東京都港区に乱立する高層ビルの中の一つ。その最上階の一室に私はいた。
室内は広く、巨大な窓ガラスからは東京の夜景が一望できる。そのちかちかと輝く闇を背後にして、白楽楽土は椅子の上に格好を崩して笑っている。
「お主の言葉は正しかったということだの。あの流血機関を確実に撒けると。椿延暦は単なる気の狂った科学者ではないと。しかし、その方法が、まさか
「ええ、私もビックリですわ。まさか黒海にそんな化物が潜んでいたなんて、世界って実は刺激的ですのね」
「その刺激を受けて尚、平然としているお主もおかしいがのう」
彼女は碧色の目を私に向けた。そして金色の髪。赤色の着物を着て黒色の帯を締めている。その表情は、十から十二ほどの少女とは思えぬ色気を発しており、相対するだけで飲み込まれてしまいそうな妖気があった。
まあちょっと遠目から見れば日本文化体験をして調子に乗っている洋ロリって所だが、生憎と遠目に見られる距離ではないし、何より私は彼女の正体を知ってしまっている。
定められた六人の特権者。第三の
そして何よりも、余裕ぶっているように見えて実はかなり疑り深く、それでいて肝心な場面では軽率で短気だった。雰囲気と戦闘力が凄い割に、器がちっちゃいのが玉に瑕である。
しかし、そのお陰で私がここにいられるのだから、その点に関しては感謝しておこう。
「いやほんと、楽土様には感謝していますとも。今は平然として見えるかも知れませんが、あの時は本当にヤバかったからね」
私は笑って言った。「まことかのう?」と楽土は言ってくる。大上段に構えながらも探るような目付き。
「お主は儂にもよく分からん。何せ、儂から見ても完全に機能を失っとったからの。それが朱化兵器の材料として用いてみれば、驚いたことに、意識を復活させおったのじゃ。これはどういうことか」
「さて。楽土様が分からず、椿延暦も匙を投げたものを私が理解できるはずもありませんわ」
「まことかのう。まことかのう」
楽土は指を合わせ、楽しそうに私を見つめてくる。
これに関しては私も全くの予想外だった。
村上市で切り刻まれた私の身体は延暦によって持ち去られた。しかしぶちまけられた血液に関しては、延暦の予想通り、流血機関によって回収された。祀場など最早出る幕もない。六体分の朱色の血は六つに分割され、五つを流血機関に、そしてもう一つを白楽家がちゃっかりと持って行ったのである。
何でも、流血機関の皆様方が破綻ちゃんにぶち殺された後、事態収拾に一役買ったことが理由だとか。
だが、そんな事はどうでも良かった。私にとって重要な事は、血液の状態でも意識があった事である。
肉の方と同じようで、そうではない。肉の方は頭上に浮いている感覚があり、視界もまた開けていたが、血液の方に関しては本当に感覚しかなかった。振動を通して音が聞こえ、温度を通して朧気に状況が掴めたが、それでも肉の方に比べれば随分と曖昧なもので、その時が一番、私というものが不安定だったように思う。
そして、楽土が言ったように、私の血液は朱化兵器を生産するために、人間の身体へと注入された。
その時、私は目覚めた。
白い部屋の中だった。私の身体は拘束されていて、背の高い、筋肉の付いた男の姿をしていたが、私が目覚めたことにより女の身体となった。
状況がよく分からず辺りを眺めていた私へ、向けられたのは剣だった。色目の剣が当然のように振り下ろされた。そして回収されてまた注入され、また目覚めた。
その繰り返しを三回くらいはやっただろうか。『これは流石におかしい』と研究員らしき人々が呟いていたことをよく覚えている。
『再生限界に達したのではなかったか』と。
『意識を乗っ取れるほどのリソースは全て廃棄されただろう』と。
それは延暦の推察の通りで、私はどの勢力から見ても不可思議存在だったらしい。
そんな不可思議さに楽土が目を付け、研究に干渉し、こうして一対一で話す関係になったわけである。
「それで、奴等は確かにコンスタンツァで目撃されたようじゃ。このままトランシルバニアを目指すつもりかのう」
「流血機関は見失ったものだと彼らは確信しているようで。このまま真っ直ぐ行くらしいですわね」
