泥花市での滞在にも、ある程度の慣れが出始めていた。
出久はホテルの部屋でベッド脇の椅子に腰掛け、何となくつけたままにしていたテレビを眺めていた。
連合の面々はそれぞれ別の部屋や外へ出ており、珍しく一人で過ごす時間だった。
昼のニュース番組では、ヒーロー関連の話題が取り上げられている。
『ヒーロービルボードチャートJP、下半期発表から数ヶ月。新たにナンバーワンヒーローとなったエンデヴァーですが、ここ最近、その事件解決率がやや下降傾向にあることが分かりました』
画面の端には就任以降の推移を示したグラフが表示されていたが、別に順位が落ちたわけではなく、事件解決数そのものも依然として日本一を維持している。
活動量にも目立った変化は見られず、以前と比べて僅かに取りこぼす事件が増えているというのが、今回の報道の趣旨らしかった。
『もっとも、事件解決数そのものは現在も国内最多であり、その実績が群を抜いていることに変わりはありません。この点について、御本人はどのようにお考えなのでしょうか』
画面が切り替わり、報道陣に囲まれたエンデヴァー本人が映し出される。
炎の髭を纏ったその顔には、以前ならまず見せなかったであろう、どこか困ったような表情が浮かんでいた。
『エンデヴァーさん、ナンバーワン就任後、事件解決率がやや低下していることについて、どのように受け止めていますか?』
差し出されたマイクを前に、エンデヴァーは一度だけ視線を落とした。
苛立ちを堪えているというより、どう答えるべきか慎重に言葉を選んでいるようで、やがて顔を上げると、低い声でゆっくりと答え始めた。
『結果は、真摯に受け止めている』
『おっしゃる通り、まだナンバーワンとして十分な結果を出せているとは考えていない。これまで以上に一件一件の事件と向き合い、改善すべき点は改善していきたいと思う』
その回答を受け、今度は別の記者がマイクを向けた。
『オールマイト引退後、その後を継ぐ存在として今後もっとも重視することは?』
エンデヴァーの眉が僅かに寄ったものの、それもほんの一瞬のことで、すぐに先ほどまでの落ち着いた表情へ戻った。
『偉大なオールマイトが残した平和を守っていきたいと考えている』
感情を大きく表に出すことなく、無難な言葉を選ぶように続ける。
『俺に彼と同じことができるとは思っていない。しかし、これまで彼が築いてきたものを崩さぬよう、自分にできる形で責任を果たしていきたい』
その受け答えを眺めながら、出久は何となく首を傾げた。
「……エンデヴァーも丸くなったなぁ」
昔からヒーロー関連のニュースは欠かさず見ていたし、エンデヴァーの記者会見にも何度となく目を通してきた。
以前の彼なら、事件解決率の低下を指摘された時点で露骨に不機嫌になっていてもおかしくなかったし、オールマイトについて尋ねられれば、もっと対抗心を剥き出しにした回答をしていただろう。
ところが、今のエンデヴァーは違った。
質問には一つずつ丁寧に答え、必要とあれば自分の至らなさも認める。
かつての険しい態度は随分と影を潜め、少なくともテレビ越しに見る限り、ナンバーワンヒーローという立場に相応しい振る舞いを身につけようとしているらしい。
もっとも、それが本人にとって望ましい変化なのかどうかは、出久には分からなかった。
以前のエンデヴァーは、良くも悪くもオールマイトを追いかけることしか考えていないような人だった。
そこにあった執念や対抗心が薄れたのだとすれば、それはそれで少し寂しい気もするが、だからといって昔の方が良かったとも思わない。
「まあ、ナンバーワンだもんね」
誰に聞かせるでもなく呟き、出久はリモコンを手に取った。
ニュース番組は既に別の話題へ移っており、今度は景気動向について専門家が解説を始めている。
特に興味を引かれる内容でもなかったため、何となくチャンネルを切り替えたところ、そこにもエンデヴァーがいた。
「……あれ?」
思わず声が漏れる。
先ほどの記者会見とは違い、画面に映っているのは明るい照明に照らされたテレビスタジオだった。
色とりどりのセットを背景に数人の出演者が並んで座り、その中央付近には、濃紺のスーツを着たエンデヴァーが随分と窮屈そうに収まっている。
炎の髭は消しているらしく、普段よりも顔立ちがはっきりと見えた。
『本日のコメンテーターはお馴染み、フレイムヒーロー、エンデヴァーです!』
