間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第129話 開戦の火蓋

 数日が過ぎ、異能解放軍の幹部会議が開かれる当日となった。

 

 会場に指定されたのは、出久が滞在しているホテルの最上階にあるレストランだった。

 

 四ツ橋から連絡を受けた時には、思わず聞き返してしまった。

 十万人を超える構成員を抱える組織の最高幹部が集まるのだから、デトネラット本社か、解放軍が所有する秘密施設にでも招かれるものと考えていたのである。

 

 もちろん、当日は貸し切りにするのだろうし、ホテルの経営者や従業員は全員解放軍だ。

 場所が分かった以上、こちらとしては都合がいい。

 

 出久はすぐに爆豪へ連絡し、開催日時と場所、判明している参加者の名前を伝えた。

 間もなく届いた返信には、余計なことをせず、予定通り参加するようにと念を押されていた。

 

 その指示にはなるべく従うつもりだった。

 

 異能解放軍の幹部を一斉に逮捕するという計画は、言葉にするほど簡単ではない。

 企業や政界にまで構成員を送り込んでいる組織だけに、不用意に動けば情報が漏れる恐れがあるし、連合の仲間たちを危険に晒すことにもなりかねなかった。

 

「……よし」

 

 鏡の前で、出久は小さく息を吐いた。

 

 濃紺のスーツに白いワイシャツ、落ち着いた色合いのネクタイ。

 いずれも四ツ橋が用意してくれたもので、仕立ては良いのだろうが、普段着とは勝手が違って落ち着かない。

 

「……ネクタイなんて久しぶりだな」

 

 そう呟いてジャケットの裾を引くと、出久はポケットの中身を確認した。

 スマートフォンで爆豪との連絡履歴を最後に見返し、内ポケットへ収める。

 

 約束の時刻までは、まだ少し余裕があった。

 

 部屋を出た出久は、エレベーターホールへ向かった。

 

 このホテルには何日も滞在しているが、最上階へ上がったことは一度もない。

 市内を一望できる展望レストランがあることは知っていたものの、料理の値段を見て利用する気をなくしていたのだ。

 

 そんな場所へ、まさか異能解放軍の会議に出席するために向かうことになるとは思わなかった。

 

 エレベーターへ乗り込み、最上階のボタンを押す。

 静かに上昇する箱の中で、出久は鏡に映る自分を見ながら、またネクタイの位置を直した。

 

 やがて到着を知らせる電子音が鳴り、扉が開いた。

 

 その向こうには厚い絨毯が敷かれた通路が続き、壁面の柔らかな照明が落ち着いた雰囲気を作り出していた。

 奥からは控えめな音量のクラシック音楽が聞こえてくる。

 

 随分と高級そうな場所だ。

 

 そんな感想を抱きながら一歩を踏み出した出久だったが、次の瞬間、その足が止まった。

 

「おお! 緑谷くん!」

 

 エレベーターのすぐ先に、満面の笑みを浮かべた四ツ橋力也が立っていた。

 

「いやあ、よく来てくれた! 待っていたよ!」

 

「……えっ?」

 

「ははは! そんなに驚かなくてもいいじゃないか。今日はこちらから君を招いたのだからね、迎えるのは当然だろう?」

 

 四ツ橋は愉快そうに笑いながら歩み寄ってきた。

 仕立ての良いスーツを着こなしたその姿は、解放軍の最高指導者というより、気さくな実業家そのものだった。

 

「それにしても、よく似合ってる! うん、実にいい! 窮屈ではないかい?」

 

「あ、はい。少し肩の辺りが……でも、大丈夫です。わざわざ用意していただいて、ありがとうございます」

 

「ははは! それはよかった! 君くらいの年頃なら、もう少し洒落たものでもよかったのだがね。派手なものでは落ち着かないだろうと思って、無難なものを選ばせてもらったんだ」

 

