間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

126 / 143
第126話 そういうことなんで

 少し離れた場所で両手を地面についたまま動かない転孤を見て、爆豪は眉間に皺を寄せた。

 

 何が起きたのかは分からない。

 突然現れたと思えば、自分と緑谷の顔を交互に見た直後に膝から崩れ落ち、挙げ句の果てには夜の歩道で天を仰ぐように叫び始めたのだから、どう考えても尋常な状態ではなかった。

 

「志村さん?」

 

 道路の向こうから緑谷も心配そうに声を掛けるが、転孤は俯いたまま肩を震わせているだけで返事をしない。

 

 爆豪は面倒そうに舌打ちすると、手に持っていたコンビニの袋を持ち直し、そのまま道路を渡った。

 

「大丈夫っすか」

 

「──爆豪!!」

 

「うおっ!?」

 

 目の前まで近づいた瞬間、転孤が弾かれたように立ち上がった。

 

 あまりの勢いに爆豪が反射的に一歩退こうとしたものの、それより先に肩を掴まれ、そのまま強引に身体を引き寄せられる。

 

「ちょ、何──」

 

「今どんな状況だ!? 緑谷出久と何を話した!!」

 

 耳元で捲し立てられ、爆豪は露骨に顔を顰めた。

 

 転孤は爆豪の肩を抱き寄せながら、緑谷から表情を見られないよう僅かに身体の向きを変えている。

 最後の問いだけは周囲へ聞こえない程度まで声を落としていたが、その顔には余裕など欠片もなかった。

 

 額には汗が浮かび、目は血走っている。

 東京から何時間も飛び続けた疲労と、自分が必死に防ごうとしていた事態が目の前で起きている焦燥が混ざり合い、今にも爆豪の胸倉を掴みかねない鬼気迫る表情になっていた。

 

「さっき、コンビニ前で偶然会ったんす。それで、まあ……色々話して」

 

「色々ってなんだ。まさかお前……色々ぶっちゃけちまった訳じゃねえよな」

 

 転孤がそう尋ねた瞬間、爆豪の口が止まった。

 

 ほんの一瞬、視線が僅かに逸れただけだったが、転孤にはそれで十分だった。

 さっきまで面倒そうに返していた言葉が途切れたことで、その顔からみるみる血の気が引いていく。

 

「……おい。何で黙るんだよ」

 

 返事はない。

 

 転孤は爆豪の肩を掴んでいた手に思わず力を込め、顔をさらに近づけた。

 

「どこまで話した!? デトネラットか!? 公安か!? 俺のことまで言ってねえだろうな!?」

 

「近ぇっすよ。そこまでは言ってねえっす」

 

「“そこまで”って言ったな今!? じゃあどこまでは言ったんだよ!」

 

 爆豪は露骨に面倒そうな顔をしたものの、完全には否定できない自覚があるのか、すぐには言い返さなかった。

 

 その反応が余計にまずかった。

 

 ここまで何週間も掛けて信用を積み上げ、爆豪自身もようやく潜入というものに慣れてきたところだった。

 四ツ橋がどこまで疑っているのかも分からず、解放軍の内部構造すらまだ掴み切れていない。

 そんな状況で敵連合の中心人物と偶然再会し、任務に関する何かを漏らしたというなら、冗談では済まない。

 

 しかも相手は緑谷出久だ。

 

 ただのヴィランなら、まだ誤魔化せたかもしれない。

 だが爆豪を幼い頃から知り、癖も性格も、何に執着して何だけは譲らないのかまで知っている人間を相手に、付け焼き刃の嘘を重ねれば逆に怪しまれる可能性の方が高い。

 

 転孤が頭を抱えかけた、その時だった。

 

「あのー」

 

 背後から控えめな声が飛んできて、転孤の肩がびくりと跳ねた。

 

「僕、帰った方が良いですか?」

 

 爆豪と転孤が揃って振り返る。

 

 いつの間にか緑谷は先ほどより近い位置まで歩いてきており、二人が顔を寄せて話し込んでいるのを見て、少し困ったように首を傾げていた。

 

 転孤は数秒だけ固まった後、口元を無理やり持ち上げる。

 

「よ、よお緑谷! 久しぶりダナー!」

 

 爆豪の眉がぴくりと動いた。

 

 緑谷も目を瞬く。

 

「……久しぶりです、志村さん」

 

「ウンウン! 久しぶり久しぶり! 元気そうで何よりダなあ!」

 

「はあ」

 

