ところどころ時系列など含めおかしなところがあるかもしれませんが、大目にみていただけますと幸いです。
下北沢。
この街の空気は、数年前と変わらず、若者の青臭い夢と、使い古された機材の油の匂いが混じっている。
九十九蓮(つくも れん)は、愛用のサングラスを少しだけ下げ、昼下がりの商店街を抜けた。
「……変わらないな、ここは」
かつて自分も、ここで夢を追いかけていた。
つい先日に活動休止を発表したとはいえ、世間では「伝説のロックバンド」と称されるようになった『Eclipse(エクリプス)』のベーシスト。そして、作曲担当。それが蓮の肩書きだ。
バンドが一時的な休息を選んだのは、決して不仲からではない。
『個々の牙をさらに研ぎ澄ますため』
そんな青臭くも、今の自分たちには必要な理由。
こう言えば聞こえはいいかもしれないが、実際はそんな大仰なもんではない。
彼は、単純に伸び悩んでいた。
『Eclipse』は結成直後には苦労もあったが、幸運なことに大して下積みもなくあれよあれよとスターダムを駆け上がった。
目まぐるしく過ぎる日々にファンからの期待。もちろんそれが嫌だったわけではない。
ただ、事実として今の彼は以前のように満足のいく曲を作れなかったし、自身の演奏技術も頭打ちになってしまっていた。
メンバーもそれを尊重して、それぞれのソロ活動に専念してより技術を磨く期間として一時的な活動休止を決めたのだ。
活動休止中とはいえ、現在はYouTubeでの配信や多少の楽曲提供などソロ活動を中心に音楽活動は続けており、なによりバンドの印税だってある。生活には困らないどころか、使い切れないほどの資金が口座に眠っている。
今は、ただ自分を見つめ直すための期間なのだ。
そんな彼に、とある人物から連絡があった。
『ライブハウスオープンしてからまだ一回も来てねぇだろ?今はどうせ暇してんだろうし、一回くらい顔見せにこいよ』
スマホに残された、かつてライブハウスでお世話になった伊地知星歌からのぶっきらぼうなメッセージ。
バンドマンとしての栄光を抱えていても、この人の前では一人の後輩バンドマンに過ぎないようだ。
「STARRY(スターリー)、だったっけ。星歌さんらしい名前だ」
地図を頼りに、少し路地を外れた場所へ向かう。
その道中。
住宅街の隙間、人通りの少ない公園の前を通ろうとした時、蓮の足が止まった。
そこには、一人の少女がいた。
短く切り揃えられた、透明感のある青い髪。
どこか浮世離れした、整った顔立ち。
そして、その背中には見覚えのある形のギグバッグ。
だが、問題はその行動だった。
彼女は道端に生えている――明らかに食用ではない――草を、迷いのない手つきで摘み、そのまま口に運んでいたのだ。
「…………え?」
蓮は思わず絶句した。
幻覚かと思ったが、彼女は咀嚼している。
無機質な、それでいてどこか悟りを開いたような無表情で。
「(……雑草を食ってる。嘘だろ。昔の俺だってもう少しマシなものを食べてたぞ)」
蓮の脳裏に、Eclipseがまだ駆け出しだった頃の極貧時代がフラッシュバックした。
機材代とスタジオ代に全てを注ぎ込み、一週間を水とパンの耳だけで過ごしたあの日々。
だが、目の前の彼女はさらにその先を行っている。
放っておけなかった。
同じベーシストとして。そして、下北沢を愛する者として。
「……あー、君。ちょっといいかな」
蓮が声をかけると、少女は「ピクッ」と肩を揺らした。
ゆっくりと、ロボットのような動きでこちらを振り向く。その口元には、まだ緑色の名残があるような、ないような。
「……なん、でしょうか。もし、この場所の占有権を主張されるのでしたら、私は速やかに撤退しますが」
「いや、そうじゃない。ただ……もしかして、お腹空いてる?見たところ君、ベーシストだろ?俺もベースやってんだ。同じベーシストのよしみで、もし金欠で困ってるなら何か奢るよ。まともなご飯」
蓮が苦笑混じりに、最大限優しく提案した。
少女は少し訝しむような目で蓮の顔をじっと見つめる。
しかし、少し経つと彼女の表情が驚愕へと塗り替えられた。
「も、もしかして……Eclipseの、蓮さん……?」
「え、あ、うん。そうだけど」
自分の正体がバレるのは慣れている。だが、この状況で呼ばれるのは想定外だった。
少女は固まった。
手に持っていた「本日の食事(草)」が、ハラハラと地面に落ちる。
「…………っ!」
彼女の白い肌が、一瞬で耳まで真っ赤に染まった。
憧れの、それこそ神のごとく崇めていたベーシストに。
よりによって、道端の草を食べているところを、これ以上ないほどの至近距離で目撃されたのだ。
「……死にたい。今すぐ、地層の一部になりたい」
「落ち着いて。死ななくていいから。ね?」
「……蓮さんに、草を、見られた……。私の、ベーシストとしての、クールなアイデンティティが……」
小声でぶつぶつと絶望を口にする彼女。
だが、蓮はただただ微笑ましかった。
変な子だが、そのギグバッグの使い込まれ方を見れば、彼女がどれだけ楽器に心血を注いでいるかは一目でわかる。
「ほら、行こう。俺も少しお腹が空いてたんだ。……何が食べたい?」
「………………」
リョウは、羞恥心と空腹を天秤にかけ――。
やがて、背に腹は代えられないとばかりに、深々と頭を下げた。
