喫茶店を出たトガヒミコは、上機嫌な足取りでホテルへ続く通りを歩いていた。
昼前の泥花市には穏やかな陽射しが降り注ぎ、歩道には買い物袋を提げた主婦や会社員、学生らしい若者たちが行き交っている。
大通りから少し外れたこの辺りには個人経営の店も多く、洋菓子店のショーウィンドウには色とりどりの焼き菓子が並び、向かいの花屋から漂う甘い香りが風に乗って流れてきた。
「美味しかったですねえ」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、トガは先ほどキュリオスと食べた苺のパフェを思い返す。
大粒の苺に生クリームとアイス、砕いたクッキーまで入ったパフェは文句なしに美味しかったが、それ以上に楽しかったのは、甘いものを食べながら自分のことを好きなだけ話せたことだった。
キュリオスは取材の間、トガの言葉を途中で遮らなかった。
好きな相手へ近づき、触れ、その人自身になりたいと思うことも、血を流している姿を可愛いと感じることも、普通ではないと決めつけるのではなく、何故そう思うのかと続きを求めてきた。
取材対象だから真剣に耳を傾けていた面もあるのだろうが、幼い頃から自分の感情を説明するたびに否定されてきたトガにとって、自分の言葉をそのまま受け止めてもらえる時間は純粋に心地よかった。
しかも取材が終わった後には、出久との恋愛話までできた。
『敵連合のボス、緑谷出久君とあなた──恋人同士なの?』
不意にそう聞かれた時には驚いたものの、まだ付き合っていないと答えてからは話が早かった。
いつ頃から出久を好きになったのか、どこが好きなのか、本人はトガの好意に気づいているのか。
キュリオスが面白そうに尋ねてくるものだから、トガも嬉々として答え、気づけば取材中より気楽な調子で随分と話し込んでいた。
「恋バナって楽しい! お茶子ちゃんともしたいなぁ」
これまでにも好きな人について誰かへ話したことはあったが、ああして普通の少女同士のように恋愛そのものを話題にした経験はほとんどない。
それだけでも今日は気分が良かったが、店を出てからは別の解放感も加わっていた。
トガは今、何の変装もしていない。
帽子やマスクで顔を隠しているわけでも、個性で別人の姿を借りているわけでもなく、全国へ指名手配されているトガヒミコ本人の姿で昼間の街を歩いている。
それでも周囲の人々は彼女を見て騒がず、すれ違った女性は普通に道を譲り、青果店の店主などは顔を知っているらしく気軽に声まで掛けてきた。
「こんにちはー」
トガが笑顔で返せば、店主もそれ以上の反応を示さず仕事へ戻る。
敵連合へ加わってからは更に世間に顔を知られ、外出するだけでも相応の注意が必要だった。
人通りの多い場所では素顔を晒せず、場合によっては血を利用して別人へ変身しなければならないため、何の準備もせず気の向くまま街を歩くなど久しくできていない。
泥花市では、その必要がなかった。
住民の多くが異能解放軍に属し、敵連合が客人として迎えられているこの街では、トガの顔を知っていることが即座に通報へ結びつかない。
むしろ誰もが彼女の素性を承知したうえで普段通りに生活しているからこそ、周囲の視線を警戒する必要さえなかった。
「ここ、結構好きかもしれません」
そう呟きながら角を曲がり、ホテルへ続く道を進もうとしたところで、トガの足がふと止まった。
何かを見つけたわけではない。
通りの様子も先ほどまでと変わらず、近くでは母親に手を引かれた子供が菓子店のショーウィンドウを覗き込み、道路の向こうでは配送業者が荷物を台車へ積み込んでいる。
どこにでもありそうな昼前の街並みだった。
だからこそ、忘れてしまいそうになる。
自分が世間からどのように見られている人間なのかを。
「……」
トガは黙って自分の手を見る。
キュリオスは、自分の話を否定しなかった。
好きな人になりたいという気持ちも、血を飲みたいという欲求も、その感情がどこから生まれ、どのようにトガ自身の中で繋がっているのかを知ろうとしてくれた。
この街の人間も同じだった。
誰もトガの過去について触れず、指名手配犯だと知っていても普通に接してくれる。
