事務所を飛び出した爆豪は、反射的に空を見上げた。ホークスは既にかなり先まで飛んでおり、赤い翼は建物の合間を抜けるたびに小さくなっている。
ほんの数秒前、窓から身を躍らせる直前に告げられた試験の概要は、拍子抜けするほど単純だった。
『今日の午後十七時までに俺へ触ること。それと、俺はこの街から出ません。ルールは以上』
「ふざけんな……!」
悪態を吐きながら、爆豪は歩道を蹴って走り出した。
個性を使えば追いつくのは早い。
掌の爆発で屋根へ上がり、そのまま連続して加速すれば、少なくとも地上を走るより遥かに効率がいい。
しかし今の爆豪には仮免許すらなく、往来で移動のために個性を使うことは許されていなかった。
試験相手がナンバー2だろうと、公安が用意した特例試験だろうと、その事実が変わるわけではない。
「クソが……!」
結局、走るしかなかった。
人通りの多い歩道では人を避け、信号が赤なら止まり、横断歩道では無理に前へ出ない。
その間にもホークスは上空を進み続け、赤い翼が遠ざかるたびに爆豪のこめかみに青筋が浮いた。
「上等だこの野郎……」
届くはずもない声を吐き捨てながら次の交差点を曲がったところで、爆豪は違和感に気付いた。
ホークスは全力で逃げていない。
本気で飛ばれれば、地上を走る爆豪が姿を追い続けられるはずがない。
それなのにホークスは時折速度を落とし、高度を変え、建物の陰へ入っても完全には見失わない位置へ姿を見せていた。
ならば、振り切られないうちに街路を使って少しずつ距離を詰めればいい。
爆豪がそう考えながら交差点へ向かった時、車道脇にいた小学生くらいの少年が、反対側にいる友人へ気を取られたまま道路へ踏み出した。
「おい!」
左折してきた車がクラクションを鳴らすより早く、爆豪は少年のランドセルを掴んで歩道へ引き戻した。
「前見ろ! 左右見てから渡れ! 轢かれんぞ!」
「ご、ごめんなさい……」
「いいから次から気ぃつけろ!」
少年を歩道の内側へ押し戻すと、爆豪はすぐに走り出した。立ち止まっていたのは数秒にも満たないが、それでもホークスとの距離は広がっている。
「クソ……!」
速度を上げて次の通りへ入ると、今度は前方を進んでいた配達員の荷台が段差に片輪を取られ、積まれていた段ボール箱が大きく傾いた。
「あっ──」
爆豪は走る勢いをほとんど殺さずに横へ入り、落ちかけた箱を片手で押し戻した。
「固定甘えんだよ!」
「す、すみません!」
「ベルト締め直せ!」
荷台が安定したのを確認すると、配達員の返事を待たずにまた走る。
「ありがとうございました!」
「次から気ぃつけろ!」
振り返らずに返し、そのまま角を曲がった。
助けるかどうかを考えている暇などない。
危ないものが目に入れば手を出し、それが済んだら走る。それだけだった。
幸い、赤い翼はまだ見える。
爆豪は商店街を抜けて広い通りへ出ると、さっきまでの遅れを取り戻すために歩道の空いている場所を選んで速度を上げた。
するとホークスが翼をゆっくり動かしながら身体を反転させ、こちらを向いたまま後ろ向きに飛び始める。
「……あ?」
「頑張れー、爆豪くーん」
「ぶっ殺すぞテメェ!」
「ははは、敬語敬語」
軽口を叩きながらも、ホークスの進路には少しの乱れもない。
後ろ向きのまま建物の間を抜け、電線や標識との距離まで正確に取っている。
本人にとってはこの程度の飛行など、前を向いている時と大差ないらしい。
その余裕が癪に障った。
爆豪は一本先の横道へ入り、大通りの緩い曲線を細道で短く切って先回りする。
再び表通りへ出た時には、先ほどまで建物一つ以上あった距離が明らかに縮まり、ホークスの表情まで見えるようになっていた。
「おお」
ホークスが僅かに眉を上げる。
爆豪がさらに速度を上げると、ホークスも翼を一度強く打った。
それだけで縮みかけた距離が止まり、手を伸ばして届くところまでは入らせてもらえない。
「……ッ!」
「惜しいなあ」
「テメェ……!」
「別に全力じゃないですよ?」
「余計ムカつくんだよ!」
爆豪が速くなれば、その分だけホークスも速くなる。近道を使えば相応に距離を取り直し、それでいて完全に振り切ることはしない。
一定の間隔を保ったまま、こちらを挑発するように飛んでいる。
