工事現場から少し離れたビルの屋上で、ホークスは縁に腰を下ろしながら、眼下で続く戦闘を眺めていた。
夜風に赤い翼の羽根が揺れる先では、ジーニストと爆豪がまだ激しく打ち合っている。
爆豪が小刻みな爆破で間合いを詰めれば、ジーニストは長い手足と衣服の操作を組み合わせて迎え撃ち、地面へ落とした上着まで横合いから操って死角を作っていた。
その攻防をしばらく追ったところで、ホークスは僅かに口元を引きつらせる。
「……ジーニストさん、ガチでやってない……?」
事前の打ち合わせでは、実戦データとして不自然にならない範囲で手加減をしない、という話だった。
だが眼下を見る限り、ジーニストはその言葉をかなり文字通り受け取っている。
爆豪が一つの戦い方へ対応すれば、その対応を潰すために次の手を出し、衣服による直接的な拘束が通じないと分かれば、僅かな操作でリズムを崩して格闘へ繋げる。
それにも慣れ始めれば、今度は自分の服へ偽の予備動作を作り、上着まで別方向から動かして意識を分散させていた。
少なくとも、爆豪へ勝ちを譲るつもりなど最初からないらしい。
「いやまあ、手ぇ抜かないでとは言ったけどさあ……」
苦笑交じりに呟きながらも、ホークスの意識は戦場だけへ向いているわけではなかった。
片耳には通信端末を装着し、手元のスマートフォンで警察側との連絡を取りながら、周辺へ散らした羽根から人や車両の動きを拾っている。
工事現場を中心に、路地、道路、隣接する建物の窓や屋上まで警戒範囲へ含め、こちらへカメラを向けている人間がいないか、予定にない車両が近づいていないか、そしてデトネラット側が爆豪の頭部カメラとは別に監視役を送り込んでいないかを確認することこそ、本来の役目だった。
スマートフォンが小さく震え、画面へ視線を落とすと、警察側の担当から定時連絡が入っている。
『周辺道路、予定通り規制継続。異常なし』
ホークスはすぐに指を動かした。
『了解。予定時刻まではそのままでお願いします。現場内への立ち入りは引き続きなしで』
送信を終え、そのまま周囲の状況を確認する。
少し離れた交差点では、工事車両の出入りを理由に夜間の迂回案内が出されていた。
表向きには道路工事に伴う交通整理でしかないが、一般車両が現場付近へ近づきにくいよう公安側で調整してある。
近隣住民に対しても、数日前から工事会社名義で「夜間に設備確認を行う可能性があり、一時的に騒音が発生する」と通知していた。
爆発音そのものを完全に誤魔化すことはできない以上、音を聞いた住民が何事かと外へ出てくる可能性を減らしておく必要がある。
ちょうどその時、近くの建物で二階の窓が開いた。
ホークスは羽根から届く感覚をそちらへ向ける。
顔を出した中年ほどの男性は工事現場の方角を一度眺めたものの、道路脇の工事案内と遠くに見える誘導灯を確認すると、特に不審に思った様子もなく窓を閉めた。
今のところ、住民が現場へ近づく気配も、道路側の規制に問題が生じた様子もない。
そう判断した直後、上空へ放っていた一枚の羽根が空気の変化を拾った。
鳥でも風に流された物体でもなく、人間大の何かが一定の速度でこちらへ近づいている。
ホークスは振り返らないまま声をかけた。
「遅かったね」
「……あんたが早すぎるんだよ」
背後から返事が落ちるのとほぼ同時に、屋上へ淡い光が差した。
肩越しに振り返ると、夜空から一人の青年がゆっくりと降下している。
フード付きの上着を羽織った志村転孤の足元には、白く発光する輪が水平に浮かんでいた。
転孤が屋上へ足を下ろすと同時に輪は薄れ、靴底がコンクリートへ触れる頃には跡形もなく消えている。
「相変わらず目立つねえ」
