街灯に照らされた歩道を行き交う人々の間を縫うように駆け抜け、曲がり角ではほとんど速度を落とさずに身体の向きを変える。
その後ろを追いかける麗日お茶子も、雄英高校で培った運動能力を存分に発揮していたが、ホテルから相当な距離を走り続けたことで、さすがに呼吸が乱れ始めていた。
「ヒミコちゃん、ちょっと……!」
「はい?」
「ちょっと、待って……!」
肩越しに振り返ったトガは、お茶子の様子を確認すると、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたんですか、お茶子ちゃん?」
「どうしたって……ちょっと、速すぎ……!」
「あれ? そうですか?」
「そうやって普通に喋れるのが、おかしいんやって……!」
お茶子が息を切らしながら抗議すると、トガは楽しそうに笑った。
無論、お茶子とて運動能力には自信がある。
雄英高校のヒーロー科で鍛えられた身体は一般人と比較すれば十分に優れた持久力を備えているし、個性を利用すれば建物の屋上を伝って移動することも難しくない。
しかし、トガヒミコという少女は、そうした訓練で培った体力とは全く異なった運動能力を持っていた。
彼女は障害物を避ける際にもほとんど減速せず、曲がり角では壁や電柱を利用して身体の向きを変え、歩道に設置された柵などは軽々と飛び越えてしまう。
その一連の動作には無駄がなく、走るというより、街そのものを利用して移動しているように見えた。
「お茶子ちゃん、もっと運動した方がいいですよ?」
「しとるわ!」
思わず声を張り上げたお茶子だったが、そのせいで呼吸が乱れ、すぐに後悔することになった。
トガはそんな彼女を見て笑みを深めたものの、足を止めようとはしなかった。
ホテルには、スターアンドストライプがいる。
アメリカのナンバーワンヒーローにして、オールマイトの引退した現在、世界最強とまで称される人物だった。
実際にその姿を目にした時間は短かったものの、彼女が放つ圧倒的な存在感は、お茶子の記憶に強く焼きついている。
そして、そんな相手を引き受けるために、出久とトゥワイスはたった二人でホテルの近くに残っていた。
お茶子は走りながら、何度目になるか分からない後方への視線を向けた。
高層建築物の向こうにはホテルの上層階が僅かに見えており、先ほどまであの場所にいたことが信じられないほど遠く感じられたが、その方向から時折響いてくる低い轟音だけは、距離を隔ててもなお聞き取ることができた。
出久が強いことは知っている。
これまで幾度となく格上の相手と戦い、どれほど追い詰められても諦めずに立ち上がってきたことも、お茶子はよく知っていた。しかし、強いからといって必ず無事に帰ってくるとは限らないこともまた、これまでの経験から嫌というほど理解している。
まして、今回の相手はスターアンドストライプなのだ。
胸の奥に広がる不安を振り払おうとするように、お茶子は前を向いた。
トガはさらに二つの角を曲がり、建物と建物の間に挟まれた細い路地へ入り込むと、そこでようやく足を止めた。
背後を振り返ってしばらく耳を澄ませ、大通りを走る車の音や遠くで鳴っているサイレンに混じって、自分たちを追いかけてくる足音がないことを確かめる。
「……うん。ここまで来れば、たぶん大丈夫ですね」
「はあっ……はあっ……!」
その言葉を聞いた途端、お茶子は両膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返した。
走っている間はどうにか保っていた呼吸が、足を止めたことで一気に乱れ、額から流れた汗が頬を伝って地面へ落ちていく。
「つ、疲れた……ヒミコちゃんは、なんでそんな平気なん……?」
「逃げるのには慣れてますから!」
トガは胸を張って答えた。
実際、彼女もまったく疲れていないわけではなかったが、お茶子ほど消耗していないことは確かで、周囲を警戒する余裕も十分に残している。
お茶子はそんな彼女を恨めしそうに見上げたものの、反論する気力も残っていなかったのか、諦めたように息を吐いて近くの建物へ背中を預けた。
