スターアンドストライプが、一歩を踏み出した。
それは何の変哲もない動作だった。
地面を蹴り砕くでもなく、身体を沈めて跳躍の姿勢を取るでもなく、ただ目の前にいる出久へ近づこうと、片足を前へ出しただけである。
その瞬間、出久は地面を蹴っていた。
巨大な白い身体が後方へ跳躍し、脚部の骨格が舗装を砕きながら一気に距離を稼ぐ。
着地と同時に再び地面を蹴り、二度、三度と後退を重ねた出久は、ホテルから百メートル近く離れた交差点でようやく足を止めた。
その間も、視線だけは決してスターアンドストライプから外さなかった。
彼女の個性について、出久が知っていることは限られている。
対象に触れ、その名前を呼び、ルールを付与するという基本的な性質は把握しているものの、効果の持続時間や付与できるルールの限界、あるいは同時に複数の対象へ干渉できるのかといった詳細については、確かな情報を得られていない。
ただ一つ、先ほどの複製を通じて明らかになったことがある。
(触れられたら終わりだ!)
少なくとも、現時点の出久には、彼女の個性によって身体の自由を奪われた場合、それを自力で解除する方法が思いつかなかった。
ホワイト・ラビットによる身体能力の強化も、外骨格の再構築も、そもそも動くことを許されないのであれば意味をなさない。
ならば、取るべき行動は単純だった。
決して近づかせず、決して触れさせない。
そのために出久は、巨大化によって得た脚力を最大限に利用し、スターアンドストライプが動くより先に距離を取ったのである。
「……ふむ」
スターアンドストライプは、遠ざかった白い怪物を見やりながら、小さく顎を撫でた。
彼女の足元には、先ほど出久が跳躍した際に砕けた舗装が散乱している。
普通の人間であれば、これほどの距離を一瞬で移動する相手を見て警戒するところだろうが、スターアンドストライプは特に驚いた様子もなく、むしろ納得したように頷いていた。
「さっきみたいに、簡単には触らせてくれないみたいね」
独り言のような呟きだった。
その声を聞き取ることができる距離ではなかったが、出久は彼女の口が動いたことに気づき、さらに警戒を強めた。
スターアンドストライプは依然として動かない。
出久を追いかけるでもなく、跳躍の準備をするでもなく、ただその場に立ったまま、遠くの白い巨体を眺めている。
出久は僅かに眉を寄せた。
彼女の身体能力ならば、百メートル程度の距離は大した障害にならないはずだった。
現に、ホテルの最上階から飛び出した際には、こちらが十分に反応する間もなく間合いへ飛び込んできている。
それなのに、今は追撃してこない。
出久がその理由を考え始めた時、スターアンドストライプが両腕を広げた。
まるで、何かを抱き締めようとするように。
ただし、その腕の先には何もなかった。
出久がいるのは百メートル近く離れた場所であり、彼女の周囲には、触れることのできる人間も、手を伸ばせるような建造物も存在しない。
にもかかわらず、スターアンドストライプは大きく広げた両腕をその場に留め、何もない空間へ掌を向けていた。
出久は息を呑んだ。
(……まさか)
対象に触れ、その名前を呼び、ルールを付与する。
それが新秩序の基本的な発動条件である。
しかし、出久はその能力について、一つ重大な思い違いをしていたことに気づいた。
彼女が触れなければならない対象は、必ずしも人間である必要はない。
自分自身である必要もなければ、敵の身体である必要もない。
例えば、彼女の周囲に満ちている、目には見えない物質であっても。
「──新秩序」
スターアンドストライプが口を開いた。
その声には、先ほど出久の複製を拘束した時と同じく、何の気負いも感じられなかった。
ただ、これから起こる現象を、既に決定された事実として告げる。
「大気は、私の百倍の大きさで固まる」
その瞬間、世界の一部が形を持った。
スターアンドストライプが、右腕を持ち上げた。
その動作自体は緩慢なものだったが、出久は彼女の周囲に生じた異変を即座に察知した。
正確には、異変そのものを目にしたわけではない。彼女の頭上には相変わらず青空が広がっており、巨大な物体が出現した様子も、何らかのエネルギーが放出された形跡もなかった。
しかし、聞こえたのである。
ごう、と。