 明らかにおかしい。

 

 自分でも分かっている。

 それでも、どう直せば自然になるのか分からない。

 

 転孤は頬を引き攣らせたまま、爆豪と緑谷を交互に見た。

 

「そ、それにしても二人は幼馴染なのかナ? へえー、偶然だナー。それで、何を話してたんダ?」

 

 横から向けられる爆豪の冷たい視線を無視して尋ねると、今度は緑谷が僅かに首を傾げた。

 

「何って……かっちゃんがデトネラットの裏稼業を調べに来たっていう話までは聞きましたけど」

 

 転孤の笑顔が、その形のまま固まった。

 

「デトネラットの……裏稼業?」

 

「はい。ヴィラン相手にサポートアイテムを流してる可能性があるから、それを調べてるって。それで解放軍についても調べてるって聞きました。僕らも今、向こうから誘われてるところなので、ちょうど情報交換みたいになって」

 

「情報交換……」

 

 転孤の口から、魂でも抜けるような声が漏れた。

 

 何週間も慎重に積み上げてきた信用が脳裏を過ぎる。

 四ツ橋から疑われないよう振る舞い、公安へ上げる情報も必要なものだけに絞り、爆豪の正体が悟られないよう東京から愛知まで何時間も飛んできた。

 

 その結果、当の本人は敵連合の中心人物とコンビニ前で立ち話をしながら、自分の調査対象を説明していたらしい。

 しかも相手も相手で、解放軍側の情報を返している。

 

 転孤の中で、潜入捜査という言葉の意味が急速に分からなくなっていった。

 

「……あの」

 

 そんな転孤の様子を見ながら、緑谷は少し考えるように目を細めた。

 

「志村さんもスパイなんですか?」

 

「きゃー!!」

 

 夜の街に、甲高い悲鳴が響いた。

 転孤は両手で頭を抱えると、その場で思い切り身を屈め、そのまましゃがみ込んだ。

 

 爆豪はそんな転孤を横から見下ろし、さすがに少し引いたように眉を寄せる。

 

「あの……騒いじゃまずくねえっすか?」

 

「…………」

 

 転孤の動きが止まった。

 

 爆豪はホテルの方へ顎を向ける。

 

「四ツ橋、そろそろ戻ってくるんじゃねえすか」

 

 その言葉に、転孤はゆっくり顔を上げた。

 

 そうだった。

 

 今はコンビニ前で潜入捜査官二人と、敵連合の緑谷出久が三人揃っている。

 それだけでも十分まずいのに、自分はたった今、「スパイ」という単語に反応して盛大な悲鳴を上げた。

 

「誰のせいだと思ってんだよ、クソ」

 

 吐き捨てるように言いながら立ち上がった転孤は、まだ頭痛でも残っているかのように片手でこめかみを押さえ、そのままホテルの方へ何気なく視線を向けた。

 

 ガラス張りのロビー、その自動扉の向こうに見覚えのある姿がある。

 

 つい先ほどまで中にいたはずの四ツ橋が、誰かに軽く会釈をしながらこちらへ歩いてきていた。

 あと十数秒もすれば自動扉を抜け、正面玄関前からこちらを見渡せる位置まで来るだろう。

 

「……あ」

 

 転孤の掠れた声に、爆豪と緑谷もホテルへ目を向けた。

 

「帰ってきたみたいですね」

 

「帰ってきたみたいですね、じゃねえよ!」

 

 反射的に緑谷の肩を掴みかけ、転孤は直前で思いとどまる。

 ここで三人揃って慌て始めれば、それこそ離れた場所から見ても不自然極まりない。

 

 何より四ツ橋は、爆豪がどのような反応をするのか確かめるため、わざわざ泥花市まで連れてきた可能性が高い。

 その爆豪が緑谷出久と並び、自分までその場にいる。

 

 最悪だった。

 

「とにかく!」

 

 転孤は二人へ向き直ると、声量を限界まで落としながら、これ以上ないほど真剣な顔で指を突きつけた。

 

「後で連絡するから、余計なことをこれ以上するんじゃねえぞ!」

 

「余計なことって何ですか?」

 

「全部だよ! お前もだ爆豪。もう喋るな、何も足すな、話を広げるな。俺がいない間に新しい共同戦線とか作るんじゃねえぞ!」

 

「作るつもりねえっすよ」

 

「さっき出来てただろうが!」

 

「俺が作ったわけじゃねえ!」

 

「同じだ!」

 