けれど、それは自分の欲求そのものを認めてもらえたという意味なのだろうか。
「……違いますよね」
小さく呟く。
トガにとって、好きな人の血を飲みたいという欲求は、好きな人へ近づきたい、その人自身になりたいという気持ちと切り離せるものではなかった。
どれも同じ「好き」から生まれるものであり、幼い頃から自分の中に存在していた、ごく自然な感情だった。
だが、それを叶えようとすれば相手を傷つける。
血を手に入れるためには身体を切らなければならず、相手が嫌がっていても欲しいと思ってしまう。これまで自分を否定してきた大人たちが最も恐れたのも、そこだった。
異能解放軍は、個性を人間から切り離して考えない。
生まれ持った異能を自由に行使することを権利として認め、それに伴って生じる欲求まで社会の都合だけで抑圧するべきではないという考え方は、先ほどキュリオスとの会話でも聞いている。
それはトガにとって、とても魅力的な考えだった。
幼い頃から「普通になれ」と言われ続けてきた自分に、初めて別の答えを示してくれる思想かもしれない。
しかし──どこまでなのだろう。
トガは視線を上げ、先ほど挨拶を交わした青果店へ目を向けた。
例えば、あの店主の血を飲みたいと思ったら。
本人が嫌がっているのに、それでも欲しいと言ったら。
異能解放軍は、それすら「個性の自由」として認めるのだろうか。
「……どうなんでしょう?」
答えてくれる者はいない。
考えてみれば、解放軍が語っていたのは個性を自由に使う権利であって、他人を好き勝手に傷つけていいという話ではなかった。
もちろん、彼ら自身も法に従って生きているだけの善良な市民ではない。
異能解放軍といえば立派なテロリストだ、必要とあれば人を傷つける事も厭わないだろう。
それでも、トガの欲求は少し種類が違う。
思想のためでも、組織を守るためでも、自分へ危害を加えてきた相手への反撃でもない。
好きだから血が欲しい。
好きだから傷ついた姿を可愛いと思う。
好きだから、その人になりたい。
そこには大義も正当性もなく、トガ自身の「好き」があるだけだった。
そして、その「好き」を実際に行動へ移した結果、自分は家族から離れ、学校から姿を消し、警察に追われるヴィランになった。
泥花市に来てから誰にも拒絶されなかったせいで、そんな当たり前の事実を少し忘れていた。
「……」
先ほどまでの笑顔が、僅かに薄くなる。
キュリオスが理解しようとしてくれたことは嬉しかった。
だが、理解と許容は同じではない。
彼女は記者としてトガの価値観に興味を持っただけかもしれないし、異能解放軍の思想に照らしてある程度まで肯定的に捉えているのかもしれない。
それでも、トガが実際に誰かを襲って血を奪うことまで許すのかは聞いていなかった。
この街の住民についても同じだった。
彼らが敵連合を客人として扱い、トガヒミコという人間を拒絶しないことと、トガの欲求によって自分たちが傷つけられることまで受け入れることは、まったく別の話だった。
トガはしばらくその場に立っていたが、やがてホテルの方角へ顔を向けた。
「デク君……」
その名前を口にしたところで、トガは以前、出久に自分の欲求について話した時のことを思い出した。
好きな人の血が欲しくなること、その血を飲んで相手の姿になればもっと近づけるように感じること、傷ついて血を流している姿さえ可愛いと思ってしまうこと。
トガにとってはどれも「好き」という感情から自然に生まれるもので、トガにとっての「普通」だった。
けれど、出久はその欲求を無条件には受け入れなかった。
そこでふと気づく。
先ほど泥花市の人々へ抱いた疑問は、そのまま出久にも当てはまるのではないか。
これまで一緒にいられたという事実と、自分の欲求を受け入れてくれていることは同じではない。
仲間としてトガヒミコを認めてくれているからといって、血を飲みたいという「好き」まで肯定してくれているとは限らなかった。
なら、今の出久に改めて聞いたら、どんな答えが返ってくるのだろう。
以前より長い時間を共に過ごし、互いのことを知った今なら、自分の「好き」を昔より深く理解してくれるのではないか。