「夜中にビルの上見上げながら歩いてる奴なんて、そういねえだろ。それに途中までは屋根使ってるし」
「それなら結構」
ホークスは短く返し、すぐに工事現場へ視線を戻した。
転孤も屋上の縁まで歩いていき、数十メートル先で続いている戦闘を見下ろす。
ちょうど爆豪が地面すれすれを滑るように加速し、細かな爆発を連続させながらジーニストへ肉薄していた。
右拳を振り抜くものの、ジーニストは身体を僅かに逸らして回避し、それと同時に地面へ落ちていた上着を舞い上がらせ、爆豪の死角から頭部へ被せようとする。
爆豪が左掌の爆発で上着を弾いたところへ、今度は長い脚が飛んできた。
前腕で受けた爆豪は数歩押されるが、その反動を殺さず爆破で横へ滑り、着地するより早く次の爆発を起こして別角度からジーニストへ突っ込んでいく。
転孤はしばらく黙って見ていたものの、やがて眉を寄せた。
「……派手にやってんな」
「ね」
「問題ねえのかよ」
「今のところは」
ホークスはスマートフォンを軽く持ち上げてみせた。
「警察には話を通してあるし、周辺道路も工事を理由に規制中。近所には夜間作業で多少音が出るって通知済み。こっちに近づいてくる人がいたら、俺の羽根か警察のどっちかに引っかかる」
「多少って音じゃねえけどな、あれ」
転孤が言った直後、爆豪の爆発が工事現場を照らし、低い爆音が建物の間を抜けて遅れて屋上まで届いた。
「そこはまあ、多少の解釈の違いということで」
「便利な言葉だな」
「行政とのお付き合いには必要なんですよ」
軽く答えながら、ホークスは横目で転孤を確認する。
「それより、ここまで来て大丈夫なの?」
「あ?」
「君の方。俺たちよりそっちの方が問題でしょ」
転孤が解放軍へ入り込んでから、それなりの時間が経っている。
今では施設内を歩いても不自然に見られない程度には立場を築いているが、公安との接触を疑われれば、それまで積み上げてきたものが一度に崩れかねない。
「問題ねえよ。今日はとっくに上がってるし、こっちに来る途中も尾行はなかった。端末も置いてきた」
「確認は?」
「した。少なくとも俺を追ってきた奴はいねえ」
ホークスも周囲へ散らしている羽根から、転孤が来た方角に不自然な人影や車両がないことを確認した。
「ならいいけど」
視線を工事現場へ戻すと、爆豪がジーニストの上着を爆破で弾き飛ばし、そのまま小刻みな加速を重ねながら懐へ潜り込んでいた。
ジーニストは半歩ずつ位置をずらしながら勢いを殺し、拳が届く寸前に袖口の生地を僅かに引いて軌道を逸らす。
鈍い打撃音が響いたものの、爆豪は距離を取らず、殴られた姿勢のまま掌を向けて至近距離から爆発を放った。
ジーニストが上体を逸らして避けたことで、その爆風が髪を大きく乱す。
その攻防を眺めながら、ホークスがふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、緑谷くんら敵連合の方はどうなってる?」
転孤はすぐには答えず、屋上の縁まで歩いてからポケットへ両手を突っ込んだ。
「さっぱりだよ、デトネラットに引き入れて、向こうと接触させるところまでは俺も噛ませてもらえた。けど、それ以降は行方が知れねえ」
ホークスの目が僅かに細くなる。
「連絡も?」
「ねえよ。どこに連れてかれたのかも、今何やってんのかも分からねえ」
「徹底してるなあ」
「元々そういう連中だろ。こっちだって組織の全部を見せてもらえてるわけじゃねえし、俺が下手に聞き回ったら、それこそ何でそんなに敵連合のこと気にしてんだって話になる」
転孤は面倒そうに頭を掻いた。
デトネラット内部へ潜り込んでいるとはいえ、異能解放軍の全容へ自由に触れられるわけではない。