「いえ、僕もこういうのはあまり慣れていないので……」

 

「うむ! 若いうちから慣れておくに越したことはないよ。これから先、君もこういう席に招かれる機会が増えるかもしれないからね!」

 

 四ツ橋は出久の背中へ軽く手を添えた。

 

 その親しげな態度には、今も少し困惑させられる。自分は敵連合の一員であり、四ツ橋とは利害関係によって繋がっているにすぎない。

 それにもかかわらず、彼は以前から出久を親戚の子供のように扱っていた。

 

「さて、皆を待たせていることだし、そろそろ行こうか。こちらだよ」

 

「あ、はい」

 

 促されるまま、出久は四ツ橋の後に続いた。

 

 レストランの入口には貸切営業の札が立てられ、その両脇には黒いスーツ姿の男性が二人控えていた。

 

「お疲れ様です。リ・デストロ」

 

「うむ。皆はもう揃っているかね?」

 

「はい、トランペット様を除き皆様お揃いです」

 

「結構、結構! それでは、こちらのお客様をお通ししよう」

 

 男性の一人が扉を開け、もう一人が深々と頭を下げた。

 

 出久は軽く会釈を返し、レストランへ足を踏み入れる。

 

 最初に目に飛び込んできたのは、壁一面に広がる大きな窓だった。

 

 最上階からは泥花市の街並みが一望でき、整然と並ぶビル群や道路、遠くの山々まで見渡せる。 

 柔らかな照明に照らされた室内には観葉植物が置かれ、高級店らしい落ち着いた雰囲気が漂っていた。

 

 その中央には、十人ほどが着席できそうな大きな円卓が設置されていた。

 

 周囲のテーブルは撤去され、円卓の上には水差しやグラス、筆記具などが整然と並べられている。

 

 既に三人の人影があった。

 

 うち二人については、出久も見覚えがある。

 

 一人は、大手IT企業『Feel Good Inc』の取締役、近属友保。

 異能解放軍の幹部であり、コードネームはスケプティック。

 

 黒い長髪を後ろへ流した痩身の男で、円卓の上に置かれた端末を操作していた。

 出久の姿を認めると、近属は顔を上げる。

 

「…………チッ」

 

 露骨な舌打ちと共に、視線をを下げる。

 

「……こんにちは」

 

 出久は一応、挨拶をした。

 

 返事はなく、代わりに端末を操作する指先が乱暴になった。

 

「もう、スケプティック。せっかく来てくれたんだから、挨拶くらいしてあげたら?」

 

「必要ない。品のないクソガキめ、馬子にも衣装とはこのことだな」

 

 隣の女性は困ったように笑ったものの、それ以上は追及しなかった。

 

 出版社『集瑛社』の専務、気月置歳。

 コードネームはキュリオス。

 

 整った顔立ちに、上品な服装。

 出版業界で相応の地位を築いてきた人物らしい、洗練された雰囲気を持つ女性だった。

 

 二人とは既に何度か会っており、出久もその人柄についてはある程度把握している。

 

 問題は、残る一人だった。

 

「……?」

 

 円卓の端に、見覚えのない少年が座っていた。

 

 年齢は出久と同じくらいだろうか。

 身体を覆う衣服の上から大きなフードを深く被っており、顔立ちははっきりと分からない。

 

 少年は背もたれに身体を預け、黙ってこちらを見ていた。

 

 解放軍には十万人を超える構成員がいるのだから、未成年者がいても不思議ではない。

 しかし、最高幹部が集まる会議で他の者たちと同じ円卓を囲んでいる以上、単なる付き添いとは考えにくかった。

 

 出久が視線を向けていると、少年が僅かに顎を上げた。

 

「……あ、こんにちは」

 

 反射的に頭を下げる。

 

「…………」

 

 返事はなかったが、少年は小さく頷いた。

 

(……無口な人なのかな)

 

「ははは! 緑谷くん、外典が気になるかね?」

 