そう期待した直後、トガの足が再び止まった。
聞くことが、急に怖くなった。
もし嫌だと言われたら。
血を欲しがる自分は仲間としてなら受け入れられても、それ以上は駄目なのだと言われたら。
先ほどまで当たり前のように歩けていた泥花市の景色まで、少し違って見えてしまうような気がした。
それでも、確かめたいという気持ちは消えなかった。
このまま考え続けても、出久が何を思っているのかは分からない。
それなら本人に聞けばいいのだと、トガは一度大きく息を吸ってからホテルへ向かって歩き出した。
先ほどまでより歩調は遅かったものの、立ち止まることなく通りを進み、やがて見慣れ始めたホテルの正面玄関へ辿り着く。
自動ドアが開くと、空調の効いた空気とともに広々としたロビーが目の前に現れた。
受付では従業員が宿泊客へ対応し、吹き抜けのラウンジでは何人かの客が飲み物を片手に談笑している。
トガはその中へ入りながら出久の姿を探し、窓際に並ぶソファの一角で視線を止めた。
「あ」
いた。
出久は一人でソファへ座り、膝の上に開いた本を読んでいた。
「デク君!」
姿を見つけた途端、それまでの慎重な足取りが嘘のように速くなった。
トガは人の間を縫ってラウンジへ入り、出久の座っているソファまで駆け寄る。
呼び声に気づいた出久は本から顔を上げ、こちらへ視線を向けた。
「トガさん、おかえり」
「ただいまです!」
いつも通りに返事をすると、その勢いのまま出久の正面へ立つ。
聞くことは決めていた。
難しく考える必要などない。普段と同じ調子で頼んでしまえばいいのだ。
デク君、血を飲ませてください!
たったそれだけだった。
「デク君、あのですね──」
そこで口が止まった。
出久は何も言わず、続きを待っている。
「……あの」
「うん」
「その……ですね」
先ほどまで頭の中では簡単に言えていた言葉が、本人を前にした途端に出てこなかった。
トガは視線を出久から逸らし、身体の前で両手の指を組む。
右手の親指で左手の指先を弄りながら何度か口を開こうとするものの、どうしても肝心なところで躊躇してしまう。
出久の血が欲しいと伝えること自体は初めてではない。
以前なら、むしろ嬉しそうに口にしていたはずだった。
けれど今回は、単に欲しいものを要求するために来たのではなく、出久が自分の欲求をどこまで受け入れてくれるのかを知りたかった。
「……トガさんどうしたの? 顔が真っ赤だよ」
指摘された途端、トガはますます俯いた。
自分でも頬が熱くなっているのは分かっていたが、それを出久本人から言われると余計に意識してしまう。
組んだ指を落ち着きなく動かしながら何度か息を整え、ようやく覚悟を決めたトガは、床へ視線を落としたまま唇を開いた。
「あの……デク君の、血、欲しくて……」
普段の快活な言動からは想像もつかないほど、か細い声だった。
周囲の話し声に紛れてしまいそうな声量だったが、すぐ近くにいる出久にはきちんと届いたらしい。
「……え?」
出久がきょとんとする。
その反応を見た瞬間、トガの肩が僅かに強張った。
やっぱり駄目だったのかもしれない。
そんな考えが頭を過ぎったものの、出久は数秒ほど目を瞬かせたあと、トガが何を頼んでいるのか理解したらしく、納得したように小さく頷いた。
「いいけど……僕の姿で悪戯しないでね」
あまりにもあっさりとした返事だった。
出久はトガの驚きには気づかず、以前彼女が個性で自分の姿になった時のことでも思い出しているらしく、少し困ったような表情を浮かべている。
「しないもん……」
不満そうに唸るトガを見ながら、出久は着ている服の袖へ手を掛けた。
「それじゃあ、どれくらい必要? あんまり多いと僕も困るけど、少しくらいなら──」
「あっ、あの……」
出久は袖を捲りかけた手を止めた。
「ここじゃ、その……恥ずかしいです」
出久は不思議そうに首を傾げた。
トガは再び指先を弄りながら、ちらりと出久を見る。視線が合うとすぐに逸らし、少し間を置いてから、おずおずと尋ねた。
「……デク君のお部屋に行っても、いいですか?」
「いいけど……」
