ベストジーニストの事務所で、志村転孤が応接スペースのソファに浅く腰掛けていた。
時刻はすでに夕方を回り、通常業務を終えつつある事務所ではスタッフの出入りも昼間より随分と減っている。
奥にはまだ端末へ向かっている職員が何人か残っていたが、ひっきりなしに電話が鳴り、人が行き交っていた昼間とは違い、今は壁際の時計が刻む音まで妙にはっきり耳へ入ってきた。
転孤はその時計を一度見てから、手元のスマートフォンへ視線を落とす。
地図上には爆豪の端末位置を示す点が表示されており、少し前までデトネラット本社に留まっていた反応は、そこを出たあと都心部へ移動し、現在は一軒の店で止まっていた。
「高級鉄板焼き……ドクターXかよ」
表示された店名を押して詳細を開くと、写真には磨き上げられた鉄板を挟んで料理人と客が向かい合う、見るからに高級そうな店内が映っていた。
掲載されている料理も値段を気にせず注文できるようなものではなく、学生が友人同士で気軽に入る店では到底ない。
「クソ、いいもん食いやがって……ガキが接待なんか受けんなよ」
爆豪が好き好んで遊びに行っていると思っているわけではなかった。
潜入先の人間から食事へ誘われ、そこで断ればかえって不自然になる場合があることくらい、転孤にも十分分かっている。
それどころか、相手の方から私的な場へ連れ出してくれたのなら、潜入任務としてはむしろ歓迎すべき展開なのかもしれない。
それでも、朝からろくに食事も取らず、事務所で爆豪の帰りを待ちながらコンビニのパンで済ませていた身としては、多少の愚痴くらい言いたくなる。
「この件の片が就いたらホークスに奢らせるか……」
誰に聞かせるでもなく呟き、再び地図へ目を戻す。
それからしばらく、GPSの反応は鉄板焼き店から動かなかった。
単なる食事にしては長い気もしたが、接待なら料理より会話の方が本題なのだろう。
爆豪の端末が誰の目に触れているか分からない以上、こちらから電話やメッセージを送るわけにもいかず、転孤は時折画面を切り替えながら、位置情報に変化がないかだけを確認し続けた。
やがて、画面上の点が動き始める。
「……出たか」
身体を起こして追っていると、店を離れた反応はすぐに速度を上げ、徒歩ではあり得ない距離を短い間隔で進み始めた。
「車に乗ったな」
地図を縮小し、進行方向を見る。
ベストジーニストの事務所へ戻っているわけでも、爆豪の自宅方面へ向かっているわけでもない。
デトネラット本社へ引き返す経路からも外れており、車は都心部を抜けるように走ったあと、大きなジャンクションを経由して高速道路へ入った。
「どこ連れてく気だよ」
これで近場へ移動するだけではない可能性が高くなった。
爆豪から事前に聞いていた予定は、デトネラット本社で戦闘テストの報告を受けるところまでだ。
そこから食事へ誘われた時点で既に予定外ではあるが、さらに高速道路へ乗って県外へ向かうような話など当然聞いていない。
転孤は数分ほどGPSの移動を追ったあと、ソファから立ち上がった。
「おいジーニスト、ジーンズの手もみ洗いはいいから」
事務所の奥で、洗面桶にお湯を張っていたベストジーニストが顔を上げる。
「爆豪が高速に乗った」
スマートフォンの画面を差し出すと、ジーニストも現在地と移動経路を確認し、僅かに眉を寄せた。
「デトネラット本社へ戻る経路ではないな」
「ああ。それどころか、どんどん離れてる」
「連絡は?」
「してねえよ。誰と一緒か分かんねえし」
こちらから不用意に接触して、爆豪の立場を危うくするわけにはいかない。
その点については、転孤もジーニストも考えは同じだった。
ただ、何もせず位置情報だけ眺めている必要もない。
「ちょっと追いかけて、どこ行くか見てくる」