部署や人間ごとに与えられている情報は限られており、必要以上のことを知ろうとすれば、それだけで疑いを招く。
だから敵連合との接触を取り持った後は、あえて追っていなかった。
「最後に確認した時は?」
「全員いた。少なくとも、俺が関わった段階じゃ緑谷も含めて連中に欠けはなかったし、向こうもいきなり敵対する感じじゃなかった。だからまあ……殺されたってことはねえだろうけどよ」
「根拠は?」
「解放軍側からすりゃ、わざわざ招いた連中を即座に殺す理由が薄い。敵連合の方も、話し合う気が一切ねえなら最初から来ねえだろ。それに何か大事になってりゃ、さすがに会社の空気で分かる」
「なるほどね」
ホークスは答えながら、スマートフォンへ届いた警察からの定時連絡を確認する。
道路規制は継続中で、現場へ向かう通行人も車両もない。
簡潔に返信すると、今度は羽根の一部を北側へ広げた。
「連合の行方が分からないなら仕方ないか。そっちは無理に追わなくていいよ」
「元からそのつもりだ。俺が嗅ぎ回って、今まで潜ってた分を全部パーにしたら笑えねえ」
「うん。だから当面は爆豪くんのフォローを頼むよ」
転孤が視線だけを向ける。
「えー、俺が?」
「君以外に誰がいるのさ。俺やジーニストさんがデトネラットへ出入りするわけにもいかないでしょ。特に気を付けてほしいのは、敵連合と接触させないこと」
先ほどまで気楽そうだったホークスの声が僅かに低くなり、転孤もその意味を察して眉を寄せた。
「緑谷と会わせるなってことか」
「緑谷くんだけじゃない。連合の中に爆豪くんのことを知ってる人が何人いるか、正確にはこっちも把握できてないからね。神野ではMr.コンプレス、マグネ、スピナーとは接触していたみたいだし、彼らにも会わせないように。接触した時点で全部ばれちゃうから」
「そんな分かりやすいか、あいつ」
「分かりやすいよ」
ホークスは即答した。
工事現場では、爆豪がジーニストの拳を前腕で受け、そのまま懐へ潜ろうとしている。
一度正面から弾かれても距離を取らず、相手の腕が戻るより先に次の攻撃へ繋げようとしていた。
「デトネラットの人たちから見れば、今の爆豪くんは雄英を辞めた、素行に難ありの強力な個性持ち。ヒーロー社会に馴染めなかった若者が、条件のいいテスターの仕事を見つけて入ってきた。それで通せる」
「表向きはな」
「でも、本人を少しでも知ってる人には厳しい」
ホークスは人差し指で眼下を示した。
「見ての通り、あの子は良くも悪くも自分の基準がはっきりしてる。雄英を辞めたからって、金に釣られて何でもやるようなタイプじゃない。違法なことを嫌がるし、納得できなきゃ相手が誰でも噛みつくし、嫌なことを笑って誤魔化せる性格でもない」
「潜入には向いてねえな」
「だから鍛えてるんだけどね」
「鍛えりゃどうにかなる問題か?」
「どうにかしてもらわないと困るんですよ」
実際、爆豪は潜入開始から今まで致命的な失敗をしていない。余計な場所を探らず、与えられたテスター業務を真面目にこなし、宮下をはじめとした社員とも必要な関係を作っている。
ただし、それは爆豪を深く知らない人間が相手だからこそ成立していた。
「特に緑谷くんはまずい。幼馴染なんでしょ、あの二人」
「らしいな」
「爆豪くんが何か裏があってデトネラットに接触してるって、すぐに分かっちゃうよ。俺が彼の幼馴染なら、デトネラットにいるってだけでスパイと断定できるね」
今の爆豪が任務を放り出すとは思っていない。
それでも、彼の本来の目的が緑谷出久の逮捕である以上、敵連合側の人間との接触は可能な限り避けるべきだった。
「はいよ」
