この世界では、誰もが大きな間違いを犯さなかった。
少なくとも、致命的な間違いだけは一つも。
ヒーローは独断で動かない。状況を確認し、連携を取り、最小の被害で最大の成果を得るために行動する。それは当然のこととして、社会の隅々にまで徹底されていた。
子どもは無謀に飛び出さない。危険を理解し、大人に任せるという選択が“正しい”ことを知っている。
大人は感情に流されない。未来を見据え、最適な人材を、最適な場所へ導く。
誰もが、ほんの少しだけ賢かった。ほんの少しだけ、自分を抑えられた。だからこそ、この世界は上手く回っていた。
大きな事故は減り、無駄な負傷も、取り返しのつかない損失も目に見えて少なくなった。ヒーローはより強く、より効率的に敵を制圧し、市民はより安全に、より安心して日常を過ごしている。
ニュースは落ち着き、街は整い、悲鳴は以前よりずっと少ない。
それは確かに、“正しい世界”だった。
ただ、誰もが賢くなったということは、誰もが本当に間違えなくなったということではない。選ばれなかった選択肢は、消えたわけではない。ただ選ばれなかっただけで、そこに残り続けている。
小さな違和感は見過ごされ、小さな綻びは先送りにされる。合理的に、丁寧に、確実に。そしてそれらは、誰にも気づかれないまま静かに積み重なっていく。
ある者は、より良い後継者を選んだ。ある者は、無謀を避けた。ある者は、感情よりも結果を優先した。
どれも正しい。どれも間違ってはいない。
だからこそ、その賢明な選択を、一体誰が責められよう。
中学三年生の緑谷出久は、幼馴染である爆豪勝己からイジメを受け、失意のまま帰宅していた。その途中、いつもと変わらない通学路で、ヴィランに襲われた。
人通りも時間帯も、何一つ特別ではない。ただ一つ違ったのは、そこにヴィランがいたことだった。
液体のようにうねるそれは、音もなく人混みをすり抜け、気づいた時にはもう遅かった。呼吸が塞がれ、視界が濁り、体の内側へ異物が入り込んでくる。
「もう大丈夫だ少年! 何故かって?」
その声と共に現れたのは、ナンバーワンヒーロー。
「私が……来た!」
平和の象徴、オールマイトだった。
迷いはなかった。状況はすでに把握されており、彼は最小限の動きで最大の結果を出す。
一撃。
それだけで、すべてが終わった。
ヴィランは引き剥がされ、ペットボトルに詰められて無力化される。地面に転がされた出久は、咳き込みながら必死に空気を求めた。
生きている。
それだけで十分だった。
目の前には、テレビで何度も見た背中がある。圧倒的な存在感。揺るがない象徴。何かを言おうとして、出久は言葉を喉で止めた。
聞きたいことがあったはずだった。確かめたいことも、あったはずだった。
それでも、ノートにもらった彼のサインで満足した。それはいちファンとして、賢い選択だった。
「あ、あ、ありがとうございます! 家宝に! 家宝にします!」
出久は、その背中を見送った。
足は、動かなかったのではない。動かさなかった。
追いすがれば、何かが変わったかもしれない。だがそれは、彼の仕事を妨げる行為になる。助けられた側が、救助者を引き止める理由はない。合理的に考えれば、それは“誤り”だ。
だから、何もしないことを選んだ。
誰にも迷惑をかけず、誰の時間も奪わず、何も壊さない選択。それは、ほんの少しだけ賢い、正しい選択だった。
その結果、少年は英雄の真実を知らないまま日常へ戻り、英雄は少年の存在を認識しないまま次の現場へ向かった。
交わるはずだった線は、そこで一度、途切れた。無理に繋がれることも、強引に引き寄せられることもなく、ただ静かに、自然な形で。
「ただいまー!!」
玄関を慌ただしく潜り抜け、靴を脱ぎ、鞄を置く。いつもの動作をなぞりながら、出久は無意識に胸元を押さえた。
そこにある。
折り曲げないよう何度も確かめながら持ち帰ったノート。その一ページに刻まれた、たった一つの証。
部屋に入ると、視界が一気に色を取り戻した。壁一面のポスター、棚に並ぶフィギュア、雑誌の切り抜き、限定グッズ、古びたパンフレット。どれもが同じ存在を指している。
オールマイト。
その中心には、ずっと空けてあった場所がある。ほんのわずかな余白。長い間、埋まらなかった空白。
出久は机の引き出しから、事前に用意していた額を取り出した。透明な板に慎重にページを挟み込み、震える指先を押さえながら、位置を測り、角度を確かめ、壁にかける。
小さく、しかし確かに、そこは部屋の“中心”になった。
しばらく、出久は何もせずに立ち尽くした。視線が自然とそこへ吸い寄せられる。
サイン。
たったそれだけのものが、部屋の空気を変えていた。
「すごい……夢じゃないんだ」
漏れた声は、自分のものではないように小さかった。
誇らしい。確かにそう感じている。自分があの場にいて、あの人に助けられて、そして残った証。それは否定しようのない事実だった。
胸を張っていい。誰に対してでもなく、自分に対して。
だからこそ、ゆっくりと息が漏れた。深く、長く、何かを吐き出すように。
「……無理だよね、やっぱり」
言葉は、自然に形になった。
目は、サインから逸れない。オールマイトの文字。その筆跡の力強さ。そこに込められている“当たり前”の違い。
あの人は、ヒーローだ。誰かを助ける側の存在。
そして自分は、何も持っていない。
個性がない。
その事実は、昔から変わらなかった。何度も確認して、何度も突きつけられて、何度も理解してきた。ヒーローになるための前提条件。雄英学園ヒーロー科に入るための最低条件。あまりにも当然すぎて、応募要項に書かれてすらいない現実。
無個性は、ヒーローにはなれない。
「……分かってるんだ、僕が一番」
呟きは、言い聞かせるように静かだった。
無理をしない。現実を受け入れる。出来ないことは出来ないと認める。それが正しい。それが賢い。
壁に飾られたサインは、何も変わらずそこにある。届かない場所にあるものが、ただ“そこにある”ことを示すように。
出久はもう一度それを見上げた。誇らしさと諦め、そのどちらもを抱えたまま。
その時だった。
――プルルルル。
部屋の外から電子音が鳴り響く。居間の電話だ。
唐突に現実へ引き戻されるような音に、出久は一瞬だけ視線を逸らした。
こんな時間に?