「……気を付けたまえよ」
「任せろよ、潜入何年やってると思ってんだ」
転孤はそう返しながら窓際へ向かった。
窓を開けると、夕方の冷え始めた空気が事務所内へ入り込み、近くにいたスタッフが何事かと一瞬だけ顔を上げる。
転孤は窓枠へ片足を掛け、その視線を気にする様子もなく外へ身を投げた。
数階分を落下したところで、両足の下へ白い光が灯る。
薄く輝く円環が水平に現れ、落下していた身体を静かに受け止めると、その勢いを殺すことなく進行方向だけを変え、転孤を建物から滑らせるように空へ運んだ。
光輪による飛行は、空気を噴射したり翼で押したりするものではない。
そのため加速しても爆発音や噴射音は発生せず、羽ばたきによって空気を大きく乱すこともない。
転孤本人には高速移動に伴う強烈な風圧すらほとんど感じられず、足元の光輪に立っているだけで周囲の景色だけが凄まじい速度で後方へ流れていく。
人目につかない高度まで一気に上がったところで、転孤はスマートフォンを取り出した。
爆豪の端末はまだ高速道路を進んでいる。
「……結構飛ばしてんな」
眼下の道路と地図上の反応を見比べながら、対象より先へ出すぎない程度に速度を調整する。
道路の曲線も、交差点も、渋滞も関係ない。
山があれば越え、川があれば渡り、車が大きく迂回しなければならない場所でも直線で進めるこの飛行能力は、転孤が公安の諜報員として重用される理由の一つだった。
国内ナンバー2のホークスほど索敵手段が多いわけではないものの、純粋な長距離移動能力では彼に匹敵する。
加えて騒音がほとんどなく、離れた場所から対象を追跡しても気付かれにくいため、潜入任務で状況が急変した際に現場へ駆けつけたり、逆に誰にも見つからず離脱したりする用途では極めて便利だった。
もっとも、今は速ければいいというものでもない。
先回りしすぎて爆豪を乗せた車の真上へ出れば、こちらから監視対象へ近づくことになる。
転孤は高速道路から数キロ離れた位置を並行しながら、GPSが更新されるたびに自分の速度を調整した。
当初は、郊外にあるデトネラットの研究施設か何かへ向かっているのだろうと思っていた。
ところが、一つ目のジャンクションを越えても車は高速道路を降りなかった。
その先のインターチェンジも通過し、さらに西へ西へと進んでいく。
「……深夜まで未成年連れ出してんじゃねえ」
地図の表示範囲を広げる。
現在地と東京との距離が一目で分かるようになると、もはや少し郊外へ出た程度で済む移動ではないことがはっきりした。
この先の道路を指で追い、進路を予測する。
「これ……愛知まで行く気か?」
他県へ抜ける可能性は残っているものの、これまでのルートをそのまま延長すれば、向かっている先として最も自然なのは愛知方面だった。
「さらっと移動する距離じゃねえだろ……」
昼間にデトネラット本社へ呼び出され、そこから社長らしき人物に高級鉄板焼きを食わせてもらったと思えば、そのまま車で何県も跨いで移動している。
本人から連絡がないことも気掛かりだった。
潜入中だから連絡できないだけならいい、爆豪自身も行き先を知らされていないのかもしれない。
転孤はGPSの挙動を確認する。
位置情報が飛んでいる様子もなく、端末の電源を切られた形跡もない。
少なくともスマートフォンそのものに異常はなく、爆豪の持っている端末がそのまま車内を移動していると考えてよさそうだった。
空は次第に暗さを増し、眼下では高速道路を走る車のヘッドライトが細い光の列となって伸びている。
何度か分岐を通過しても爆豪の端末は西へ進み続けた。
「……マジで愛知だな」
デトネラットの表向きの関連施設については、潜入前に一通り頭へ入れている。
