間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

1 / 60
第1話 緑谷出久:ディバージェンス

 この世界では、誰もが大きな間違いを犯さなかった。

 

 少なくとも、致命的な間違いだけは一つも。

 

 ヒーローは独断で動かない。

状況を確認し、連携を取り、最小の被害で最大の成果を得るために行動する。

それは当然のこととして、社会の隅々にまで徹底されていた。

 

 子どもは無謀に飛び出さない。

危険を理解し、大人に任せるという選択が“正しい”ことを知っている。

 

 大人は感情に流されない。

未来を見据え、最適な人材を、最適な場所へ導く。

 

 誰もが、ほんの少しだけ賢かった。

 

ほんの少しだけ、自分を抑えられた。

 

だからこそ、この世界は上手く回っていた。

 

 大きな事故は減り、無駄な負傷も、取り返しのつかない損失も目に見えて少なくなった。

 ヒーローはより強く、より効率的に敵を制圧し、市民はより安全に、より安心して日常を過ごしている。

 

 ニュースは落ち着き、街は整い、悲鳴は以前よりずっと少ない。

 

 それは確かに、“正しい世界”だった。

 

 ただ、誰もが賢くなったということは、誰もが本当に間違えなくなったということではない。

 選ばれなかった選択肢は、消えたわけではない。ただ選ばれなかっただけで、そこに残り続けている。

 

 小さな違和感は見過ごされ、小さな綻びは先送りにされる。 

 合理的に、丁寧に、確実に。そしてそれらは、誰にも気づかれないまま静かに積み重なっていく。

 

 ある者は、より良い後継者を選んだ。ある者は、無謀を避けた。ある者は、感情よりも結果を優先した。

 

 どれも正しい。どれも間違ってはいない。

 だからこそ、その賢明な選択を、一体誰が責められよう。

 

 中学三年生の緑谷出久は、幼馴染である爆豪勝己からイジメを受け、失意のまま帰宅していた。

 その途中、いつもと変わらない通学路で、ヴィランに襲われた。

 人通りも時間帯も、何一つ特別ではない。ただ一つ違ったのは、そこにヴィランがいたことだった。

 

 液体のようにうねるそれは、音もなく人混みをすり抜け、気づいた時にはもう遅かった。

 呼吸が塞がれ、視界が濁り、体の内側へ異物が入り込んでくる。

 

「もう大丈夫だ少年! 何故かって?」

 

 その声と共に現れたのは、ナンバーワンヒーロー。

 

「私が……来た!」

 

 平和の象徴、オールマイトだった。

 

 迷いはなかった。状況はすでに把握されており、彼は最小限の動きで最大の結果を出す。

 一撃。

 それだけで、すべてが終わった。

 

 ヴィランは引き剥がされ、ペットボトルに詰められて無力化される。地面に転がされた出久は、咳き込みながら必死に空気を求めた。

 生きている。

 それだけで十分だった。

 

 目の前には、テレビで何度も見た背中がある。圧倒的な存在感。揺るがない象徴。何かを言おうとして、出久は言葉を喉で止めた。

 聞きたいことがあったはずだった。確かめたいことも、あったはずだった。

 それでも、ノートにもらった彼のサインで満足した。それはいちファンとして、賢い選択だった。

 

「あ、あ、ありがとうございます! 家宝に! 家宝にします!」

 

 出久は、その背中を見送った。

 足は、動かなかったのではない。動かさなかった。

 

 追いすがれば、何かが変わったかもしれない。だがそれは、彼の仕事を妨げる行為になる。

 助けられた側が、救助者を引き止める理由はない。合理的に考えれば、それは“誤り”だ。

 

 だから、何もしないことを選んだ。

 

 誰にも迷惑をかけず、誰の時間も奪わず、何も壊さない選択。それは、ほんの少しだけ賢い、正しい選択だった。

 その結果、少年は英雄の真実を知らないまま日常へ戻り、英雄は少年の存在を認識しないまま次の現場へ向かった。

 交わるはずだった線は、そこで一度、途切れた。

 無理に繋がれることも、強引に引き寄せられることもなく、ただ静かに、自然な形で。

 

「ただいまー!!」

 

