そもそも人工朱族、朱化兵器という考えは白楽家に特有のものだろう。人臓院辺りでもやっているかもしれないが、完全な形で朱族を生み出そうとしているのはここくらいではないだろうか。
少なくとも、流血機関と退魔七家では絶対にやっていない。何せ、彼らは全く朱族を信用していないからだ。
いかに慎重に運用しても、いつ暴走して被害を出すか分かったものではないし、何より、自らの手で敵を生み出すなど彼らからしてみれば馬鹿げた事だろう。利用するなら色目にするか、異能力の増強剤、回復剤にするだけだ。
しかし、白楽家の中枢に巣食っているのは朱族を完全に支配できる特権者。
あらゆる朱族と赤族に対して絶対的な命令権を持つからこそ、白楽家はそれらを完全な形で運用できる。
白楽家が流血機関と退魔七家から滅茶苦茶嫌われている所以はここにあった。証拠があるわけではないだろうが、ほとんど確信に近い疑いを持たれている。
だが、その中枢に潜んでいるのが
流血機関と退魔七家の間に立ち、利益を持って行く代わりに双方に技術を提供し、時には投資さえもする裏社会の巨大な柱。
そんな憎らしくもありがたい立場さえ、
それを人間が手に入れる事が出来れば。それを人間が討ち滅ぼすことが出来れば。有史以来、一つたりとも毀損されず、常に人の上にあったものを人の手で引きずり落とすことが出来れば。
きっと嬉しいだろうし、楽しいだろう。希望とはまた違う、人という種による復讐と、その達成感。これまでを重ねてきて、ここからに至ったという事実は、世界を変えうる事実になる。
「しかし、現実的には厳しいだろうね」
最上階から真逆の最下層、白楽楽土の真のプライベートルームを闊歩しつつ、私は呟いた。
いや、ルームと言うよりはスペースか。白楽本社ビルの地下十階から八階にかけてを彼女は個人的な空間として使っている。庭園があれば川もあり、滝もあれば空もある。鳥や蝶が羽ばたいて、風が吹き、地下にありながら地上そのものの景色。
「こんな事をする意味ってあるのかしらん? ねえ楽土様」
「どういう意味じゃ」
「地上にあるものを身近に置きたいのなら、地上に部屋を建てれば良いじゃない」
面積は東京ドーム一個分と聞いた。自然豊かな庭園は吹き抜けで、それを囲む回廊があり、放射状に延びた廊下から各部屋が配置されている。
「あれみたいじゃない。あれ、なんだっけ。監獄の、中央から眺める」
「パノプティコンかの」
「そうそれ。誰がどこに出入りしているのか分かりやすいね。ここには私と楽土様しかいないのに。二人っきりなのに!」
「他にもおるじゃろう」
「あら意外。楽土様はまだあれらを人と数えるのですわ?」
「ね」と私は笑いかけた。彼も彼女もにこりとも微笑まなかった。
私達の後ろを静かに歩く、或いは庭園の傍に立つ、部屋の前に佇む人々は、押し並べて簡素な白色の貫頭衣を身に付けて、そして人格が破壊されている。
「こんな事をしなくても、楽土様の命令は絶対でしょう。絶対的な法則として、赤族である彼ら彼女らが貴方に叛くことはない。あれらはここに作られた庭園と同じですわ。利益第一の白楽家からすれば無駄の極み。もっと良い活用法がいくらでもある」
「儂以外のものにとってはそうじゃろうな」
「貴方は違うわけだ。流石は
「惚けずとも良い。言ったじゃろう。儂が疑り深いのは、不安が故だということに」
「そうだったかしらん?」
流血機関や退魔七家に楽土が
たとえ身命を賭ける価値がその討伐にあろうとも、人間ごときの身命ではいくらあっても足りやしない。それが地上にある六つの特権だ。
最も弱いレンちゃんにしても、有力な朱族が束になってかかり、罠、裏切りの尽くに嵌まり、ようやく追い詰めることが出来た程だ。その追い詰め方にしても、結局は彼女が今まで一度も人の血を吸ったことがなかったというのが原因であり、そして今後も血を吸うことがないだろうという希望的観測が前提にある。
原作の始まり。血が滴る路地裏で、たとえ彼女が主人公である白永くんに出会わなかったとしても、覚悟さえすれば、あそこからでも簡単に逆襲出来ただろう。