工場、研究拠点、物流施設、系列企業。
だが、現在の進路上にはそれらしい場所が思い当たらない。
「会社の施設じゃねえのか……?」
そこで転孤は考え方を変えた。
デトネラットという企業の施設を探すから見つからないのかもしれない。
今回の移動が会社そのものではなく、その背後にいる異能解放軍に関係するものなら、公に確認できる企業情報だけを探しても意味がない。
転孤は爆豪の現在位置ではなく、これまでの移動経路とこの先にある道路網を見始めた。
高速道路の分岐。インターチェンジ。周辺の市町村。
それらを順番に確認していくうち、一つの地名が目に留まる。
「……泥花市?」
聞き覚えのない名前だった。
地図を拡大すると、このまま現在の高速道路を進み、数十キロ先の出口から一般道へ降りた場合、自然に向かえる位置にある。
それより先へ行くのであれば別の高速道路へ乗り継ぐ方が合理的であり、これまでの移動経路から考えても目的地候補としてはかなり有力だった。
「このままだと、泥花市……ってとこに着くな」
公安から渡されたデトネラット関係施設の資料にも、その地名を見た覚えはない。
それならば、先に確認しておく価値はある。
目的地の候補さえ絞れたなら、車と同じ速度で追い続ける必要はなかった。
転孤は爆豪の現在位置がまだ十分後方にあることを確認すると、泥花市周辺の地形を表示する。
「……先回りしちまうか」
それまで追跡のために抑えていた速度を解放する。
足元の光輪が僅かに輝きを増し、転孤の身体は一気に前へ滑り出した。
高速道路が大きく曲がればその内側を直線で抜け、山が進路を塞げば高度を上げて越える。
地上の車では避けられない迂回を次々と省きながら、爆豪たちより先に目的地候補へ向かっていく。
「ったく……ガキ一人飯に連れてったと思ったら、次は県跨いでドライブかよ」
悪態を吐きながらも、頭では現地に着いた後の動きを組み立てていた。
市街地へ直接下りる必要はない。
まず人目につかない高所を確保し、街の様子と主要道路を確認する。
そこでGPSを追い、実際に爆豪を乗せた車が泥花市へ入ってくるようなら目的地として確定する。途中で別方向へ曲がれば、その時点で再び追えばいい。
「何があんだよ、泥花市に」
答える者のいない問いを零しながら、転孤はさらに速度を上げた。
泥花市へ入る頃には、空はすっかり夜の色へ変わっていた。
転孤は市街地から少し離れた建物の屋上まで先回りすると、周囲に人影がないことを確認して高度を落とした。
足元の光輪は最後までほとんど音を立てず、そのまま身体を屋上へ静かに着地させる。
すぐにスマートフォンを確認する。
爆豪のGPSはまだ高速道路上をこちらへ向かって進んでいた。
「……マジでこっち来てんな」
地図を閉じ、転孤は改めて眼下の街を見渡した。
駅周辺にはそれなりに建物が集まり、幹線道路沿いには店舗が並んでいる。
少し離れれば住宅地が広がり、その向こうには低い山影が見えた。
巨大な研究施設が建っているわけでもなければ、デトネラットのロゴが掲げられた工場があるわけでもない。
ぱっと見ただけなら、本当にどこにでもありそうな地方都市だった。
「何があんだ~?」
屋上の縁へ腰を下ろし、泥花市について検索を始める。
市の公式サイトや観光情報。
地元のニュース。
主要な企業や施設。
短時間で確認できる範囲を一通り眺めてみたが、全国的に知られた特別な何かがあるわけではなかった。
行政施設や学校、病院、商業地区があり、郊外には工場や倉庫が点在している。
人口規模も街の造りも、特筆するほど変わったところは見当たらない。
デトネラットに関連する語句を組み合わせて検索してみても、目立った情報は出てこなかった。
「……普通だな」
