間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第1話 緑谷出久:ディバージェンス

 この世界では、誰もが大きな間違いを犯さなかった。

 

 少なくとも、致命的な間違いだけは一つも。

 

 ヒーローは独断で動かない。状況を確認し、連携を取り、最小の被害で最大の成果を得るために行動する。それは当然のこととして、社会の隅々にまで徹底されていた。

 

 子どもは無謀に飛び出さない。危険を理解し、大人に任せるという選択が“正しい”ことを知っている。

 

 大人は感情に流されない。未来を見据え、最適な人材を、最適な場所へ導く。

 

 誰もが、ほんの少しだけ賢かった。ほんの少しだけ、自分を抑えられた。だからこそ、この世界は上手く回っていた。

 

 大きな事故は減り、無駄な負傷も、取り返しのつかない損失も目に見えて少なくなった。ヒーローはより強く、より効率的に敵を制圧し、市民はより安全に、より安心して日常を過ごしている。

 

 ニュースは落ち着き、街は整い、悲鳴は以前よりずっと少ない。

 

 それは確かに、“正しい世界”だった。

 

 ただ、誰もが賢くなったということは、誰もが本当に間違えなくなったということではない。選ばれなかった選択肢は、消えたわけではない。ただ選ばれなかっただけで、そこに残り続けている。

 

 小さな違和感は見過ごされ、小さな綻びは先送りにされる。合理的に、丁寧に、確実に。そしてそれらは、誰にも気づかれないまま静かに積み重なっていく。

 

 ある者は、より良い後継者を選んだ。ある者は、無謀を避けた。ある者は、感情よりも結果を優先した。

 

 どれも正しい。どれも間違ってはいない。

 

 だからこそ、その賢明な選択を、一体誰が責められよう。

 

 中学三年生の緑谷出久は、幼馴染である爆豪勝己からイジメを受け、失意のまま帰宅していた。その途中、いつもと変わらない通学路で、ヴィランに襲われた。

 

 人通りも時間帯も、何一つ特別ではない。ただ一つ違ったのは、そこにヴィランがいたことだった。

 

 液体のようにうねるそれは、音もなく人混みをすり抜け、気づいた時にはもう遅かった。呼吸が塞がれ、視界が濁り、体の内側へ異物が入り込んでくる。

 

「もう大丈夫だ少年! 何故かって?」

 

 その声と共に現れたのは、ナンバーワンヒーロー。

 

「私が……来た!」

 

 平和の象徴、オールマイトだった。

 

 迷いはなかった。状況はすでに把握されており、彼は最小限の動きで最大の結果を出す。

 

 一撃。

 

 それだけで、すべてが終わった。

 

 ヴィランは引き剥がされ、ペットボトルに詰められて無力化される。地面に転がされた出久は、咳き込みながら必死に空気を求めた。

 

 生きている。

 

 それだけで十分だった。

 

 目の前には、テレビで何度も見た背中がある。圧倒的な存在感。揺るがない象徴。何かを言おうとして、出久は言葉を喉で止めた。

 

 聞きたいことがあったはずだった。確かめたいことも、あったはずだった。

 

 それでも、ノートにもらった彼のサインで満足した。それはいちファンとして、賢い選択だった。

 

「あ、あ、ありがとうございます! 家宝に! 家宝にします!」

 

 出久は、その背中を見送った。

 

 足は、動かなかったのではない。動かさなかった。

 

 追いすがれば、何かが変わったかもしれない。だがそれは、彼の仕事を妨げる行為になる。助けられた側が、救助者を引き止める理由はない。合理的に考えれば、それは“誤り”だ。

 

 だから、何もしないことを選んだ。

 

 誰にも迷惑をかけず、誰の時間も奪わず、何も壊さない選択。それは、ほんの少しだけ賢い、正しい選択だった。

 

 その結果、少年は英雄の真実を知らないまま日常へ戻り、英雄は少年の存在を認識しないまま次の現場へ向かった。

 

 交わるはずだった線は、そこで一度、途切れた。無理に繋がれることも、強引に引き寄せられることもなく、ただ静かに、自然な形で。

 

「ただいまー!!」

 