「……デクくん、大丈夫かな」
独り言のように漏らした言葉に、トガはすぐには答えなかった。
彼女もまた、出久が残ったホテルの方角を気にしていたのだろう。
路地の入り口へ視線を向けたまま、何かを考えるように唇を尖らせていたが、やがてお茶子へ向き直ると、いつもの笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。出久くん、強いですから。それに、仁くんも一緒ですし」
「……うん。そうやね」
お茶子は頷いたものの、不安が消えたわけではなかった。
トガが出久を信じていることは分かっているし、自分だって同じ気持ちだったが、好きな人が命懸けの戦いをしていると知りながら、何もできずに逃げていることが、どうしようもなく歯痒かった。
お茶子がもう一度ホテルの方角を見ようとした、その時だった。
「おーい、君たち」
不意に、路地の入り口から声がした。
振り返ると、そこには一人の中年男性が立っていた。
少し腹の出た体格に、目立たない色のジャンパーとスラックスを身につけ、片手にはコンビニエンスストアの買い物袋を提げている。
その姿は仕事帰りに夕食でも買ってきた、ごく普通の会社員にしか見えなかった。
「大丈夫かい? そんなに焦って、なにか急ぎの用事でもあるのかい?」
男性は心配そうに眉を下げながら、二人へ近づいてきた。
お茶子は一瞬、どう答えるべきか迷った。
泥花市の住民は、全員が異能解放軍の構成員である。
その事実は出久から聞かされていたし、今回の作戦がどれほど危険なものなのかも理解していた。
したがって、目の前の男も敵であることは間違いなく、迂闊に接触するべきではない。
しかし、だからといって、道端で声をかけてきた人間をいきなり殴り倒すわけにもいかなかった。
「あ、すいません。大丈――」
お茶子がそう答えようとした瞬間、肩を強く引かれた。
「――っ!?」
背後から伸びてきた手が彼女の肩を掴み、身体を横へ引き倒す。
壁に預けていた背中が離れ、足元がもつれ、視界が大きく傾いたところで、つい先ほどまで自分の顔があった空間を、何かが凄まじい速度で通り過ぎた。
直後、背後の壁面が轟音とともに砕け散った。
「――え?」
自分がほんの一瞬前まで立っていた場所に、男性の右腕が突き出されている。
その拳はコンクリートの壁へ深々とめり込んでおり、衝突した箇所を中心として蜘蛛の巣状の亀裂が広がっていた。
男のジャンパーは肘の辺りから裂け、その内側に装着されていた金属製の機構が露出している。
前腕を覆う複数の補強材が拳まで伸び、関節部分には小型の駆動装置が組み込まれていた。
そして、装甲の側面には、小さな企業ロゴが刻まれている。
デトネラット。
先ほどまで出久たちが相手にしていた、四ツ橋力也の経営する企業の名前だった。
「……あらら」
男性が、小さく声を漏らした。
その口調には、先ほどまでの心配そうな響きが残っていなかった。
壁にめり込んだ拳をゆっくりと引き抜き、砕けたコンクリートの破片を払い落とすと、まるでちょっとした失敗をしたかのように困った笑みを浮かべる。
「避けられちゃったか」
お茶子は反射的に男との距離を取り、腰を落として両手を身体の前へ持ち上げた。
中年男性は、サポートアイテムによって脅威足りえるが、戦闘経験や技術ならばお茶子に分がある。
とはいえ、躊躇の一切ない解放軍を相手にして、傷つけずに制圧というのは中々に難しい。
「……お茶子ちゃん」
背後から声をかけられ、お茶子は僅かに視線を向けた。
トガヒミコが、彼女のすぐ隣に立っていた。
その表情からは先ほどまで浮かんでいた無邪気な笑みが消えており、普段と変わらない制服姿でありながら、その立ち姿にはどこか異様な静けさがあった。
「下がっててください」
「……ううん。うちも戦えるよ」
「でも、危ないですよ?」
「分かっとる」
お茶子がそう答えると、トガは少しだけ目を丸くした。
しかし、すぐに口元を緩め、男へ向き直った。
「……じゃあ、気をつけてくださいね」
男は二人のやり取りを黙って眺めていたが、やがて右腕の駆動装置を作動させると、拳を覆う金属板を僅かに展開させた。