 玄関を慌ただしく潜り抜け、靴を脱ぎ、鞄を置く。いつもの動作をなぞりながら、出久は無意識に胸元を押さえた。

 

 そこにある。

 

 折り曲げないよう何度も確かめながら持ち帰ったノート。その一ページに刻まれた、たった一つの証。

 

 部屋に入ると、視界が一気に色を取り戻した。壁一面のポスター、棚に並ぶフィギュア、雑誌の切り抜き、限定グッズ、古びたパンフレット。どれもが同じ存在を指している。

 

 オールマイト。

 

 その中心には、ずっと空けてあった場所がある。ほんのわずかな余白。長い間、埋まらなかった空白。

 

 出久は机の引き出しから、事前に用意していた額を取り出した。透明な板に慎重にページを挟み込み、震える指先を押さえながら、位置を測り、角度を確かめ、壁にかける。

 小さく、しかし確かに、そこは部屋の“中心”になった

 

 しばらく、出久は何もせずに立ち尽くした。視線が自然とそこへ吸い寄せられる。

 

 サイン。

 

 たったそれだけのものが、部屋の空気を変えていた。

 

「すごい……夢じゃないんだ」

 

 漏れた声は、自分のものではないように小さかった。

 誇らしい。確かにそう感じている。自分があの場にいて、あの人に助けられて、そして残った証。それは否定しようのない事実だった。

 胸を張っていい。誰に対してでもなく、自分に対して。

 

 だからこそ、ゆっくりと息が漏れた。深く、長く、何かを吐き出すように。

 

「……無理だよね、やっぱり」

 

 言葉は、自然に形になった。

 

 目は、サインから離れない。オールマイトの文字。その筆跡の力強さ。そこに込められている“当たり前”の違い。

 あの人は、ヒーローだ。誰かを助ける側の存在。

 そして自分は、何も持っていない。

 

 個性がない。

 

 その事実は、昔から変わらなかった。 

 何度も確認して、何度も突きつけられて、何度も理解してきた。

 ヒーローになるための前提条件。

 雄英学園ヒーロー科に入るための最低条件。

 あまりにも当然すぎて、応募要項に書かれてすらいない現実。

 

 無個性は、ヒーローにはなれない。

 

「……分かってるんだ、僕が一番」

 

 呟きは、言い聞かせるように静かだった。

 

 無理をしない。現実を受け入れる。出来ないことは出来ないと認める。それが正しい。それが賢い。

 壁に飾られたサインは、何も変わらずそこにある。届かない場所にあるものが、ただ“そこにある”ことを示すように。

 

 出久はもう一度それを見上げた。誇らしさと諦め、そのどちらもを抱えたまま。

 

 その時だった。

 

 ――プルルルル。

 

 部屋の外から電子音が鳴り響く。居間の電話だ。

 唐突に現実へ引き戻されるような音に、出久は一瞬だけ視線を逸らした。

 こんな時間に?

 そう思うより先に、廊下の向こうから足音が聞こえる。

 

「はーい」

 

 母の声がして、少し慌ただしく受話器を取る音が続いた。ドア越しに、かすかに会話が漏れてくる。

 

「……はい、そうです、緑谷ですけど」

 

「え、あの……はい」

 

「いえ、そんな……あの子が?」

 

 出久は動かなかった。サインを見上げたまま、耳だけがそちらへ向く。言葉の端々は断片的に届くが、意味までは繋がらない。

 ただ一つ、母の声色がわずかに変わったことだけは分かった。戸惑いと驚き、そして少しの警戒。

 

 会話は長く続かなかった。

 

「……はい、分かりました」

 

「本人に代わりますね」

 

 そこで、わずかな沈黙が落ちる。

 

「出久ー!」

 

 居間からはっきりとした声が響いた。

 いつもより少しだけ強い調子で、けれど叱責ではなく、判断を預けるような響きが混じっていた。

 

「……はーい」

 

 返事をして、出久は部屋を出た。

 廊下を数歩進むと、明かりのついた居間が見える。

 母は受話器を手にしたまま、こちらを見ていた。

 その表情にはやはり、戸惑いと警戒が半分ずつ混じっている。

 