司会者の男性が大袈裟に両手を広げると、スタジオから笑い声が上がった。
『よろしく頼む』
次々と振られる話題に対し、エンデヴァーは落ち着いた様子で受け答えをしていた。
ヒーロー活動についての質問には真摯に答え、私生活に関する話題にも必要以上に身構えることなく応じている。
時折、司会者の冗談にウィットの利いた返しをしてスタジオの笑いを誘うことさえあり、その自然な振る舞いは、以前の彼を知る出久からすれば少々信じ難いものだった。
無理に愛想を振りまいているわけでも、周囲に合わせて大袈裟に笑っているわけでもない。
元来の生真面目さや威厳を失わないまま、テレビという場で求められる振る舞いを心得ているようだった。
「……最近路線変更したんだよなぁ。硬派な前のエンデヴァーの方が僕は好きだったけど」
テレビを切ろうと、電源ボタンへ親指を移動させた。
そもそも、今の自分がヒーローのテレビ出演を熱心に追いかけていても仕方がない。
そう思って電源を切ろうとした、ちょうどその時だった。
番組が次の話題へ移り、画面の端に表示されていた小さな予告が切り替わった。
『アメリカ軍司令官アグパー氏、来日へ!』
「…………ん?」
出久の指が止まった。
画面にはアメリカの国旗と軍服姿の男性の写真が並んでおり、報道によれば、アメリカ軍のアグパー司令官が近日中に日本を訪問する予定だという。
日米間の安全保障協力に関する意見交換のほか、国内で予定されている複数の交流行事への出席も調整されているらしい。
出久はリモコンを握ったまま、少しだけ姿勢を正した。
アグパーという名前には聞き覚えがあった。アメリカ軍の高官であり、現地のヒーロー活動とも関係が深い人物で、海外のヒーロー事情まで調べていた出久にとっては、まったく知らない相手というわけではない。
もっとも、アメリカ軍の司令官が日本へ来ること自体は、それほど珍しい話でもなかった。
日米間には安全保障上の協力関係があり、軍関係者の訪問や会談も定期的に行われているのだから、今回もその一環だと言われれば特別に不審なところはない。
ただ、アグパーという人物について考えているうちに、出久の頭には一つの可能性が浮かんでいた。
アメリカ軍とヒーローの関係は、日本とは少し事情が異なる。
特にアグパーは、アメリカのトップヒーローとも関わりが深いことで知られており、もし彼が日本へ来るのなら、あるいはその人物も同行するのではないか。
そこまで考えたところで、出久は自分の想像に苦笑した。
「……いや、まさかね」
アメリカ軍の司令官が来日するからといって、わざわざアメリカのナンバーワンヒーローまで連れてくる理由はない。
まして、あちらの治安維持において重要な役割を担っている人物なのだから、単なる外交行事に同行するとは考えにくかった。
そもそも、仮にそんな大物が来日するのであれば、司令官の訪問よりもよほど大きなニュースになっているだろう。
出久はそう結論づけると、今度こそリモコンの電源ボタンを押した。
画面が暗くなり、先ほどまで賑やかだった室内に静けさが戻ってくる。
窓の外には昼下がりの泥花市が広がっていた。
ホテルの高層階から見下ろす街並みは、数日前に訪れたばかりの頃と変わらず整然としており、道路を行き交う車や歩道を歩く人々の姿も、ここからでは随分と小さく見える。
出久は椅子の背もたれへ身体を預け、テーブルに置いていたスマートフォンを取り上げた。
異能解放軍の幹部会議については、まだ正式な日時と場所が伝えられていない。
四ツ橋からの招待そのものは受けているものの、具体的な案内が届くまではこちらから大きく動くわけにもいかず、爆豪に頼まれた情報の共有も、今のところは保留になっていた。
とはいえ、準備できることが何もないわけではない。
これまでに把握した幹部の名前や所属企業、泥花市内における解放軍の活動状況など、調べ直しておきたいことはいくらでもあったし、会議当日に何が起こるかを考えれば、できるだけ多くの情報を揃えておくに越したことはない。
そうしてスマートフォンの画面を眺めているうちに、いつの間にか数十分ほどが過ぎていた。
不意に、部屋の扉が控えめに叩かれた。
コン、コン。
小さく、どこか遠慮がちな音に顔を上げた出久は、スマートフォンをテーブルへ置いた。
「はーい」
返事をして立ち上がり、扉へ向かう。
「デクくん、いますか?」
扉の向こうから聞こえてきたのはトガヒミコの声だった。