それは風の音に似ていたが、出久がこれまで耳にしたどのような風とも異なっていた。
強風が建物の隙間を吹き抜ける際の甲高い音でもなければ、突風が障害物に衝突する際の不規則な唸りでもない。
遥か上空で膨大な量の大気が押し退けられ、巨大な何かが空間を移動しているような、重く、低い音だった。
個性『五感強化』。
その能力によって常人を遥かに上回る感度を獲得した出久の聴覚は、視覚では捉えられないものの存在を、周囲の大気が発する微かな振動から感じ取っていた。
「なにかいる!」
出久が顔を上げると、スターアンドストライプは既に右腕を振り上げていた。
それに呼応するように、彼女の頭上で何かが動いている。
見えない。
だが、聞こえる。
スターアンドストライプを中心として、人間の百倍という途方もない大きさに凝固した大気が、彼女の動作に連動して拳を振り上げているのだ。
出久は咄嗟に、その拳の大きさを想像した。
スターアンドストライプの身長を基準とすれば、百倍に拡大された人型は優に百メートルを超える巨体となる。
その腕だけでも高層建築物に匹敵する長さを持ち、拳に至っては、今の出久が全身を丸めても到底収まりきらないほど巨大なものになるだろう。
そして、その拳が今まさに振り下ろされようとしていた。
「──ッ!」
出久は全身の骨格を再構築した。
ホテルの屋上から仲間を抱えて飛び降りるため、そして着地の衝撃から彼らを守るために肥大化させていた外骨格が、凄まじい勢いで圧縮され、人型の発条機構として再形成されていく。
胴体を覆っていた分厚い装甲が剥がれ落ち、巨大な腕を形成していた骨格が分解されると、その内側から人間の輪郭に近い、細身の白い外骨格が姿を現した。
防御力と質量を重視した巨体から、機動力を最大限に引き出すための形態へ。
最後に二本の触覚が形成され、頭部から後方へ長く伸びた。
全因解放。
ホワイト・ラビット。
出久は再構築の完了を待つことなく地面を蹴り、縮小した身体を前方へ投げ出すように加速させた。
「フィスト・バンプ・トゥ・ジ・アース!」
その直後、背後で凄まじい轟音が響いた。
出久がほんの一瞬前まで立っていた交差点の中央に、何の前触れもなく巨大な窪みが生じた。
アスファルトが砕け、地下に埋設されていた配管が破裂し、周囲の街路樹が根元からへし折れる。
押し潰された舗装は逃げ場を求めるように周囲へ盛り上がり、道路脇に停められていた車両が、衝撃によってまとめて横転した。
それは爆発ではなかった。
爆心地に相当する場所には火炎も煙も存在せず、ただ何か途方もなく巨大で重いものが、上から地面を殴りつけたような破壊の痕跡だけが残されていた。
出久は振り返らなかった。
背後から押し寄せる衝撃波に背中を叩かれながらも、細身となったホワイト・ラビットの脚力を最大限に発揮し、建物の壁面を蹴って進行方向を変える。
そのまま道路を横断し、さらに二度の跳躍を重ねて距離を稼いだところで、ようやく後方へ視線を向けた。
そこには、巨大な拳の形をした陥没があった。
「……冗談じゃない」
出久は額に冷や汗を浮かべた。
先ほどまでの巨体であれば、あの一撃を避けることはできなかっただろう。
防御のために外骨格を増強したところで、あれほど巨大な質量を真正面から受け止めれば、装甲ごと地面へ叩き潰されていた可能性が高い。
それほどの破壊を引き起こした当人は、しかし、相変わらずホテルの前から一歩も動いていなかった。
スターアンドストライプは振り下ろした右腕をゆっくりと持ち上げ、遠く離れた出久へ視線を向けていた。
その表情には僅かな感心が浮かんでおり、巨大な拳を回避されたことについて、特に不満を抱いている様子もない。
「へえ」
彼女は小さく声を漏らした。
「さっきみたいにまた小さくなった。大きいのは防御、それは機動力ってところかい? とはいえ、防御重視は私の攻撃を受ければ砕けるし……」
スターアンドストライプは、遠ざかっていく白い影を眺めながら呟いた。
「……小さい方の機動力も、私には及ばない」
出久の変化は、彼女にとって興味深いものだった。巨大化した際には相応の防御力と膂力を備え、細身の形態では骨格そのものを発条として利用することで、通常の人間とは比較にならない加速力を発揮する。