「それじゃあ、今度はちゃんと当てないとね」
男が右足を踏み込んだ。
お茶子はその動きを見逃さず、強化された右腕が引き絞られると同時に身体を沈め、拳の軌道から外れるように半歩踏み込んだ。
相手の腕を捌き、手首へ触れて無重力を発動させるつもりだったが、男の拳は予想していたよりも遥かに速かった。
駆動装置が鋭い音を立てた瞬間、右腕が不自然なほど急加速する。
お茶子は咄嗟に身体を捻り、直撃を避けようとしたが、間合いの内側へ入り込むはずだった自分の身体が、逆に攻撃の軌道へ晒されてしまう。
それでも、男の右腕へ左手を伸ばし、せめて拳の向きを逸らそうとした、その瞬間。
トガヒミコが、飛び出した。
お茶子の目には、彼女がいつ動き始めたのか分からなかった。
男が右腕を引き絞った瞬間には既にその懐へ潜り込んでおり、制服の裾を翻しながら身体を捻ると、袖口から取り出したナイフを躊躇なく振り抜いていた。
銀色の刃が、男の首元を横切った。
「――がっ!?」
男の口から潰れたような声が漏れ、右腕を振り抜こうとしていた身体が不自然に硬直する。
反射的に左手を首元へ押し当てたが、指の隙間から赤いものが滲み出し、男は驚愕に目を見開いたまま二歩、三歩と後退して壁へ背中をぶつけた。
トガは既に男の間合いから離れており、右手に握られたナイフを軽く振って刃先についた血を払うと、相手がまだ動けるかどうかを確かめるように、その様子を観察していた。
「ぐ……ぁ……!」
男は首元を押さえながら、ずるずると壁に沿って崩れ落ちていった。
強化された右腕は依然として動いていたが、もはや拳を振るう余裕はないらしく、その場に膝をついて苦しそうに身体を丸める。
お茶子は、その光景を呆然と見つめていた。
ほんの数秒前まで、自分たちを殺そうとしていた男だった。
トガが動かなければ、今度こそ自分が殴られていたかもしれないし、彼女が相手を攻撃したこと自体を責めるつもりもなかったが、それでも、あまりにも早かった。
男が拳を振りかぶり、トガが飛び出し、ナイフを振るう。
その一連の動作に迷いはなく、相手の命を奪うことへの躊躇いも、少なくともお茶子の目には見えなかった。
「……ヒミコちゃん!?」
お茶子が呼びかけると、トガは振り返った。
「お茶子ちゃん、油断しちゃだめですよ」
まるで、ちょっとした失敗をした友人へ注意するような口調だった。
しかし、右手には血のついたナイフが握られており、その背後では男が首元を押さえながら苦しそうに呻いている。
「忘れたんですか? 出久くんが解放軍をぶっ潰すって決めたから、この街の人はみんな、敵なのです」
トガは、にっこりと笑った。
その笑みを見た瞬間、お茶子は思わず息を呑んだ。
あまりにも悍ましい笑顔だった。
お茶子は、トガが危険な少女であることを知っている。
彼女がこれまで何をしてきたのかも、その手が決して綺麗なものではないことも、理解しているつもりだった。
それでも、こうして目の前で人間の首を切り裂き、苦しんでいる相手を前にして笑う姿を見ると、自分が知っているトガヒミコという少女の輪郭が、ほんの僅かに揺らいでしまう。
恐ろしかった。
「……ヒミコちゃん」
「はい?」
トガは不思議そうに首を傾げたが、お茶子が何も言わないことを確認すると、再び男へ向き直った。
「それじゃあ、早く行きましょうか。この人もはやく殺しちゃいましょう!」
そう言いながら、男へ近づいていく。
彼女の歩き方には何の気負いもなく、ただ目の前に残された仕事を片づけようとしているかのような、あまりにも自然な足取りだった。
男は壁に背中を預けたまま、左手で首元を押さえていた。
指の隙間から血が滲み、呼吸に合わせて肩が小刻みに震えているが、強化された右腕を振るうだけの余裕は残されていないらしい。
トガがナイフを持ち上げた。
「あかん!」
お茶子は反射的に飛び出し、トガの手首を掴んで男から引き離すように身体を押し戻した。
突然のことにトガは目を丸くしたが、抵抗することはなく、ナイフを握ったままお茶子を見つめた。
「……お茶子ちゃん?」