転孤が気の抜けた返事をした、その瞬間だった。
工事現場で爆豪の身体が大きく浮く。
「──あ?」
転孤の視線が向いた。
爆豪はジーニストの懐へ入り、右拳を振り抜こうとしていた。
ジーニストは半身になってそれを外すと、すれ違いざまに爆豪の背中へ手を添え、前へ流れた勢いを殺さないまま体勢を崩す。
さらにパンツの生地が僅かに引かれたことで軸足がずれ、踏ん張れなくなったところへ横蹴りが脇腹へまともに入った。
「ぐっ──!」
爆豪の身体が地面から離れ、数メートル先まで吹き飛ばされる。
肩から落ちた後も勢いを殺せず、資材の間を転がりながら、途中で腕をついて止まろうとしたところへ上着の裾まで絡んだことでさらに一回転した。
最後は積まれていた土嚢へ背中から突っ込み、ようやく止まる。
「クッソがァ!」
砂埃の中から怒鳴り声が響いた。
即座に起き上がろうとしていることから、致命的なダメージではないらしい。
一方のジーニストは追撃を急がず、乱れた襟元を整えながら爆豪が立ち上がるのを待っている。
その姿を見た転孤が何とも言えない表情になった。
「……なあ」
「何?」
「なんか聞いてたより、ぼこぼこにされてねえか?」
──
「……ッ、ぐ」
肺の奥に残っていた空気を吐き出しながら、爆豪は地面へついた右手に力を込めた。
膝を立てようとすると脇腹へ鈍い痛みが走り、先ほどまともに食らった蹴りの感触が身体の奥から蘇る。
それでも歯を食いしばって腰を上げ、傍らの土嚢へ手をつきながらどうにか立ち上がった。
腕も腹も背中も痛み、何度も地面を転がったせいで擦り傷だらけになっている。試作品の防護性能がなければ、とっくに続行不能になっていたかもしれない。
装備の損傷も酷かった。
右腕の籠手から伸びていた砲身は根元から大きく折れ曲がり、A・P・マシンガンの射撃機構も反応しない。
左の籠手も外装の一部が割れて内部が露出し、腰の補助装置こそまだ生きているものの、背部ユニットからは時折嫌な駆動音が聞こえていた。
「ハッ……クソが……」
荒い呼吸を整えながら顔を上げる。
頭部を覆っていたバイザーも途中でまともに打撃を受け、表示領域の半分以上が割れていた。
速度や装備状況、出力補正など、戦闘開始時には鬱陶しいほど映されていた情報は完全に消えている。
爆豪は舌打ちすると、バイザーの端を掴んで乱暴に跳ね上げた。
幸い、頭部側面に独立して取り付けられた録画用カメラはまだ生きている。
デトネラットへ提出する実戦映像と装備ログさえ残っていれば、少なくとも任務の目的は果たせる。
爆豪は数十メートル先へ視線を向ける、そこにベストジーニストが立っていた。
服は汚れ、爆風で髪型も崩れ、何発かはこちらの攻撃も届いている。
それでも余裕の差は明白で、乱れた袖口を整えながら爆豪が立ち上がるのを待つ姿には、焦りらしいものがまるで見えない。
殺す気で攻撃しているわけではないが、勝たせるつもりもないらしい。
爆豪が対応すれば別の手を使い、それも通じなくなればさらに手段を変える。
それだけは、ここまで嫌というほど思い知らされていた。
デトネラットへ提出する映像としては既に十分な内容が撮れている。
それでもジーニストは終わらせないし、爆豪も終わらせるつもりはなかった。
掌に汗が滲む。
砲身の折れ曲がった籠手も、死んだバイザーも役には立たない。
それでも自分の個性まで失ったわけではないと、爆豪は右手を開きながら相手との距離を測った。
ジーニストが先ほどからやっていることは、結局のところ単純だった。
使えるものを使い、通じなくなればやり方を変える。
だが、それを理解したところで腹立たしさが消えるわけではない。