そう思うより先に、廊下の向こうから足音が聞こえる。
「はーい」
母の声がして、少し慌ただしく受話器を取る音が続いた。ドア越しに、かすかに会話が漏れてくる。
「……はい、そうです、緑谷ですけど」
「え、あの……はい」
「いえ、そんな……あの子が?」
出久は動かなかった。サインを見上げたまま、耳だけがそちらへ向く。言葉の端々は断片的に届くが、意味までは繋がらない。
ただ一つ、母の声色がわずかに変わったことだけは分かった。戸惑いと驚き、そして少しの警戒。
会話は長く続かなかった。
「……はい、分かりました」
「本人に代わりますね」
そこで、わずかな沈黙が落ちる。
「出久ー!」
居間からはっきりとした声が響いた。いつもより少しだけ強い調子で、けれど叱責ではなく、判断を預けるような響きが混じっていた。
「……はーい」
返事をして、出久は部屋を出た。廊下を数歩進むと、明かりのついた居間が見える。母は受話器を手にしたまま、こちらを見ていた。その表情にはやはり、戸惑いと警戒が半分ずつ混じっている。
「出久、あのね……病院の人だって。あなたに用があるって」
それだけ言って、母は受話器を差し出した。
「……僕に?」
小さく繰り返しながら、出久はそれを受け取る。耳に当てるまでのわずかな時間に、胸の奥で何かがざわついた。
「はい、もしもし……」
数拍の間を置いて、電話口の向こうから声が届いた。
「おお、出た出た。緑谷出久くんじゃな? 突然すまんのう」
明るい、年配の声だった。しかし妙に張りがあり、柔らかい言葉遣いの奥に、どこかこちらを測るような調子がある。
「え、あの……病院、ですか?」
「うむうむ。君とは確か、個性診断の際に会ったことがあるんじゃが、まあ昔のことじゃし、覚えとらんじゃろうなあ。確認なんじゃが、君は無個性だったね?」
その一言で、喉の奥がきゅっと締まった。
「……はい」
答えは短く、固くなる。
「そうかそうか。実はな、無個性の子を対象にした“個性に関する治験”を行っておっての。協力してくれんかと思って連絡したんじゃよ」
さらりと言われた言葉が、じわりと染みてくる。
治験。無個性。協力。
頭の中で並んだ単語が、うまく繋がらない。
「……すみません。僕、そういうのは……」
出久は反射的に断ろうとした。声は小さかったが、意思ははっきりしている。
無個性であることを前提にした話。そこに自分の“価値”があると示されること自体が、どこか引っかかった。
分かっている。
それは救いではない。代替だ。妥協だ。
ヒーローにはなれないから、その代わりに。
「おやおや、そう急がんでもよい」
電話の向こうの老人は、軽く笑った。
「怖がる必要はない。危険なことをさせるつもりもない。ただ、君のような子の“可能性”を見たいだけじゃ」
“可能性”。
その言葉に、出久の視線がわずかに揺れた。だが、すぐに首を振る。
「……でも、僕は……」
続く言葉は、言い慣れている。無個性で、ヒーローにはなれなくて、だから——
「ヒーローになりたいんじゃろう?」
先に、言われた。
息が止まる。
「……え」
声が出なかった。
電話の向こうの老人は、変わらず穏やかな調子で続ける。
「雄英高校。ヒーロー科。なりたいんじゃろう? ヒーローに」
なぜ分かる。
問いは浮かんだが、形にはならない。
「無個性では無理じゃ、と自分に言い聞かせとる。正しい判断じゃな。実に賢い」
ゆっくりと、言葉が重ねられる。
「じゃがな、緑谷出久くん」
一拍置いて、声の温度が少しだけ変わった。
「その“正しさ”で、満足できるかね?」
答えは出ない。喉が乾き、指先がわずかに震える。視界の端には母の姿がある。心配そうにこちらを見ているが、声はかけてこない。
「君はもう知っておる。自分が何を諦めようとしているかも、その理由も」
老人の声は穏やかなまま、逃げ道を塞ぐように続いた。
「じゃからこそ、聞いておる。強制はせん。ただの提案じゃ」
静かに、しかし確実に、言葉は核心へと近づいていく。
「“それでも”と、言えるかどうかじゃよ」
受話器を握る手に力が入った。
部屋に飾ったサインが、頭の中に浮かぶ。届かない場所。分かっている現実。
それでも。
沈黙が、受話器の向こうへ流れ込む。出久は答えを持たないまま、言葉を探していた。肯定も否定もできず、ただ息だけが浅くなる。
その時。
「……ああ、いかんいかん」
ふと思い出したように、老人が軽く笑った。
「名乗っておらんかったな。年寄りはどうにも抜けが多くていかん」
どこか気さくな調子だった。しかし、その声音の奥には、わずかな“作為”が混じっている。
「わしの名は志賀丸太」
老人は、穏やかに告げた。
「君に、夢を叶える手段を与えよう」