「いるよ。ちょっと待ってね」
そう答えながら、出久はふと、最近のトガが部屋に入ってくる前に必ずノックをするようになったことを思い出した。
以前はそんなことなど気にせず、扉が開いていれば勝手に入ってきたし、鍵が掛かっていなければ返事を待たずに顔を覗かせることも珍しくなかった。
大阪にいた頃はこちらが着替えていようが眠っていようがお構いなしで、何度か驚かされた覚えもある。
ところが、あの日を境に、その振る舞いが少し変わっていた。
自分の血を吸わせてから、だったと思う。
別に、あの時に部屋へ入る際の礼儀について話したわけではないし、トガに何かを約束させたり、今までの振る舞いを咎めたりした覚えもなかった。
それなのに、最近はこうして扉の前で待っていてくれる。
血を吸わせたことで何か心境の変化でもあったのか、それとも単純にホテルという場所に気を遣っているだけなのか。
出久にはよく分からなかったが、少なくとも以前より遠慮するようになったのは確からしい。
もっとも、トガヒミコが遠慮するというのも、それはそれで少し妙な話だった。
「お待たせ」
そんなことを考えながら扉を開けると、そこには見慣れた制服姿の少女が立っており、出久の顔を見るなり、ぱっと表情を明るくした。
「デクくん! こんにちは!」
「うん、こんにちは。どうしかしたの?」
「うん……はい。ちょっと、デクくんにお願いが、あって」
「お願い?」
出久が聞き返すと、トガはこくりと頷いたものの、そこからなかなか言葉が続かなかった。
背中に回していた両手を身体の前へ持ってきたかと思えば、今度は指先を絡め合わせ、何かを言いかけては口を閉じてしまう。
普段は思ったことを遠慮なく口にする彼女にしては随分と珍しい反応で、出久が不思議に思いながら待っていると、トガは一度だけ大きく息を吸った。
「あのですね、デクくん。その……また、血を貰っても良いですか?」
「血?」
「はいっ!」
勢いよく頷いたトガだったが、出久が首を傾げた途端、何故か慌てたように両手を振り始めた。
「ほ、ほら! デクくんの計画には、やっぱりデクくんになれると便利ですから! いざという時に足りなくなったら困っちゃいますから!」
随分と早口だったが、言っていること自体は理解できる。
トガの個性で出久の姿に変身できれば、解放軍との交渉や今後の作戦において役立つ場面もあるだろうし、実際、出久も彼女の能力を計画に組み込む可能性については考えていた。
ただ、それなら最初からそう言えばいいだけの話で、どうしてそこまで慌てて説明する必要があるのかは分からない。
「うん。いいよ?」
出久が身体を横へずらすと、トガはおずおずと室内へ足を踏み入れた。
以前なら招かれるより先に入り込み、部屋の中を見回したり、ベッドへ飛び込んだりしているところだが、最近は随分と行儀がいい。
出久が扉を閉める間も、彼女は入口から数歩進んだところで立ち止まり、どこにいればいいのか分からないとでもいうように視線を彷徨わせていた。
「適当に座ってていいよ」
「はい。じゃあ……ベッド、でも?」
「ん? いいよ」
トガはベッドの端を指差して確認すると、スカートの裾を軽く押さえながら、ちょこんと腰を下ろした。
膝を揃え、両手をその上に置いて出久がこちらへ来るのを待っている姿は、普段の彼女からすると随分と大人しい。
出久はテーブルの上に置いてあったスマートフォンを片付けながら、ふと気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、今日も直接吸うの?」
「……」
「いや、今後のために蓄えておくなら、器具を使った方がいいんじゃないかなって。直接だと、その場で吸った分しか使えないでしょ?」
トガの個性は、摂取した血液の量によって変身を維持できる時間が変わる。
今後の計画で出久の姿を利用するつもりなら、必要な時まで血液を保管しておいた方が都合がいいはずだった。
もちろん、血液の保存にはそれなりの注意が必要になるが、少なくとも今ここで全て飲んでしまうより、使い道の幅は広がるだろう。
そう考えて尋ねた出久だったが、トガは返事をする代わりに、膝の上に置いていた鞄をごそごそと探り始めた。
「……?」
何をしているのだろうと見守っていると、彼女は中から見覚えのある注射器型の器具を取り出した。
血液を採取するために普段から持ち歩いている道具で、トガはそれを両手で持ったまま少し迷うような素振りを見せてから、ベッド脇のテーブルへことりと置いた。
