しかし、疲れた。大変疲れた。この身体は疲れ知らずで息を荒げてもいないが、精神的には酷く疲れた。
流石に退魔七家に名を連ねるだけの、そしてその名前を名乗れるだけのことはあり、ここで死んでしまうかもしれないと何度も思った。結局は勝てたにしても物凄く痛かったし、車も壊れてしまったし、何より脳裏さんを格好良く守ることも出来なかったのは反省点の一つである。
「だけどその分、リターンは凄いのよね」
私はうきうきとして錫弓の手から色目を奪った。歪な形をした弓は肉々しい感触をしており、触れる指先に柔らかく、そして骨ばったような硬さがある。これが欲しかった。
口を開く。弓に歯を突き立てる。血が噴き出す。黄色い油が染み出る。それらを噛み砕き、咀嚼し、音を立てて飲み込んでいく。
ぎぃぎぃと、虫のような悲鳴が響く。身体の方は震えていたが、私は満足感でいっぱいだった。
何せ、身体の奥底から、自分の力が膨れ上がったような感覚がする。
「一、悍ましい」
吐き捨てるように脳裏さんが言った。「二、お前は異常だ」と毒々しく続けてくる。
「一、朱族が色目を食らうなど聞いたことがない。二、確かに、それで存在の格を上げることは出来るだろうが、それでも同族食らいだろう」
「あーこれはね、先例があったからね。友人が色目にされた朱族が、その色目を取り込んでパワーアップっていうの」
「一、そんな話は聞いたことがない。二、相変わらず、お前はどうして色目だの、そもそも朱族だのを、当然のような顔で発することが出来る。三、普通はもっと、戸惑うものだろう」
「世界が私をそのように生んだからさ」
嘯くように事実を言う。脳裏さんは諦めたように溜息を吐いて、錫弓を見つめた。
「一、確かに、こいつらは石頭だった。二、しかし、それでもお前が真削の連中に勝ち得る可能性はなかっただろう。三、だが、お前は勝利した。四、朱族の本能を押さえつけることによって」
「押さえ付けてはいないよ。身体の方にはある。だけど私にはない。私は私。伊藤桜ですわ」
「一、年月を経たならば、理解できる。二、しかし、生まれたばかりの段階で出来るとは。三、やはり興味深いサンプルだ」
「あら、気に入っちゃった? 好感度が高まったかな? このまま行けばベッドシーンも遠くありませんわね」
「一、くたばれ」
そう言って脳裏さんが何やら呟くと、錫弓もまた何事かをブツブツと呟き、そして身体が動き出した。
懐から短刀が抜かれる。私は普通に避けた。
「退魔七家の情報を抜くとかじゃないの? わざわざ私を止めたのはさ」
「一、そんなことをしなくとも、連中は喜んで我らに身体を捧げている。二、そして今取り込んだ情報も、何の価値もないものだった」
「そうですか。だったらやっぱり、人臓院無心の事が聞きたいから?」
あの物凄く早くて小さい声を聞き逃さないとか流石は脳裏さんだなあと思いながらも、それにしては、弓使いが振るう短剣など脅しにはならないだろう。
事実、さっと腕を動かして首を掻き切った。「一、使えん」と残念がるでもなく脳裏さんは呟く。
「何がしたかったんで?」
「一、憂さ晴らし」
「なーるほど」
哀れな錫弓は首を切られてごとりと転がり、色目と同じように私の糧となった。
しかし、脳裏さんの能力の影響下にあったからか、身体が勝手に動くことはなかった。石鉈と銅剣を殺したときもそうだが、この殺人に言い訳は出来ない。私が私自身の意思で人を殺したということになってくる。
「ひ、人を殺してしまいましたわ! どうしましょう!」
「一、何をいまさら」
「ですよねー」
相変わらずつれない人である。別に何とも思わなかったが、状況を鑑みて可哀そうだとか思って曇ってくれればいいのに。
しかし今の私は上機嫌なので水に流して差し上げよう。何せ弓だけでなく、鉈と剣まであるのだ。レベルアップを三回も出来るとは、結果論だが美味しい敵だったんじゃないだろうか。
そして、弓と同じように鉈と剣を飲み込んで、これからどうしようかと思った。
「車ぶっ壊れちゃったからなあ」