まあ、それが出来ないからこそ可愛くて、眩しくもあるのだが。
「私も詳しくは知らないけど、最も弱い
私は嘘を言った。楽土は首を振る。
「その最も弱い六番目じゃ。一九四四年のフランスにようやく生まれた六番目。それが恐ろしくてたまらんのじゃ」
「それは、どうして?」
楽土は庭園のせせらぎの前に立ち止まり、私を見た。
私は微笑んだ。彼女は目を逸らした。「お主は何なのか」呟いて口を開く。
「揃うと予言されていた儂らが遂に揃った。その意味が、儂には分からんのじゃ。揃ったから何になるというのか。人間共はここ六十年ほどは躍起になっている。六つが揃って、何かが起こると思っておるのじゃ。何かが起こる前に滅ぼそうというのじゃ」
「何が起きるのかしらね」
「人間共も分からんらしい。色々と仮説は立てているようじゃが、儂からしてみれば笑ってしまう。『人が人外に支配される』とは、儂が今まさにやっていることじゃろう。『人が全て滅ぼされる』とは、まさか今まで滅ばないとでも思っていたのかのう。第二を見れば、歴史など偶然の産物に過ぎぬと分かるだろうに」
楽土は残虐に笑った。笑って、すぐに笑みを潜めた。
朱塗りの下駄を脱ぎ、しかし足袋を履いたまま、楽土はせせらぎの中に歩を進める。
「川遊びですわ?」
「そうじゃ。お主も来んかい」
赤色の裾は濡れて艶めいていた。水の流れにゆらゆらと踊っている。
私は靴を脱ぎ、黒のタイツを脱いで、足先を水に沈めた。
「冷たいね」
「冷たいじゃろう」
「これも不安?」
「不安じゃ」
「じゃあ、私は?」
「お主が今、最も不安じゃ」
「ほれ」と楽土は水を掬って私に浴びせた。貰ったセーラー服が濡れる。
「やりましたわね」と私もまた水をかけた。彼女はそれを避けずに浴び、笑った。
「こうしてお主の水を浴びられるのも、お主の中に枷があるからじゃ。儂の血は儂のもの。これは確かなことじゃ。朱族も赤族も儂に従う。これも確かなことじゃ」
「確かなら良いじゃない」
「その確かさの意味じゃ。儂は何故、確かなのか。
金色の髪から水が滴る。波紋は朱族の目にも一瞬のことで、水の流れに掻き混ぜられて消えていく。
白楽家は人外を完全な形で運用できていた。しかし、その運用が信頼を意味することはなかった。少なくとも白楽楽土にとって、それは最低限でしかないだろう。
最低限、自分の思うままに動かすことが出来る。身体を操り、思考を操り、人間のあらゆる尊厳を手中に収めながらも、それはやはり最低限でしかない。
楽土は自分以外の全てをずっと疑ってきた。そして今や、自分自身すらも疑って、恐ろしくてたまらない。
「ここ数十年は、ずっと意味を考えておる。法則の意味。儂が選ばれた意味。それが偶然に過ぎぬとすれば、偶然に取り上げられることもあるのではないか。六つ揃った意味とは、そうなのではないか」
「そう、とは?」
「代替わりじゃ」
楽土は私の首に手を伸ばした。
水の冷たさ。指の冷たさ。
「そのために儂はあるのではないか。儂らとは、代替わりし続けていくものではないのか。儂の意味が、法則の内に偶然に選ばれたものでしかないのなら、そんな考えも浮かんでしまう」
「そんなことは、と言ってはならないのでしょうね」
「そうじゃ。儂の存在に意味があるとすれば、それはゴルゴダの丘じゃろう。意味がないのは恐ろしいが、そちらもまた、意味がある故に恐ろしい」
首が強く締められる。指が肉に埋まる。血が噴き出し、滴り、せせらぎに赤色が混じっていく。
私は抵抗しなかった。
「抵抗しろ」
身体が勝手に動いた。私の指先は楽土の喉元を狙った。
しかし、その指先が楽土を傷付けることはなかった。
「どうして笑っている?」
「どうしてかしら」
「知らんわ、そんなこと」
楽土もまた笑って、私の首から手を離した。
首の肉は直ちに戻り、川に紛れた血もまた元に戻る。
私は首を確かめて言った。
「やっぱり、人格は消せなかった?」
「ああ。何せお主の頭は死んでおるからのう。消えているもんは消せん」
「ふふふ、無駄な努力を。私は不滅の存在ですわ」