 最後まで言い切ると、転孤はもう時間がないと判断したらしく、地面へ軽く重心を落とした。

 次の瞬間には両足の下へ淡い光の輪が浮かび上がる。

 

「また今度な、緑谷! 爆豪、マジで後で連絡するからな!」

 

「分かったっすよ」

 

「絶対だからな!」

 

 念押しを残し、転孤の身体が一気に宙へ浮かび上がる。

 

 街灯の高さを越えたところで身体を傾け、そのまま建物の陰へ滑り込むように飛び去っていった。

 長時間飛び続けて疲労しているはずなのに、離脱だけは異様なほど速い。

 

 緑谷はしばらく夜空を見上げた後、隣に立つ爆豪へ視線を向けた。

 

「……忙しそうだね、志村さん」

 

「テメェらのせいだろ」

 

 

 

 

 

 ──

 

 場面は変わり、ホテルの一室。

 

 出久の部屋には、連合の面々が集まっていた。

 

 麗日はベッドの端に腰掛け、スピナーはソファへ深く身体を沈めながら、まだ完全には目が覚めていないらしく何度も目元を擦っている。

 ラブラバはノートパソコンへ向かって一心不乱に指を走らせ、その様子をジェントルが興味深そうに眺めていた。

 

 一方で、マグネとコンプレスは何があったのか、揃って見るからに機嫌が悪い。

 

 そんな部屋の空気を一通り見回した出久は、皆が揃っていることを確認すると、少し申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「夜遅くに集まってもらってごめんね。今日は紹介したい人がいるんだ」

 

 マグネが不機嫌そうなまま片眉を上げ、コンプレスも腕を組んだまま出久を見る。

 ソファへ沈んでいたスピナーも眠そうに顔を上げ、ラブラバはキーボードを叩いていた指を一度だけ止めた。

 

 まるで出久が切り出すのを待っていたかのように、その時ちょうど部屋の扉が開いた。

 

「壊理ちゃんなら寝かしつけて来たぜ! 完璧な寝かしつけだった! 全然寝てくれなかった!」

 

 最初に姿を現したのはトゥワイスだった。

 

「どっちなの?」

 

「最後は寝たから完璧だ!」

 

 いつも通り一人で肯定と否定を繰り返しながら部屋へ入ってきたトゥワイスに、出久が小さく笑う。

 

「ありがとう」

 

「任せろ! ガキの御守なんざ二度とごめんだぜ!」

 

 そして、その後ろからもう一人が姿を見せた。

 

 爆豪だった。

 

 部屋へ一歩入った途端、そこにいた全員の視線が一斉に自分へ向いたことで、爆豪の足が僅かに止まる。

 敵連合の拠点へ単身乗り込んだ時ですら怯まなかった男が、今ばかりは明らかに居心地の悪そうな顔をしていた。

 

「……ども」

 

 とりあえず口から出た言葉がそれだった。

 

「今日から解放軍に加わった爆豪勝己、かっちゃん。僕の幼馴染だよ」

 

 出久があまりにも平然と紹介したため、部屋の中に一瞬だけ奇妙な沈黙が落ちた。

 

 爆豪は露骨に顔を顰めたものの、何か言い返すより先に、ソファへ沈んでいたスピナーが眠気の残っていた目を見開く。

 

 敵連合と敵対してきた雄英の生徒、それもよりによって爆豪勝己が解放軍に加わり、その本人が今こうして出久の部屋にまで連れて来られている。

 考えるまでもなく、疑うべきことは一つしかなかった。

 

「いや待て、そいつ絶対スパ──」

 

 最後まで言わせず、出久が素早くスピナーの口を塞いだ。

 

「むぐっ!?」

 

 突然口を押さえられたスピナーは目を剥き、抗議するように出久の腕を掴んだが、出久は離そうとしない。

 本人としてもスピナーの疑念を否定するつもりはないらしく、分かっているから今は黙っていてほしい、とでもいう顔をしている。

 

 その間にもラブラバはノートパソコンへ視線を戻し、いくつものウィンドウを慌ただしく切り替えていた。

 廊下やホテル周辺の監視映像を確認しながら、部屋の中にいる人間の位置まで細かく見比べている。

 

「ちょっと待って。今、人が増えた分だけ見え方を調整してるから」

 

 ラブラバはジェントルに照明を少し落とすよう頼み、マグネとコンプレスには座る位置を僅かに変えるよう指示した。

 爆豪についてはしばらく考えた末、壁際に立たせたままの方が自然だと判断したらしい。

 