「では、儂らの手には気付いているかえ?」
「たぶん気付いていないんじゃない? 海の上で、私がこちらにもあることがバレたけど、流石に楽土様とチュッチュしているとは思わんでしょう」
「チュッチュしとらんのじゃが」
「比喩ですよ比喩!」
そして同時に破綻ちゃんにも『ちゅーはしてない』と言われてしまった。同じく『比喩だよ比喩!』と返しておく。延暦が『お前マジで後で脳を解体してやるからな』とブチ切れてくるのが非常にうるさい。
「延暦が『そんなやつにあーんってするくらいなら俺にあーんってしなさいよ!』と言ってくるのが気持ち悪いですわね。破綻ちゃんの『きっしょ』という言葉に同意ですわ」
「そんな事は誰も聞いとらんのじゃが」
「そんな風に、私がなにかできるとは欠片も思っていないということですわ」
「ほうほう、そうか」
楽土は少女の顔で、酷く老いたような笑みを見せた。
「では、そうじゃのう」
指を合わせ、問いかけるように言う。
「お主、このまま上手く、奴等を監視できる自信はあるかえ?」
「もろちんですわ」
「物凄く不安になってくる返答をするでないわ」
「失礼、勿論ですわ」
「まことかのう……」
楽土は呆れたような顔を浮かべ、目を細めた。
「まことかのう。まことかのう」と呟く。
「儂は疑り深いのじゃ。お主は道化を装っているだけではないのかのう。儂に忠誠を誓った口で、あちらにも情報を流しているのではないかのう。内心では儂を殺す算段を立てているのではないかのう」
そんなに気になるのなら実際に見に行けば良いだろうに。彼女には打って付けの特権があるのだから。
私はそう思ったが口には出さなかった。それを知っていることと口に出すことは、きっと違うということだろう。
代わりに私は微笑んで、実にお嬢様らしい礼節を決めながら言った。
「滅相もございませんですわとも。誓ってそのようなことがあり得るはずがございないのですわ」
「ほう、誓うかえ。何に誓うと言うのじゃ」
「何に、ですわ?」
「神か、仏か」楽土は口角を吊り上げた。「そのようなものはおらん。儂が断言してやろう」
ずぬりと。
急に、何かの腹の中にいるような感じがした。
「神などおらん。仏もおらん。儂らがこう在るのは、ただ、そう在るように定められただけのこと。現象じゃ。法則じゃ。意思のない、救いもせず、罰しもしない現象じゃ」
楽土は自分自身に語りかけるようにして言う。
「儂が今も世を彷徨い続けているのは、呪いでも罰でもなく、単なる現象に過ぎん。そう、あの人は神などではなかった。神などこの世に存在しなかった。寧ろ、儂はこれを幸運と思い、世を謳歌するのじゃ」
彼女は自らの腕を掻き抱いた。まるで何かを恐れるように眉を下げて笑う。
三番目の
伝説上に語られた不死の人間。キリストを嘲笑した罰として、不死を与えられた愚かな人。
彷徨えるユダヤ人。それが彼女の正体であり起源だった。
『つまり、歴史上稀に見るほど軽率な人間だということだね。キリストを馬鹿にして永遠に地上を彷徨い続ける事になるとか、阿呆の代名詞でもあるだろう』
延暦は、そう馬鹿にしたように言った。
『しかし、白楽楽土の推察は的を射てもいるだろう。神も仏も、一般に語られるようなそれらは存在しない。白楽楽土が
『告げ口とはなんか卑怯みたいで格好悪いですわ。もっと言い方がありません?』
『じゃあ密告かな? それとも讒言だったりするのかな蝙蝠野郎。どっちも利用して貶めてやる腹積もりというわけだ』
『いえいえ、私はただ……っと!』
ぱき、と音がした。頭蓋骨が割れ、脳が壊れた音だった。
楽土は指を私の脳に刺し、探るように動かしている。
リソースが足りず、回復が遅いものだから、痛みと共にどこか痒いような感覚があった。
水の音がする。私の中から水の音がする。
楽土は暫く無表情で指を動かした後、溜息を吐いて引き抜いた。
「やはりおかしいのう。お主には異能がないどころか、そもそも動いてすらおらんようじゃ。血は通っておるが、肉に意思がない。そんな、肉と血に分かれた状態で同期できるような能力など、儂の特権を除いては知らん」
