四ツ橋力也は、ホテルの砕けた窓から眼下の光景を見下ろしていた。
つい数分前まで整然とした街並みが広がっていた大通りは、今や見る影もなく破壊されている。
道路は至るところで陥没し、街路樹は根元から薙ぎ倒され、沿道の建物には巨大な亀裂が走っていた。
その惨状を作り出した張本人は、現在も道路の中央で戦っている。
アメリカ合衆国ナンバーワンヒーロー、スターアンドストライプ。
四ツ橋は彼女の経歴を知っていたし、アメリカ政府が保有する最大級の戦力として、その存在が各国の安全保障に少なからぬ影響を与えていることも理解していた。
しかし、映像資料や報告書を通じて知る実力と、実際に目の前で振るわれる力には、想像以上の隔たりがあった。
「……なんという」
思わず漏れた声は、遠くで響いた轟音に掻き消された。
道路の中央でスターアンドストライプが右腕を振るい、全身を白い装甲で覆った緑谷出久を殴りつけた。
出久は両腕を交差させて受け止めたものの、衝突の瞬間に足元のアスファルトが砕け、数十メートル先の交差点まで押し戻される。
彼が体勢を立て直すよりも早く、スターアンドストライプは地面を蹴って距離を詰め、再び拳を振り抜いた。
出久が横へ跳んで回避すると、拳は道路を直撃し、周囲の舗装を大きく隆起させた。
舞い上がったアスファルトの破片が建物の外壁を叩き、近くに停車していた乗用車が衝撃波で横転する。
四ツ橋は無意識に窓枠へ手をついた。
彼自身も強力な異能の持ち主であり、異能解放軍の最高指導者として、物心がついた頃から能力の研鑽を重ねてきた。
現代社会において異能がどれほどの破壊力を発揮し得るのか、一般人より遥かに深く理解しているつもりだったが、眼下で繰り広げられる戦闘は、その認識を容易く超えていた。
スターアンドストライプにとっては単なる踏み込みにすぎない動作が道路を砕き、拳を振るうだけで周囲の建物が震える。
もはや人間同士の戦闘というより、巨大な怪獣が街を蹂躙している光景に近い。しかも、彼女はまだ余裕を残しているように見えた。
「……これが、異能の極致か」
異能解放軍は、アグパー司令とスターアンドストライプを半ば強引に巻き込み、敵連合へと差し向けた。
その判断が正しかったことは、少なくとも彼女を敵に回さずに済んだという一点において疑いようがない。
「……味方でよかった」
心の底から漏れた言葉だったが、安堵は長く続かなかった。
何しろ、彼女が拳を振るうたびに破壊されているのは、ほかでもない自分たちの街なのである。
泥花市は、異能解放軍にとって単なる活動拠点ではない。
住民のすべてが解放思想を共有し、長い年月をかけて組織の理想を体現する場所として育て上げてきた、解放軍そのものを象徴する都市だった。
そこに暮らす者たちは、平時には会社員や商店主、学生として生活しながら、ひとたび命令が下れば兵士として行動する。
敵である緑谷出久を仕留めるために必要な犠牲だと理解しているし、被害が出ることも覚悟していた。
しかし、実際に道路が粉砕され、建物が倒壊しかけている様子を目の当たりにすると、どうしても複雑な気分になる。
「……できれば、もう少し加減をしていただきたいものだが」
「……キャシー」
隣から聞こえた疲れ切った声に視線を向けると、アメリカ空軍のアグパー司令が、眉間に深い皺を刻みながら胃の辺りを押さえていた。
「……キャシー……また勝手に飛び出して……」
老軍人は絞り出すように呟き、長い溜息を吐いた。
「……リ・デストロ」
背後から呼びかけられ、四ツ橋が振り返ると、そこには異能解放軍の幹部にして泥花市を地盤とする衆議院議員、花畑孔腔が立っていた。
「……失礼、四ツ橋社長。ここは少々危険でしょう。そろそろ避難いたしましょう」
「……そうだな」
ホテルの上層階にいれば戦闘に巻き込まれる可能性は低いと考えていたが、先ほどから建物全体が小刻みに揺れており、その判断も怪しくなっている。
窓ガラスが砕けたのも、地上で発生した衝撃が建物を伝わり、振動に耐えられなかったためだった。
「アグパー司令。申し訳ありませんが、場所を移しましょう。ここでは落ち着いてお話もできません」
「……うむ。それがいい。少なくとも、あれを間近で見続けていては、私の胃が保たん」
四ツ橋は曖昧な笑みを返した。
彼としても、スターアンドストライプの戦闘によって自分たちの街が破壊されていることを考えると、別の意味で胃が痛くなってくる。
「近属君、車の手配は?」
「既に。ただし、ホテル正面の道路は戦闘の影響で通行不能になっています。裏手の搬入口から出るのがよろしいかと」