「もうええやろ! この人、もう戦えへんやん!」
お茶子は荒い呼吸を繰り返しながら、トガの手首を離さなかった。
つい先ほどまで自分を殺そうとしていた相手である。
助ける義理などないと言われれば、その通りなのかもしれないし、この男が再び自分たちを襲わないという保証もない。
それでも、目の前で動けなくなっている人間を、わざわざ殺す必要があるとは思えなかった。
「でも、この人、私たちを殺そうとしたんですよ?」
「分かっとる!」
「それに、ここで逃がしたら、また仲間を呼ぶかもしれません。そうなったら、もっと大変ですよ?」
「それも分かっとるって!」
お茶子は思わず声を張り上げたが、すぐに唇を噛んだ。
トガの言っていることは、決して間違っていない。
この街に暮らす人間は全員が異能解放軍の構成員であり、目の前の男も例外ではない。
彼が連絡を取れば、すぐにでも新たな追跡者が現れる可能性があった。
だからこそ、トガは男を殺そうとしている。
それが最も確実な方法だと考えているのだろう。
しかし、お茶子は、どうしても納得したくなかった。
「……とにかく、ちょっと待ってて」
お茶子はトガの手首を離すと、男の傍らへしゃがみ込んだ。
男は彼女が近づいてきたことに気づくと、怯えたように身体を強張らせた。
首元を押さえている左手に力が入り、何かを言おうとしたらしく口を開いたものの、漏れ出したのは苦しそうな呻き声だけだった。
「大丈夫です。もう攻撃したりしませんから」
お茶子はできるだけ落ち着いた声で告げた。
つい先ほどまで互いに殺し合おうとしていた相手であり、今も背後には血のついたナイフを握ったトガが立っているのだから、安心しろと言われたところで難しいだろうが、何も言わずに身体へ触れるよりはましだった。
「傷を見せてください。手当てしますから」
雄英高校のヒーロー科では、戦闘訓練だけでなく、負傷者への応急処置についても一通りの教育を受けている。
もちろん、彼女は医師でもなければ専門の救急救命士でもなく、できることには限界があったが、少なくとも目の前で出血している人間を放置するべきではないことくらいは分かっていた。
男が押さえていた手を僅かにずらすと、首の側面に横長の傷が見えた。
出血は続いているものの、幸いにも勢いよく噴き出している様子はない。
傷の深さまでは判断できなかったが、男の意識ははっきりしており、呼吸も苦しそうではあるものの保たれている。
しかし、首の傷は見た目だけで安全を判断できるものではない。
お茶子は着ていた上着を脱ぎ、比較的清潔な内側の布地を利用して傷口へ当てた。
男が痛みに顔を歪めたため、できるだけ余計な刺激を与えないよう注意しながら、出血している部分を圧迫する。
「ちょっと痛いと思いますけど、我慢してください。血を止めんといけませんから」
男は何も答えなかったが、抵抗することもなかった。
お茶子は布を押さえたまま、背後に立っているトガへ視線を向けた。
「ヒミコちゃん、お願い。この人、もう攻撃できへんと思うから、ちょっとだけ待ってて」
「……どうしてですか?」
トガは、心底不思議そうに尋ねた。
「お茶子ちゃん、その人に殺されそうになったんですよね?」
「うん」
「私が助けなかったら、死んじゃってたかもしれないんですよ?」
「……うん。分かっとるよ」
「だったら、どうして助けるんですか?」
お茶子は、すぐには答えなかった。
トガの声には責めるような響きはなく、彼女は本当に分からないことを尋ねているようだった。
どうして助けるのか。
そう尋ねられれば、確かに説明することは難しかった。
目の前の男は、自分たちを殺そうとした異能解放軍の構成員であり、助けたところで感謝される保証はなく、むしろ回復すれば、再び敵として立ちはだかる可能性さえある。
それに、今は自分たちの命も危険に晒されているのだ。
こんな場所で悠長に応急処置をしている場合ではないというトガの考え方にも、十分な合理性がある。
しかし、お茶子には、どうしても譲れないものがあった。
「……うちだって別に、この状況で人を絶対に殺したり傷つけちゃダメって言うほど、平和ボケしとらんよ」
