嫌いなんだよね」
「同族嫌悪?」
「僕と会話できるやつは嫌いなんだ。僕もお前もつまらないし嫌いだ。会話も面倒になってきたし、そろそろ良いかな」
「さあ」と延暦は言った。破綻ちゃんは手を離した。
私は地面に足を付け、直ちに距離を取った。
目を動かす。血溜まり。青空。立ち上る肉の臭いが鼻を擽る。
どうすれば逃げられる。
「じゃあ破綻ちゃん、脳だけを取り出す遊びをしてみよう」
「うん」
瞬間、世界がへし折れた。
目はギリギリで追い付いていた。追い付いていたと呼べるのか。五本の指が私の頭を掴み、私の頭は砕け散った。
「下手すぎでしょ」と呆れたような声が聞こえる。
身体はまだ動くようだ。私はどこで思考をしている?
音だけを頼りに身体を動かす。リソースを吸い取ろうと地面に手を伸ばす。そこにはらわたをぶちまける衝撃。血の温度に身体が温まってそして冷たい。
腕と胴が離れている。胴と胴も離れている。私はどこにいて、どれが私なのか。感覚は全てにある?
「再生早いね。流石は四、五……ええと、何体分だったかな?」
「伊藤桜は一体分。真削の色目三体分。真削鉄骨の色目は二体分。祀場みぞれは消費済み。縦長よこみは何もない」
「朱族が六か。元は二百四十八人分もあったんだから随分と殺したね。ただまあ、世界記録には程遠い」
視界が戻る。潰される。「だから下手ねー」と延暦が言う。再生の余力はどこまである? 私はどこまで死ねば死んでしまう。
たった今回収したリソースは再生だけで削れていく。 六は未だ手付かずだが、使わせてくれやしないということでもある。
だから、考えろ。考えてみよう。脳のない頭で? そうだ。私はどこにあるというのか。知らないね。
椿延暦が大陸に向かうということは、つまりハンガリーのヴラド・ツェペシュを殺しに行くのだろう。そのために椿破綻は
だからこれは本当についででしかない。ついでで私を殺すというのか。それが出来るからそうしている。
きっかけは? 耳聡いな。脳裏さんのことまで知っていた。私が殺した人数を私以上に正確に知っている。
私に興味を抱いたか。どうして? 知らん。
世界を治すと言った。椿延暦は医者だった。少なくともそれを志した。それがどんな紆余曲折あってこんな風になったのかは原作でもまだ書かれていない。ただ物凄く厄介で会話が通じなくて、主人公くんの行く先々に現れるのが椿延暦とその娘、椿破綻だった。
彼は
神様。世界をこんな風にした張本人。
原作に示唆としてあるそれを語ったのは、ほとんどが椿延暦だった。
「神様を生み出すんだっけ」
「やっぱりお前、僕のストーカー?」
戻り、壊されて、それでもまた戻った何回目か。一行が蹲っているのが遠くに見えた。彼と目が合った。顔を覆った手の隙間から、こちらに向けられた眼差しは、どうしようもないと語っていた。
私は一行への視線を切り、破綻ちゃんへと向けた。私を散々引き千切ったというのに返り血はない。傍に立つ延暦も全く汚れていない。
「ストーカーとは言っても、破綻ちゃんのストーカーかも」
「お前ごときにウチの娘はやらん!」
「言いたかっただけでしょ」
「まあね」
神様を生み出して神様に取って代わる。それが大目的。私はそれを知っていた。そのための椿破綻。
たかが約六体の朱族と二百四十八人の人間を殺しただけでは敵わない、
一目散に逃げるべきだったか。敵わないのに? 敵わないとしてもさっさと逃げ出せば追ってこなかったかも。後の祭りだね。そうですね。
「死にたいのか、死にたくないのか」
どうだろう。
「死にたくはない」
四肢を潰され、再生の途中にありながらも潰され続ける中に、私は呟いた。
「っああ゛!?」
脳が抉られる。思考はどこでやっている? 私というものはどこにある。
私というものは、破綻ちゃんがその手の上に乗せたピンク色の塊なのか?