 玄関を慌ただしく潜り抜け、靴を脱ぎ、鞄を置く。いつもの動作をなぞりながら、出久は無意識に胸元を押さえた。

 

 そこにある。

 

 折り曲げないよう何度も確かめながら持ち帰ったノート。その一ページに刻まれた、たった一つの証。

 

 部屋に入ると、視界が一気に色を取り戻した。壁一面のポスター、棚に並ぶフィギュア、雑誌の切り抜き、限定グッズ、古びたパンフレット。どれもが同じ存在を指している。

 

 オールマイト。

 

 その中心には、ずっと空けてあった場所がある。ほんのわずかな余白。長い間、埋まらなかった空白。

 

 出久は机の引き出しから、事前に用意していた額を取り出した。透明な板に慎重にページを挟み込み、震える指先を押さえながら、位置を測り、角度を確かめ、壁にかける。

 

 小さく、しかし確かに、そこは部屋の“中心”になった。

 

 しばらく、出久は何もせずに立ち尽くした。視線が自然とそこへ吸い寄せられる。

 

 サイン。

 

 たったそれだけのものが、部屋の空気を変えていた。

 

「すごい……夢じゃないんだ」

 

 漏れた声は、自分のものではないように小さかった。

 

 誇らしい。確かにそう感じている。自分があの場にいて、あの人に助けられて、そして残った証。それは否定しようのない事実だった。

 

 胸を張っていい。誰に対してでもなく、自分に対して。

 

 だからこそ、ゆっくりと息が漏れた。深く、長く、何かを吐き出すように。

 

「……無理だよね、やっぱり」

 

 言葉は、自然に形になった。

 

 目は、サインから逸れない。オールマイトの文字。その筆跡の力強さ。そこに込められている“当たり前”の違い。

 

 あの人は、ヒーローだ。誰かを助ける側の存在。

 

 そして自分は、何も持っていない。

 

 個性がない。

 

 その事実は、昔から変わらなかった。何度も確認して、何度も突きつけられて、何度も理解してきた。ヒーローになるための前提条件。雄英学園ヒーロー科に入るための最低条件。あまりにも当然すぎて、応募要項に書かれてすらいない現実。

 

 無個性は、ヒーローにはなれない。

 

「……分かってるんだ、僕が一番」

 

 呟きは、言い聞かせるように静かだった。

 

 無理をしない。現実を受け入れる。出来ないことは出来ないと認める。それが正しい。それが賢い。

 

 壁に飾られたサインは、何も変わらずそこにある。届かない場所にあるものが、ただ“そこにある”ことを示すように。

 

 出久はもう一度それを見上げた。誇らしさと諦め、そのどちらもを抱えたまま。

 

 その時だった。

 

 ――プルルルル。

 

 部屋の外から電子音が鳴り響く。居間の電話だ。

 

 唐突に現実へ引き戻されるような音に、出久は一瞬だけ視線を逸らした。

 

 こんな時間に?

 

 そう思うより先に、廊下の向こうから足音が聞こえる。

 

「はーい」

 

 母の声がして、少し慌ただしく受話器を取る音が続いた。ドア越しに、かすかに会話が漏れてくる。

 

「……はい、そうです、緑谷ですけど」

 

「え、あの……はい」

 

「いえ、そんな……あの子が?」

 

 出久は動かなかった。サインを見上げたまま、耳だけがそちらへ向く。言葉の端々は断片的に届くが、意味までは繋がらない。

 

 ただ一つ、母の声色がわずかに変わったことだけは分かった。戸惑いと驚き、そして少しの警戒。

 

 会話は長く続かなかった。

 

「……はい、分かりました」

 

「本人に代わりますね」

 

 そこで、わずかな沈黙が落ちる。

 

「出久ー!」

 

 居間からはっきりとした声が響いた。いつもより少しだけ強い調子で、けれど叱責ではなく、判断を預けるような響きが混じっていた。

 

「……はーい」

 

 返事をして、出久は部屋を出た。廊下を数歩進むと、明かりのついた居間が見える。母は受話器を手にしたまま、こちらを見ていた。その表情にはやはり、戸惑いと警戒が半分ずつ混じっている。

 

「出久、あのね……病院の人だって。あなたに用があるって」

 