「……持ってきてたんだ」
「はい……」
「じゃあ、ちょうどよかったね。それを使おうか」
出久がそう言うと、トガは小さく頷いた。
ところが、器具へ手を伸ばす様子はなく、それどころか膝の上で指先を絡め合わせ、落ち着かない様子で身体を揺らし始める。
何かを言いたそうに口を開いては閉じ、ちらちらとこちらを窺うばかりで、なかなか次の行動へ移ろうとしない。
「……トガさん?」
「……あの」
「うん?」
呼びかけると、トガはようやく顔を上げた。
頬は先ほどよりも赤くなっており、いつものように屈託なく笑うこともできていない。
しばらく出久の顔を見つめた後、彼女は膝の上で両手をぎゅっと握り締め、恥ずかしそうに視線を伏せた。
「……直接も、吸いたい……」
「え?」
「その……器具で貰うのも、ちゃんとします。デクくんの計画に必要ですし、私もそうした方がいいって思うんですけど……」
そこまで言って、トガは一度言葉を切った。
それから、恐る恐る顔を上げる。
「……直接も吸いたいのです。……いぃ?」
出久は少し考えてから頷いた。
「……うん。まあ、そこまで言うなら」
「ただし、ちょっとだけだよ? この後で器具を使って採る分もあるんだから、あんまり吸われると困るし」
「はいっ! ちょっとだけです!」
「うん。それじゃあ……」
出久はトガの隣へ腰を下ろし、いつものようにシャツの袖を捲ろうとした。
ところが、その手が肘の辺りへ掛かった瞬間だった。
「首! 首筋から!」
「えっ!?」
あまりにも食い気味な声だったので、出久は思わず手を止めた。
見れば、トガはベッドから身を乗り出し、こちらをじっと見つめている。
先ほどまでの遠慮がちな様子はどこへやら、今にも立ち上がりそうな勢いで、何故か妙に真剣な顔をしていた。
「く、首?」
「はい! 首がいいです!」
「ええ……? 痛そうなんだけど」
出久は思わず自分の首筋へ手を当てた。
腕から吸わせるつもりでいたので、突然そんなことを言われても困ってしまう。
首筋となると太い血管も通っているし、何より腕と違って傷の様子を確認しにくい。
できれば避けたい場所なのだが、トガはどうしても譲る気がなさそうだった。
「……何で?」
「えっ」
「いや、別に首じゃなくても血は吸えるよね? それとも、もしかして……」
そこで出久は、ふと思い至った。
考えてみれば、トガの個性についてはまだ分かっていないことも多い。
血液を摂取することで対象の姿へ変身できるという基本的な性質は理解しているものの、採血する部位や摂取方法によって効果に差が生じるのかどうかまでは、詳しく検証したことがなかった。
もし彼女が首筋に拘るのだとすれば、そこには何らかの理由があるのかもしれない。
「吸う場所によって、個性の効果が変わったりするのかな?」
「…………」
「例えば、変身できる時間が長くなったり、再現の精度が上がったり……いや、でもそれなら血液の成分自体に違いがあるってことになるのかな。静脈血と動脈血で何か変わる可能性も……」
出久が考え込みながら呟いていると、トガは何故か目を逸らし、ゆっくりと斜め上を見上げた。
「……ウン、ソーデス」
「やっぱり!」
出久はぱっと顔を上げた。
「そうなんだ! 知らなかったなぁ。そういうことなら、ちゃんと調べておいた方がいいかもしれないね。今後の作戦でトガさんの個性を使うなら、変身の持続時間や精度に影響する条件は把握しておきたいし……」
「……」
「でも、首筋から吸った場合だけ効果が変わるっていうのは不思議だな。血液の性質そのものより、個性の発動条件に関係しているのかな? ああ、そういえば個性によっては使用者の心理状態が出力に影響する例もあるし、もしかすると──」
「デクくん」
「うん?」
「……難しいことは、後で考えましょう?」
トガはにっこりと笑ったが、その笑顔にはどこか必死なものが混じっていた。
「え? ああ、うん。そうだね。ごめん、つい」
出久は少し照れ臭そうに頭を掻いた。
もっとも、首筋から吸うことで本当に個性の効果が変わるのなら、後で詳しく聞いてみたいところではあった。
「でも、首はちょっと危ないからね。無理そうだったら腕にしてもらうよ?」
「はい! 分かってます!」
トガは勢いよく頷いた。
出久は少し困ったように笑いながらも、シャツの襟元に手を掛けた。