爆豪を東京からここまで連れてくる理由が、表向きの情報からは何一つ見えてこない。
GPSを再確認すると、まだ街へ到着するまで多少の時間がある。
転孤は待っているだけでも仕方がないと判断し、人目につかない場所を選んで地上へ降りた。
街の様子は、上空から見た印象と大して変わらなかった。
仕事帰りらしい会社員が駅へ向かい、学生がコンビニの前で話し込み、飲食店の入口から夕食時らしい声が漏れてくる。
不自然な警備員が立っているわけでもなく、デトネラットの関係者らしい人間が街中を巡回している様子もない。
「マジで何が──」
「あれ?」
背後から声が掛かった。
転孤が反射的に振り返る。
「お前、あの時の……」
数メートル先に立っている大柄な男を見た瞬間、転孤の思考が止まった。
全身を覆う鱗、トカゲじみた特徴的な顔。
見間違えるはずがない。
「……は?」
向こうも転孤の顔を認識したらしく、途端に表情を明るくした。
「やっぱそうだ! 久しぶりだなあ!」
「伊口秀一……!」
「馬っ鹿! スピナーと呼べ!」
敵連合の一員であり、当然ながら現在も指名手配中の男が、近所で偶然知り合いに会ったかのような気軽さで立っていた。
しかも妙に機嫌がいい。
頬には僅かに赤みが差し、近づいてくるにつれて酒の匂いまでした。
「久しぶりだなあ! お前が解放軍と引き合わせてくれたおかげで助かってるぜ!」
上機嫌に肩へ手を伸ばしてくるスピナーを、転孤は呆然と見つめた。
「……なんでお前がここにいんだよ」
「なんでって──」
「いや、それより、他の連合の奴もここにいるのか!?」
スピナーは少し驚いたように目を瞬かせたあと、あっさり答えた。
「いるけど?」
転孤は思わず額を押さえた。
爆豪は今、この街へ向かっている。
敵連合の中には爆豪の顔を知っている人間が複数いる。
特に緑谷は幼馴染であり、爆豪の性格も、ヒーローへの執着も、雄英を去るに至った事情も知っている。
そんな相手が、今の爆豪をデトネラット側の人間として見た時、何の疑問も持たず受け入れてくれるとは到底思えなかった。
そこまで考えたところで、転孤は改めてスピナーの姿を見る。
「てか、なんで変装もせず堂々と出歩いてんだよ指名手配犯!」
周囲にいた通行人が何人かこちらを見る。
転孤はすぐに声を落とした。
「いやだって、ここ解放軍の街じゃんか」
「……は?」
あまりにも当然のように返された言葉を、転孤は一瞬理解できなかった。
スピナーはそんな反応を不思議そうに見ながら、手にしていた缶を軽く振る。
「だから泥花市。ここ、解放軍の街だろ?」
「…………」
転孤はゆっくり周囲へ目を向けた。
駅へ向かう会社員、店先で話している若者、犬を散歩させる老人。
先ほどまでと何一つ変わって見えない。
異能解放軍を示す旗や標章が掲げられているわけでもなければ、武装した人間が街角を監視しているわけでもない。
「……街って、どういう意味だよ」
「そのまんまだって。市長も地元の会社も、店やってる奴も、解放軍の関係者なんだって。全員かどうかまでは俺も知らねえけど、この辺じゃ俺らが歩いてても大して騒がれねえんだよ」
スピナーは特別な秘密を明かしている意識すらないらしく、あっけらかんと答えた。
転孤はすぐには言葉を返せなかった。
公安が把握していた異能解放軍は、デトネラットを含む複数の企業や組織に人員を送り込み、社会の中へ長い時間をかけて根を張っている集団だった。
だが、一つの都市そのものを実質的な勢力圏として抱えているなど聞いていない。
しかも、その街に敵連合までいる。
偶然爆豪を追ってきただけで、探していた情報が二つ同時に手へ入ったことになる。
敵連合の現在地。
異能解放軍の大規模な拠点。
(……とんでもねえ当たり引いたな)