状況に応じて外骨格を組み替えられるのであれば、単なる身体強化系の個性とは一線を画する応用力を持っているのだろう。
しかし、それだけで彼女を上回れるわけではなかった。
確かに速い。
大気を固めて形成した巨人の拳を回避した判断力も、直前まで巨大な身体を維持していたとは思えないほど見事なものだった。
だが、速いというだけなら、スターアンドストライプはそれ以上のものを知っている。
スターアンドストライプは広げていた右手を握り、先ほどまで周囲の大気へ付与していたルールを解除した。
それまで彼女を中心として存在していた巨大な人型は、何の前触れもなく形を失う。
もっとも、出久の目には、その変化を直接捉えることはできなかった。
透明な巨人は最初から目視できていなかったし、解除されたところで、空に浮かんでいた何かが消失するわけでもない。
ただ、五感強化によって拾い上げていた、巨大な物体が周囲の空気を押し退けるような異様な音が、唐突に途絶えたのである。
「……?」
出久はビルの壁面を蹴りながら、僅かに眉を寄せた。
攻撃が止まった。
それも、こちらが十分な距離を取ったからというだけでは説明がつかないほど、唐突に。
彼女はまだホテルの前にいる。
こちらへ向かってくる気配もなく、先ほどまでのように腕を振り上げる様子も見られない。
何をするつもりだ。
そう考えた瞬間、スターアンドストライプが膝を曲げた。
彼女は片膝を地面につくように身体を沈めると、右手を伸ばし、ひび割れたアスファルトへ掌を押し当てた。
出久の背筋に、冷たいものが走った。
「今度は、地面……」
先ほどは大気に触れ、その性質を変更した。
そして今、彼女は地面に触れている。
何をするつもりなのかは分からないが、少なくとも、あの巨大な大気の人型を解除してまで行う何かが、出久にとって都合のよいものであるはずがなかった。
「──新秩序」
スターアンドストライプの声が響いた。
「大地は、私を高速で打ち出す」
直後、彼女の足元が爆ぜた。
出久には、そう見えた。
スターアンドストライプが触れていた地面を中心として舗装が隆起し、まるで地中から巨大な杭が突き出したかのように、彼女の身体を凄まじい勢いで押し上げたのである。
ただし、地面が無秩序に盛り上がったわけではない。彼女の足元に生じた隆起は、その身体を前方へ押し出すように傾斜し、地中から与えられた力を一方向へ集中させていた。
まるで舗装そのものが巨大な発射装置となり、スターアンドストライプを目標へ向けて射出したかのようだった。
轟音が響いた時には、既に彼女の姿は消えていた。
「──なっ!?」
出久は目を見開いた。
先ほどまで百メートル以上離れた場所にいたはずの女性が、視界から消失した。
五感強化によって鋭敏になった視覚が、その移動を辛うじて捉える。
赤いマントが一直線に伸び、金色の髪が風圧によって後方へ流れ、その身体が道路の上を凄まじい速度で突き進んでいた。
速い。
そう認識した瞬間には、既にスターアンドストライプが眼前に迫っていた。
地面から打ち出された彼女は、道路を蹴って加速したわけでも、空中で姿勢を変えながら接近してきたわけでもない。
大地そのものによって与えられた途方もない速度を維持したまま、百メートル以上の距離を一息に詰め、その勢いを殺すことなく右腕を引き絞っていた。
出久は反射的に両腕を持ち上げたが、防御の姿勢を完成させるより早く、スターアンドストライプの拳が胸元へ叩き込まれた。
「──がっ!?」
凄まじい衝撃が全身を貫いた。
出久は咄嗟に、ホワイト・ラビットの胸部を構成する骨格を後方へ撓ませ、脚部に組み込んだ発条機構を解放した。
さらに、拳が接触した瞬間に腰を捻り、身体の重心を後方へ移動させることで、正面から受けるはずだった衝撃を少しでも逃がそうとする。
それは、考えて行った動作ではなかった。
これまで幾度となく繰り返してきた戦闘の経験と、個性によって強化された反射神経が、身体を破壊から守るために選択した、ほとんど無意識の防御行動だった。
しかし、それでも足りなかった。
拳が触れた胸部の外骨格に亀裂が走り、圧縮されていた発条が限界を超えて砕け散る。
衝撃を受け流すために捻った胴体も、その回転速度に耐えきれず、腰部の接合部から白い破片を撒き散らした。
出久の身体が、宙へ投げ出された。