「……クソが」
低く吐き捨てた爆豪の向こうで、ジーニストはすぐに構え直すことなく、爆風に乱された前髪へ指を通した。
その悠長な仕草に爆豪の眉間へ皺が寄る。
「暴漢君。君のような若輩と、私のようなトップヒーロー。その最も大きな違いは何だと思う」
「あァ?」
何を言い出すのかと睨み返したものの、ジーニストは至って真面目だった。
「知らねえスよ」
「そうか。では、少し考える材料を与えよう。君は強い」
「……急に何スか」
「事実を述べているだけだ。戦闘センス、己の個性に対する理解、その応用力、そして年齢から考えれば十分過ぎるほどの実戦経験。そのいずれも、君は同年代の中では突出している。これまで周囲を見渡して、自分より明確に戦闘能力で上回る同年代など、ほとんどいなかっただろう」
ジーニストは爆豪の沈黙を肯定とも否定とも取らず、胸元から細身の櫛を取り出した。
先ほど指で直したばかりの前髪へ櫛を通し、戦闘中とは思えないほど几帳面に毛先を整えていく。
「しかし、上を見れば切りがないということにも、既に気付いたはずだ。どれほど優れた個性を持ち、どれほど技術を磨こうとも、それを上回る者は現れる。純粋な力で凌駕する者もいれば、相性によって君の長所を封じる者もいるだろう。そして世の中には──」
前髪の形を確かめたジーニストが、櫛を止めた。
「オール・フォー・ワンのような巨悪も存在する」
爆豪の目が僅かに細くなる。
神野で見た光景は、忘れようとして忘れられるものではない。
街の一角を破壊した衝撃も、それを正面から受け止めたオールマイトも覚えている。
あれほどの存在を前にすれば、同年代の中では強いなどという自負に大した意味はない。
ジーニストは整え終えた髪を指先で押さえ、納得したように頷く。
「そのような巨悪、あるいは私のようなトップヒーローと相対するにあたって、何が必要か……私の考えを述べよう」
櫛を胸元へ戻して静かにしまう。
「こだわりを持ちなさい」
「……こだわり?」
「ああ。自らの中に、絶対を確立するんだ」
爆豪が眉を寄せる。
「何スか、それ」
「何があろうと譲らないものだよ。勝敗でも、救助でも、己の美学でも構わない。ただし、自分で選び、自分で守り抜けるものでなければならない」
ジーニストが一歩、爆豪との距離を詰めた。穏やかな口調は変わらないが、身体の重心は既に戦闘へ戻っている。
「力で劣れば、人は揺らぐ。策を破られれば迷う。自分より遥かに強い相手を前にすれば、何をすれば正しいのかすら分からなくなる時もある。そんな時、最後まで君を動かすものは何だと思う?」
さらに一歩近づくと、それに合わせて宙へ浮いた上着も位置を変えた。
「才能ではない。技術でもない。それらは武器にはなっても、進む方向までは決めてくれない。だから、こだわりを持ちなさい。それだけは曲げないと決めたものを、自分の中へ一本通しておくんだ」
爆豪も傷む身体を起こす。
「そうすれば、手段を変えることを恐れずに済む」
「……?」
「守るべきものが定まっているなら、それ以外は変えてしまっていい。戦い方も、使う技も、考え方も、その場に応じて柔軟に変えればいい。己のすべてへ固執する必要などないのだよ」
その言葉を聞き終えた爆豪は、すぐには返事をしなかった。
守るべきもの。
何があろうと譲らない、自分の中の絶対。
考えるまでもなく、ずっと昔からあった。
テレビの向こうで、どれほど強大な敵を前にしても最後には勝って立ち、そのうえで誰かを助けて笑っていた男。
幼い頃の自分がヒーローという存在へ憧れた原点は、今になっても変わっていない。
オールマイトのように、勝つ。
そして、助ける。