第一ボタンを外し、首筋が見えるように襟を横へずらしてから、トガの方へ身体を向ける。
「……これでいい?」
「…………」
「トガさん?」
返事がなかった。
見れば、トガは口を半開きにしたまま、出久の首元を食い入るように見つめている。
先ほどまで落ち着きなく動いていた両手は膝の上で止まり、瞬きさえ忘れてしまったかのように、じっと一点へ視線を注いでいた。
出久は不思議そうに首を傾げた。
「……もうちょっと見えるようにした方がいいかな?」
そう言ってさらに襟をずらし、彼女が近づきやすいよう首を反対側へ傾けると、トガの肩がびくりと跳ねた。
「…………っ」
「え?」
「……エロ過ぎる……」
「……何か言った?」
「な、何でもないですっ!」
トガは慌てて首を横に振ったものの、頬は真っ赤になっているし、視線も相変わらず出久の首元へ釘付けになっているので、何でもないという説明には少々無理があった。
出久としては、何か不都合でもあるのかと心配になったものの、彼女が嬉しそうにしていることだけは分かる。
「じゃあ、準備できたら教えてね」
「……はい」
トガは小さく頷くと、恐る恐る出久へ手を伸ばした。
最初は肩に触れようとして途中で止まり、少し迷った末に、シャツの袖をそっと摘まむ。
以前なら遠慮なく抱きついていただろうに、今日は触れること一つにも許可が必要だと思っているらしい。
そんな彼女の様子に、出久は何となく微笑んだ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ?」
「簡単に言わないで欲しいです」
少しだけ拗ねたように答えたトガだったが、すぐに気を取り直したらしく、改めて出久の首筋へ視線を向けた。
先ほどまでの遠慮がちな様子はまだ残っているものの、彼女の表情には期待が浮かんでいる。
出久はもう一度だけ襟元を整え、彼女が近づきやすいよう身体の向きを変えた。
「それじゃあ、優しくお願いね」
「……はい」
トガは小さく頷くと、ゆっくりと顔を近づけた。
その時だった。
ドサッ。
不意に、部屋の入口の方から鈍い音が響いた。
「……ん?」
出久が反射的に顔を上げると、トガもぴたりと動きを止め、二人揃って音のした方へ視線を向けた。
そこには、麗日お茶子が立っていた。
いつの間に扉が開いたのか、彼女は入口から数歩入ったところで立ち尽くしており、その足元には先ほどまで持っていたらしい鞄が転がっている。
「麗日さん?」
出久が呼びかけても返事はなかった。
お茶子は真顔だった。
驚いているわけでも、怒っているわけでも、まして笑っているわけでもない。
普段の彼女からは想像もつかないほど表情が抜け落ちており、ただじっと、ベッドに並んで座る二人を見つめている。
その視線は出久の緩められた襟元へ向かい、続いて彼の袖を摘まんだまま顔を近づけているトガへ移ると、最後にもう一度出久へ戻った。
数秒の沈黙が流れる。
「…………は?」
低い声だった。
お茶子は真顔のまま、もう一度二人を見た。
「……は?」
今度は先ほどよりも少しだけ声が大きかった。
トガは出久の袖を摘まんだまま、きょとんと瞬きをしている。
どうやら彼女も、突然現れたお茶子に何を言えばいいのか分からないらしい。
もっとも、出久には彼女が驚いている理由そのものが分からなかった。
「あ、もしかしてノックした? ごめん、気づかなかった」
「……そういう話?」
「え?」
「そういう話なん、デクくん?」
お茶子はゆっくりと首を傾けたが、その顔に笑みはない。
出久は少し考えたものの、やはり何を尋ねられているのか理解できなかった。
「……違うの?」
「な、何の話?」
「ちょ、ちょっと待ってください! お茶子ちゃん!」
出久が困惑したまま首を傾げている隣で、トガが慌てたように立ち上がった。
先ほどまでの遠慮がちな様子とは打って変わり、両手を胸の前でぶんぶんと振りながら、お茶子へ必死に弁明を始める。
「ちょっと血を貰おうとしてただけですから! ほら、今後私の個性が必要になるかもしれないじゃないですか! だから、そのために、ちょっとだけ!」
「…………」
「本当ですよ!? 別に変なことしてたわけじゃありません! デクくんにもちゃんと許可を貰いましたし、まだ何もしてませんから!」
トガは一息にそこまで言うと、助けを求めるように出久を振り返った。
「ねっ、デクくん!」