背中から道路へ叩きつけられ、舗装を抉りながら滑走する。
すぐに姿勢を立て直そうとしたものの、右腕の発条が破損していたために十分な制動ができず、身体はそのまま何度も地面を転がった。
一度目の衝突で肩の装甲が砕け、二度目には背中から伸びる二本の触覚が舗装を擦って火花を散らした。
三度目の回転でようやく片足を地面へ押しつけることができたが、勢いはなお衰えず、出久は膝をついたまま数メートルにわたって道路を削り取った。
「ぐっ……!」
最後に左手を地面へ突き立て、残された発条を強引に伸長させることで、ようやく身体が停止した。
しかし、止まっただけだった。
出久はその場に留まることを選ばず、破損した右脚の骨格を再構築しながら、左脚だけで地面を蹴った。
まだ十分に力の入らない身体を無理やり前方へ投げ出し、近くの建物の壁面を蹴って方向を変えると、さらに二度の跳躍を重ねて、スターアンドストライプとの距離を確保する。
そして、ようやく足を止めた。
「はっ……はあっ……!」
呼吸が荒い。
胸部の装甲は半ば失われ、右肩から腰にかけての外骨格にも大きな損傷が生じていた。
再構築は既に始まっているものの、砕けた骨格の内側では鈍い痛みが続いており、深く息を吸い込もうとするたびに胸の奥が軋んだ。
「最近……こんなのの相手ばっかり……」
出久は口元を拭い、指先に付着した血を見つめた。
スターアンドストライプは、そんな出久の様子をしばらく眺めていた。
先ほどの一撃は、決して手加減したものではない。大地から与えられた加速をそのまま拳へ乗せた攻撃であり、通常のヴィランであれば、防御することさえできずに意識を失っていてもおかしくなかった。
しかし、目の前の少年はまだ立っている。
それどころか、破損した白い外骨格を再構築しながら、次の攻撃に備えて姿勢を整えようとしていた。
胸元から覗く衣服には血が滲み、呼吸も明らかに乱れているというのに、その視線だけは彼女の動きを追い続けている。
スターアンドストライプは、握っていた右手を開いた。
「……イズク・ミドリヤ」
突然名前を呼ばれ、出久の肩が僅かに跳ねた。
反射的に地面を蹴ろうとしたが、スターアンドストライプはそれを見越していたかのように、両手を身体の横へ下ろした。
「おっと、待ちなさいってば。ほら、触ってない、ね?」
彼女は開いた両手を出久に見せると、拳を握り直すこともなく、その場に立ち止まった。
「君に、幾つか聞きたいことがある」
「……聞きたいこと?」
「ああ。少し話をしよう」
出久は答えなかった。
スターアンドストライプが攻撃の意思を見せていないことは分かる。
しかし、彼女の場合、両手を下ろしているからといって安全とは限らない。
先ほどは何もない大気へ触れるだけで巨大な拳を作り出し、地面に掌をつけるだけで百メートル以上の距離を一瞬にして詰めてきたのである。
仮に本当に会話を望んでいるとしても、その気になればいつでも戦闘を再開できるという事実は変わらなかった。
出久は警戒を解かないまま、慎重に口を開いた。
「……何でしょうか」
「まず、そうだね。私は今回、日本へ来るにあたって、ある程度有名なヴィランのデータには一通り目を通しておいた。外国で活動する以上、どんな連中がいるのかくらいは知っておくべきでしょう?」
スターアンドストライプは、何気ない調子でそう言った。
「もちろん、君のこともね」
彼女は背後に聳えるホテルへ視線を向けた。
先ほどまで彼女がいた最上階のレストランは、窓ガラスが大きく破損し、外壁の一部が剥がれ落ちている。
その下では、出久との戦闘によって道路が陥没し、横転した車両や砕けた街路樹が散乱していた。
「けれど、君が政財界の要人を狙うようなヴィランだとは思わなかった。少なくとも、私が調べた限りでは、そういう連中とは少し違うように見えたんだけど」
彼女は出久へ向き直った。
「……何のつもりだい?」
その問いかけに、出久はすぐには答えられなかった。
スターアンドストライプの認識は、ある意味では当然のものだった。
彼女は、異能解放軍の存在を知らない。
少なくとも、先ほどレストランで交わされていた会話から判断する限り、四ツ橋力也がリ・デストロであることも、花畑孔腔が異能解放軍の幹部であることも、把握していないようだった。
