それにしても美しい森だった。木の根は太く地表に露出し、道などどこにもなく苔むしている。私は自然という言葉の意味を思った。木の緑、森の緑は確かに自然ではあるだろうが、道がある森の自然は人の手で整えられたものである。ここに人の作為はなかった。唯一、大木の根元に掘っ立て小屋が建てられているが、それにしても荒れ果てており、景観の一部のようだ。ここを住処とするリリスには生活を整えようという意識はないらしい。
「一行さんも趣味が悪いですよねえ。人体を繋げるにしても、わざわざこんな形にしなくても良いのに」
桜梅は私に抱えられたままペットボトルの水を口に含むと、呼吸を落ち着けながらそう言った。未だに顔は青ざめているが、どうやらそれは乗り物酔いでしかないようで、私をジロジロと見て酷い事を言ってくる。
「そうかな。私は格好良いと思うけどね」
「あら、気持ち悪いと言ったのに」
「気持ち悪いから格好良いんだ。レッドドラゴンの名の通り、醜悪で暴力的で、だから格好良いだろう」
私は私の腕を見た。それは丸太のように太く、分厚く、歪に固められている。先端部には五つの指があり、それぞれ爪はなく、皮の張った肉としてあった。足もまた同じようなもので、折り曲げた膝から伸びる足先にはそれぞれ五本の指がある。胴体は前傾姿勢を基本として、頭部は肩にめり込むような形で低くあり、まさしく龍のような形で長く伸びている。その口は大きく、そして牙が揃えられており、会話の最中にもばくりと開く音が響いていた。
背中には折り畳まれた翼がある。蝙蝠のそれに似た、骨組みの、皮が張った翼だ。それでいて空を飛ぶにはあまりに分厚く、そこかしこに血液の排出口がある。羽ばたくと言うよりは展開させて、エンジンのような機構によって推進力を得るための機構だろう。極めつけは尾てい骨に付けられた尾で、まるでもう一本の手のように自在に動かすことが出来る。まあ、慣れていないと咄嗟には動かせないだろうが。
「ドラゴンと言うよりはロボットみたいですねえ」
「ロボットと言うにはあまりに肉々しすぎない? だけど、肌色の皮膚が戦闘時には真っ赤に変わるってのは確かにロボットっぽいかも」
「目はちゃんと見えているのかしら。二つしかないけれど」
「ああ、それは大丈夫」
私は口に近い方から順番に目を開いた。二つ、四つ、六つと。それぞれ違う場所をぐるりと見渡してから、リリスへ向けた。
「飛行時はあまり開かないようにしていたんだ。見えすぎるというのも困る」
「そう。なら、私が何をしても無理そうね」
「可哀想なリリスちゃん! こういう場合、念仏で良いんですかね? それともキリスト教の言葉ですかね。私はあまり詳しくないんですけれど……」
「何も要らないわ。何を言われたって私には届かないもの」
リリスはそう言うと、名残惜しむように辺りを眺めた。私が踏み荒らした草木や、折れて倒れた巨大な木を残念そうに見つめ、その向こう、殆ど崩れた掘っ立て小屋を見た。
「何百年も生きて、色々あったけれど、終わるときは呆気ないものね。せめて友人に見送られることは幸福かしら」
「見送ってあげますよ! うう、悲しいですね……」
「貴方は変わらないわねえ。出会ったときからそうだったわね。どうしてかしら。普通、もっと怒ったりしても良いんじゃない?」
「あっ、やっぱり突っ込んで良いんだこれ」
私は翼の根元に拘束していた桜梅を摘まみ上げた。彼女は「うわあ私は殺さないって約束だったじゃないですか!」と暴れたが、もう片方の指で突くとすぐに大人しくなった。
「いやあ、うん。なんか突っ込みそびれていた。貴方ってそんな人間だったのね? 融和を掲げる割には何というか、生き汚さすぎる。ひょっとして、融和も方便だったりする?」