爆豪を追跡していなければ、この街へ来ることすらなかった。
泥花市という名前も今日まで意識したことはなかったが、今や公安が欲しがっている情報の中心にある街だと判明した。
それだけでも十分過ぎる成果だった。
「でさ、お前あれからどうしてたんだよ? 急にいなくなったから、俺らもちょっと気になってたんだぜ」
スピナーが何の警戒もなく隣へ寄ってくる。
「まあ、お前が解放軍と繋いでくれた後だったし、こっちは結構助かって──」
「悪い、今それどころじゃねえ」
「あ?」
転孤はスマートフォンを見る。
爆豪のGPSは、既に高速道路の出口へかなり近づいていた。
ここが解放軍の勢力圏で、敵連合まで滞在しているとなれば、最優先で避けなければならないのは両者の接触だった。
「おい、スピナー。緑谷はどこだ、他のメンバーも」
「この時間なら、たぶんみんなホテルじゃねえかな」
「ホテル?」
「ああ。あれ」
スピナーは建物の隙間から見える、一際大きなホテルを指差した。
「俺ら、今あそこに部屋取ってもらってんだよ。夕飯終わってる時間だし、出掛けるって話も聞いてねえから部屋にいると思うぜ」
「他の連中も?」
「バラバラじゃねえかな。俺みてえに飲みに出てる奴もいるし、部屋にいる奴もいる。どうしたんだよ、急に」
「……そうか」
転孤がもう一度GPSを見ると、爆豪の端末は高速道路を降り、一般道へ入って泥花市へ向かい始めていた。
「クソ」
緑谷がホテルにいるなら、街中で偶然鉢合わせる可能性は多少下がる。
しかし目の前には、酒が入って普段以上に行動の読めない連合メンバーが一人いる。
まずはこいつからだ。
転孤はスマートフォンをポケットへ押し込み、焦りを隠すように表情を緩めた。
「……まあいいや。ここで会ったのもなんかの縁だろ。ちょっと飲もうぜ」
「お? なんだよ、さっきまで妙にピリピリしてたくせに」
「久しぶりなんだから付き合えよ。俺も聞きてえことあるし」
「おう、いいぜ!」
酒が入っていることもあって、スピナーはほとんど疑わなかった。
転孤は飲める店を探しているように振る舞いながら駅前の明るい通りを外れ、人通りの少ない裏道へ連れていく。
「こんなとこに店あんのか?」
「近道だよ。ちょっと待て」
「ふーん」
スピナーの視線が前へ向いている間に、転孤は鞄から未開封のペットボトルを取り出した。
その水へ、公安から非常用として持たされていた鎮静用の薬を混ぜる。
本来なら身元が割れかけた時や、任務中にどうしても対象を一時的に無力化しなければならない場合に使うものだった。
まさかこんな形で使うことになるとは思っていなかったが、今の状況では連合メンバーを一人でも自由に動けない状態にしておく意味は大きい。
「おい。まあ一旦これでも飲んで落ち着けよ。結構飲んでんだろ」
「おお、悪いな。今日は結構飲んじまって──」
言い切るより早く、スピナーは蓋を開けて一口飲んだ。
「……ん?」
間もなく身体が大きく揺れ、壁へ手を伸ばそうとしたところを転孤が支える。
「……なんか……急に酒、回って……」
「おいおい大丈夫か?」
「やべー……なんか立てないかも……悪いな誘ってくれたのに……」
泥酔したように力を失った身体をそのまま受け止め、壁際へゆっくり座らせる。
「ちょろ……こいつほんとに指名手配犯か」
呼吸を確認する、問題はない。
完全に意識を失ったわけではないらしく、何か聞き取れない言葉を小さく呟いているが、しばらくはまともに立つことも難しいだろう。
転孤は目立たない位置へ身体を移し、ポケットから落ちかけていたスマートフォンと財布も元へ戻した。
「悪く思うなよ。お前が今うろついてる方が困るんだ」
それだけ言って、自分のスマートフォンへ視線を戻す。
