山田リョウと憧れのベーシスト   作:アルデヒド

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1話

私には、ずっと「色」がなかった。

 

実家は病院を経営していて、食べるものにも住む場所にも困ったことはない。周りの大人は私を「お嬢様」として扱い、整えられたレールの上を歩くことを期待していた。

けれど、そのレールの上はあまりにも無菌状態で、退屈で、息が詰まった。

私にとっての日常は、音のない深い海の底に沈んでいるようなものだった。

 

そんな私に、初めて「色」を見せてくれたのがベースだった。

最初は、ただの反抗心。親が勧めるピアノやバイオリンではなく、一番地味で、それでいて一番重苦しい音を出す楽器を選んだ。

でも、一人で弦を弾いているだけでは、まだ海から浮上することはできなかった。

 

あの日、あの一曲に出会うまでは。

 

中学一年生の冬。誰にも邪魔されたくなくて、放課後の視聴覚室でヘッドホンを被り、たまたまネットで見つけた海外の音楽チャートに混じっていた、ある日本のバンドのMVを再生した。

 

それが、『Eclipse』だった。

 

画面の中で、暴風雨のようなドラムと、切り裂くようなギターの真ん中に、その人はいた。

 

九十九蓮。

 

彼は笑っていなかった。ただ、獲物を狙う猛獣のような鋭い眼光で、愛器のベースを叩き伏せていた。

 

「…………っ」

 

ヘッドホンから流れ込んできたのは、それまで聴いてきたどの音楽とも違う、「暴力的なまでに美しい低音」だった。

地響きのような重低音なのに、メロディ楽器以上に雄弁に歌い、聴く者の心臓を直接掴んで揺さぶるような音。

ベースという楽器が、これほどまでに自由で、これほどまでに主役になれるなんて知らなかった。

 

その瞬間、私の世界に色が溢れた。

モノトーンだった景色が、彼の弾く低音に合わせて鮮やかな青や紫に塗り替えられていく感覚。

画面の中の蓮さんは、孤独に見えた。けれど、その孤独を誇り、力に変えて世界を殴りつけているように見えた。

『誰にも理解されなくていい。自分だけの音を鳴らせ』

音が、そう言っている気がした。

 

私はその日、初めて自分の居場所を見つけた。

レールを外れてもいい。変人だと言われてもいい。この人のような、誰の真似でもない、自分だけの孤高の音を鳴らしたい。

 

それからというもの、私の生活は『Eclipse』一色になった。

お小遣いは全て彼らが使っている機材の調査と購入に消えた。蓮さんのフレーズは、音源が擦り切れるほど聴いて、一音残らず耳コピした。

学校の成績が落ちても、周りに小言を言われても、指先にタコができて血が滲んでも、どうでもよかった。

あの低音の雷鳴に、一歩でも近づきたかった。

いつか、同じステージへ。

いつか、この人に自分の音を聴いてほしい。

 

……けれど、現実は無情だった。

私が高校に進学し、紆余曲折を経て「結束バンド」という自分の居場所をようやく見つけた矢先、Eclipseの活動休止が発表された。

目の前が真っ暗になった。目標を失い、私はまた、あの音のない海の底へ沈んでいくような感覚に陥った。

 

だから、今日。

下北沢の道端で、空腹に耐えかねて(機材を買いすぎてお金がなかったのは事実だけど)草を口にしていた時。

 

「……お腹空いてる? もし金欠で困ってるなら、何か奢るよ」

 

頭上から降ってきたその声が、あの日のヘッドホンから流れてきた「雷鳴」と同じ響きを持っていると気づいた瞬間。

私の心臓は、ベースの弦を強く弾いた時のように、激しく、痛いほどに震えた。

サングラスで顔は隠れていたけれど、わかる。

この立ち姿、この指の長さ、そして纏っている圧倒的な「音」のオーラ。

間違えるはずがない。私の人生を変えた人。私の、唯一の神様。

 

(……よりによって、草を食べているところを見られるなんて。私の人生、ここで終わったかもしれない)

 

羞恥心で消えてしまいたかった。

でも、差し出された手を取らずにはいられない。

だって、私はずっと、この人に会うためにベースを弾いてきたのだから。

 