お茶子は、傷口へ押し当てた布を見つめながら答えた。
「この人がうちらを殺そうとしたのは分かっとるし、ヒミコちゃんが助けてくれへんかったら、うちがどうなっとったかも分からん。だから、ヒミコちゃんがこの人を殺そうとしたことは……びっくりしたけど、理屈は分かる」
あの瞬間、彼女が躊躇っていれば、自分は確実に攻撃を受けていただろう。
相手がどのような事情を抱えているのかなど考える余裕もなく、ただ目の前の少女を守るために動いてくれたことを、お茶子は否定するつもりなどなかった。
それでも、今は状況が違う。
男は既に倒れており、強化された右腕を振るうこともできない。
少なくとも、目の前にいる二人を今すぐ殺せるような状態ではなくなっている。
「でも、殺さずに済むなら、そっちの方がいいよ。絶対!」
お茶子は顔を上げ、トガを見つめた。
「この人を殺さんでも、うちらが逃げられるんやったら、それでええやん。わざわざ命まで取る必要なんてないし、助けられるんやったら、助けた方がええと思う」
トガは黙っていた。
お茶子は再び男へ視線を戻すと、布を押さえる手に力を込めた。
傷口からの出血は少しずつ落ち着いてきたように見えるものの、まだ完全には止まっておらず、男の顔色も決してよいとは言えなかった。
できることなら救急車を呼びたい。
しかし、今の自分たちは指名手配されている身であり、ここへ救急隊や警察が駆けつければ、そのまま逮捕される可能性が高い。
それに、この街では救急隊員や警察官の中にまで異能解放軍の構成員がいる可能性もあり、安易に助けを求めることもできなかった。
「……おじさん、聞こえますか?」
男は僅かに頷いた。
「うちら、もうすぐここを離れます。そしたら、すぐに救急車を呼んでください。自分で動こうとせんと、できるだけ安静にして、病院で診てもらってくださいね」
男は何かを言おうとしたが、結局は小さく頷くだけだった。
お茶子はそれを確認すると、布を押さえている手を男自身の左手へ重ね、同じ場所を圧迫するように促した。
男が指示に従ったことを確かめてから、ようやく自分の手を離す。
指先には、赤い血が付着していた。
人の血を見ることには、まだ慣れない。
これまでにも負傷者の手当てをしたことはあるし、戦闘の中で自分自身が怪我をしたこともあったが、目の前の男を傷つけたのが自分の仲間であり、その男がほんの少し前まで自分を殺そうとしていたという状況は、これまでの経験とは明らかに異なっていた。
それでも、後悔はなかった。
少なくとも、今この瞬間に限っては、男を助けるという自分の判断が間違っているとは思わなかった。
「……お茶子ちゃん」
背後から声がした。
振り返ると、トガが少し離れた場所に立っていた。
ナイフは既に袖口へ収められており、彼女は両手を身体の前で組みながら、お茶子をじっと見つめている。
その表情には先ほどまでの悍ましい笑みはなく、かといって不満そうにしているわけでもなかった。
「……なに、ヒミコちゃん?」
「それは、お茶子ちゃんがヒーローになりたいからですか?」
お茶子は、少しだけ考えてから答えた。
「……違うよ。もううちはヒーローにはなれないし」
その言葉を口にした時、自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
かつての自分であれば、そんなことを言われただけで必死に否定していただろう。
雄英高校へ入学し、ヒーローになるための勉強を重ね、両親の負担を減らすという夢を胸に抱いていた頃の自分にとって、ヒーローになれないという未来は、何よりも受け入れ難いものだったはずだ。
しかし、今は違う。
雄英を離れ、敵連合の一員として活動し、指名手配されるようになった現在の自分が、再びヒーローとして社会に受け入れられる可能性は限りなく低い。
仮にこれから何を成し遂げたとしても、これまでの行動がなかったことになるわけではなく、失ってしまったものをすべて取り戻せるとも思っていなかった。
それでも、不思議と絶望は感じなかった。