「何を言いますか! 私は融和にずっと賛成していますとも。朱族も人間もどちらも同じ!」
「その割にはリリスを平気で死なそうとするし」
「リリスちゃんを売らなきゃ私が死ぬじゃないですか! 生きてこそですよ何事も!」
「そういうものかあ」
当のリリスは微妙な顔をしているが。しかし彼女は、すぐに仕方なさそうに微笑んだ。
「まあ、その子はそうなのよ。融和だって本心でしょう? 本気でどちらも同じものだと考えている」
「そうですよ? 寧ろ、違うところってどこですか?」
「血を吸ったり、人を食らったり? 人類の天敵として私達朱族はあるんじゃないかね」
「そんなもの、些細なことじゃないですか! 私達は同じ思考をしているじゃないですか。人類の敵って言うには朱族は足りませんよ。分かります?」
足りないだろうか。私とリリスは目を合わせた。「花見ちゃんが言うにはね」と、リリスは少しばかりおかしそうにして言う。
「何時か、言ったわね。これが菌類やウイルスなら納得するって。人を食べて増殖するだけの何かなら、それは本当に人類の敵だってね」
「でも、貴方達は人を食らうという機能があるだけの人間でしょう。寝るし遊ぶしセックスだってするものが、本当に人類の敵と言えますか? 今だってそうでしょう。私の話を聞いているこの瞬間。私の話を聞くという行為そのものに、人類の敵らしい要素はありますかね? 分かりませんかねえ」
桜梅は、自らを殺すものが目の前にあるというのに、ムカつく顔でやれやれと肩を竦めた。学のなさを笑っているようである。ムカついたのでちょっとだけ身体を締めると「ああ嘘嘘! 冗談じゃないですかもうー!」と慌てて笑みを引っ込めた。
「とにかく、私からしてみれば、そんな陳腐な存在を不倶戴天の敵として扱うのは滑稽だって事ですよ! それだからリリスちゃんの元彼さんも、朱族としての矜持だとか振る舞いだとか、不要なアイデンティティを持っちゃっているんじゃないですか」
「彼氏じゃなくて夫だったのよ。それにしても、やっぱりおかしいわね。あの人が必死に守ろうとしているものは、花見ちゃんにとっては陳腐なものなんて」
「リリスちゃんだって、そう思ったからこんな辺鄙なところに住んでいるんじゃないですか」
「そうねえ。私達が私達らしくあるように、と言われても、その私達って何かしらって思っちゃったのだからね」
リリスはクスクスと軽く笑って、「そういうわけで、私はここにいるの」と言った。「そして、貴方は?」と私に向けて言う。
「私が生きてきた意味というのは、殆どなく、流され続けてきたようなものだけれど、貴方には何かあるのかしら。これから生きようとするために、私を狙うその理由。生きる理由って?」
「うーん、特には思い付かないんだなこれが」
「あら、そう。本当かしら、花見ちゃん」
「そうだと思いますよ! なあに、これだって陳腐です。自分探しって奴ですね! わざわざこんな事をせずとも、インドにでも旅行に行けば良いような陳腐なものですね。私としては凄い迷惑!」
「ふふふ、言われちゃったなあ」
「ぐげげ、締めないで下さいって!」
まあ、そうなのかもしれない。インドにでも行けば異国情緒に夢中になって、これから先の人生をインドヨガやインドカレーに注ぎ込む事だってあるだろう。だけど、私は暇な大学生じゃなくて朱族で、そして転生者だったから、その軽はずみな興味の向かう先が海外ではなく、原作介入だったまでのことだ。「でも、人間に生きる意味なんて必要ないですよ」と桜梅は言った。