じゃあ、この私はどこにある。
「だめ」と破綻ちゃんは言った。「何が?」延暦が首を傾げる。
「この人の頭、もう死んでるよ」
「それは破綻ちゃんが下手だからまた潰してー」
「違う。脳として死んでるの。生きてないよ、この人」
再生が始まる。破綻ちゃんの掌の上に脳を置いたまま私は元に戻る。「っぎい!?」四肢が潰される。
「あれ、本当におかしいな」
延暦が興味深そうに言った。
「普通、赤族でも朱族でも脳を起点に再生が始まる。そりゃ、脳が傷付いたら脳だって再生するけれど、それでもより大きな破片を起点に再生するはずだ。しかし、こいつの脳はここに完品があるのに、どうしてかまた一つ、身体を起点に生み出された。まさか身体の方が本体って? 面白いね」
「
「こいつは違うだろう。違うよね? 試しにバラバラにしてみよう」
「脳だけ遊びは?」
「たった今、成功しただろう? 偉い偉い」
「そっか」
遊ぶようにまた殺される。殺された。初めに爪の形に合わせて指を切った時、破綻ちゃんが目を細めたのを私は見た。
私はその爪の大きさに合わせて全身を細かく切断された。
それでも、私はあった。
「あれ、もう限界だった? いや、リソースから考えておかしいだろう。プラスで五あるんだから、それを消費しきるまでは」
延暦が首を傾げた。破綻ちゃんはぐるぐると辺りを見回している。
彼女の足下には細切れになった私の身体がある。そこから私の血は溢れ出している。
「……いや、というか。おかしいな」
延暦は眉間に皺を寄せた。
「こいつの身体、朱族じゃなくて、人になっている。なのに血は朱族のままだよ。どういうことなんだろう」
六体分の朱色の血と、今この場で吸った人間の血が一気に溢れ出し、アスファルトの上に夥しく流れ出た。
しかし、そこに私はいなかった。私は彼らの上にいた。
二人を上から俯瞰する私がある。
「あ」と、それでも破綻ちゃんが私を指差した。
「なにあれ」
「なにあれって、何? UFOでも見つけた? それともケセランパサラン?」
「違う。あれ、さっきまでの人」
「伊藤桜? どこに」
「だと、思うけど。よく分からない」
破綻ちゃんが首を傾げる。血塗れの顔で私を見つめている。
「いや」と延暦が眉間に皺を寄せて言った。
「存在とはイコールで肉体だろう。おばけなんてないさって感じで、肉体こそが意識と超常の発揮される部分であり根源だ。魂なんて存在しない。僕達人間の意識は脳内の電気信号に、人外のそれは血とやはり電気信号にある。
「でも、あるよ」
「あるんだ……破綻ちゃんがあるって言うならあるんだろうね……」
「えぇ……」と延暦はドン引きしたように呟いた。「いや、それはお前の異能力! 本体は別にどこかにいる!」と思い直したように言った。
「流石に
「結局、研究不足?」
「ないところにあるんじゃなくて、あるところにあると思えばそうなるんだろうけど……今更魂とか研究し始めたら寿命幾つあっても足りないよ……」
延暦は勝手に困惑していった。「うわー!」と頭を掻き毟った。「それでもどうにかして捕まえられないかな!?」とぐるぐると私を探すように頭を動かす。
私自身、自分が今どんな状態になっているのか分からないが、それでもざまあみろと言ってやろうと思った。しかし言えなかった。何せ口がなかった。
だが、口がない代わりに、身体? はゆっくりとだが動くようだ。それでも破綻ちゃんがずっと見つめてくる。
「逃げそうだけど、いいの?」
「破綻ちゃんが完成したから後は詰めだと思ってたのに、予想外な所で致命的な予想外を見つけちゃった! あちゃーどうしよこんなの想定してないんだけど」
「話、聞いてる?」
「今から帰ってプロトンパックでも開発する!?」
「今を逃したらダメなんじゃなかった?」
「そりゃそうだけど、いや、そうでしかないんだよね……」
「ああ゛ー!」と言いながら延暦は破綻ちゃんのほっぺたをこね始めた。「あー」と破綻ちゃんもされるがままにこねらせている。原作にも出てきた椿延暦のストレス解消術、その何十かの一つだった。
一方で私は、このまま二人のどちらかの身体に突っ込んで身体を乗っ取れないかと試してみたが、ダメだった。普通に撥ね除けられる感覚がある。
そうでなくともどうにかしてぶっ殺せないかと思ったが、何にも干渉出来なかった。私の身体にさえ戻れないようである。
いや、戻れない? どういうこと? 私この状況からどうすりゃ良いの?