彼女にとって、あのレストランに集まっていたのは、日本の政財界に影響力を持つ人々である。
そこへ突然、指名手配犯である緑谷出久が現れた。
しかも、会場には破壊された椅子が散乱し、明らかに穏やかではない雰囲気が漂っていたのだから、彼女が出久を襲撃者と判断したとしても、何ら不思議ではない。
……さて、どうしたものか。
出久は口元に手を当てようとして、右腕の外骨格がまだ完全には再生していないことに気づき、途中で動作を止めた。
ここで異能解放軍の存在を明かすことはできる。
四ツ橋力也がリ・デストロであること、花畑孔腔が解放軍の最高幹部であること、そして今日の会議に集まっていた人々が、日本各地へ影響力を広げる巨大な地下組織の指導者たちであること。
それらを説明すれば、少なくともスターアンドストライプが抱いている誤解の一部は解けるだろう。
しかし、問題は、その説明を彼女が信じるかどうかだった。
日本国内で指名手配されているヴィランが、アメリカのナンバーワンヒーローに対して、今しがた会食を共にしようとしていた人々は全員危険な犯罪組織の幹部なのだと主張する。
それだけなら、逮捕を逃れるための苦し紛れの嘘だと思われても仕方がない。
「……信じられないかもしれませんが、あそこにいた四ツ橋さんたちは、異能解放軍という反体制の過激派組織を率いるヴィランなんです」
出久は、できるだけ落ち着いた声でそう告げた。
スターアンドストライプは、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと両腕を組むと、目の前の少年を胡散臭そうに見下ろした。
「……へえ?」
その声には、隠そうともしない疑念が滲んでいた。
「四ツ橋力也。デトネラット社の代表取締役で、日本でも有数の実業家だったね。それから、あの場には与党の国会議員もいたはずだけど」
「花畑孔腔さんですね。泥花市を地盤とする衆議院議員で、与党の広報本部長です」
「そう、その人。私が聞いた限りじゃ、彼らは日本の政財界でそれなりの影響力を持つ人物だ。アグパー司令が同席する会食の相手として、事前に身元の確認もされている」
スターアンドストライプはそこで言葉を切り、改めて出久の顔を覗き込んだ。
「それが実は、反体制の過激派組織を率いているヴィランでした、って?」
「……はい」
「しかも、そんな連中が揃いも揃って、一つのレストランに集まっていた?」
「そうです」
「そこへ君たち敵連合が現れた、と」
「はい。以前から解放軍には勧誘されていたんですけど、僕たちがそれを断ったことで、向こうと敵対することになってしまって」
スターアンドストライプは、しばらく考え込むように腕を組んでいた。
彼女の表情には、依然として疑念が残っている。
出久が語った異能解放軍の存在、その指導者である四ツ橋力也の正体、そして政財界へ広がる組織の影響力。いずれも事実ではあったが、何の予備知識も持たない相手にとっては、容易に信じられる内容ではなかっただろう。
「……なるほどねえ」
スターアンドストライプは、ようやく口を開いた。
「つまり、君たちは異能解放軍に勧誘されて、それを断った結果、敵対することになった。しかも、その組織の幹部には大企業の経営者や国会議員がいて、今の日本社会をひっくり返そうとしている……というわけだ」
「はい……」
「なるほど、なるほど」
スターアンドストライプは納得したように頷き、それから何でもないことのように言った。
「まあ、信じないんだけどね」
「…………」
出久は言葉を失った。
しばらく彼女の顔を見つめていたが、スターアンドストライプは特に悪びれた様子もなく、むしろ出久の反応を面白がっているように見えた。
「……聞いておいて……」
思わず、不満が口をついて出た。
それなりに慎重に言葉を選び、明かせる範囲で事情を説明したつもりだった。
異能解放軍の存在についても、四ツ橋たちの正体についても、嘘は一つもついていない。それなのに、最後まで話を聞いた上で信じないと断言されてしまえば、多少の不満を覚えるのも仕方がないだろう。
スターアンドストライプは、そんな出久の様子を見て愉快そうに笑った。
「ははっ、悪いね。でも、仕方ないでしょう? 君の話には裏付けがないんだもの」