いつからか勝つことばかりへ目を向け、強さを証明することとヒーローになることを同じものとして扱っていた時期はある。
それでも、自分がなりたかったものまで変わったわけではなかった。
雄英を辞めたことも、緑谷を捕まえようとしていることも、それ自体を人生の理由にする必要はない。
自分がヒーローになりたい理由は、もっと昔から自分の中にある。
そこだけは変えない。
だったら、それ以外は変えていい。
爆豪は胸の奥へ溜まっていた息をゆっくり吐き、両足を開いた。
脇腹には鈍痛が残り、何度も地面を転がった背中も熱を持っている。
腰や背中の補助装置からは不規則な駆動音が聞こえ、壊れた籠手もバイザーも満足に機能していない。
それでも改めて腰を落とし、右足を僅かに後ろへ引きながら肩から余計な力を抜いた。
構えそのものは、これまでと大きく変わらない。
違っていたのは掌だった。
長時間の戦闘によって分泌された汗が指先からぽたりと落ち、その傍らでは、爆発と呼ぶにはあまりにも弱い橙色の火花が絶え間なく瞬いている。
線香花火の先端で生まれては消える火の粉のように儚く、耳を澄ませなければ聞き逃しそうな乾いた破裂音だけが時折混じっていた。
その変化を認めたジーニストが僅かに目を細める。
「ほう」
「……何スか」
「いや。美しい火花だ」
「そっスか」
互いの距離は、既に言葉を交わすためのものではなかった。
ジーニストが長い脚を一歩踏み出した瞬間、先ほどまでの穏やかな空気が消え、一気に爆豪の目前まで迫る。
右拳が顔面へ伸びてくるのを見た爆豪は、大きな爆発で身体ごと退避することなく、右掌の端で火花を一度だけ弾けさせた。
生まれた爆圧は人間を吹き飛ばすほど強くないが、上半身を拳の軌道から数センチ外すには十分だった。
ジーニストの拳が頬のすぐ横を通過する。
爆豪は避けた姿勢を無理に戻さず、そのまま左拳を振るった。
速度だけなら余裕を持って対処できるはずだったが、拳が伸び切る直前、左掌の奥で再び火花が瞬き、一瞬だけ追加の加速が与えられる。
「──む」
ジーニストが首を逸らし、拳の先が頬を掠めた。
外れた左腕を爆豪は強引に引き戻さず、前へ流れた勢いを残したまま右掌を小さく爆ぜさせる。
爆圧によって肩が押され、身体の回転が強まったことで、そのまま右肘が胸元へ迫った。
ジーニストが前腕で受け止めると、爆豪は押し返された力へ逆らわず左掌を起爆させ、反動へ自らの爆圧を重ねながら僅かに後方へ身体を滑らせた。
追撃の蹴りが来るより早く右掌へ火花が散り、爆豪の身体が横へずれる。
そのまま空を切った脚の内側へ潜り込むため、さらに左掌を爆ぜさせて距離を詰めた。
肩がジーニストの脇腹へ迫ったところで、上着が横から割り込んでくる。
「チッ……!」
爆豪は布地そのものを吹き飛ばそうとはせず、片手を上へ向けて極小の爆発を起こし、その反動で身体を低く沈めた。
袖が頭上を通過するのと同時に踏み込み、その勢いへさらに掌の爆発を重ねる。
小規模な爆発を加速や姿勢制御へ利用すること自体は、これまでも行ってきた。
だが今の爆豪は、それまで感覚的に使い分けていた技術を、一つの連続した動きとして扱い始めていた。
回避のために起こした爆発の反動を踏み込みへ渡し、そこで生まれた身体の傾きを拳へ繋ぐ。
攻撃を逸らされたなら元の軌道へ戻そうとはせず、逸らされた方向で次の火花を散らし、別の攻撃へ転換する。
一回ごとの起爆は小さい。
重要なのは、そこで動きを終わらせないことだった。
回避も、攻撃も、加速も、制動も、崩された体勢さえ次の一手へ繋ぐための途中経過として扱う。
新しい必殺技ではない。