「ほう、不滅。だったら宇宙にでも飛ばして不滅の孤独と苦痛を味わって貰おうかの」
「そうしないのはどうして?」
私は笑って首を傾げた。
ここはとても静かだった。地下四十メートルの空間に、言葉を発するのは私と楽土しかいない。
鳥と蝶に言葉はなく、木々と小川に声はない。人々の口は縫い合わされ、頭の中には何もない。
彼女が本当に許している空間には、本来、誰もいないはずだが、私はここにいる。
「どうしてかしら」
楽土は言った。
「練習じゃ」
「何の?」
「いつか儂が誰かに負けて、命乞いをする時のため、人情を練習してやろうと思うての」
「それはそれは」
私は楽土の手を取った。彼女の手は怯えるように固まった。その手の甲を、掌を、両手で包み込んで近付いていく。
「不十分ですわね」
「何がじゃ」
「人情だけでなく、友情と愛情も練習していただけませんと」
「色仕掛けの練習か?」
「私、お姉様と呼ばれたいですわ」
楽土は笑った。私もまた笑った。
「じゃあ、そろそろ行きましょう」
「うむ」
その時、延暦が言った。
『なるほど、つまり僕達がその法則の嚆矢と言いたいわけ。随分とセンチメンタルな婆だね』
『楽土様に何てことを言いますのよ!』
『あーうるさい。キショい乳繰り合いまで語ってくるんじゃないよ。しかしあまり愉快な見識じゃないね。こいつからすれば僕の努力も法則の内か。くだらないね』
『楽土様を侮辱するものは私が許しませんわ!』
『そのテンションをこっちにまで持ち込むんじゃないよ。……まあ、そいつの話には理解できる部分もあるけどね』
『あるんかい』
『急に戻らないでよ気持ち悪い』
延暦はそれだけ言って双眼鏡を置いた。『分かっているとは思うけれど、気付かれてはいるよ』と言いながら背を向け、携帯電話に耳を当てる。
『やあ僕僕。僕って誰ってパパでしょうが。そうそう準備出来たから後は待つだけね。しゃーないでしょ僕も予定してなかったんだから』
破綻ちゃんとの会話を耳にしつつ、私は山向こうの城を見つめた。
木々に紛れ込む、石造りの古い城の中。こちらを見つめる二人がいる。
黒々とした長髪と瞳に長い髯。マントは赤く、衣服は黒く、威風堂々とした佇まい。来るなら来いと告げるような、力強い目をした男。
そして彼と離れた一室。カーテンが下ろされた部屋の窓。その隙間からこちらを窺い、怯えるような表情を見せる少女。
ヴラド・ツェペシュとレゾンデートル。第四の
一つの視界に二体の
しかし延暦は、まるで気負った様子もなく言う。
『いや言ったでしょ? 元公爵様だけをやるつもりだったけど、どっちもやるって。そしてプラスでもう一体。三つ巴で全部食らうって寸法さ。え? 聞かれてるって? 当たり前でしょ聞かせているんだから』
男の眉間に皺が寄る。少女の顔が更に引き攣り、瞳だけが落ち着きなく動く。
『第三の
延暦は背を向けながら、高らかに宣戦布告した。
「貴方は逃げないんだね」
「だって、人質を取られているもの」
「ね」とリリスは桜梅に微笑みかけた。彼女は返事をしなかった。代わりに真っ青な顔をして、げえげえとえづいている。
「人質の扱いにしては、手荒すぎないかしら」
「仕方ないだろう。こうでもしないと一緒に抜け出せなかったんだから」
「置いてくれば良かったのに」
「置いて行ったらすぐに裏切りそうだし」
「まあ、そうね。花見ちゃんって、生き汚いから」
「私とは大違い」とリリスは緩やかにくすくすと笑う。「そして、貴方とは似ているわね」と私を見つめて言った。
「そんな、気持ちの悪い姿になってまで、あの人の名残が欲しいのかしら」
「まあね」
「あら。気持ち悪いというのを否定しないのね。貴方って可愛かったのに」
「そりゃ、こんな姿になっちゃったらなあ」
私は頭を掻こうとしてやめた。そんな頭など既に存在しなかった。丁度今、楽土と共にルーマニアの上空にいる私とはえらい違いで、延暦が抱える首だけの私とも異なって。今の私は、六十六の人体が繋ぎ合わされ、三十三の朱色の血が循環する、赤色の龍としてある。