 隣に立っていた四ツ橋が愉快そうに笑った。

 

「あ、はい。すみません。初めてお会いする方だったので……」

 

「うむ! 彼については後ほど紹介するとしよう。君と同じくらいの年頃だからね。きっと話も合うだろう!」

 

「……そうなんですか?」

 

「ははは! さて、どうだろうね!」

 

 四ツ橋は笑うばかりで、それ以上の説明はしなかった。

 

 出久も無理に尋ねることはせず、改めて円卓を見渡した。

 空席は三つ。そのうち一つへ四ツ橋が歩み寄り、上機嫌に椅子を引いた。

 

「さて、さて! 皆、待たせたね!」

 

「いえ、リ・デストロ。問題ありません」

 

 近属が端末から顔を上げた。

 先ほどの態度とは打って変わり、その声には明確な敬意が込められている。

 

「トランペットからは、もう間もなく到着するとの連絡が入っています」

 

「うむ! ならば結構!」

 

 四ツ橋は満足そうに頷き、椅子へ腰を下ろした。

 

 それだけで、周囲の空気が僅かに引き締まったように感じられた。

 近属は端末の操作を止め、気月もグラスから手を離す。フードの少年も四ツ橋へ顔を向けた。

 

 それぞれの反応は小さなものだったが、誰がこの場の中心にいるのかを示すには十分だった。

 

 出久は円卓から少し離れた位置に立ったまま、残る二つの空席へ視線を向けた。

 一つは自分の席で、もう一つはまだ到着していない幹部のものだろう。

 

 どちらに座るべきか分からずにいると、四ツ橋が出久を見上げた。

 

「さて、緑谷出久くん」

 

「……はい」

 

「以前、私が君にした提案を覚えているかな?」

 

 出久は一度だけ瞬きをした。

 

 その言葉が何を指しているのか、考えるまでもなかった。

 

「もちろん覚えています」

 

「うむ! それはよかった!」

 

 四ツ橋は椅子の背もたれへ身体を預けた。

 

「この町で暮らしてみて、私たちの思想を少しでも理解してくれたら嬉しく思う。以前、君にはそう話したね」

 

「はい」

 

「指名手配を受け、現体制の下で窮屈な思いをしてきた君たちにこそ、デストロの解放思想が救いになるだろう。私はそう考えているんだよ」

 

 その声は穏やかで、出久たちの境遇を心から案じているような温かさがあった。

 

 出久は、ここへ招かれた理由を理解した。

 

 四ツ橋は単に幹部を紹介するためではなく、敵連合との協力関係について、組織の中枢にいる人間たちの前で正式に結論を出すつもりなのだろう。

 

 出久が思想に賛同すれば、解放軍は敵連合を仲間として迎え入れることができる。

 少なくとも四ツ橋は、そうなることを期待している。

 

「……救い、ですか」

 

「そうとも!」

 

 四ツ橋は大きく頷いた。

 

「考えてもみたまえ。人は生まれながらにして個性を持っている。個性とは、その人間自身を形作るものだ。容姿や性格、考え方と同じように、本人から切り離すことのできない一部分なのだよ」

 

 そこで一度言葉を切り、四ツ橋は続けた。

 

「にもかかわらず、現在の社会では、その使用に様々な制限が課せられている。秩序を維持するための規則が必要であることは、私も理解している。しかし、個性を持って生まれた人間が、その個性を自由に発揮することすら許されないというのは、果たして健全な社会と言えるのだろうか?」

 

 出久は黙って聞いていた。

 

 異能解放軍の掲げる思想は、個性の自由な行使を認め、自己表現を社会の基本的な権利として位置づけるというものだ。

 

 現在の日本では、個性の公共の場での使用は原則として制限されている。

 個性は人によって性質も威力も大きく異なり、使い方を誤れば周囲に被害を与えることもある以上、その規制には相応の理由があった。

 