「……それは、そうですけど」
彼女は肩を竦めた。
「私が事前に確認した資料では、四ツ橋力也は大企業の経営者で、花畑孔腔は与党の国会議員だ。どちらも社会的な信用を持つ人物だし、今回の会食だって正式な手続きを経て設定されている。そこへ指名手配中のヴィランが現れて、実はあの連中こそ犯罪者なんですと言い出したところで、簡単に信じられるわけがないじゃない」
出久は反論しかけたが、結局は口を閉じた。
彼女の言っていることは、もっともだった。
立場を逆にして考えれば、出久自身も同じような判断を下したかもしれない。
何の証拠も提示できない犯罪者の言葉を信じ、社会的な信用を持つ人々を秘密組織の幹部だと決めつけることなど、普通はできないだろう。
「……でも、本当なんです」
「そうかもしれないね」
スターアンドストライプは、あっさりと答えた。
「実際、立派な肩書きを持ちながら悪事を働いている連中なんて、アメリカにもいくらでもいる。企業の経営者だろうが政治家だろうが、犯罪者になる時はなるものさ」
彼女はそこで一度言葉を切り、出久を見つめた。
「ただ、それを判断するには証拠が必要だ。君が本当のことを言っているのか、それとも逮捕を逃れるために嘘をついているのか、今の私には区別がつかない」
「……はい」
「それにね」
スターアンドストライプは組んでいた腕を解き、ゆっくりと出久の方へ歩き始めた。
「あの場の全員がヴィランだったとしても、君を逮捕しない理由にはならないからね」
出久の身体が、僅かに強張った。
彼女は特に急ぐ様子もなく、瓦礫の散乱する道路を一歩ずつ進んでくる。
先ほどのように地面を利用して加速することもなければ、拳を構えることもない。ただ、普通に歩いているだけだった。
出久との間にあった数十メートルの距離が、会話を重ねるうちに少しずつ縮まっていく。
スターアンドストライプが一歩近づくたびに、出久の脚部では発条が僅かに軋んだ。
逃げようと思えば、いつでも跳躍できる。しかし、彼女の指先が触れる距離まで近づかれれば、その一瞬の判断すら許されない。
「君が異能解放軍と敵対しているのは、分かった。彼らを止めようとしているという話も、一応は理解したよ」
スターアンドストライプは歩みを止めずに続けた。
「でも、だからといって君がこれまでに起こしてきた事件がなかったことになるわけじゃない。別の犯罪者を捕まえようとしていたから、自分は見逃してくださいなんて話は通らないだろう?」
「……それは、分かっています」
「なら、話は早い」
彼女は僅かに笑った。
「私はヒーローで、君は指名手配中のヴィランだ。君を見つけた以上、逮捕しようとするのは当然のことだし、君の話を聞いたからといって、その判断が変わるわけじゃない」
出久は、ゆっくりと息を吐いた。
会話の間にも、胸部の外骨格は少しずつ再構築されていた。
砕けた骨格の断面から新たな骨が伸び、破損した発条機構を補うように組み合わさっていく。
しかし、内部に受けた損傷までは完全に回復しておらず、深く呼吸するたびに胸の奥で鈍い痛みが生じていた。
それでも、今は戦闘を再開するより、彼女との会話を続ける方が遥かに建設的だった。
「……それじゃあ、僕が何を話しても、結局は逮捕するつもりなんですね」
「そういうことになるわね」
スターアンドストライプは、何の躊躇いもなく頷いた。
出久は困ったように眉を下げた。
「……厳しいなあ」
「当たり前よ。私はヒーローなんだから」
彼女はそう言って、さらに一歩近づいた。
二人の間には、まだ数メートルの距離が残されている。
出久は、彼女の足元を見つめながら、後退するべきかどうかを考えていた。
今すぐ地面を蹴れば、少なくとも彼女の手が届く前に距離を取ることはできるだろう。しかし、先ほどのように大地を利用して加速された場合、こちらの機動力では振り切れないことも既に分かっている。
そもそも、彼女が本当に攻撃するつもりなら、こうして歩いて近づく必要などないのだ。
「……それで、どうするつもりですか?」
出久が尋ねると、スターアンドストライプは足を止めた。
彼女は白い外骨格に覆われた少年を見下ろす。
「決まってるでしょう?」
そのまま、ゆっくりと口角を上げていく。
「君をとっちめてから、ゆっくり話を聴こうじゃないか」