「出久、あのね……病院の人だって。あなたに用があるって」

 

 それだけ言って、母は受話器を差し出した。

 

「……僕に?」

 

 小さく繰り返しながら、出久はそれを受け取る。

 耳に当てるまでのわずかな時間に、胸の奥で何かがざわついた。

 

「はい、もしもし……」

 

 数拍の間を置いて、電話口の向こうから声が届いた。

 

「おお、出た出た。緑谷出久くんじゃな? 突然すまんのう」

 

 明るい、年配の声だった。

 しかし妙に張りがあり、柔らかい言葉遣いの奥に、どこかこちらを測るような調子がある。

 

「え、あの……病院、ですか?」

 

「うむうむ。君とは確か、個性診断の際に会ったことがあるんじゃが、まあ昔のことじゃし、覚えとらんじゃろうなあ。確認なんじゃが、君は無個性だったね?」

 

 その一言で、喉の奥がきゅっと締まった。

 

「……はい」

 

 答えは短く、固くなる。

 

「そうかそうか。実はな、無個性の子を対象にした“個性に関する治験”を行っておっての。協力してくれんかと思って連絡したんじゃよ」

 

 さらりと言われた言葉が、じわりと染みてくる。

 治験。無個性。協力。

 頭の中で並んだ単語が、うまく繋がらない。

 

「……すみません。僕、そういうのは……」

 

 出久は反射的に断ろうとした。声は小さかったが、意思ははっきりしている。

 無個性であることを前提にした話。そこに自分の“価値”があると示されること自体が、どこか引っかかった。

 

 分かっている。

 それは救いではない。代替だ。妥協だ。

 ヒーローにはなれないから、その代わりに。

 

「おやおや、そう急がんでもよい」

 

 電話の向こうの老人は、軽く笑った。

 

「怖がる必要はない。危険なことをさせるつもりもない。ただ、君のような子の“可能性”を見たいだけじゃ」

 

 “可能性”。

 

 その言葉に、出久の視線がわずかに揺れた。だが、すぐに首を振る。

 

「……でも、僕は……」

 

 続く言葉は、言い慣れている。無個性で、ヒーローにはなれなくて、だから——

 

「ヒーローになりたいんじゃろう?」

 

 先に、言われた。

 息が止まる。

 

「……え」

 

 声が出なかった。

 電話の向こうの老人は、変わらず穏やかな調子で続ける。

 

「雄英高校。ヒーロー科。なりたいんじゃろう? ヒーローに」

 

 なぜ分かる。

 問いは浮かんだが、形にはならない。

 

「無個性では無理じゃ、と自分に言い聞かせとる。正しい判断じゃな。実に賢い」

 

 ゆっくりと、言葉が重ねられる。

 

「じゃがな、緑谷出久くん」

 

 一拍置いて、声の温度が少しだけ変わった。

 

「その“正しさ”で、満足できるかね?」

 

 答えは出ない。喉が乾き、指先がわずかに震える。

 視界の端には母の姿がある。心配そうにこちらを見ているが、声はかけてこない。

 

「君はもう知っておる。自分が何を諦めようとしているかも、その理由も」

 

 老人の声は穏やかなまま、逃げ道を塞ぐように続いた。

 

「じゃからこそ、聞いておる。強制はせん。ただの提案じゃ」

 

 静かに、しかし確実に、言葉は核心へと近づいていく。

 

「“それでも”と、言えるかどうかじゃよ」

 

 受話器を握る手に力が入った。

 部屋に飾ったサインが、頭の中に浮かぶ。届かない場所。分かっている現実。

 

 それでも。

 

 沈黙が、受話器の向こうへ流れ込む。出久は答えを持たないまま、言葉を探していた。肯定も否定もできず、ただ息だけが浅くなる。

 

 その時。

 

「……ああ、いかんいかん」

 

 ふと思い出したように、老人が軽く笑った。

 

「名乗っておらんかったな。年寄りはどうにも抜けが多くていかん」

 

 どこか気さくな調子だった。しかし、その声音の奥には、わずかな“作為”が混じっている。

 

「わしの名は志賀丸太」

 

 老人は、穏やかに告げた。

 

「君に、夢を叶える手段を与えよう」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。