 しかし、個性を使うことが本人にとって自然な行為であり、生きていく上で必要不可欠なものである場合、その制限が大きな負担になることもある。

 

 出久は、そうした事情を持つ人間を何人も知っていた。

 

 生まれ持った個性と、それに伴う衝動を周囲から理解されず、普通の人間として生きることを望みながら、その普通という言葉によって追い詰められてしまった者がいる。

 自分の意思で選んだわけでもない性質を否定され、他人に受け入れられるためには自分自身を偽るしかなかった者もいた。

 

 連合の仲間たちを思い浮かべれば、四ツ橋の言葉を理解することは難しくなかった。

 

「緑谷くん」

 

 四ツ橋が、静かに呼びかけた。

 

「私はね、君たちのことを不幸な人間だと決めつけるつもりはないのだよ。君たちは自らの意思で行動してきたのだろうし、その選択を、事情も知らぬ私が一方的に否定することはできない。しかし、それでも思わずにはいられないのだ。もしも、この国が今とは違う社会であったなら、君たちは現在のような立場に置かれずに済んだのではないか、とね」

 

 出久は返事をせず、その続きを待った。

 

「個性を持つ人間が、個性を持つがゆえに抑圧されることのない社会。生まれながらに備わった力を、誰かに許しを乞うことなく発揮できる社会。己の在り方を恥じる必要も、他人の価値観に合わせて自分自身を偽る必要もない、そんな世界をデストロは夢見たのだ」

 

 四ツ橋の言葉には、次第に熱がこもり始めていた。

 

 背もたれに預けていた身体が前へ傾き、組んでいた両手が解かれる。

 長いあいだ胸の内に抱えてきた思いを、ようやく理解してくれそうな相手に打ち明けているようだった。

 

「だが、彼の理想は果たされなかった。デストロは志半ばで倒れ、その思想は時代の流れの中に埋もれてしまったのだ。しかし、消え去ったわけではない! 彼の遺志を受け継いだ者たちがいたからこそ、我々は今日まで歩んでくることができたのであり、今こうして、君と向かい合うことができている!」

 

 近属が深く頷いた。気月は薄い笑みを浮かべ、フードの少年も静かに耳を傾けている。

 

 彼らの反応を見れば、四ツ橋が語っているのは単なる組織の方針ではなく、ここにいる人間たちを結びつけている信念なのだと分かった。

 

 四ツ橋は両手を持ち上げ、出久を見つめた。

 

「緑谷出久くん! 私たちと共に歩もう! 私たちには君の力が、虐げられてきた君たちの力が必要だ!」

 

 その声は、広いレストランの隅々にまで届いた。

 

「君たちが味わってきた苦しみも、社会に対する怒りも、決して無意味なものではない。それらは現在の体制が抱える矛盾を示す何よりの証拠であり、変革の必要性を訴える力になるはずなのだ。君たちのような若者が、今の社会から拒絶されることなく生きられる未来を、我々と共に実現しようではないか!」

 

 出久は、差し伸べられた手を見つめていた。

 

 そこに込められているのが善意であることは疑っていない。

 四ツ橋は自分の掲げる思想こそが出久たちを救うものであり、その実現に力を貸すことが彼ら自身の幸福にも繋がると信じているのだろう。

 

 出久にも、共感できる部分は確かにあった。

 

 もしも渡我が、生まれ持った衝動を頭ごなしに否定されることなく育っていたなら。

 もしも、社会の求める普通から外れているというだけで苦しまずに済む道が用意されていたなら。

 

 そんなことを考えた経験は、一度や二度ではない。

 

 四ツ橋の言うような社会が実現すれば、救われる人間はいるのだろう。

 

 しかし、それでも。

 

 出久は、ゆっくりと首を横に振った。

 

「……緑谷くん」

 

 出久はすぐには答えず、スーツの内ポケットへ手を差し入れた。

 取り出したのは一冊の本だった。

 

