連絡先を交換してから、二人の間には不思議な交流が生まれていた。
楽器の調整の相談から、お互いが愛してやまないマイナーな変態ベーシストの動画URLまで、通知は頻繁に飛び交った。
そして休日。リョウはついに、都内の高級マンションの一角にある蓮の自宅を訪れていた。
「……ここが、ベースの聖域」
防音扉を開けた先には、壁一面に吊るされたヴィンテージからカスタムモデルまでのベース、そしてプロ仕様のレコーディング機材。ミュージシャンなら誰もが憧れる、文字通りの「楽園」が広がっていた。
今日はリョウの希望で、蓮のYouTube撮影を見学することになっていたのだ。
「適当に座ってて。機材には触ってもいいけど、落とさないでね。まあリョウちゃんなら心配ないだろうけど」
「……慎重に、まるで新生児を扱うように接します」
リョウは興奮を押し殺し、普段の三倍は輝いた瞳で、部屋の隅にあるソファにちょこんと収まった。
撮影が始まった。
まずは「初心者から中級者に向けたベース講座」。
蓮がカメラに向かって語りかけ始めると、空気が一変した。優しく、それでいて核心を突く言葉選び。複雑な理論を、彼はまるで子供に絵本を読み聞かせるように噛み砕いて説明していく。
リョウは、蓮が時折見せる指先の「ゴーストノート」の入れ方に、視線を釘付けにしていた。
「――次は、リクエストがあった曲の『弾いてみた』を撮るよ」
蓮はそう言うと、数あるリクエストの中から一曲を選び、クリック音を鳴らす。
ベッドホンから音楽が流れ始めると同時に、録音ボタンが押された。
そして、リョウは息を呑んだ。
特等席で見る蓮の演奏。それは、映像で見るよりもずっと『生』のエネルギーに満ちていた。
難解なフレーズが連発される難曲。それなのに、蓮の指はまるで弦の上を滑るように動き、ミスなど微塵も感じさせない。
一度も止めず、一発で。
完璧なテイクが録り終えられた。
「……凄すぎます。もはや魔術の域」
「あはは、毎日やってれば誰でもできるようになるよ」
「いえ。蓮さんだからです。今の、3サビ前のグリッサンド……あれだけでご飯三杯はいけます」
「それは安上がりでいいね」
撮影を終えた二人は、蓮の奢りでランチへ。
「弟子には一円も払わせない主義だから」という蓮の言葉に、リョウは「一生、蓮さんに付き従います」と、冗談とも本気とも取れる誓いを立てていた。
食事の後、蓮が提案した。
「この後、作曲のインスピレーションを得るために街を歩こうと思ってるんだ。リョウちゃん、どこかおすすめある?」
「作曲……! でしたら、私が下北沢の奥の奥までご案内します」
そして二人は下北沢へ移動し、散策を始めた。
蓮はリョウに導かれるまま、隠れ家のような古着屋や、廃盤のレコードが山積みになった怪しいCDショップを巡る。
「この色使い、次の曲のジャケットのイメージに近いかも」
「あ、ここのベースライン、蓮さんの初期の曲に影響受けてる気がします」
二人の会話は止まらない。
音楽への熱量、コード進行へのこだわり、そして少しズレた感性。驚くほど気が合う二人の時間は、ただの先輩後輩の域を超えて、まるで魂の共鳴(レゾナンス)のように心地よく流れていく。
蓮は時折、リョウの何気ない言葉をスマホにメモした。彼女の持つ独自の感性が、彼の創作意欲を刺激していた。
……だが、そんな「いい雰囲気」の二人を、戦慄の表情で見つめる影があった。
「(……え? えええええ!? リョウ先輩が……デートしてる!?)」
通りすがりの喜多ちゃんである。
虹夏からは「リョウは今日、蓮さんのところに行ってるよ」と聞いてはいた。だが、まさかあのリョウ先輩があんなに楽しそうに(リョウ比)笑い合っているなんて。
「(あ、あんな幸せそうなリョウ先輩、私知らない! まるで……まるで本当の恋人同士みたいじゃない!)」
衝撃のあまり、喜多は身を隠しながら二人の尾行を開始した。
夕暮れ時。最後に立ち寄ったカフェで食事を済ませ、解散の時間がやってきた。
「今日はありがとう、リョウちゃん。お陰でいいインスピレーションが湧いたよ。一人で考えてるより、君と話してる方がずっと捗った」
「……お役に立てたなら、これ以上の喜びはありません。私の感性が、蓮さんの音楽の一部になれるなんて」
リョウは少しだけ頬を染めて、深々と頭を下げた。
「また、お邪魔してもいいですか?」
「もちろん。次は一緒にセッションでもしようか」
「……! はい。指を鍛えて待ってます」
帰宅後、リョウは自室のベッドに倒れ込み、今日撮影した「蓮とのツーショット写真」を眺めていた。
普段はクールな彼女の口元が、どうしても緩んでしまう。
神様と同じ空気を吸い、同じ景色を見て、音楽を作った。
彼女にとって、それは草を食べる生活から一気に天国へ昇ったような、夢のような一日だった。
……一方。
物陰から一部始終を見守り、二人が別れるまで尾行を続けた喜多ちゃんは、魂が抜けたような顔で駅のホームに立ち尽くしていた。
「(……完敗だわ。あんなの見せられたら、私……)」
あまりにもお似合いすぎる二人のオーラに、喜多ちゃんの「キターン」は完全に消失。
彼女が元のテンションに戻るまでには、実に一週間の時間を要したという。