見つめるのは、錫弓が射抜いた結果、煙を上げてスクラップと化しつつある自家用車である。市街地である村上市を目前にしたとは言っても、未だ山の中ではあり、そして後続の車が全く訪れない。恐らく真削の人達が人払いをしているのだろう。
そうなると、困った。
何せ、マザー・リリスが根城にしているのは、明確には記述されていないが北関東だったはずである。東京にほど近い地方都市の、その山中に居を構えていたはずだ。異様にでっかい木の根元にあるオンボロ小屋で暮らしているはずなのだ。
勿論、人外の肉体は車よりも速く走れるし、北関東までなら大して疲れるわけでもない。だが、髪は風に吹かれてぐちゃぐちゃになるし、身体は汚れる。そして何よりも、車じゃないと脳裏さんが同行してくれないだろう。
いっそ抱っこなりおんぶなりして一緒に走るという魅力的な考えもあるが、現実的に考えて、彼女が私に背負わせてくれるはずもない。一旦別れて、それでもしつこく私を狙うという構図もまた魅力的だが、再び出会う前に私はマザー・リリスの下に辿り着き、彼女が死ぬまでの安寧を謳歌するだろう。そうなるために目指しているのだから。
「じゃあ仕方ない。一旦街に降りて、車をかっぱらってくるから、脳裏さんはここで待っていてね」
「一、誰が待つか。二、せめて人臓院無心について話してからどっかに行け」
「私よりも優先するのか。そんなに知りたいわけ?」
「一、あれは得体が知れない。二、私が得体が知れないと言うのも滑稽かも知れないがな。三、何せあれは、確かに私と同じく、人臓院に生まれたのだから」
脳裏さんは嫌そうに唇を尖らせて言う。しかし私にしても、彼について知っていることは殆どない。
何故なら、原作でもあまり書かれていなかったからだ。これから書かれようというところで刊行がストップしていたと言った方が良いだろうか。彼はラスボスとして目されているものの、その素性は未だに不明であって、何かしらの過去が語られたこともない。物語の役割としても、主人公君達の前に度々現れては邪魔してきたり軽口を飛ばしてきたりと、迷惑野郎の名を欲しいままにしていただけで、あんまり戦うこともなかったはずである。
それでも、目的ははっきりと口にしていた。
「確か、神様がどうたらこうたら」
「一、神だと? 二、人臓院に生まれ落ちて、神を語るものか」
「それでも言ってたんだから仕方がないでしょ」
朱族や赤族といった人外と、人間の異能力の根源が同じものであるという仮説は、人臓院無心が第一に語ったことである。それまではキリスト教も仏教も物語としては話題に出てこなかったのに、急に神様と来れば困惑するのも当然だった。そしてこの困惑は読者だけのものではなく、脳裏さんのように、この世界の人からしてみても同じもののようである。
「一、あれは表にも名を残していたが、裏にも名を残していたのだ。二、神を語れぬほどには人を殺し、人を組み立てていた。三、それがどうしたことか失踪して、今では世界各地に不意に現れ、無意味な混乱を生み出している。四、殺したり、殺さなかったり、意味不明だ。五、お前はもしや、奴の手によるものか」
「人臓院お得意の改造人間って? いやいや、私は天然物ですわ。何せこの美貌!」
「一、まあ、あり得ないか。二、お前ごときが奴の手による物の筈がない」
「酷い言われよう」
しかし、神様か。今の私からしてみれば、中々に興味深い概念ではあるだろう。
私がこの世界に存在する理由が分からないとは言っても、それは既存の常識によるものだ。もしかしたら元の世界でも神様がいたのかもしれないし、この世界でも、語られなかった原作の先で、転生や憑依といった概念を説明できる神様が現れるのかも知れない。
「だったら、聞いてみるのも良いかもしれないね。その人臓院無心もとい、椿延暦に」
私は言ってみた。目標という奴だ。今の私の第一目標はマザー・リリスの下に行って落ち着くことだが、彼女が殺された後でそんな事をするのも良いかもしれない。ラスボスと直に会うというのも、何だか楽しそうだろう。
しかし、その前に。目の前を見なければ。