 両手で持ち直し、表紙を上にして円卓へ静かに置く。

 

「……これは」

 

 四ツ橋が呟いた。

 

 それは以前、彼自身が出久へ手渡した解放思想の本だった。

 

 表紙の角は擦り切れ、背表紙には何度も開閉されたことで生じた細かな皺が刻まれている。

 ページの端には繰り返し触れた跡が残っており、短い期間に幾度となく読み返されてきたことが窺えた。

 

 出久はゆっくりと頭を上げた。

 

 四ツ橋の背後には、泥花市の街並みが広がっている。この町に暮らす人々の多くが解放軍の思想を支持し、その実現を望んでいることを、出久は既に知っていた。

 

 彼らにとって、この町は理想の社会を先取りした場所なのだろう。

 

 けれども、異なる考えを持つ人間がどのように扱われるのかは分からなかった。

 

「……僕は、解放思想に反対します」

 

 出久は、四ツ橋の目を見て言った。

 

「貴方たちの仲間にはなれません」

 

 近属の指先が、端末の上で止まった。

 

 気月は笑みを消し、フードの少年も顔を上げる。

 穏やかだったレストランの空気が、一瞬で張り詰めた。

 

「……貴様」

 

 最初に口を開いたのは近属だった。

 

「散々リ・デストロの厚意に甘えておきながら、今さら何を抜かしている? 貴様のような素性の知れん犯罪者を、この泥花市で自由に過ごさせてやったのが誰の判断だと思っているんだ。思想に反対だと? そんなものは最初から分かっていたことだろうが!」

 

「スケプティック」

 

 四ツ橋が短く名前を呼ぶと、近属は不満を押し殺すように口を閉じた。

 

 出久は彼の言葉を否定しなかった。

 

 四ツ橋から受けた厚意には感謝している。

 指名手配を受けている自分たちを迎え入れ、滞在場所を用意し、自由に街を歩くことまで認めてくれたのだから、その点については何の不満もなかった。

 

 しかし、感謝していることと、思想に賛同することは別だった。

 

「……僕は、皆さんの考えが全部間違っているとは思いません。個性を理由に苦しんでいる人がいることも、今の社会に変えなければならない部分があることも、よく分かります。僕の仲間にも、もっと違う環境で生きていたら、こんなことにはならなかったかもしれない人がいますから」

 

 出久は円卓の上に置かれた本へ視線を落とした。

 

「でも、個性を自由に使えることと、誰もが自由に生きられることは、同じじゃないと思うんです。強い個性を持つ人もいれば、弱い個性を持つ人もいるし、個性を使いたくない人だっている。誰もが好きなように力を使える社会になった時、そういう人たちが本当に自由でいられるのか、僕には分かりませんでした」

 

 四ツ橋は答えなかった。

 

「個性を使うことが自由なら、使わないことだって自由なはずです。でも、個性を使うのが当たり前になった社会で、使いたくない人は本当にそれを選べるんでしょうか。個性を使えない人や、使っても周りの人ほど役に立てない人は、今より生きやすくなるんでしょうか」

 

 デストロの思想書を読みながら、何度も考えたことだった。

 

 個性の自由な行使によって救われる人間がいる一方、強い個性を持つ者と弱い個性を持つ者の差まで消えるわけではない。

 個性の使用が当然となれば、今度は使わないという選択が難しくなるかもしれなかった。

 

「僕は……誰かが自分らしく生きるために、別の誰かが我慢しなければならないのなら、それを自由だとは思えないんです。自由には責任が伴うと、思う」

 

 誰も傷つけず、誰にも我慢を強いることなく、全ての人間が自由に生きられる社会など、本当に実現できるのか分からない。

 出久自身、これまで選んできた道を振り返れば、他人の自由について偉そうに語れる立場でもなかった。

 