爆豪のGPSは既に泥花市の外縁へ入っていた。
「次は緑谷か……」
転孤は人目のない場所まで移動し、足元へ光輪を展開する。
そのまま一気に高度を上げると、スピナーが指差していたホテルはすぐに見つかった。
泥花市の中心部では明らかに目立つ建物で、周囲より頭一つ高く、夜の街の中でも窓明かりがよく見える。
転孤はホテルの裏手へ回り込み、屋上付近まで高度を落としたあと、人目につかない場所から地上へ降りた。
正面入口へ回って中へ入る。
ロビーは思っていた以上に立派だった。
広い吹き抜けに落ち着いた照明が灯り、フロントの奥では制服姿の従業員が数人働いている。
観光客らしい家族連れやスーツ姿の宿泊客も行き交っており、ここだけ見れば敵連合が泊まっているとは思えない。
「爆豪といい最近のガキはいい生活しやがって」
小さく愚痴りながらフロントへ向かう。
「あー、すみません」
「はい」
若い男性スタッフが丁寧に応じる。
「緑谷出久いるか?」
あまりにも直接的な聞き方だったせいか、スタッフが一瞬だけ目を瞬かせた。
「緑谷様、でございますか?」
「ああ。泊まってるだろ」
「少々お待ちください」
スタッフが端末を確認している間にも、転孤はスマートフォンへ視線を落とした。
爆豪の反応はさらに近づいている。
市内へ入るまで、もうほとんど時間がない。
「お待たせいたしました。緑谷様でしたら、現在外出しております」
転孤が顔を上げる。
「いつから?」
「申し訳ございません。お時間までは確認できませんが、現在お部屋にはいらっしゃらないようです」
思わず眉間を押さえた。
スピナーの話では、この時間ならホテルにいるはずだった。
確定情報ではなかったとはいえ、よりによって一番会わせたくない相手が外へ出ている。
「どこ行った?」
「申し訳ございませんが、外出先まではこちらでは把握しておりません」
「いや、なんか聞いてねえの? 飯とか、買い物とか」
「特には……」
考えてみれば当然だった。
ホテル側が宿泊客の外出先まで逐一把握しているはずもない。
「分かった、悪い。他の……渡我被身子とか、引石とか……」
「申し訳ありません、他の方々も外出しておられるようです。お呼び戻しをご希望でしたら、お部屋への伝言を──」
「いや、いい」
これ以上粘っても情報は出ない。
転孤はロビーを離れ、そのままホテルの外へ出た。
「クソ、どこ行きやがった……」
スピナーは止めた。
だが、緑谷の現在地は分からず、他の連合メンバーが街のどこにいるのかも把握できていない。
その状態で、爆豪はもうすぐ泥花市へ入ってくる。
転孤は人目の少ない建物脇へ回り、再び足元へ光輪を展開した。
身体が地面を離れ、ホテルの屋上よりさらに高い位置まで一気に上昇する。
街全体を見渡せる高度まで来たところでGPSを確認した。
「……もう入ってる」
爆豪の反応は、すでに泥花市へ入っていた。
眼下の幹線道路へ視線を落とすと、何台もの車が市街地へ向かって走っているのが見えた。
その中に、GPSの位置とほぼ一致する暗い色のセダンがあった。
転孤が目で追っている間にも、車は信号を抜け、街の中心部へ向かって進んでいる。
爆豪本人へ警告するわけにはいかない。
緑谷はどこにいるか分からない。
他の連合メンバーも街中に散っている可能性がある。
そして、この泥花市そのものが異能解放軍の勢力圏なのだとすれば、こちらが露骨に動けば、それだけで潜入している自分の立場まで危うくなる。
公安の人間としては願ってもない情報を掴んだ。
その一方で、爆豪の潜入任務にとっては、これ以上ないほど面倒な場所へ辿り着いてしまった。
転孤は上空に留まったまま額へ手を当て、眼下を進む車を見つめた。
「やべえ、どうしよう……」