「そりゃ私自身分かりませんからね。しかし楽土様ってそんな事も出来るんですか」
「何せ
「ほれ」と楽土は指先を動かした。「うわっと」と、私の身体は指先の動きに合わせて動いた。
滑稽な踊りをする私を見て、楽土はおかしそうに笑った。
「だから不安なのじゃ」
彼女は笑ったまま言う。
「お主は儂の知らぬ力を使っておる。それがために、儂の想定を超えたことをしでかすかもしれん。今のように動いているのも、ともすれば演技かもしれん。道化のな」
「考えすぎですよ。ストレス溜まってますよ」
「それにしては、儂の特権という言葉に、大して驚いてもいなかったがのう」
「ふふふ。そうかしらん?」
私は言った。同時に身体がねじ曲がった。意思とは無関係に身体が変化していく。
流石に
「そう。儂はお主と同じように、あらゆる場所に存在できる。見に行こうと思えば、連中をこの目で見ることも出来るじゃろう」
「そうしないのは何故で?」
「恐ろしいからじゃ。儂らを殺すという連中も、その状態でまだ儂と話そうとするお主も」
楽土は微笑んで指を鳴らした。その途端に私の身体は、目に見えぬ圧力から解放されて、ねじ曲がって砕かれた骨も再生する。
私は身体の調子を確かめて、言った。
「ストレスが溜まりすぎですよ。そんなに強いのに何でも恐ろしく見えるなんて。カルシウム取りましょう」
「そうじゃの。最近は血を飲んでばかりで、肉と骨は久しく食うておらん」
「それですわよ。食の不健康は生活の不健康。そして人生の不健康ですわ」
「不健康か。ならば、より良い食事を取らなければな」
「故に」と楽土は椅子に深く腰掛け、机を示して言った。
「お主の身体、差し出してくれんかのう」
碧色の目。金色の髪。子供の顔。
容姿に似つかわしくない、悍ましい笑み。
「しゃーないですわねー」
私は笑ってみた。服を脱いだ。
与えられた病院着の紐を緩め、下着姿になった。その下着さえも床に落とし、ただ空気だけを肌に触れさせて、楽土の前に立つ。
木製の、実に立派で重そうな机は、私が乗っても軋むことなく静かだった。
腰を下ろし、足を閉じる。横たわる。
手を伸ばし、指を広げる。
「どうぞ?」
楽土は口角を上げ、私の胸に食らい付いた。
「これは儂による祝福であり呪いじゃ。よってお主は儂に誓うのじゃ。儂だけに誓い、儂だけを見よ。世に神も仏もおらず、あるのはただひたすらに公平な法則のみであると理解せよ」
楽土は真剣な顔でそう言った。私もまた、真剣な顔をして言ってみた。
「もろちんですわ」
「その返答はやめんか」
「失礼、勿論ですわ。おほほ」
「全く……」と楽土は溜息を吐き、私に背中を向けた。
細く、白い背中だった。そこに二千年の歴史が刻まれているとは思えないような背中だった。
だから、私はその背中を抱き締めてみた。
「あん? なんじゃ急に」
「いえ、何だかこうしたくなって。いけません?」
「まあ……別に悪くはないが」
楽土は苦笑して私の腕を受け入れた。先程までとは違い、私に信頼を置き始めているようだった。
そりゃそうだろう。何せ、今の私の中には、ほんの少しだが彼女の血が、つまり
楽土は絶対的な命令権でもまだ安心できなかった。だがそれでも、勝手に動く手足に、非常に頑丈な、そして自分自身でもある枷を付けたからこそ、彼女はようやく余裕を取り戻せたのだろう。
だが、と私は私を確かめた。
この部屋にある私。
ルーマニアにある私。
そして他の、
「別に、二つだけだとは誰も言っていないんだよね。他のは私じゃなく、色目の血だと判別されたらしいけれど」
流血機関本部の超穏健派、
「ほんの少しだけ混ざっていたのか。それとも成分とは無関係に、一度私だったから全て私なのか」
流血機関本部の冷凍監獄、第一層、冷凍保管された数多の肉体の傍。
「訳分かんないや」
流血機関第三支部の加工室。
「何にせよ、他のものに影響はないし、影響しているのは、やっぱり身体だけじゃないかな?」
中国、香港。
「というあらまし。どう? そろそろ協力してくれる気になった?」
そして、流血機関本部の工房の中。
私を目の前にした一行誉は、額に脂汗を滲ませて、「勘弁してくれ」と呟いた。