出久は答えながら、どこか腑に落ちないものを感じてトガを見た。
二人で部屋へ行くこと自体は珍しくもないし、血を欲しがることに至っては今さら驚くような話でもない。
それなのに今日のトガは、頼み事を口にするだけで顔を赤くし、今も身体の前で指を弄りながらこちらをまともに見ようとしなかった。
何か別の理由があるのかもしれないと思ったものの、本人が人目を気にしている以上、ここで詳しく尋ねる必要もないだろう。
「じゃあ、部屋に行こうか」
「……はい」
出久は読みかけだった本へ栞を挟んで閉じると、すっかり冷めてしまったカフェオレを残したまま立ち上がり、トガと並んでラウンジを出た。
エレベーターホールへ向かい、到着した箱へ乗り込んで宿泊階のボタンを押す。
そこから客室の前へ辿り着くまで、トガは一言も話さなかった。
出久も無理に会話を始めず、カードキーを電子錠へ翳して扉を開ける。
「どうぞ」
「お邪魔します……」
トガが先に入り、その後から出久も室内へ入って扉を閉めた。
異能解放軍が用意した客室は一人で使うには十分な広さがあり、大きなベッドのほかにソファとローテーブル、窓際には二脚の椅子まで置かれている。
出久は持っていた本をテーブルへ置くと、トガにも好きな場所を使ってもらおうと手でソファを示した。
「適当に座ってていいよ。何か飲む?」
「……」
返事がないので振り返ると、トガは入口から数歩進んだところで立ったまま、両手を身体の前で合わせていた。
座る場所に困っているわけではないらしい。ソファへ一度視線を向けながらも移動せず、指先を落ち着きなく弄っている。
「トガさん、座らないの?」
出久に尋ねられたトガは「座ります」と答え、すぐ近くにあったベッドへ向かったものの、その端へ腰を下ろしかけたところで思い直したらしく、何も言わずに方向を変えてソファの端へ座った。
普段なら他人の部屋でも遠慮なく寛ぎそうなトガが妙に行儀よくしているのを不思議に思いながら、出久は備え付けの冷蔵庫を開けた。
「何か飲む?」
「なんでも、あ……お水、で」
「うん、わかった」
冷蔵庫からミネラルウォーターを二本取り出し、そのうち一本をローテーブルのトガの前へ置いてから、出久も自分の分を持って同じソファへ腰掛ける。
「ありがとうございます」
トガはペットボトルを受け取って膝の上へ置いた。
出久は自分のボトルを開けて一口飲むと、先ほどロビーで頼まれたことを思い出してトガを見る。
「それで血だけど、いつもの注射器みたいなの使うの?」
以前からトガが血液を採取する際に使っている器具のことだったが、今回は持ってきている様子がない。
トガは少し迷ってから出久を見た。
「……直接でも、いぃ?」
「……直接?」
聞き返した出久に、トガはペットボトルを膝の上で抱えたまま小さく頷いた。
「はい。注射器じゃなくて、その……デク君から直接、飲みたいです」
「それは……」
言葉の意味を理解した出久は、さすがに気恥ずかしさを覚えたらしく頬を掻いた。
「……しょうがないなあ」
気恥ずかしさはあるものの、今回のように改まって頼まれると断りづらい。
結局出久はシャツの袖口へ手を掛けると、何度か折り返しながら肘の上まで捲り上げていく。
露わになった腕は、雄英にいた頃より明らかに太くなっていた。
鍛錬と実戦を重ねたことで筋肉がつき、力を抜いていても前腕から上腕にかけて輪郭がはっきりと分かる。
その一方で肌には傷も多く、細い切り傷から古い裂傷、白く残った痕までがあちこちに刻まれており、綺麗な場所を探す方が難しいほどだった。
「どこからがいい? あんまり深くしないでね」
出久はそう言って腕を差し出したが、トガから返事はなかった。
視線だけが、その腕へ向けられている。
トガにとって、好きな人が傷ついた姿は昔から特別だった。
目の前にある出久の腕には、これまで彼が経験してきた戦いの痕がそのまま残っている。
しかも今は、それを隠そうともせず自分のために差し出してくれていた。
「トガさん?」
「……」
呼ばれても、すぐには顔を上げられなかった。
ゴクリ、と生唾を飲み込む音が、自分でも分かるほど大きく喉から鳴った。
「じゃあ……」