ヒーローになれないことと、誰かを助けたいと思うことは、必ずしも同じではないのだと、今のお茶子は知っている。
お茶子は男の様子を最後にもう一度確認すると、ゆっくりと立ち上がった。
男は指示された通りに布を首元へ押し当てており、依然として顔色は悪かったものの、意識を失うような様子は見られない。
「おじさん、絶対に病院へ行ってくださいね。傷、見た目より深いかもしれませんから」
男は何も答えなかった。
ただ、壁に背中を預けたまま、お茶子とトガを交互に見つめていた。
その視線には警戒と恐怖が入り混じっており、助けられたことへの感謝よりも、目の前の少女たちが何を考えているのか分からないという困惑の方が大きいように見えた。
お茶子はそれを責めるつもりもなく、男から視線を外すと、トガへ向き直った。
「ヒミコちゃん、ちょっとこっち向いて」
「はい?」
言われた通りに顔を向けたトガの頬へ、お茶子は手を伸ばした。
先ほどの戦闘で飛び散ったのだろう。
彼女の左頬には小さな血の跡がついており、乾きかけた赤い筋が、白い肌の上で妙に目立っていた。
お茶子はポケットから取り出したハンカチで、その血をそっと拭った。
「……あれ?」
トガは目を瞬かせた。
普段であれば、血がついていることなど気にも留めなかっただろう。
むしろ、好きな人の血を手に入れることを何よりも喜ぶ彼女にとって、それは嫌悪するべき汚れではなく、時には愛おしささえ感じるものだった。
「お茶子ちゃん、どうしたんですか?」
「血がついとったから」
お茶子はそう言って、もう一度ハンカチを頬へ当てた。
トガは素直に動きを止めたものの、その視線だけはお茶子の顔から離れなかった。
至近距離で見つめられていることに気づいたお茶子は、少しだけ気恥ずかしくなったが、今さら手を引っ込めるのもおかしい気がして、そのまま残っていた血を丁寧に拭い取った。
「……はい。綺麗になったよ」
「……えへへ」
トガが笑った。
今度の笑みには、先ほど男へ向けていたような悍ましさはなかった。
頬を緩め、少しだけ照れくさそうに目を細めるその表情は、年相応の少女が友人に世話を焼かれて喜んでいるようにしか見えなかった。
お茶子は、その笑顔を見つめながら口を開いた。
「……うちは、ヒミコちゃんに人を殺してほしくないよ」
トガの笑みが、僅かに止まった。
「……どうしてですか?」
「どうしてって……」
お茶子は言葉を探した。
トガが人を傷つけることに喜びを感じる少女であることは、知っている。
血を吸うことが彼女にとって特別な意味を持っていることも、それが単なる嗜好や悪趣味として片づけられるものではないことも、これまで一緒に過ごしてきた中で少しずつ理解してきたつもりだった。
だからこそ、ただ人を傷つけるなと命令したところで、何も変わらないだろうということも分かっていた。
トガヒミコにとって、血を求めることは、自分の好きという感情を表現する方法でもある。
それを頭ごなしに否定すれば、彼女自身を否定することになってしまうのかもしれない。
けれど、だからといって、人を殺すことまで受け入れなければならないとは思わなかった。
「……ヒミコちゃんが血を好きなのは、分かっとるよ。うちにはまだその趣味っていうか、性癖……は、分からんけど、ヒミコちゃんにとって、それがすごく大事なことなんやっていうのも、ちゃんと分かっとるつもり」
お茶子は、ハンカチを握り締めた。
「でも、血が欲しいからって、誰かが死んじゃうのは嫌やし……ヒミコちゃんが、誰かを殺してしまうのも嫌なんよ」
「……」
「だって、ヒミコちゃんには笑っててほしいもん。誰かを殺した時だけやなくて、もっと普通に、ご飯食べたり、お喋りしたり、好きな人の話をしたりして、笑っててほしい」
トガは黙っていた。
お茶子は少しだけ頬を赤くすると、視線を逸らした。
「……血が欲しいなら……デクくんじゃなくて、うちがあげるから……」
「……え?」
トガが目を見開いた。
お茶子は自分で言っておきながら、途端に恥ずかしくなってしまった。
血をあげるなどという約束が、どれほど奇妙なものなのかは理解している。