 それでも、難しいからといって考えることをやめたくはなかった。

 

「……僕も、正しい答えを知っているわけじゃありません。でも、少なくとも、皆さんと同じやり方で社会を変えたいとは思えませんでした。だから、僕は解放軍には入りませんし、連合の仲間たちにも、皆さんの思想に従うよう説得するつもりはありません」

 

 出久は、もう一度頭を下げた。

 

「今まで、本当にありがとうございました」

 

 それが、彼なりの誠意だった。

 

 四ツ橋は何も言わず、円卓の上に置かれた本を見つめていた。

 

 擦り切れた表紙が、出久の言葉以上に雄弁だった。

 

 彼は思想書を読まなかったから拒絶したのではない。 

 何度も読み返し、自分なりに考えた末に、解放軍とは異なる答えへ辿り着いたのだ。

 

 やがて、四ツ橋はゆっくりと目を伏せた。

 

「……残念だ……」

 

 その声は、出久が想像していたよりもずっと小さかった。

 

「……本当に、残念だよ。緑谷くん」

 

 四ツ橋は椅子の肘掛けへ手を置き、ゆっくりと立ち上がった。

 

 しかし、出久へ向き直ろうとはしなかった。

 代わりに、円卓の脇に置かれていた空席の一つへ歩み寄る。

 

 出久が座るはずだった椅子だった。

 

 濃い色の木材で作られた、背もたれの高い立派な椅子である。

 丁寧に磨かれた表面には照明が映り込み、出久は場違いにも、あれ一脚だけで相当な値段がするのではないかと考えてしまった。

 

「……君には、期待していたのだ」

 

 俯いたまま、四ツ橋は言った。

 

「君たちならば、我々の思想を理解してくれると。現在の社会から虐げられ、理不尽な制約を受けながら生きてきた君たちならば、デストロが何を訴え、何を成し遂げようとしたのか、きっと分かってくれると……そう、信じていたのだよ。スケプティック、トランペットを呼びなさい」

 

「はい、リ・デストロ」

 

 出久は、何も答えられなかった。

 

 四ツ橋の期待が本物だったからこそ、自分も正直に考えを伝えたのだ。

 それが相手を失望させると分かっていても、賛同するふりはできなかった。

 

「……そうか。そうなのだね」

 

 次の瞬間だった。

 

 ──轟ッ!! 

 

 凄まじい破砕音が、レストランに響き渡った。

 

 四ツ橋の足が、椅子を蹴り飛ばしていた。

 

 椅子は床を滑ることも、倒れることもなかった。脚と座面が一瞬で砕け、背もたれは無数の木片となって弾け飛ぶ。

 破片が床一面へ降り注ぎ、近くのテーブルに当たって硬い音を立てた。

 

 出久は反射的に身構えた。

 

 それとほとんど同時に、近属友保が椅子を引いた。

 

 近属は端末を操作しながら立ち上がり、砕け散った残骸を避けながら円卓から離れていく。

 その動きに慌てた様子はなく、これから何が起こるのかを承知していたようだった。

 

「……まったく。だから最初から申し上げていたのです、リ・デストロ。敵連合などという連中に、我々の崇高な思想が理解できるはずもないと」

 

 吐き捨てるようにそう言った近属は、出入口に近い場所で足を止めた。

 端末の操作を終え、脇に抱えて立つ。

 

 一方、気月置歳はどこか楽しげな様子で席を立ち、窓際へ移動した。

 

「それにしても、緑谷くん。あなたって本当に面白い子ね。今の社会に居場所がないから敵連合に加わっているのに、その社会を変えようとしている私たちの思想にも賛同できないなんて。いったい何があなたをそこまで頑固にさせるのかしら?」

 

「……頑固、ですか」

 

「ええ。普通なら、これほど恵まれた提案を断る理由なんてないもの。あなたがどういう人生を歩んできて、何を見て、何を失ったのか……私、ますます知りたくなってしまったわ」