「人間は生物ですよ。ただ動物的に生きるだけで生きていくことが出来るものです。たとえ生きる意味がないとしても、機能として食事をして睡眠をして排泄をすれば生きていけるのです。加えてセックスをすればそんな無意味さを次の世代に伝えていくことも出来ましょう。それが出来ないから朱族というものは殊更に誇りを持ち出そうとするのかもしれませんが、そうなると人外の生というのは積極的に意味を探さなければ辛いものなのかもしれませんね。何せ現代においては希薄となった食事という生死の実感を、人間という同一の精神性を持つものを材料とすることで思う存分迷惑なほどに味わうことが出来ますものね。そのために生き続けることの意味を過剰に問うてしまうのが朱族という生物の社会性なのかもしれません」
「確かに、私は今まで牛や豚を食べてきたけれど自分で締めたことはなかった。そんな心境を人間に当て嵌められないのはどうしてだろう」
「それは貴方、人間だけじゃなくて、どうせ牛や豚にも何とも思わないからですよ。心境って、笑ってしまいますね。たとえ志で豚や牛を殺したとしても人はそれらを食べていけますよ。だってそれを仕事にしている人が世界中にごまんといるんですから。いっそ失礼でしょう、実際に殺してみれば心境が変わるとか価値観が変わるとか。寧ろ変わりたいがために殺しているんじゃないですか? 牛や豚を食べたくないという思いが先にあって、屠殺はその確認作業に過ぎないとすれば。それは現実を目にして心境が変わったのではなくて、よりドラマチックに自らを演出しようとする心の表れですよ! まあ、それこそが人間の人生なのかもしれませんがね。そのままでは動物的に無意味な私というものを、様々な理由付けによって他に代え難い私に変化させていく。それが人生と考えてみたらどうでしょう。滑稽じゃないですか? それで背負った重みで潰れてしまう人間だっているのだから。しかし戦争や震災や貧困によって私が私である理由というものが強制的に背負わされることもあって、その悲劇の筆頭として分かりやすいのが朱族でしょう。理由によって心境は変化するということで、誇りというのも生態の変化から来る理由付けに過ぎないとすれば。だとしたらやっぱり彼らは人類の敵ではなく人類そのものじゃないですか。人類の敵らしい生き様をしているから人類の敵らしくなる。なろうとすると。私が私である意味を守ろうとするが為に。この私のままで生きざるを得ないがために。貴方はどうですか? 伊藤桜さん」
「生きざるを得ないのは確かだけれど、守るべき意味はないんだなこれが。だからインドに行くようにルーマニアに行くというんだ」
「確かに、貴方には誇りも何もありませんからね! さっきも言ったように、動物的な無意味。多くの人とそして私とも同じ陳腐なもので、だから貴方は生きても良いんでしょう。もっとも、貴方のような振る舞いをすれば、大抵の人間は社会に殺されてしまいますがね。そして社会に属する以上、私達は積極的にそういった異常者を殺さなければならないのですけどね」
「それが花見ちゃんの仕事でもあるでしょう?」
「何を言いますかリリスちゃん。私は社会の敵でしょう。社会の敵を擁護する社会の敵です。しかし敵が存在した方がバランスが取れるじゃないですか。私は社会という枠組みの中でバランスを取ろうというんですよ。朱族なんて人類の敵ではなくて、所詮は社会の敵でしかないのですから」
「それ即ち人類の敵ってのはどうだい」
「物語染みていますね。物語にどっぷり嵌まった人間が言う言葉です。社会という曖昧なものを、人類という更に曖昧なものに繋げてどうするんですか。我々こそが人類であると正面切って言えるような人間は、きっと人類という言葉の意味さえ知りませんよ」
狂人の言葉だ。私はそう思わない。ならどう思うのだろう?