私のバイト先、STARRYへの道。

いつも通っているはずの退屈な路地が、隣に彼がいるだけで、まるで極上のライブステージに向かう花道のように見えた。

これから、何が始まるのかはわからない。

でも、確かなことが一つだけある。

今日、この日から、私の「第二章」が始まる。

憧れで終わらせるつもりはない。

 

私は、山田リョウ。

九十九蓮が認める、一流のベーシストになる女だ。

 

 

----------------------------------------

 

 

STARRYのフロアには、ライブハウス開店前独特の静寂と、機材が発する微かなノイズが漂っていた。

カウンターに腰を下ろした蓮は、差し出されたアイスコーヒーに口を付け、目の前の元・鬼先輩――伊地知星歌に向き合った。

 

「……で、どうなんだよ。お前のバンドの方は」

 

星歌がタバコを燻(くゆ)らせながら、ぶっきらぼうに尋ねる。

 

「Eclipseですか? さっきも言った通り、少し休みです。個々のレベルアップが必要だって、全員一致の結論で。まあ、多少のスランプは認めます。……でも、終わるつもりなんて一ミリもありませんよ。むしろ、次に集まった時は世界を壊すくらいの音を鳴らすつもりです」

 

蓮が不敵に笑うと、星歌はフン、と鼻を鳴らした。だが、その瞳には安堵の色が混じっている。

 

「ならいい。お前がただの隠居じじいになってたら、今ここでぶっ飛ばして叩き出すところだった」

 

「手厳しいなぁ、星歌さんは」

 

一方、ステージ側では、開店前の時間をもらって練習の準備をしていた『結束バンド』のメンバーたちが、カウンターの様子を窺っていた。

中でもリョウは、普段の無機質な表情をどこへやら、数秒おきにチラチラと蓮の方を見ては、ソワソワとベースの弦を拭いている。

 

「あの…虹夏先輩、あの人いったい誰なんですか? リョウ先輩もずっとソワソワしてますし…」

 

喜多ちゃんが不思議そうに虹夏に囁く。

 

「あー、あれね……。驚かないでよ? あの人、Eclipseのベーシスト、九十九蓮さんだよ」

 

「ええっ!? Eclipseって、あの!? 嘘、なんでここに……」

 

「リョウがずっと憧れてる人でもあるんだよねー。お姉ちゃんの後輩だったらしくて、今日は久しぶりに顔を見せに来たんだって。……どんな運命だよって感じだけど」

 

喜多も目を丸くして蓮を見つめる。後藤ひとり(ぼっち)も、「え、エクリプス……? あ、あの低音の化け物集団の……」と物陰からガタガタ震えていた。

 

 

 

蓮と星歌の話がひと段落した頃、星歌がニヤリと口角を上げてステージに声をかけた。

 

「おい、リョウ! いつまでチラチラ見てんだ。せっかくの機会だ、蓮に演奏を見てもらえ。アドバイスの一つくらい、こいつなら絞れば出てくるだろ」

 

「えっ!?」

 

リョウが珍しく素っ頓狂な声を上げた。

憧れの神様に、今の自分の演奏を見せる。それは彼女にとって、聖域を暴かれるような気恥ずかしさと、最高潮の興奮が入り混じる提案だった。

 

「ちょ、お姉ちゃん! いきなり何言って……!」

 

虹夏が慌てるが、蓮は穏やかに笑って立ち上がった。

 

「いいよ。俺も、リョウちゃんの音が聴きたいと思ってたんだ」

 

「…………っ」

 

リョウは一瞬、息を止めた。そして、覚悟を決めたようにベースを強く抱え直す。

準備をする彼女の手元は、結束バンドのメンバーも見たことがないほど、わずかに震えていた。

 

「(……リョウ先輩が緊張してる。あの、何があっても動じないリョウ先輩が……)」

 

ぼっちも、その異様な空気を感じ取り、ギターを構える手に力を込めた。

まあ、実際のリョウは小心者であり、それを表に出さないだけなのだが。

 