「分かった。そちらへ向かおう」
その直後、再び轟音が響いて建物全体が揺れ、天井から細かな埃が降ってきた。
「……キャシー。頼むから、建物の近くでは暴れんでくれ」
アグパーが胃を押さえながら呟くと、花畑は苦笑を浮かべて廊下へ続く扉を開いた。
「皆様、こちらへ。万一に備えて、階段を使用いたしましょう」
一行が廊下へ出ると、そこで待機していた気月置歳が歩み寄ってきた。
「避難経路の確認は済んでいます。ホテルの裏手なら、今のところ戦闘の影響も比較的少ないようです」
「ありがとう」
「それと、あの子も同行させます。万一の場合に備えて」
気月が示した先には、深くフードを被った小柄な少年が立っていた。
少年は四ツ橋へ僅かに頭を下げただけで、何も言わなかった。
「……頼りにしているよ」
四ツ橋はそう告げると、最後にもう一度だけ窓の外へ視線を向けた。
道路の中央では、スターアンドストライプと緑谷出久が依然として激しく戦っている。
白い装甲を纏った少年は何度も吹き飛ばされながら、そのたびに立ち上がり、アメリカ最強のヒーローへ食らいついていた。
「……頼んだよ、最強のヒーロー」
四ツ橋は小さく呟き、窓に背を向けた。
ホテルの非常階段を降りる間も、地上からの振動は断続的に伝わってきた。
壁に取りつけられた非常灯が揺れ、時折、建物のどこかでガラスの砕ける音が響く。アグパーは年齢もあってか、手すりを掴みながら慎重に階段を降りていた。
「……まったく。私は何をしに日本まで来たのだろうな。本来であれば、もう少し穏便な形で話を進める予定だったのだが」
「その点につきましては、我々としても予想外の事態でして」
花畑が表面上申し訳なさそうに答えた。
自分たちに仇なす可能性のある敵連合への対応をアメリカへ丸投げしたなどとは、口が裂けても言える訳がない。
「……しかし、司令」
四ツ橋が口を開いた。
「スターアンドストライプほどの戦力がいれば、敵連合の排除も時間の問題でしょう。今回の一件が終われば、改めて正式な協議の場を設けたいと考えております」
「……そうだな。まずは、あの娘が無事に帰ってくることを祈るとしよう」
アグパーの返答に、四ツ橋は僅かに眉を動かした。
スターアンドストライプが負ける可能性を、本気で考えているのだろうか。
先ほど見た戦闘を思い返せば、彼女の圧倒的な強さは疑いようがない。
しかし、その攻撃を受けながらなお戦い続けている緑谷出久の存在も、無視できるものではなかった。
そんなことを考えているうちに、一行は一階へ到着した。
裏手の搬入口へ続く通路には、既に数名の解放軍構成員が配置されていた。
彼らは四ツ橋たちの姿を確認すると姿勢を正し、先頭に立っていた男が近属へ駆け寄っ
た。
「社長、周辺の安全確認を進めています。ただ、戦闘の影響で一部の道路が封鎖されており、車両の到着が──」
「分かっている。まずは司令を安全な場所へ移すことが優先だ」
近属は短く指示を出し、手元の端末へ視線を落とした。
ホテルの裏手には業務用車両が出入りするための広い通路が設けられており、周囲を高い建物に囲まれているため、表通りの様子は見えない。
それでも遠くからは轟音が響き、地面を伝わる振動が戦闘の継続を知らせていた。
道路には細かな瓦礫が散乱し、停車していた配送用トラックの警報装置がけたたましく鳴り続けている。
「……ここも長居はできませんな」
花畑が周囲を見回しながら言った。
「ええ。すぐに移動しましょう」
四ツ橋が頷いた、その時だった。
通路の向こうから低いエンジン音が聞こえ、建物の角を曲がって一台の黒塗りの大型乗用車が姿を現した。
磨き上げられた車体には目立った傷もなく、窓には濃いスモークフィルムが貼られている。
車は一行の前で静かに停車すると、運転席の窓を僅かに下げた。
黒いスーツを着た男が軽く会釈し、流暢な英語で何事かを告げると、アグパーが顔を上げた。
「……ほう」
続いて後部座席の扉が開く。
「用意がいいな」
四ツ橋は近属へ視線を向けたが、彼もまた訝しげに車を見つめていた。
端末には、手配していた車両がまだ到着していないという連絡が表示されている。
しかし、運転手の振る舞いはいかにも政府関係者の送迎に慣れた者のそれであり、アメリカ側が独自に車両を用意していた可能性も考えられた。
何より、アグパー自身が特に疑問を抱いた様子を見せていない。
四ツ橋が確認しようと口を開きかけた時には、老軍人は既に後部座席へ身体を滑り込ませていた。
「では、失礼するよ」
「……あ、司令、少々──」
バタンッ!