会話の最中、ふと前方に人の姿が現れていた。いや、人だろうか。普通、人はあんなスピードで走らないだろう。これまでと同じように身構える中にも、豆粒ほどの大きさはすぐに拳ほどの大きさとなり、そのままこちらに突っ込んでくる。
そして、私の目の前で急停止した。それは少女だった。
身長の低い、私よりも年下に見える少女である。髪は黄色で目は茶色。絵本から飛び出したようなロリータファッションでツインテールを風に乱れさせ、妙にキリッとした顔で私を見つめた。
「貴方、伊藤桜さんね」
「そうです」
私は困惑しながら返事をした。すると彼女は「本当に!?」と念を押すように言って詰め寄って来る。
「はい。それで貴方は?」
「……よ」
「ヨさんですか。ニーハオ?」
「よかったー!」
彼女は急に相好を崩し、私に抱き着いた。「なんすか急に」とさりげなく背中に手を回す。服が厚くて身体の形が分からん。
「あっ、これは失礼ね! ごめんなさいね!」
「はい」
ぱっと身体を離し、少女は居を正した。ツインテールがふらふらと揺れている。それを直しながら真面目腐って彼女は言った。
「私の名前は
そう言って彼女は虚空に血の剣を形成した。「自分で二つ名とか言っちゃうんだ」と思わず言っちゃった私を無視して「これのこと!」と剣を指し示す。
「私って異能力とかもなくて、出来るのは本当に基本的な、血で武器を作るとかだけなんだけど……それでもリリスさんが格好良く名付けてくれたから、私もそう名乗っているんだ! 本当に優しくて凄い人なんだよ! あっ、リリスさんっていうのはね、私達だけじゃなくて、人間も守ろうとしている本当に偉い人で、あっ、そもそも私達っていうのは人間じゃなくて……」
「朱族。吸血鬼みたいなもの。それを狩ろうとするのが流血機関や退魔師やら。マザー・リリスは朱族と人間の融和派」
「ええーっ!? 何で知ってるの!?」
「そこの人に聞いたから」
余りに圧が強いので、適当に脳裏さんを指さして言った。その脳裏さんは「一、くたばれ。二、そして死ね」と言ってくるが、よこみちゃんの視線に諦めたように両手を上げた。
「一、分かった。降参だ。二、本当にマザー・リリスとやらが実在するのなら、私程度では人臓院に切り捨てられるのがオチだろう。三、抵抗をするつもりはない。さっさと……」
「わあ! 人間だ! それもハグしようって!? 貴方達って一緒に旅してきたの!? 凄いわ! リリスさんの理想そのものじゃない!」
「ぐうっ!? 一、何を……」
何を勘違いしたのか、よこみちゃんは脳裏さんに抱き着いた。脳裏さんも、この状況でも術を続けようとするとは流石だが、珍しく本気で困惑した顔を浮かべている。
まあ、状況は断片的に理解した。
突然発生した私という朱族に、流血機関は当然討伐しようとしたが、利益や意義のためか何かで企業や退魔七家の横槍が入り、結果として大きな騒ぎになってしまったのだろう。その騒ぎをマザー・リリスが聞きつけて、私の願い通りに私を守ろうとしてくれたということだ。
しかし、縦長よこみなんて名前は聞いたことがない。そもそも、マザー・リリスに部下なんていただろうか?
「まあいいや。それで、よこみちゃん。君は私を守りに来たと。つまり私を、リリスさんのところに連れて行ってくれると?」
「そうよ!」
「話が早い。素晴らしい。世の中全部そうあって欲しいね」
ぱちぱちと拍手をする。「いやーどうもどうも!」とよこみちゃんは得意げに胸を反らしてくれるが、「じゃ、行きましょ!」と急にクラウチングスタートを切ろうとしたのには焦った。
「どこに行くのか分からないまま走られても困るよ。どこに行けば良いんだい? ねえ脳裏さん」
「一、私も当然のように付いていく前提で話すな」
「そんな事言ってませんけどー? 聞いただけですけどー? 前提にしているのは脳裏さんの方じゃないのかな嬉しいなー!」
「一、黙れ。二、そして死ね」
よこみちゃんから解放されたことを喜ぶでもなく、脳裏さんが豊富なボキャブラリーで罵倒してくれる。
一方でよこみちゃんは既に走り去ってしまった後だった。もう豆粒の大きさになっていやがらあ。