これまで身につけてきた小刻みな爆破、高速機動、近接戦闘、反動制御を、一つの技術体系として繋ぎ直した爆豪勝己の新境地。
「格闘戦形、
その名の通り、掌で瞬く火は小さい。
ハウザーインパクトのような圧倒的な火力も、A・P・ショットのような分かりやすい貫通力もない。
それでも、実際に相対するジーニストには、その小ささこそが厄介なのだとすぐに分かった。
右拳を逸らすため爆豪の袖を引けば、その腕を元へ戻すのではなく、引かれた方向へ自ら身体を回して蹴りへ繋げてくる。
蹴りを外せば逆側の掌を起爆し、着地するより早く次の攻撃へ姿勢を変える。
「なるほど……」
ジーニストが呟き、今度は上着を横から差し込んだ。
爆豪は布そのものを破壊するために火力を割かず、右掌の小さな爆発だけで半歩前へ出る。
袖が背中を掠める頃には、既に左掌の火花が次の動作へ繋がっていた。
拳を受け流されれば腕を無理に戻さず、そのまま身体を回して裏拳へ繋ぎ、防がれれば接触の反動へ爆発を合わせて後方へずれ、相手の蹴りを外して再び踏み込む。
「小さな爆発を細かく使うこと自体は、以前からやっていたはずだが……これは少し様子が違うな」
距離を保ちながらジーニストが言うと、爆豪は相手だけを見据えたまま答えた。
「今までセンスでやってた事を、色々考えながらやってみた。考えても考えても相変わらず分かんねえ事ばっかスけど……」
汗の一滴が指先から落ち、その途中で火花が触れて一瞬だけ橙色に輝く。
「気分がいいぜ」
それからしばらく、二人の間で言葉は途切れた。
ジーニストが長い腕を生かして拳を差し込めば、爆豪は極小の起爆で身体を拳一つ分だけ外し、その回避によって生まれた勢いを次の踏み込みへ渡す。
袖口を引かれて姿勢を崩されても、元へ戻ることへ拘らず、倒れかけた方向へ爆発を重ねることで別の攻撃へ転じた。
服の皺へ混ぜられた偽の予備動作や、横合いから差し込まれる上着も依然として厄介だったが、先ほどまでのように一度の乱れがそのままジーニストの攻撃へ直結することは少なくなっていた。
数合を交わした末、ジーニストは爆豪の左拳を前腕で受け流し、続けて返ってきた右肘を首を傾けてかわす。
そのまま膝を打ち込もうとしたところで爆豪の掌に火花が瞬き、腰の位置だけが僅かに後ろへずれたことで攻撃は空を切った。
そこへ拳が返ってくる。
ジーニストは身体を捻って回避すると、それ以上近距離で打ち合うことを選ばず、大きく後方へ跳んだ。
爆豪の拳も小さな爆発も届かないところまで距離を取り、数メートル先から改めて相手を見る。
「……近距離に付き合い続けるのは、少々分が悪くなってきたな」
「ハッ……!」
爆豪は荒い息の合間から口元を吊り上げた。
「逃げんスか」
「戦況に応じて戦い方を変えろと、つい先ほど君へ教えたばかりなのだがね。自分だけ例外というのでは、教育者として示しがつかないだろう」
「都合いいこと言いやがって……」
悪態をつきながら追おうと右足へ力を込めた、その時だった。
「……ッ」
膝から力が抜けた。
踏み出すはずだった右足が僅かに動いただけで止まり、爆豪は倒れかけた身体をどうにか踏ん張って支える。
呼吸は追いつかず、両腕には鉛でも詰められたような重さがあり、視界まで僅かに揺れていた。
「……クソ」
もう一度前へ出ようとしても、身体は言うことを聞かなかった。
その代わり、回避、攻撃、姿勢制御のあらゆる局面へ起爆を差し込むため、短時間のうちに個性を使う回数そのものが跳ね上がる。
まして爆豪は、既に長時間ジーニストと戦い続けた後だった。
拳を握ることすら億劫になりつつある腕を下げ、肩で大きく息をする。
意識ははっきりしており立っていることもできるが、そこから一歩踏み出す余力は残っていなかった。