「個性使えばいいのに。地面走ってても一生追いつけないよー」
「分かって言ってんだろテメェ!!」
怒鳴り返しながらも、爆豪はホークスから目を離さなかった。
距離が縮まったことで、翼だけでなく腕の動きまで見える。
そこで視線が一瞬だけ左手首へ落ちた。
腕時計。
飛行中、ホークスが何度か時刻を確認しているのを爆豪は見ていた。
「……まずアレをなんとかしねえと」
呼吸の合間に小さく呟き、さらに地面を蹴る。
「何か言いました?」
「黙って飛んでろ!」
「はいはい」
また少し詰める。
また離される。
地上を走る爆豪と飛ぶホークスでは、どうしても最後の距離が埋まらなかった。
やがて景色が変わり始めた。
商店や集合住宅の間隔が広がり、大通り沿いには倉庫や資材置き場が増え、その向こうに山の稜線が見える。
「爆豪くんも人が多いと集中できてなさそうですし、人気のない方に行きましょっか」
ホークスが進路を変え、住宅地の外へ向かった。
道路は徐々に上り坂となり、車も歩行者も減っていく。
市街地では何度も人や信号に速度を削られていた爆豪も、前を塞ぐものが少なくなったことで一気に走りやすくなった。
「お。街中より速いじゃないですか」
「当たり前だろ……!」
「でも、まだ届かない」
「分かってんだよ!」
ホークスは笑いながら前を向き、道路に沿ってさらに山側へ進む。
民家が途切れると、両側には林や斜面が広がり、細い川が舗装路と並行して流れ始めた。
人影もほとんどない。
爆豪は走りながら一度掌を開いたが、すぐに閉じた。
ホークスはその動きを見逃さなかった。
「お、そろそろ使います?」
「うるせえ!」
「この辺なら人もいないし、使いやすいですよ?」
「誘ってんじゃねえよ!」
「別に?」
爆豪は舌打ちしながらも個性を使わなかった。
仮免を持っていないという事実は、周囲に人がいなくなった程度で消えるものではない。
誰も見ていないから構わない、などという理屈が通らないことくらい、ここ数日の勉強で嫌というほど理解していた。
それでも走り続けていると、ホークスがやがて速度を落として振り返った。
「爆豪くん」
「あァ?」
「ここなら個性使っていいよ」
「……は?」
「いや、別に挑発してるわけじゃなくて。本当に」
ホークスは苦笑しながらジャケットの内側へ手を入れ、何度か折り畳まれた用紙を取り出した。
「ほら」
「走りながら読めるかボケ!」
「じゃあ近くまで来てください」
「それができねえから追ってんだろうが!」
「ああ、そうでした」
「殺すぞ!」
ホークスは笑いながら高度を落とし、手が届かない程度の距離を保ったまま紙を広げた。
自治体名と公印。
その下には使用区域、利用目的、許可時間、責任者の氏名が並んでいる。細かな文章まで読む余裕はなかったが、『個性訓練』『指定区域』『許可』という文字は確認できた。
「今日の午後、この山の指定区域を個性訓練に使っていいって許可、ちゃんと取ってます。申請者は俺。事故が起きた場合の責任も、俺と公安側で持つことになってる」
「……用意いいスね」
「こういうところ雑にすると、後で色んな人に怒られるんで」
ホークスは許可証を畳み直して懐へ戻した。
「それに、個性有りの爆豪くんの能力もちゃんと見ておきたいからねー」
言い終わるより早く、爆豪の両掌が爆ぜた。
乾いた爆音が山間に反響し、爆風を後方へ叩きつけた身体が一気に前へ押し出される。
長時間走り続けていたとは思えない鋭い加速に、ホークスの反応が一瞬だけ遅れた。
「──速っ」
爆豪は身体を捻りながら右腕を大きく振る。
触れさえすれば試験は終わる。
しかしホークスも翼を強く打ち、上体を反らして横へ逃れた。爆豪の指先は服へ届かず、そのまま空を切る。
ただ、完全には避けきれなかった。
「っ!」
爆豪の前腕が左手首を掠め、衝撃で腕時計のバンドが弾けた。
地面へ落ちた時計はケースがひしゃげ、文字盤にも亀裂が入っている。
爆豪は斜面へ着地すると、すぐに振り返った。
「……すんません。それ、弁償とかちゃんとしますんで」
「ああ、いいよ別に。安物だからさ」
「そういう問題じゃねえっスけど」
「気になるなら試験終わってから考えましょう」
ホークスは壊れた時計を外し、代わりにスマートフォンを取り出した。