 

 気月の声に、近属のような敵意はなかった。

 

 ただ、出久の考えを尊重しているというより、その考えがどこから生まれたのかに興味を抱いているのだろう。

 理解しがたい選択をする人間の過去を掘り起こし、そこにどのような物語が隠れているのかを確かめたいという、記者としての好奇心が感じられた。

 

 フードの少年もゆっくりと立ち上がり、円卓から離れる。

 

 出久は三人の位置を確認した。

 

 近属は出入口の近く、気月は窓際、フードの少年は円卓の向こう側。

 いずれも四ツ橋との間に十分な距離を確保している。

 

(……ごめんねかっちゃん。あと志村さん)

 

 出久は内心で息を吐いた。

 

「じゃあ、そういうことなんで」

 

 そう告げると同時に、出久の全身から乾いた破裂音が響いた。

 

 皮膚の表面に白い骨片が浮かび上がり、それらが重なり合いながら腕から肩、胸部、脚部へと広がっていく。

 濃紺のスーツは瞬く間に白い装甲の下へ隠れ、身体の輪郭が一回り大きくなった。

 

 最後に顔面を覆う装甲が形成され、緑色の瞳だけを残して、全身が白い外骨格に包まれる。

 

 全因解放。

 

 ──ホワイト・ラビット。

 

 出久は両手を握り、右足を半歩引いて腰を落とした。

 

 相手の個性について十分な情報がない以上、正面から攻撃を受けるのは避けたい。

 先に仕掛けてくるなら回避し、可能な限り反撃せずに距離を取るつもりだった。

 

 そう判断した、その時だった。

 

 ──ポーン。

 

 不意に、エレベーターの到着を知らせる電子音が響いた。

 

「……!」

 

 出久は反射的に耳を澄ませた。

 

 扉が開き、誰かが廊下へ降り立つ気配がする。

 

 厚い絨毯の上を歩く三人分の靴音が、レストランへ向かって近づいてきた。

 

 出久は四ツ橋を警戒しながら、入口へ顔を向けた。

 

 最初に姿を現したのは、仕立てのよいスーツに身を包んだ長身の男だった。

 

 整えられた髪に端正な顔立ち。

 人当たりのよい笑みを浮かべ、その立ち居振る舞いには、人前に立つことを職業としている者特有の余裕があった。

 

 出久は、その顔を知っていた。

 

 泥花市を地盤とする与党の衆議院議員であり、与党広報本部長を務める政治家、花畑孔腔。

 記者会見や討論番組などで頻繁に姿を見かける人物で、演説の巧みさについても高い評価を受けている。

 

 彼がトランペットなのだろう。

 

 解放軍に国会議員がいることは既に知っていたが、実際にその人物が現れると、組織の影響力を改めて実感させられた。

 

 しかし、出久が驚いたのは花畑の存在だけではなかった。

 

「……え?」

 

 花畑に続いて入ってきたのは、軍服を着用した水色の肌の男性だった。

 

 背筋を伸ばした姿勢と無駄のない足取り、肩に付けられた階級章。

 胸元には幾つもの略綬が並び、軍人として長い経歴を積んできたことを窺わせる風格がある。

 

 その顔にも、出久は見覚えがあった。

 もっとも、直接会ったことなど一度もない。

 テレビのニュースやインターネットの記事で、何度も写真や映像を見てきただけだ。

 

 ティモシー・アグパー。

 

 アメリカ軍の司令官であり、ヒーロー活動と軍事作戦の連携について語る際には、しばしば名前の挙がる人物だった。

 

 出久は反射的に花畑へ視線を戻し、それからもう一度、アグパーの顔を確認した。

 

 見間違いではない。

 

(……まさか、アメリカ軍まで解放軍と繋がっている?)