そもそも、そんなことを軽々しく口にするべきではないのかもしれないが、少なくとも彼女には、トガの好きという気持ちを否定せずに受け止めたいという思いがあった。
それに、もう一つ。
どうしても、言っておかなければならないことがある。
「……デクくんじゃあかんよ。エッチすぎるからね」
言い終わった瞬間、自分が何を口走っているのか分からなくなり、お茶子は顔を真っ赤にした。
先ほどまで人の命について真剣に話していたはずなのに、どうしてこんな話になってしまったのだろう。
しかも、目の前のトガは驚いたように目を丸くしたまま、何かを確かめるように自分の顔をじっと見つめている。
「……お茶子ちゃん」
「な、なに?」
「それって、やきもちですか?」
「ち、違うよ!」
反射的に否定したものの、トガの表情を見る限り、まったく説得力がなかったらしい。
彼女は一度口元を押さえると、堪えきれなくなったように笑い始めた。
肩を揺らし、目を細め、ついには身体を折り曲げてしまうほど楽しそうに笑うものだから、お茶子はますます恥ずかしくなり、何か言い返そうと口を開いたものの、結局は言葉にならなかった。
「えへへ! お茶子ちゃん、可愛いです!」
「もう、ヒミコちゃん!」
「でも、嬉しいですよ。お茶子ちゃんが、私に血をくれるって言ってくれたの」
そう言って、トガは笑った。
先ほどまでのような、人を傷つけることへの喜びを含んだ笑顔ではなかった。
お茶子が自分へ向けてくれた言葉を、その意味を確かめるように胸の内で繰り返し、どうしようもなく嬉しくなってしまった少女の笑顔だった。
お茶子はその表情を見つめ、少しだけ困ったように眉を下げた。
「……そやから、何でも好きにしてええって意味やないからね?」
「はい!」
「ちゃんと話し合って、うちが嫌やって言ったらやめてくれる?」
トガは、すぐには答えなかった。
「……お茶子ちゃん」
「ん?」
「私、お茶子ちゃんのこと、好きですよ?」
「……うん」
「好きだから、血が欲しいんです。好きだから、もっと近づきたいんです」
トガは、少しだけ困ったように眉を下げた。
「だから、お茶子ちゃんが嫌だって言ったら……私は我慢します。でも、デクくんから吸っちゃだめってって言うのはやです! デクくんは良いって言ってくれてますから!」
「えー! あかんって!」
その時、遠くでサイレンが鳴った。
二人は同時に顔を上げ、路地の入り口へ視線を向けた。
大通りでは車の往来が続いており、先ほどまでと変わらない街の喧騒が聞こえてくる。
しかし、この街が異能解放軍の勢力圏であることを考えれば、いつまでも同じ場所に留まっているわけにはいかなかった。
「はあ……そろそろ行こっか」
「はーい!」
お茶子は最後にもう一度、壁際に蹲っている男へ視線を向けた。
男は依然として首元を押さえていたが、こちらへ襲いかかってくる様子はなく、二人が立ち去ろうとしていることを確認すると、僅かに顔を伏せた。
お茶子は小さく頭を下げると、トガとともに歩き始めた。
大通りへ出れば人目につく可能性があるため、二人は建物の間を縫うように続く裏路地を選び、周囲の様子を確かめながら足を進めていく。
夜の泥花市は、相変わらず静かだった。
街灯に照らされた裏路地を、二人の少女が並んで歩いていく。
少し前まで互いに殺し合おうとしていた人間がいた場所から離れ、遠くで鳴り続けるサイレンを聞きながら、それでも二人は、他愛もない会話を続けていた。
お茶子は、隣を歩くトガの横顔を見つめた。
自分がこれから何者になれるのかは、まだ分からない。
ヒーローにはなれないし、かつての夢を取り戻すことも、きっと難しいだろう。
それでも、今の自分にできることが何もないわけではない。
少なくとも、隣を歩いている少女が誰かを殺そうとした時には止めたいと思うし、彼女が笑っている時には、自分も一緒に笑っていたい。
それが正しいことなのかどうかは分からなかったが、ただ、お茶子はそうしたいと思った。
「あ、サイレン近付いてきます」
お茶子は路地の奥へ視線を向けた。
建物と建物の間に続く細い通路は途中で何度も折れ曲がり、その先がどうなっているのか見通すことができない。