トガはようやく膝の上に置いていたペットボトルから手を離すと、差し出された腕へ両手を伸ばした。
片方の手で出久の手首を支え、もう片方を前腕へ添える。
掌へ伝わってきたのは、硬く鍛えられた筋肉と人肌の温かさだった。
出久は逃げなかった。
それを確かめたトガは、傷跡の残る腕を両手で大切そうに持ったまま、ゆっくりと自分の方へ引き寄せた。
傷跡の少ない場所を探すように前腕へ視線を這わせ、やがて一箇所へ目を留める。
「あんまり痛くしないでね」
「はい……」
返事をしてから、トガは出久の前腕へ顔を近づけた。
唇の隙間から覗いた鋭い犬歯が肌へ触れ、少しずつ力を加えていく。出久がわずかに眉を寄せたところで皮膚に小さな傷ができ、そこから赤い血が滲み出した。
トガはすぐに歯を離した。
傷口から丸く膨らんだ血が腕を伝う前に舌先で掬い取り、そのまま唇を寄せて少しずつ吸っていく。
出久の肩が僅かに揺れた。
痛みそのものは大したことがない。
それよりも傷口へ触れる舌の感触が思った以上にくすぐったく、トガの手と唇から伝わる温かさまで妙にはっきり感じられた。
「ん……」
何より、状況そのものを意識すると落ち着かなかった。
同年代の女の子と二人きりのホテルの部屋にいて、その子が自分の腕を両手で持ちながら血を舐め取っている。
しかも相手は、普段から好意を隠そうともしないトガヒミコである。
「じゅ……ちゅる」
出久の頬が次第に赤くなっていった。
視線を逸らした方がいいような気もしたが、自分の腕を預けている以上、見ていてもおかしくはない──そんな言い訳を自分にしながら見下ろしていると、トガは出久の様子など気づいていないのか、傷口から滲む僅かな血を丁寧に舐め取っていた。
必要な量を手早く確保するのではなく、流れ出す前に舌で掬い、そのまま口へ含んでいるため、傷は小さいままなのに時間だけがゆっくりと過ぎていく。
「ト、トガさん……」
思わず名前を呼ぶと、トガの動きが止まった。
腕から口を離さないまま目だけを上げ、出久を見る。
「……ん? なんへふか?」
その顔を真正面から見てしまい、出久はさらに顔を赤くした。
「いや……なんでもない」
何を言おうとしたのか自分でも分からなくなり、結局それだけ答える。
トガは不思議そうに瞬きをしたものの、出久が腕を引こうとしないことを確認すると再び傷口へ意識を戻した。
もう一度、柔らかな舌先が前腕へ触れる。
「……っ」
出久は今度こそ視線を横へ逸らした。
こんなことなら注射器の方がずっと気楽だったと思う一方で、今さらやめてほしいとも言いづらい。
何より、先ほどまで頼み事一つ口にするのにも躊躇していたトガが、今は安心したように自分の腕を抱えている姿を見ると、そのまま好きにさせてやりたいという気持ちの方が勝った。
しばらくして、トガはようやく唇を離した。
傷口には新しい血がほんの僅かに滲んでいたが、それにも舌先を触れさせて綺麗に舐め取ると、満足したように小さく息を吐く。
出久はてっきり、このまま個性を使うものだと思っていた。
トガが血を求める理由には、昔から相手の姿へ変身したいという欲求が含まれている。
だから今回も自分の姿になるつもりなのだろうと考えていたのだが、トガの身体には何の変化も起こらなかった。
それどころか、彼女はもう十分だというように出久の腕を解放した。
「ありがとうございました、デク君」
「……もういいの?」
「はい」
トガは素直に頷くと、前屈みになっていたせいで少し乱れていた服の裾を両手で直し、そのままソファへ座り直した。
出久も捲っていた袖を下ろそうとしたが、噛まれたばかりの傷に布地を触れさせるのは気が進まず、ひとまず腕を出したまま背もたれへ身体を預ける。
そこで会話が途切れた。
トガが血を欲しがり、自分が了承して、それを飲ませただけである。
本来ならそれで終わる話なのだが、わざわざ二人で部屋まで来て、ソファに並んで座り、あれだけ時間をかけて直接血を飲ませた直後となると、どうにも妙な気まずさが残った。
なんというか──まるで事後みたいだ。
そこまで考えた瞬間、出久は自分で自分の発想に狼狽した。
「……」
何かして間を持たせよう。