「そのまま不機嫌そうにしてて。夜中の集まりに無理やり付き合わされてる男子に見えるから」

 

「誰がそんな役だ」

 

「今の顔なら完璧よ」

 

 爆豪の眉間にさらに皺が寄ったが、その反応すらラブラバにとっては都合が良いようで、彼女は満足そうに頷いた。

 

 しばらく画面を確認した後、ラブラバはようやく椅子の背にもたれ、大きく息を吐く。

 

「オッケー、もう大丈夫! 今私達は、深夜の恋バナに花を咲かせているようにしか見えないわ!」

 

 自信満々に宣言された内容と、実際に一室へ集まっている面子の物騒さがまるで釣り合っていない。

 

 爆豪は心底嫌そうな顔をしたが、出久はラブラバの言葉を信じたらしく、そこでようやくスピナーの口から手を離した。

 

「ぷはっ……何すんだよ!」

 

 解放されたスピナーは勢いよく息を吸い込み、出久を睨みつける。

 

「僕らは監視されてるんだ。コンビニの前ならともかく、ここじゃまともに話せない」

 

 出久はラブラバのノートパソコンへ視線を向けながら説明した。

 

「解放軍に?」

 

「多分ね。最近ようやく『電波』を使いこなせてきてね、無線機器なら大体自動で察知出来るんだ」

 

 部屋に集まった面々も、その言葉には少しだけ緊張感を増した。

 マグネとコンプレスは先ほどからの不機嫌さを残したままではあったものの、少しだけ周囲へ意識を向け、トガもラブラバの画面を覗き込んでいる。

 

 爆豪だけは壁際で腕を組みながら、何とも言えない表情で出久を見ていた。

 

 やがてラブラバがもう一度画面を確かめ、小さく頷いた。

 

「今なら平気。映像だけ見れば、ただ集まって駄弁ってるようにしか見えないし、音もある程度はこっちで誤魔化せる。さすがに大声出されたら困るけど、普通に話すくらいなら大丈夫よ」

 

 それを聞いたスピナーは一度咳払いをすると、今度は先ほどより明らかに声量を落としながら爆豪を指さした。

 

「じゃあ改めて聞くけどよ。こいつ、スパイだろ」

 

「そうだよ。デトネラット、ひいては解放軍を調べていたみたいだね」

 

 出久は事も無げに認めた。

 

 スピナーは数秒、言葉を失ったまま爆豪と出久を交互に見る。

 どう考えてもそこは否定する場面だったはずなのに、本人があっさり認めたせいで、怒るべきなのか呆れるべきなのかすら分からなくなったらしい。

 

「……だったら、なんでそんな奴連れてきたんだ!」

 

 思わず声が大きくなり、ラブラバから即座に鋭い視線が飛んでくる。

 スピナーは慌てて音量を落としたものの、その顔に浮かんだ疑念までは消えない。

 

「スパイなんだろ? 解放軍の中探ってるってことは、そいつ完全にヒーロー側じゃねえか。何でそんな奴をわざわざここまで連れてきて、俺らの前に座らせてんだよ」

 

 爆豪は否定も弁解もしなかった。

 もともと出久には完全にバレている。

 

 対する出久は、スピナーの警戒心を当然のものとして受け止めているらしく、少し考えるように視線を落とした後、まるで話題を一つ先へ進めるような調子で口を開いた。

 

「僕も解放軍を潰そうと思うんだ」

 

「…………は?」

 

 今度こそスピナーの思考が止まった。

 

 ついさっきまで「何でスパイを連れてきた」と怒っていたのに、その返答として出てきたのが、自分も同じ組織を潰すという宣言だったのだから話の繋がりが見えない。

 

「いや待て。何でそうなる」

 

「今日かっちゃんと話してて、改めて思ったんだよ。解放軍の考え方って、分かるところもあるけど、このまま放っておくのはまずいなって」

 

 出久は特に気負うこともなく説明を始めた。

 

 個性を自由に使いたいという主張そのものは理解できる。

 現在の社会から零れ落ちた人間がいることも、それを救えていない制度に問題があることも分かっている。

 

 けれど、そこから「だから誰もが好きに個性を使っていい」というところまで進んでしまえば、結局は強い個性を持つ人間ほど大きな自由を持つことになる。

 

「今より困る人が増えると思う。僕はそれが嫌だから、解放軍は潰した方がいいと思ってる」

 

 説明を終えた出久は、ごく自然にそう結論づけた。

 