「まあ」
視線を切り、リリスへ向けて言う。
「私がやろうとすることは、面白くはあると思うんだよ。そして利益にもなる。貴方に残された特別な血を使って、
「そう。面白いことは良い事ね。私には出来そうもないから、貴方がすると言うのなら良いのかも」
「その血に対する後悔とか、名残惜しさとかは?」
「そんなに。だって、別れた夫のものだもの」
「そりゃそうだ。いや、そうなのかな? 私は結婚したことも離婚したこともないから分からない」
「人生は長いのだから、結婚も離婚もしてみれば良いわ。全部つまらなかったけれど」
「それを聞かされると億劫になりますわね」
「でも、出産はまだだった。私はよこみもみぞれも子供のように思っていたけれど、我が子が殺された苦しみも、こんな風につまらないものなのかしら」
「私には赤ちゃんがいますけど、そんなに特別なものじゃないですよう、子供って」
「えっ、いるの?」
「えっ、いたの?」
私達は同時に声を上げた。「言ってませんでしたっけ?」と、相変わらず子供のような振る舞いで桜梅は言う。
「私にだって好きな人はいますし、結婚して子供も産んでいるんですよ? だけど子供って言うのはまあ、面倒なものですね。うるさいし、うんちもおしっこも垂れ流すし。だけど、これが二十年も経てばちゃんとした人間になるんですから、教育ってのは素晴らしいものですね。そしてどんなに立派な人間だって、こういう幼少期があり、そして現在も同じように排泄するのだから、やっぱり陳腐なものじゃないですか。全て陳腐でどうでも良くて、だからこそ人間も朱族も変わりなく融和しましょうと。そういうわけですね! ええ!」
「そうなの。ちょっと驚いちゃったわ。そして名残惜しくなっちゃった。お子さんの写真とかないの?」
「見たってつまらないですよ。人間ですから」
「ああ、そうなの。貴方が自分の子供をつまらないと言うのなら、そうなのかもしれないわね」
「あっ、そういえば携帯の中にありました。ちょっと良いですか桜さん」
「どうぞ」
桜梅は白衣の中から携帯を取り出すと、それをリリスに向けて投げた。リリスは携帯を淀みなく操作して「なるほど」と呟いた。
「人間ね。可愛くてつまらなかったわ。友人の子供って思っても、そんなものなのね」
「だから言ったじゃないですか!」
「ところで、名前とかはあるのかしら」
「
「良い名前ね」
「そうですかね?」
「なんで花見ちゃんが聞くのよ」
「いや、世の中もっと派手な名前の人が多いので、ちょっと地味じゃないかなあと思っていたり。それで言うと桜さんは実に地味で安心しました!」
「そういや私の名前って地味だなあ。どうしてだろう。桜なんて桜でしかないのに」
「親に聞いたことないんですか?」
「ないね。私ってば美少女だったから」
「そうなの? 顔が見えないから分からないけれど、それなら良かったわね。顔が良いなら上手く生きられるわ」
「それを聞いて安心した」
私はリリスへ腕を突き付けた。
「遺言は?」
「特に何も。ああでも、お鍋をかけたままだったの」
リリスは抵抗しなかった。彼女の胸は私の腕によって貫かれ、血肉は指先に掻き混ぜられ、私の中へと吸収された。
「そういえば、私って念仏も知りませんでした」と桜梅は言った。それでも手を合わせて「ごめんなさいね!」と言った。「それに意味はあるのかい」と私は言った。「ありませんよ。死んでますから」と彼女は言った。
「でも、無意味なものに意味を見出そうとすることこそが、人間らしい振る舞いだとは思いませんか?」
「たとえば死者を悼む気持ちとして。たとえば生者の心の整理として。だから葬式は世界中にあるんでしょう」桜梅はそう言った。「滑稽じゃなかったのか?」私が言うと、彼女は馬鹿にしたように言った。「生きているだけで滑稽なのだから、滑稽さを認めた上でどう生きるのかという話でしょう」
私は桜梅をそっと地面の上に置くと、身体の調子を確かめた。特別、何かが変わった感じはない。あまりに量が少ないためだろうか。思えば、楽土と同行する私の方も、特別な何かがあるようには感じられない。
私は足を動かすと、桜梅に背を向けた。彼女は「どこに行くんですか?」と聞いてくる。
「ここで待機するはずだったんじゃないですか。もしかして、私を殺すつもりですか!?」
「そうしても良いんだけれどね」
「嫌ですよそんなの! どうにか生かして下さいよう!」
「はいはい」
私は桜梅を無視して、崩れかけの掘っ立て小屋に入った。「何です何です」と桜梅が後から追いかけてくる。「なあに」と私は言って、その中の、火が付いたままだったコンロを止めた。
「お鍋がかけられたままだっただろう」
「ああ、そういえばそうですね。カレーですか。食べて良いですかねえ」
「良いんじゃない? 私も久しぶりに食べようか」
「その口で食べられるんですかあ?」
「何事も挑戦だろう」
私達はリリスが残したカレーを食べた。何事も無頓着なせいか、味がバラバラであまり美味しくはなかった。