そう考えた出久の手が、ほとんど無意識にテーブルの端へ置いてある煙草へ伸びる。
箱を手に取りかけたところで、隣にいるのが誰なのか思い出し、慌てて手を引っ込めた。
その様子を見ていたトガが首を傾げる。
「吸ってもいいのに」
「いや、いいよ。トガさん煙草嫌いでしょ?」
出久はそう言って笑った。
「嫌いですけど」
「じゃあ吸わない」
「…………ありがと」
それきり、トガは黙り込んだ。
出久も何か話題を探したものの、先ほど自分から煙草へ手を伸ばしかけたこともあって、どうにも普段の調子へ戻れない。結局ペットボトルをもう一口飲み、手持ち無沙汰にキャップを閉める。
トガはそんな出久の横顔をちらりと見てから、自分の膝へ目を落とした。
血を飲ませてもらえたことは嬉しかった。
それも注射器で採取したものではなく、出久本人へ頼み、許可をもらったうえで直接飲ませてもらった。
ずっと欲しかったものを我慢せずに求め、それを好きな人が嫌がるどころか、自分のために腕を差し出してくれたのである。
そこまでは、まだよかった。
煙草へ伸ばしかけた手を、出久は自分が嫌いだからという理由だけで止めた。
別に吸ってもいいと言ったのに、それでも吸わないと笑った。
そんな些細な気遣いが、どうして血を飲ませてもらったこと以上に胸へ残っているのか、トガ自身にも上手く説明できなかった。
「……」
「……トガさん?」
長く黙っているのを不思議に思ったらしく、出久がこちらを見る。
その視線を受けた途端、トガは反射的に顔を逸らした。
今はあまり見られたくない。
頬が熱い。
それだけではなく、胸の奥まで妙にむず痒くて、じっと座っていることさえ難しくなっていた。
「じゃあ私、帰ります」
「え?」
唐突な言葉とともにトガはソファから立ち上がり、ローテーブルを回り込んで扉へ向かう。
「もう帰るの?」
「はい。血も貰いましたし」
「そっか。じゃあ──」
出久が見送ろうと腰を浮かせるより早く、トガは扉へ辿り着いていた。
「デク君、ありがとうございました!」
「あ、うん。トガさん──」
「また後で!」
早口で言い残し、トガはドアノブを下げた。
出久が何か言うより先に廊下へ飛び出し、振り返らないまま後ろ手に扉を閉める。
カチャリ、と電子錠の掛かる音がした。
「…………」
そこでようやく、トガの動きが止まった。
ホテルの廊下には誰もいない。
扉一枚を隔てた向こうには出久がいるが、少なくとも今はこちらを見ていなかった。
そのことを確認した途端、それまで辛うじて保っていたものが一気に崩れた。
トガは背中を扉の横の壁へ預けると、ずるずると身体を滑らせていき、そのまま床へ座り込んだ。
頬が熱い。
耳まで赤くなっているのが自分でも分かる。
血を飲ませてもらった。
嫌がられなかった。
それどころか、煙草まで自分が嫌いだからという、それだけの理由で吸わないでいてくれた。
ホテルへ戻ってくる前、自分はただ、出久が自分の「好き」をどこまで受け入れてくれるのか確かめたかっただけだった。
そして、確かめることはできた。
出久はトガの欲求を無条件に肯定したわけではない。それでも今回、自分が欲しいと頼んだことについては拒絶せず、条件を付けて許し、自分の身体を傷つけることまで了承してくれた。
欲求そのものを理解されることと、それを実際に叶えることを許されることは同じではない。
街を歩きながら考えていた、その境界。
少なくとも出久は、自分の意思でその境界を一歩こちらへ越えてきてくれた。
だから嬉しい。
そこまでは分かる。
けれど、どうして煙草を吸わなかったことまで、こんなにも嬉しいのだろう。
血を飲ませてもらった時とは違う。
あれは自分から頼んだことだった。
けれど煙草のことは頼んでいない。
吸ってもいいと言ったのに、出久は自分が嫌いだからという理由だけで吸わなかった。
自分が何かを求めたからではなく、出久の方から自分のことを考えてくれた。
その事実を意識するたび、胸の奥がどうしようもなくむず痒くなる。
トガは膝を抱えるように身体を丸め、火照った顔を隠すように俯いた。
「私、どうしよう……どうしたら良いんだろう」