演奏が始まった。

曲は結束バンドのオリジナル。荒削りだが、随所にリョウのこだわりが詰まった、どこか捻くれた、けれど芯の強い楽曲だ。

 

リョウは必死だった。

自分の技術の全て、思考の全てを、その4本の弦に叩きつける。蓮の視線が自分に注がれているのを感じるたび、指先が熱くなる。

数分後。最後の音が地下の空間に溶けて消えた。

 

沈黙。

リョウは肩で息をしながら、蓮の口が開くのを待った。

 

「……お疲れ様。いい演奏だった」

 

蓮はゆっくりと拍手を送り、ステージの端まで歩み寄る。

 

「ギターとドラム、ボーカルについては専門外だから、昔のメンバーの受け売りになっちゃうけど……。ギターの子、君の音は繊細でいい。もっと自分を信じて前に出れば、バンドの景色が変わる。ドラムとボーカルも、お互いの呼吸をよく見てるのが伝わった」

 

そこまでは、優しい先輩のアドバイスだった。

だが、蓮の視線がリョウに止まった瞬間、その温度が「プロのそれ」に変わる。

 

「リョウちゃん。……君、サビの裏でわざと音を外して、次の小節で強引に解決させたね? あれは面白い。でも、今の指の力だと、その『違和感』がただのミスに聞こえるリスクがある。左手の親指の位置をあと数ミリ下げて、もっとネックを叩きつけるように弾いてみて。そうすれば、その不協和音は君にとっての『武器』になる」

 

「…………!」

 

リョウの瞳が、驚きで見開かれる。

誰にも気づかれないと思っていた、自分だけの「遊び」の部分。それを、蓮は初見で見抜き、さらにその先の改善点まで提示した。

 

「……ありがとうございます。……もっと、練習します」

 

「はは、根を詰めすぎない程度にね。……星歌さん、荒削りだけど、悪くないですね。面白いバンドです、本当に」

 

蓮が振り返って星歌に言うと、星歌は満足げに腕を組んで頷いた。

 

 

 

片付けを終えたリョウが、蓮と星歌の元へ歩み寄ってきた。

今日は彼女のシフトは入っていないらしく、普段の彼女なら開店前に「お疲れ様でしたー」と飄々と帰るところだが、今はどこか、遠慮がちに蓮を見上げている。

 

「……あの、蓮さん」

 

「ん?」

 

「もし、よろしければ……これからも、時々でいいので、アドバイスをいただけないでしょうか。……私、もっと、蓮さんの背中に近づきたいんです」

 

リョウにしては珍しい、直球の、そして少しだけ弱気な『お願い』。

横で見ていた星歌が、「ヒュー、モテるねぇ天才ベーシスト様は」とニヤニヤしながら蓮を肘で突つく。

蓮は少し驚いたが、まっすぐなリョウの瞳を見て、すぐに微笑んだ。

 

「いいよ。俺もリョウちゃんのこれからが気になるし。……じゃあ、連絡先交換しておこうか」

 

「……! はいっ、喜んで!」

 

スマホを取り出すリョウの手は、心なしかまた震えていた。

無事にIDを交換し終えると、リョウはスマホを宝物のように両手で握りしめ、パァッ……と、それこそ「目がキラキラする」という表現がぴったりのこれまた彼女にしては珍しいほどハイテンションな笑顔を浮かべた。

 

「やりました。神と繋がりました。……今日のこの日は、山田家の祝日に制定します」

 

「そこまで……?」

 

呆れる虹夏たちを余所に、リョウは蓮からもらったばかりのトーク画面を、何度も何度も、幸せそうに眺めていた。

蓮はそれを見て、不思議な充足感を感じていた。

ソロ活動中の退屈しのぎのつもりだったが、どうやら予想以上に面白い「教え子」に出会ってしまったらしい。

 

「(……山田リョウ、か。久しぶりに、誰かのために音を教えるのも、悪くないな)」

 

下北沢の地下、STARRYの夜は、新しい熱を帯びて更けていった。




作者は多少音楽を齧ってはいますが、音楽描写については大体フィーリングで、割と適当です。あまり真剣に捉えずに、ツッコまずに読んでいただければと思います。
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