 

 外国の軍高官が、事前の説明もなく日本の地方都市にあるホテルへ現れ、異能解放軍の最高幹部たちが集まる場所へ入ってくる。

 その異常さを理解するのに、時間は掛からなかった。

 

 だが、すぐに結論を出すこともできない。

 そもそも、アグパーがここに来た理由さえ分かっていないのだ。

 

 出久が考え込んだのは、ほんの一瞬だけだった。

 

 三人目の人物が、レストランへ足を踏み入れたからだ。

 

 その姿を見た瞬間、出久はアグパーの存在も、四ツ橋との対峙も、僅かな時間ではあったが忘れてしまった。

 

 女性だった。

 

 まず目を引いたのは、その身長である。

 

 天井の高いレストランであるにもかかわらず、彼女が入口を通り抜ける姿には、まるで空間そのものが狭くなったような錯覚を覚えた。

 隣を歩くアグパーも決して小柄ではなかったが、彼女の傍らではその体格差が際立っている。

 

 オールマイトにも匹敵するほどの巨体。

 

 露出した腕には鍛え抜かれた筋肉が浮かび、厚い胸板から肩、腰、脚部へと続く輪郭は、人体の力強さを極限まで追求した彫刻のようだった。

 

 オールバックにした髪は八本の触角のように分かれ、頭から後ろへと大きく伸びている。

 

 星条旗を思わせる意匠のヒーローコスチューム。

 

 胸元に輝く星の紋章。

 

 そして、周囲を圧倒するような堂々とした立ち姿。

 

 見間違えるはずがなかった。

 

「…………スター、アンド……ストライプ……?」

 

 掠れた声が、出久の口から零れ落ちた。

 

 アメリカ合衆国、ナンバーワンヒーロー。

 

 スターアンドストライプ。

 

 世界各国のヒーローランキングや国際的な事件を扱うニュースで、幾度となくその名前を目にしてきた。

 アメリカにおける圧倒的な実績はもちろん、規格外の個性と戦闘能力については、日本のヒーローを調べる時と同じくらい熱心に資料を集めたことがある。

 

 オールマイトが第一線を退いた現在、彼女こそが世界最強のヒーローであると、出久自身も考えていた。

 

 単独で国家規模の危機へ対処できるとも言われるその実力は、一人のヒーローという枠に収まらず、国家の安全保障に関わる戦略的な戦力として扱われることさえある。

 

 そんな人物が、今、自分の目の前に立っている。

 

 しかも、異能解放軍の幹部会議が開かれるレストランに。

 

(……なんで)

 

(……どうして、こんなところに)

 

(……サイン欲しい……)

 

 幾つもの疑問が浮かんでは消えていく。

 

 四ツ橋との対立は解決しておらず、解放軍の幹部たちも周囲に散らばったままだ。

 出久自身、ホワイト・ラビットを展開し、いつ攻撃されてもおかしくない状況に置かれている。

 

 それでも、スターアンドストライプが現れたという事実は、それまでの危険を一瞬で小さなものに感じさせるほど衝撃的だった。

 

「……ん?」

 

 スターアンドストライプは、不思議そうに首を傾げた。

 

 彼女の視線が出久のところで止まる。

 

 そこに敵意や警戒はなく、どちらかといえば、見覚えのある顔を見かけたものの、どこで会ったのか思い出せずにいるような困惑が浮かんでいた。

 

「……あれ? この子は……」

 

 彼女は顎へ手を当て、出久の姿をじっと見つめた。

 

 正確には、顔ではない。

 

 白い骨の装甲に覆われた身体を、頭から足元まで確かめるように眺めている。

 

 出久は息を呑んだ。

 世界最強のヒーローが、自分を見て何かを思い出そうとしている。

 

 それが何を意味するのか、出久には考えたくもなかった。

 

 そして、数秒後。

 

 スターアンドストライプは何かを思い出したように目を見開くと、出久へ向かって人差し指を突き出した。

 

「……指名手配犯?」

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