街灯の光もほとんど届いておらず、奥へ進むほど暗闇が深くなっているようだった。
「……行こっか」
「はい!」
お茶子は一瞬だけ迷った後、彼女へ右手を差し出した。
「……ヒミコちゃん」
「はい?」
「手、繋ご」
トガは驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべ、差し出された手を握った。
「……えへへ。はい!」
細い指が絡み合い、互いの手のひらが重なる。
お茶子はその感触を確かめるように指へ力を込めると、トガへ小さく頷いた。
「……行こ!」
「はいっ!」
二人は同時に走り出した。
トガはお茶子の手を引きながら、建物の壁際を滑るように駆け抜けていった。
道端に積まれた段ボール箱を避け、放置された自転車の脇をすり抜け、曲がり角では一度だけ速度を落として、その先に誰もいないことを確かめる。
先ほどまでとは違い、彼女はお茶子の歩幅に合わせて走っていた。
もちろん、それでも十分に速い。
お茶子は再び呼吸を乱し始めたが、今度は置いていかれることを心配する必要がなかった。
「……お茶子ちゃん!」
「なに!?」
「楽しいですね!」
「……こんな時に!?」
「はい!」
トガは振り返り、満面の笑みを浮かべた。
お茶子は呆れたように目を細めたものの、すぐに笑ってしまった。
「……もう、ヒミコちゃんは!」
夜の街を、二人の笑い声が駆け抜けていく。
路地の奥へ進むにつれて、周囲の景色は少しずつ変わっていった。
表通りに面した商店の裏口が並ぶ一角を抜けると、古い住宅や小さな倉庫が密集する区域へ入り込み、頭上には建物同士を繋ぐ配管や電線が複雑に張り巡らされている。
時折、建物の窓からテレビの音や誰かの話し声が漏れ聞こえてくるものの、二人の姿に気づいて外へ出てくる者はいない。
遠くの大通りでは依然としてサイレンが鳴り続けていたが、建物の奥深くへ入り込んだことで、その音も次第に小さくなっていった。
トガは角を曲がるたびに周囲を確認し、危険がないと判断すると、再び速度を上げた。
その動きは、まるでこの街の路地をすべて知っているかのように迷いがなかった。
路地はさらに細くなり、左右の建物が迫ることで、頭上の空は細長い帯のようにしか見えなくなっていた。
街灯もほとんどなく、足元を照らしているのは建物の隙間から差し込む僅かな光だけだったが、それでも二人は足を止めなかった。
何度も角を曲がり、暗い通路を抜け、時には低い柵を飛び越えながら、街の奥へ奥へと進んでいく。
どちらかが少し遅れれば、もう一方が歩幅を合わせ、曲がり角では先を行くトガが振り返り、段差があればお茶子が声をかけた。
自分たちが選んだ道を、いつか誰かに間違いだったと告げられる日が来るのかもしれない。
実際、これまでの選択がすべて正しかったなどと、お茶子自身も思っていなかったし、これから先も、何かを間違えてしまう可能性だって十分にある。
それでも、今この瞬間、隣を走る少女の手を離したくないという気持ちだけは、嘘ではなかった。
トガもまた、握り返された手の温もりを感じながら走っていた。
血を飲んだわけでも、相手の姿になったわけでもない。それなのに、こうしてお茶子と手を繋いでいるだけで嬉しくなってしまう自分が、彼女には少しだけ不思議だった。
しかし、その理由を今すぐ理解する必要はないのかもしれない。
お茶子は、一緒に考えようと言ってくれたのだから。
その言葉を思い出すと、トガは自然と笑みを浮かべた。
追われる者として、逃げる者として、それでもただの少女たちとして、二人は夜の泥花市を走り続けていた。
遠くではサイレンが鳴り響き、ホテルの方角からは時折低い轟音が聞こえてくるものの、複雑に入り組んだ路地の奥へ進むにつれて、そうした街の喧騒も少しずつ遠ざかっていく。
お茶子の右手を、トガが握っている。
そして、トガの左手を、お茶子が握っている。
どちらからともなく指へ力を込めると、二人はもう一度顔を見合わせ、互いに笑い合った。
複雑に入り組んだ路地裏の、さらに奥へ。
二人は手を繋いだまま、走っていった。