爆豪の視線が、ほんの一瞬だけそこへ向く。
「んー……まだ十七時まで30分近くあるな。思ったより余裕ありますね」
「……そっスか」
「おや。反応薄いですね」
「別に」
爆豪はそれ以上何も言わず、掌を開いた。長く走り続けたことで汗は十分に溜まっている。
片方の掌へもう片方の手を添え、筒を作る。
「A・P・ショット!」
圧縮された爆破が鋭く放たれた。
狙いはホークス本人ではなく、その進行方向に張り出している木々だった。
木の幹の一部が弾け、枝葉と破片、土埃が一気に巻き上がってホークスの視界を塞ぐ。
「うわっ!」
ホークスが反射的に翼で顔を庇った瞬間、爆豪は両掌を後方へ向けて爆発させた。
煙の中へ一気に飛び込み、右手を伸ばす。
「捕まえたァ!」
指先が肩へ迫った。
ホークスは爆豪の接近を察知して身体を捻り、紙一重で軌道を外す。
伸ばした手は服を掠める寸前で空を切り、爆豪は左掌の爆発で身体を反転させた。
「危なっ……!」
「チィッ!」
煙から抜けたホークスは、今度こそ明確に距離を取る。
「今のは本当に危なかったなあ」
「ちょこまか逃げやがって!」
「そりゃそうですよ。触られたら終わりなんだから」
そこから数十分、爆豪は追い続けた。
斜面を蹴り、岩場で高度を稼ぎ、木々の隙間を抜けて進路を先読みする。
だがホークスは正面から競うことをやめ、爆豪が詰めれば速度を上げ、逃げ道を塞がれそうになれば高度や進路を変え、決して手の届く距離へ入らなかった。
爆豪も闇雲に爆破を続けることはせず、掌に溜まる汗や腕の疲労を意識しながら、急加速と惰性を使い分けた。
周囲へ余計な被害を出さないよう射線にも気を配り、A・P・ショットのような攻撃は必要な場面、かつ目眩しが目的に限定。
それでも捕まらない。
「クソッ!」
上から腕を伸ばすと、ホークスは翼を畳んで一気に落下し、直後にまた翼を広げて谷側へ逃れた。
「惜しい!」
「毎回それ言ってんじゃねえ!」
「毎回惜しいんだから仕方ないでしょう!」
爆豪は右掌の爆発で軌道を修正しながら追う。
雄英を辞めてから、これほど個性を思い切り使ったことはなかった。
掌から爆風を叩き出すたびに身体が浮き、自分の力だけで空を押し退けて速度と方向を変えていく感覚は、久しぶりに味わうものだった。
楽しい。
それだけは否定できない。
だが以前とは違い、今はその快感に伴う責任も理解している。
一発爆発させれば、衝撃と熱と音が生じる。
それが自分の移動に使ったものであろうと、結果として誰かを傷つければ責任から逃れることはできない。
だからこそ許可区域へ入るまで個性を使わず、今もホークスだけでなく周囲を確認しながら出力を選んでいる。
「……面倒くせえ」
「何が?」
「なんでもねえ!」
「疲れたなら休みます?」
「殺すぞ!」
返事と同時にまた爆発させた。
思い切り力を振るうのは楽しい。
その力を扱うために考えなければならないことは増えた。
それでも爆豪にとって、二つはもう矛盾していなかった。
追跡を続けているうちに日が傾き、山々は赤い夕焼けに染まっていった。
ここまで何度も追い詰めた。
腕時計を壊し、爆煙で視界を奪い、指先が届く寸前まで迫った。
それでもホークス本人には一度も触れていない。
やがてホークスがスマートフォンを取り出そうとポケットへ手を伸ばした。
それを見た爆豪が即座に加速する。
「おっと」
しかしホークスはすぐに翼を打ち、簡単に距離を取った。
「隙アリって思いました?」
「……」
「甘いなあ。時計見るくらいで捕まってたら、ナンバー2やってられないんで」
ホークスは笑いながら再びポケットへ手を伸ばしかけたが、爆豪の視線に気付いて動きを止めた。
「……まあ、いいや」
手を戻す。
「ここって夕焼けチャイム、十七時だもんね。それが合図でいっか」
爆豪は何も答えない。
「夕焼けチャイムって分かるかな? 地域差あるもんね。防災無線で夕方に鳴るやつ」
「分かるっスよ。ガキ扱いすんな」
「いやいや、住んでた地域によって違いますからね。じゃ、十七時のチャイムが鳴ったら終了か。分かりやすいね」
「……」
ホークスはそう言って再び背を向ける。
爆豪は間を置かず追った。
そこからまた同じ攻防が続いた。
爆豪が距離を詰めればホークスが逃れ、先回りすれば軌道を変えられる。