「え? ああ、うん。そうだよ。トガさんが僕の血を欲しいって言うから、少し分けようとしてただけで……」
お茶子は何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと視線を動かす。
まず、ベッドの端に腰掛けている出久。第一ボタンの外れたシャツに、横へずらされた襟元。
先ほどまでトガが顔を近づけていたため、まだ首を少し傾けたままになっている。
次に、トガ。
頬を真っ赤に染め、普段なら見せないほど落ち着きのない様子で両手を振っている。
何より、つい数秒前まで出久の首筋へ口を近づけていたことは、お茶子自身がこの目で見ている。
そして、再び出久。
「……ちょっとだけ……血を?」
「そうだけど」
「……首から?」
「そうらしいね。僕も最初は腕からでいいんじゃないかって言ったんだけど、トガさんがどうしても首がいいって言うから……」
「デクくんっ!」
トガが悲鳴のような声を上げたので、出久は驚いて振り返った。
「えっ、何?」
「そ、それは言わなくてもいいです!」
「でも、麗日さんが聞いてるから……」
トガは頭を抱えた。
お茶子はそんな二人のやり取りを相変わらず真顔で見つめていたが、やがてその口元が僅かに震え始めた。
「首が、ええんや」
「……はい」
「どうしても?」
「…………はい」
「分かるけど……」
お茶子は天井を見上げた。
何かを堪えるように一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
それから、もう一度二人を見た。
「……こんなん」
「……麗日さん?」
「こんなん、セックスと変わらんやないか!」
「「えっ!?」」
二人の声が綺麗に重なった。
出久は目を見開き、トガは口をぱくぱくと動かしたが、お茶子はそんな二人の反応など見ていなかった。
「ああああああ……!」
両手で顔を覆い、その場にずるずると崩れ落ちる。
「麗日さん!?」
「お、お茶子ちゃん!?」
慌てて立ち上がった二人をよそに、お茶子は床へ膝をつき、俯いたままぶつぶつと何かを呟き始めた。
「……やってしもた……」
「……?」
「賢しく立ち回ろうとし過ぎた……間違えた……完全に間違えた……」
その声は低く、しかも妙に切実だった。
「……何でや……何でうちは、あんな余裕ぶったことばっかり……いや、違う、あの時はあれが正解やと思っとったんや……焦ったらあかん、ちゃんと距離を縮めて、自然に、少しずつ……そう思っとったのに」
お茶子は床に膝をついたまま、同じ言葉を繰り返していた。
出久には、その意味がさっぱり分からなかった。何か大きな失敗をしたらしいことは理解できるものの、それが自分やトガとどう関係しているのか見当もつかないし、そもそも血を分けようとしていただけなのに、どうしてここまで取り乱す必要があるのだろう。
「……あの、麗日さん?」
「……あかん……ほんま、あかん……」
「えっと……大丈夫?」
「大丈夫やない……」
即答だった。
出久は困ったように眉を下げた。どうやら、今は何を言っても逆効果になりそうだった。
そんな彼の隣で、トガがじっとお茶子を見つめていた。
最初こそ突然の乱入に驚いていたものの、お茶子の呟きを聞いているうちに、彼女なりに事情を察したらしい。
しばらく考え込んだ後、何故か小さく頷くと、ベッドから立ち上がった。
「……お茶子ちゃん」
「……何?」
「ちょっと、お話ししましょう?」
「……話?」
「はい。女の子同士で」
そう言って、トガはにっこりと笑った。
お茶子は訝しげに顔を上げたものの、トガが差し出した手を見て、少しだけ迷った末にそれを取った。
「……何の話?」
「それは、ここでは内緒です」
「……内緒?」
「はいっ。ほら、行きましょう!」
トガはお茶子を立ち上がらせると、そのまま手を引いて扉へ向かった。
「えっ、ちょっと、トガちゃん?」
「デクくん! お茶子ちゃん、ちょっと借りますね!」
「え? あ、うん。いいけど……」
「ほらほら、お茶子ちゃん!」
そんなお茶子の抗議も構わず、トガは彼女を連れて廊下へ出ていった。
ぱたん、と扉が閉まる。
取り残された出久は、しばらく扉を見つめていた。
血を分けようとしていただけなのに、何故かお茶子が取り乱し、トガが彼女を連れて出ていってしまった。
いったい何がどうなっているのか、さっぱり分からない。
「…………なんだったんだ?」
出久はぽかんと呟いた。