彼女を知る者達からすれば、大口を開けて驚くような謙虚さだった。
「……お言葉に甘えさせていただきます。ご馳走になります」
「よし。とりあえず、牛丼かカレーにしようか」
少し移動して。
近くのカレー屋に入り、運ばれてきた大盛りのカツカレーを、彼女――山田リョウは、驚くべきスピードで平らげていった。
先ほどまでの羞恥心はどこへやら、今はただ、生命を維持する喜びに浸っているようだ。
「ふぅ……。生き返りました。九十九蓮さん、あなたは私の命の恩人です」
「リョウちゃん、だっけ。敬語じゃなくていいよ、俺も今はただの休止中の身だし」
「いえ。ベーシストとしての階級が違います。蓮さんの『Eclipse』でのプレイは、全てコピーしました。特にサードアルバムの5曲目、あの変拍子の中でのスラップ、あれはもはや変態(褒め言葉)です」
リョウは語り始めた。
それまでの淡々とした雰囲気からは一変、ベースの話になった途端、その瞳には熱が宿る。
「あの歪みの質感は、やはりヴィンテージのサンダーバードですか? それともプリアンプのセッティングに秘密が? 蓮さんのピッキング位置は、ブリッジ寄りなのに音が太い。どうしてあんな指使いができるんですか。というか、あのライブ映像の12分過ぎのフィルイン、あれは即興ですよね? あんな構成、普通は思いつきません……」
「あはは、すごいな。そんな細かいところまで聴いてくれてるんだ」
蓮は圧倒されていた。
自分と同じ、あるいはそれ以上の熱量でベースを愛している少女。
今の若者は、効率や見栄えを重視しがちだと思っていたが、彼女は違う。
ただ純粋に、「音」そのものを追求している。
「嬉しいよ。自分と同じくらいベースが好きな奴に会えるとさ。……あ、でも、草はもう食べちゃダメだよ?」
「……善処します。ですが、良い機材を見つけると、つい財布が軽くなるのはベーシストの性(さが)ですので」
リョウは真顔でそう言った。その徹底した「ダメ人間」っぷりに、蓮は思わず吹き出してしまう。
気がつけば、一時間近くもベース談義に花を咲かせていた。
もっと話していたい、と思わせる不思議な魅力が彼女にはあった。
しかし。
「あ、いけない。もうこんな時間か。……ごめん、リョウちゃん。このあと約束があるんだ」
蓮が時計を見て席を立つ。
リョウは目に見えて肩を落とした。子犬のようなその表情に、蓮は少しだけ胸が痛む。
「……そうですか。至福の時間は、いつも短いものです」
「悪いね。これから『STARRY』っていうライブハウスに行かなきゃいけなくて。あ、この辺にあるはずなんだけど、知ってるかな?」
その言葉を聞いた瞬間、リョウの眉がピクリと跳ねた。
「……STARRY?」
「うん。知り合いが店長をやっててさ」
リョウは一瞬だけ呆然としたあと、勢いよく立ち上がった。
ガタン、と椅子が鳴る。
「……そこ、私のバイト先です」
「え?」
「そして、私が最近結成したバンド、『結束バンド』の拠点でもあります」
運命。
そんな言葉が蓮の脳裏をよぎった。
星歌の言っていた「新しいライブハウス」に、目の前の少女が所属している。
「ぜひ、案内させてください」
「あ、ああ、ありがとう。じゃあ、お願いしようかな」
リョウは、自分のギグバッグを背負い直し、いつになく真剣な表情で蓮の前に立った。
憧れの人が、自分の聖域にやってくる。
そのことが、彼女の中でどれほど大きな意味を持つのか。
リョウの足取りは、先ほどまで草を食べていたとは思えないほど、力強く、誇らしげなものに変わっていた。
蓮はその後ろ姿を見つめながら、これから始まる予感に、少しだけ胸を高鳴らせるのだった。
スターリーへ向かう道
二人は、下北沢の喧騒を歩く。
リョウは少し前を歩き、時折振り返っては、蓮がついてきているかを確認する。その仕草は、まるで大切な宝物を運んでいるかのようだった。
「蓮さん。一つ、聞いてもいいですか」
「ん? 何かな」
「Eclipseが活動休止を発表したとき、私は三日三晩、寝込みました。……でも、今日こうして会ってみて、わかりました。蓮さんは、まだ終わってないんですね」
リョウの言葉には、確信がこもっていた。
隣を歩く男から漂う、枯れることのない音楽への執着。
「……そうだね。今はちょっと休憩中だけど、指は一日も止めてないよ。次に鳴らす時は、世界を驚かせるつもりだから」
「……はい、楽しみです。」
笑い合いながら、二人は階段を降りていく。
コンクリートの壁に貼られたライブハウスのポスター、地下特有の湿った空気。
リョウに案内されて中に入ると、一人の金髪の女性が頬杖をついてカウンターに座っていた。
「おう、遅かったな蓮。先輩を待たせるなんていい度胸してんじゃ……て、リョウ? なんでお前が連れてきてんだよ」
星歌がそう言いながらこちらを見る。
リョウは無表情を保ったまま、誇らしげに胸を張った。
「星歌さん。道端で野生の蓮さんを捕獲しました」
「誰が野生だ」
蓮は苦笑しながら、かつての先輩へ手を振った。
「久しぶり、星歌さん。……いいベーシストを雇ってるね、ここは」
ここから、止まっていた蓮の時間が、一気に加速し始める。
青い髪の少女との、奇妙で、切なくて、そして最高にロックな物語の幕が、今、下北沢の地下で静かに上がった。