長時間の追跡で脚も腕も疲れ、掌には熱が溜まり始めていた。
「まだ来る?」
「テメェが逃げんのやめるまでなァ!」
「それは試験終わるまで無理でしょうねえ」
「だったら捕まえるだけだ!」
爆豪は右掌へ左手を添えた。
「A・P・ショット!」
圧縮された爆破がホークスの横へ飛ぶ。
進路を制限するつもりだったが、疲労からか軌道は僅かにずれていた。
ホークスは身体を傾けるだけで簡単にかわす。
「苦しくなってきました?」
「黙れ!」
「当てる気のない攻撃に当たるほど、俺もトロくはないよ」
「チッ……!」
爆豪はすぐ次の攻撃へ移ろうとした。
その時、背後で乾いた破砕音が響いた。
外れたA・P・ショットが岩場へ到達していた。
山肌から張り出した岩に亀裂が走り、周囲の土と小石を巻き込みながら大きな岩塊が傾いていく。
「っ……!」
その真下にホークスがいる。
爆豪が状況を認識した瞬間には、すでに身体が前へ出ていた。
「ホークス!」
両掌を後方へ向けて爆発させ、落石の下へ飛び込む。
ここまで何度も個性を使い続け、掌にも腕にも疲労が溜まっている。
サポートアイテムもない。それでも爆豪は空中で身体を捻り、落ちてくる岩へ両掌を向けた。
「どけェ!!」
全力の爆発が山間部に轟いた。
爆風を側面から受けた岩塊は軌道を変え、ホークスの頭上を外れて斜面へ落ちる。
木々を薙ぎ倒しながら地面へ激突した巨岩を確認する間もなく、爆豪自身も反動で吹き飛ばされた。
「ぐっ……!」
背中から地面へ叩きつけられ、土の上を転がる。
呼吸が詰まり、それから両掌へ焼けるような痛みが走った。
「っ……が……!」
顔をしかめて手を見ると、掌は真っ赤になり、指先まで痺れている。
試しに小さく爆破しようと力を込めても、ぱち、と弱い音が鳴るだけだった。
もうしばらくまともな爆破は使えない。
そう判断したところで、頭上から羽音が近づいた。
ホークスが地面へ降り立つ。
「爆豪くん」
「……なんスか」
「立てる?」
「立てるっスよ」
地面へ手をつこうとすると、掌に鋭い痛みが走った。
爆豪が反射的に手を引いたのを見て、ホークスの眉が寄る。
「いや、それ立てる人の動きじゃないでしょう」
「うるせえ……」
爆豪は膝だけで身体を起こした。
ホークスは落ちた巨岩と爆豪を見比べ、軽く息を吐く。
「……馬鹿だよなあ、爆豪くん」
「あァ?」
「俺があれで怪我するとでも思ったのかい」
口調こそ軽いが、先ほどまでとは違っていた。
「羽根で岩を砕くこともできたし、落石を弾いて逃げ道を作ることもできた。最悪、翼を少し持っていかれる覚悟で抜ければ済んだ話です」
「そんなの……分かるわけねえだろ」
「そう。分からなかった」
ホークスはあっさり認める。
「だから、考えるより先に身体が動いた。……ってやつ?」
爆豪は答えなかった。
「でも、それで自分が戦闘不能じゃ話にならないよ。助けようとしたこと自体を否定する気はないけど、自分まで潰れたら次に助ける人間が増えるだけだ」
ホークスの言っていることは正しい。
少なくとも、岩が落ちた瞬間に爆豪が取った行動だけを見れば、そう見える。
「今回は俺だったからいい。でも本当に救助が必要な一般人だったら? 君が全力を使って助けた直後にヴィランが来たらどうする。ヒーローなら、助けた後も残らなきゃいけない」
「……チッ」
「無茶が必要な時はある。でも無茶と無謀は別物です」
「……ウス」
爆豪が低く返した、その時だった。
夕暮れの山間に、遠くから防災行政無線の旋律が流れてきた。
「……あ」
ホークスが音のする方を見る。
数秒それを聞くと、翼から力を抜いて大きく息を吐いた。
「はぁ……時間切れか」
爆豪は何も言わなかった。
ホークスはもう逃げる必要がないと判断したらしく、爆豪の前まで歩いてくる。
「とりあえず試験は終わり。手、見せて」
「平気っス」
「さっき小さい爆発すら出なかったでしょう。平気なわけないって。腰とかも打ってない?」
しゃがみ込み、赤く腫れた掌を確認した後、腰から背中へ順番に軽く触れていく。
「ここは?」
「……ちょい痛えっス」
「じゃあこっち」
「そこは別に」
「脚の痺れは?」
「ねえっス」
ホークスは肩甲骨の辺りまで確認してから手を離した。