「……まあ! 今回は破綻ちゃんの言う通りだね。僕は致命的な見落としをしているかもしれないけれど、だからといって確実な一手を落とすわけにはいかない」
「ふぉうふぉう」
あっ、なんか帰り始めてる。せめて私をどうにかしてからどっか行ってくれ。
そして一行、震えたまま何もしないなら帰ってくれ。
「震えたまま何もしないのならこのまま行くよ」
延暦は、私が思っていた通りのことを言った。
一行は顔を上げた。顔を引き攣らせたまま笑みを浮かべ、歯軋りをしながら尚も黙っている。
「いや、実のところ、僕ってお前に期待していたんだよ。だからとっても残念だな」
「なに、を」
「だってお前、僕の事よく知ってるじゃん。破綻ちゃんのこともよく知ってるじゃん。じゃあおプライドも趣旨替えして破綻ちゃんみたいなやつ作ってやろうって思ってそれが成功したのかなって。僕ってそんぐらいには伊藤桜にビックリしていたし、お前にも期待してたんだよ」
「はっ……」
「肉体的なアプローチである全能ではなく、精神的なアプローチによる全知! 神に近付くプロセスとしては見事なものだって、僕が育てた面してやろうと思っていたんだよ。だけどマジに天然物のよく分からんやつだったとはビックリで、そんな天然物相手に飲まれっぱなしとはがっかりだ」
延暦は大袈裟に溜息を吐いて、見せ付けるように手を振った。「がっかり」と繰り返し言って、そうして笑った。
「だが、がっかりなのは僕自身もだろう。未知を見せ付けられてしまった。だから、せめて肉体だけは持って行ってやろう。何か分かるかもしれない。朱族の血は貴族野郎に気付かれちゃうので、残念だが放置だね!」
「後で回収も出来るしね」
破綻ちゃんが言って、「ね」と一行を見つめた。
一行は唇を歪ませた。最早、笑みとさえ呼べないような表情を浮かべる。
「私を、まだ、貴方の下に……!」
「ああいや、そんなつもりはない。ダメだよ破綻ちゃん。何時までも身内感覚でいちゃ」
「そうなの?」
「がっかりしたからもう良いの。後で暇だったら集めて分析しよう。どうせ六つに分割されるだろうから、回収するのも面倒臭そうだけどね」
延暦は、唖然とした顔を浮かべる一行を他所に、鉄製の筒を死体の中から引っ張り出して、私の身体をそこに収めていった。その筒を背負い、「よし!」と現場を指差す。「よし」と破綻ちゃんも何故か指差しをする。
「じゃ、これでおさらばだ。後処理は何時ものように流血機関の皆様の善意に委ねるとして、僕達はさっさとこの国を出てしまおう」
「船じゃなくて飛行機が良かった」
「贅沢言わない!」
破綻ちゃんの頭を軽く叩いて、延暦は歩き出す。
まあ、何が何だかよく分からんが、私がここにあって、彼らがここを去ってくれるのなら、これから何とかなるんじゃないかな。
この、魂が抜かれたように虚空を見つめ、「ははは……」と半笑いを浮かべる一行は、全く役立ちそうにないが。
私は呑気にそう考えた。しかし、「じゃあ行くぞ!」と延暦が破綻ちゃんに抱えられて走り出したその瞬間。
私もまた、物凄いスピードで移動し始めた。
は? どういうこと?
「あれ」と移動中にも関わらず、破綻ちゃんが私を指差す。
「どうしたの? 何かあった?」
「伊藤桜が付いてきているよ」
「は? ん、いや。やっぱ存在はイコールで肉体ってこと? 肉体に付いてくる? いや、これってもう単なる肉だよね? それとも朱族の血に関わらない異能が発現した肉体ってこと? そのせいで挙動がバグったとか?」
「どういうこと?」
「……わかんない!」
延暦は頭を掻きながら大きく笑った。自棄になったようだった。
貴方がそんなんじゃ私が困るんだが。どうすれば治るっていうか、治ってもこの二人から離れられないのでは?