 それだけ言って、母は受話器を差し出した。

 

「……僕に?」

 

 小さく繰り返しながら、出久はそれを受け取る。耳に当てるまでのわずかな時間に、胸の奥で何かがざわついた。

 

「はい、もしもし……」

 

 数拍の間を置いて、電話口の向こうから声が届いた。

 

「おお、出た出た。緑谷出久くんじゃな? 突然すまんのう」

 

 明るい、年配の声だった。しかし妙に張りがあり、柔らかい言葉遣いの奥に、どこかこちらを測るような調子がある。

 

「え、あの……病院、ですか?」

 

「うむうむ。君とは確か、個性診断の際に会ったことがあるんじゃが、まあ昔のことじゃし、覚えとらんじゃろうなあ。確認なんじゃが、君は無個性だったね?」

 

 その一言で、喉の奥がきゅっと締まった。

 

「……はい」

 

 答えは短く、固くなる。

 

「そうかそうか。実はな、無個性の子を対象にした“個性に関する治験”を行っておっての。協力してくれんかと思って連絡したんじゃよ」

 

 さらりと言われた言葉が、じわりと染みてくる。

 

 治験。無個性。協力。

 

 頭の中で並んだ単語が、うまく繋がらない。

 

「……すみません。僕、そういうのは……」

 

 出久は反射的に断ろうとした。声は小さかったが、意思ははっきりしている。

 

 無個性であることを前提にした話。そこに自分の“価値”があると示されること自体が、どこか引っかかった。

 

 分かっている。

 

 それは救いではない。代替だ。妥協だ。

 

 ヒーローにはなれないから、その代わりに。

 

「おやおや、そう急がんでもよい」

 

 電話の向こうの老人は、軽く笑った。

 

「怖がる必要はない。危険なことをさせるつもりもない。ただ、君のような子の“可能性”を見たいだけじゃ」

 

 “可能性”。

 

 その言葉に、出久の視線がわずかに揺れた。だが、すぐに首を振る。

 

「……でも、僕は……」

 

 続く言葉は、言い慣れている。無個性で、ヒーローにはなれなくて、だから——

 

「ヒーローになりたいんじゃろう?」

 

 先に、言われた。

 

 息が止まる。

 

「……え」

 

 声が出なかった。

 

 電話の向こうの老人は、変わらず穏やかな調子で続ける。

 

「雄英高校。ヒーロー科。なりたいんじゃろう? ヒーローに」

 

 なぜ分かる。

 

 問いは浮かんだが、形にはならない。

 

「無個性では無理じゃ、と自分に言い聞かせとる。正しい判断じゃな。実に賢い」

 

 ゆっくりと、言葉が重ねられる。

 

「じゃがな、緑谷出久くん」

 

 一拍置いて、声の温度が少しだけ変わった。

 

「その“正しさ”で、満足できるかね?」

 

 答えは出ない。喉が乾き、指先がわずかに震える。視界の端には母の姿がある。心配そうにこちらを見ているが、声はかけてこない。

 

「君はもう知っておる。自分が何を諦めようとしているかも、その理由も」

 

 老人の声は穏やかなまま、逃げ道を塞ぐように続いた。

 

「じゃからこそ、聞いておる。強制はせん。ただの提案じゃ」

 

 静かに、しかし確実に、言葉は核心へと近づいていく。

 

「“それでも”と、言えるかどうかじゃよ」

 

 受話器を握る手に力が入った。

 

 部屋に飾ったサインが、頭の中に浮かぶ。届かない場所。分かっている現実。

 

 それでも。

 

 沈黙が、受話器の向こうへ流れ込む。出久は答えを持たないまま、言葉を探していた。肯定も否定もできず、ただ息だけが浅くなる。

 

 その時。

 

「……ああ、いかんいかん」

 

 ふと思い出したように、老人が軽く笑った。

 

「名乗っておらんかったな。年寄りはどうにも抜けが多くていかん」

 

 どこか気さくな調子だった。しかし、その声音の奥には、わずかな“作為”が混じっている。

 

「わしの名は志賀丸太」

 

 老人は、穏やかに告げた。

 

「君に、夢を叶える手段を与えよう」

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