「軽い打撲くらいで、今のところ大きな異常はなさそうだね。手は別として」
「だったら平気だろ」
「そういう判断を本人がするから駄目なんですよ。一応この後、病院に運ぶよ。保険証持ってきてる?」
「持ってるっスけど……」
「優秀優秀。じゃ、行きましょうか」
「歩けるっスよ」
「山降りるまで距離あるでしょう。手も使えないんだから、転んでも受け身取れないし。ほら、背負うから」
「やめろや!!!」
ホークスが呆れたように振り返った、その時だった。
すぐ脇の草むらが揺れた。
二人が同時にそちらを見る。
夕暮れの茂みから、長身の男がぬっと姿を現した。
「爆豪」
「……は?」
「ご苦労だったな」
ベストジーニストだった。
いつも通り寸分の乱れもない姿で草むらから現れたため、かえって異様だった。
爆豪が目を見開き、ホークスはしばらく無言で彼を見る。
「……いつからいたんすか」
「さてな」
「いや、さてなじゃなくて。俺、結構この辺飛び回ってたんですけど」
「君が気付かなかったのなら、それで十分だろう」
「何が十分なんだろうなあ……」
ベストジーニストはぼやきを流し、爆豪の掌と服についた土へ目をやった。
「怪我をしたのか」
「……ちょっとっス」
「ちょっとで済む顔ではないな」
「本人も同じこと言ってましたよ。今から病院に連れていきます」
ホークスは爆豪を親指で示した。
「試験は……まあ、見ての通りっすよ。不合格」
「あァ?」
「条件は俺に触ることだったでしょう。そこは達成できてないからね」
ホークスはベストジーニストへ向き直った。
「でも、いい弟子育てましたね。ヒーロー候補生としての素質は充分すよ。街中で個性を我慢したのもそうだし、途中で危ない人間を見つければ追跡を止めてでも手を出す。さっきの岩も無茶ではありましたけど、助けようとして身体が先に動くところは本物です。戦闘力は言わずもがな。俺も最初の加速は危なかった」
「……」
「ただ、諜報員としては使えない。まあ、そこは俺の判断ミスですね。経歴だけで爆豪くんを見てた」
そう言って爆豪を背負おうとしたところで、ベストジーニストが静かに口を開いた。
「はて」
「はい?」
「何の話だ?」
ホークスの動きが止まる。
「試験不合格とは、一体何の話だね?」
「いや、そりゃ……」
ベストジーニストは答えず、意味ありげな笑みを浮かべている。
「……何です、その顔」
「二つ」
人差し指を立てた。
「君の爆豪に対する認識を、訂正しておく必要がある」
「はい?」
「ああ。まず一つ。先ほど君は、爆豪が『考えるより先に身体を動かした』と言っていたな」
「言いましたけど」
「それは間違いだ」
ホークスの表情から僅かに笑みが消えた。
「彼は今日、考えうる限りの問題を認識し、それぞれに処置を施し、対策を準備したうえでこの試験に臨んでいる。君が最後に見た一つの行動だけを切り取って、考えなしだったと結論づけるのは早計だ」
「……何の話ですか?」
「君が気付いていないことの話だ」
ベストジーニストは二本目の指を立てる。
「そしてもう一つ。彼はヒーロー候補生ではない」
「ジーニストさん、さっきからなんの──」
「彼は立派なヒーローだ」
言葉を遮って断言した。
爆豪が僅かに目を見開く。
「資格の必要性を軽視しているわけではない。むしろ逆だ。資格を持っていないからこそ、爆豪は今日、市街地で一度も個性を使わず、許可区域へ入って許可証を確認するまで待った。追跡の最中に助けを必要とする者を見つければ放置せず、それでも自分の試験を投げ出しはしなかった」
ベストジーニストはそこで一度爆豪を見てから、再びホークスへ視線を戻した。
「最後の救助方法には改善の余地がある。そこについては君の指摘に異論はない。しかし、今日一日の行動を見たうえで彼を単なる『候補生』と呼ぶのも、『考えずに動いた』と評価するのも、私は正しくないと思っている」
ベストジーニストの口元が上がった。
「以上二点については──君の反省会をしながらにでも、訂正してもらおうかな」
「……反省会?」
ホークスが聞き返した、その瞬間だった。
もう一度、山間に夕焼けチャイムが鳴り響いた。
先ほどと同じ旋律が、今度ははっきりと谷間へ広がっていく。
「……ん?」
ホークスが顔を上げた。