 スピナーは完全に呆気に取られていた。

 

 しかし、その横でトガは特に驚いた様子もなく「あ、そうなんですね」と軽く頷いただけだった。

 麗日も似たようなもので、少し考えた後に「そっかぁ」と受け入れている。

 

「おい、お前ら本気か!?」

 

 そのあまりにも軽い反応に、スピナーはとうとう身を乗り出した。

 

 自分だけが異常な話を聞かされているような気分だった。

 解放軍が胡散臭いことくらい分かっているし、自分たちを歓待する態度の裏に何かしらの思惑があることも疑っていない。

 それでも、彼らが用意したホテルに泊まり、まともな食事を与えられ、追われ続けてきた生活から一転して穏やかな日々を送れているのもまた事実だった。

 

 それを出久が「潰す」と言った途端、トガも麗日も大して驚かず受け入れてしまったのだから、スピナーとしてはたまったものではない。

 

「いや、だってさ! ここ、普通にいい街だろ!? 飯はうまいし、寝る場所はちゃんとしてるし、外歩いてても誰も俺ら追いかけ回さねえし!」

 

 途中で声を抑えなければならないことを思い出し、慌てて音量だけは落としたものの、言葉の勢いまでは止まらなかった。

 

 泥花市へ来てからというもの、まともなベッドで眠れて、腹いっぱい飯を食え、シャワーを捻れば温かい湯が出る。

 何より、夜になれば誰かがドアを蹴破って踏み込んでくるかもしれないと身構えながら眠る必要がない。

 

 外へ出れば店があり、金さえあれば普通に物を買える。

 

 そしてスピナー自身にとっては、それ以上に大きなことがあった。

 

 異形型である自分を見ても、露骨に顔を顰めたり、距離を取ったりする人間が少ない。

 解放軍の思想が根付いた街だからこそなのかもしれないが、それでも今までいた場所よりずっと息がしやすかった。

 

 自分のような人間を受け入れる場所が、少なくともここにはある。

 

 その事実まで否定する気にはなれなかった。

 

「そりゃ、あいつらが何か企んでんのは分かるけどよ。だからって、いきなり潰すとか……」

 

 そこまで言って、スピナーは出久を見る。

 

 そして、言葉が少しずつ萎んでいった。

 

 出久は怒っているわけでも、気負っているわけでもない。

 声を荒らげることもなければ、目に殺気を浮かべているわけでもなかった。

 

 ただ、もう決めてしまった人間の顔をしていた。

 

 その表情には見覚えがある。

 

 壊理を大阪へ連れていくと決めた時も、確かこんな顔をしていた。

 

 あの時もそうだった。

 危険かどうか、相手がどれだけ大きな組織なのか、そんなことを考える頃にはもう遅い。

 出久の中では、とっくに「連れていく」と決まっていた。

 

 結局その後は八斎會と敵対し、打ち破った。

 

 今回も同じなのだろう。

 

 解放軍がどれだけ大きいのか、泥花市にどれだけ深く根を張っているのか、今後どんな危険が待っているのか。

 それを知ったところで、出久が判断を変えるとは思えない。

 

 スピナーは長く息を吐き、ソファへ深く背中を預けた。

 

 スピナーは天井を見上げながら、この街へ来てからの生活をもう一度思い返した。

 まともな寝床も、毎日出てくる飯も、好きな時に外を歩けることも、全部手放すことになるかもしれない。

 

 正直なところ、かなり惜しい。

 

「……ここ、結構気に入ってたんだけどな」

 

 ぼそりと漏らすと、近くにいたトガが楽しそうに顔を覗き込んできた。

 

「私もですよ。ご飯美味しいですし」

 

「はああ……」

 

 麗日も同じように考えているのか、少し困ったように笑った。

 

「……お前らなあ」

 

 呆れた声を漏らしながら、スピナーはもう一度出久を見る。

 

 出久は急かさなかった。

 

 自分はやると決めている。

 それでもスピナーにまで同じ選択を強いるつもりはなく、嫌なら残っても構わないと本気で思っているのだろう。

 

 だからこそ、放っておく方が難しい。

 

 泥花市は気に入っていた。

 解放軍の思想の中に、自分が救われる部分があることも否定できない。

 

 それでも、自分がここまで来たのは解放軍に救われるためではない。

 

「……分かったよ」

 

 スピナーは諦めたように息を吐き、僅かに肩を落とした。

 

「しょうがねえな、緑谷は」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。