ジーニストはその様子を見て、構えを僅かに解く。
「新境地へ至ったこと自体は喜ばしいが……それほど消耗してしまっては仕方がないな。技術とは、使えるから完成というものではない。必要な時に必要なだけ使い、それでも次の仕事へ移れるだけの余力を残してこそ──」
「うるせえ……」
「忠告は最後まで聞きたまえ。まったく」
ジーニストはそう返しながら、戦闘で乱れた前髪を整えようと胸元へ手を伸ばした。
先ほどしまった櫛を取り出して髪へ通そうとしたところで、足元へ柔らかな感触が伝わる。
「……む?」
視線を下げると、右足の下から黒い布地が覗いていた。
靴を退ければ、そこにあったのは爆豪が戦闘中に外したグローブだった。
掌側が大きく開いた構造のため個性の使用そのものを妨げる装備ではなかったが、長時間の戦闘で内側まで大量の汗を吸い込み、埃と煤に汚れた布地は触れずとも分かるほど湿っている。
そして改めて周囲へ視線を巡らせれば、落ちているのはそれだけではなかった。
少し離れた鉄骨の足元には破損した腕部装備の内張りが転がり、反対側には外されたベルトの一部、その向こうにも黒い布片が残されている。
どれも、先ほどまで爆豪が身につけていたものだった。
しかし激しい近接戦の最中、それらをどこへ落としたかまで意識する余裕はなかった。
さらに注意を向ければ、装備と装備の間の地面にも細かな染みが点々と残っている。
爆豪が《スパークラー》を使いながら動き回った際、掌や指先から滴り続けていた汗だった。
汗を吸った装備と、地面へ落ちた無数の滴。
それらが戦場の各所に散っている。
ジーニストが数メートル先へ視線を戻すと、爆豪は相変わらず肩で息をし、脚も震えていた。
一歩も動けないというのは演技ではないのだろう。
それでも、その口元だけは僅かに吊り上がっている。
「遅えんだよ」
掠れた声とともに、爆豪が重そうに右腕を持ち上げた。
汗に濡れた掌の中央で橙色の火花が瞬く。
身体を動かすために使っていたものよりもなお小さく、爆圧と呼べるほどの力さえ持たない。
ただ火を点けるためだけの火花だった。
その光を見た瞬間、ジーニストの視線が爆豪の掌から足元のグローブへ移り、そこから工事現場へ散らばった装備と、地面へ点々と続く汗の跡を追った。
そこで初めて、全てが一つに繋がる。
爆豪は新境地を試しながら戦っていただけではない。
自分がどこへ退くかを完全に予測する必要もなかった。
殴り合いながら使える場所を増やし、汗の染み込んだ装備を各所へ残しておけば、そのうちどれかを最後の一手へ利用できる。
守るべきものを一つ決めたなら、それ以外の手段は状況に応じて変えてしまえばいい。
つい先ほど自分が語った考えを、爆豪は早くも己の個性と戦い方へ落とし込んでいた。
しかも、ジーニストとはまるで異なる方法で。
ジーニストは手にした櫛を下ろすと、思わず夜空を仰いだ。
「アメイジングだ」
その声音には、呆れよりも明確な感嘆が滲んでいた。
爆豪が指先を僅かに弾く。
掌で生まれた点火用の火花が地面へ飛び、最も近くに残っていた汗の滴へ触れた。
一つ目の爆発によって飛び散った火花と熱が周囲の汗へ移り、そこから別の装備へ、その先に残された汗へと次々に火が渡っていく。
爆豪が殴り合いながら工事現場へ残してきた無数の小さな仕込みが、一斉に意味を持った。
複数の爆発がほとんど間を置かず重なり合い、白い閃光がジーニストごと工事現場の一角を呑み込む。
直後、腹の底まで震わせる轟音と爆風が周囲へ叩きつけられ、工事現場を丸ごと揺らしながら、近隣の建物の窓を激しく震わせた。
爆豪勝己:デニム