後部座席の扉が勢いよく閉まり、エンジンが唸りを上げた。
「……え?」
花畑が間の抜けた声を漏らす。
黒塗りの車は四ツ橋たちが乗り込むのを待つこともなく、突然発進した。
タイヤが甲高い音を立て、車体が大きく沈み込む。次の瞬間には凄まじい勢いで加速し、搬入口の通路を一直線に走り抜けていった。
「待て! まだ我々が乗っていない!」
四ツ橋の制止も虚しく、車は建物の角を曲がり、あっという間に姿を消した。
後にはタイヤの焦げた臭いと、呆然と立ち尽くす異能解放軍の幹部たちだけが残された。
「……スケプティック」
四ツ橋は車が消えていった曲がり角を見つめたまま、傍らの部下へ声をかけた。
「……はい」
「あれは、君が手配した車かね?」
「……いいえ。我々の車両は、まだ到着していません」
「……そうか」
四ツ橋は静かに頷いた。
アメリカ空軍の司令官が、正体不明の車に乗せられて連れ去られた。
それも異能解放軍の最高指導者と幹部たちが揃っている、その目の前で。
もしも司令の身に何かあれば、アメリカ政府がどのような反応を示すか分かったものではない。
まして、現在進行形で泥花市の中心部において緑谷出久と戦っているスターアンドストライプが、この事態を知ったらどうなるか。
四ツ橋は、そこまで考えて思考を打ち切った。
「……近属君。至急、車両の行方を追ってくれ。それと、周辺の監視映像をすべて確認するんだ」
「承知しました」
近属は即座に端末を操作し始めた。
泥花市には、デトネラットの関連施設をはじめ、異能解放軍が管理する監視設備が数多く存在する。
街そのものが解放軍の勢力圏である以上、正体不明の車両であっても、その移動経路を把握することは難しくないはずだった。
「……妙ですね」
端末を操作していた彼の指が止まった。
「どうした?」
「ホテル周辺の監視映像に、先ほどの車両が映っていません」
「……なんだと?」
「搬入口へ通じる道路には、少なくとも三箇所の監視設備があります。ところが、いずれの記録にも該当車両の姿が確認できません」
近属は別の画面を開き、眉間に皺を寄せた。
「映像が途切れた形跡もない。車両が通過したはずの時刻にも、道路は正常に映っている……!」
「映像の改竄かね?」
「分かりません。ですが、私の管理する監視網で、これほど露骨な異常が発生しているというのに、警告の一つも出ていないなど……ありえないありえないありえない! なぜ……!」
近属の指が端末の上を激しく動く。
普段の冷静さを失いつつある部下を見て、四ツ橋は小さく息を吐いた。
スターアンドストライプによる街の破壊だけでも頭が痛いというのに、今度はアメリカ軍の司令官まで行方不明になってしまった。
「……こんちは」
その時、背後から聞き覚えのある声がした。
「ずいぶん間抜けなツラじゃねえすか、革命家さんよ」
四ツ橋が振り返ると、ホテルの搬入口から少し離れた場所に、二人の少年が立っていた。
一人は、気怠げな表情の青年だった。
普段のゆったりとしたフード付きの上着とは異なり、今は身体に合わせて仕立てられたヒーローコスチュームを纏っている。
肩からは長いマントが垂れ、手首や足首には金属製の輪が装着されていた。
もう一人は、逆立った金髪と鋭い赤い瞳を持つ少年、爆豪勝己だった。
異能解放軍へ接近してきた際には目立たない私服を身につけていたが、今の彼が纏っているのは、濃紺のデニム生地を基調とした独特なヒーローコスチュームである。
身体の動きを妨げないよう各所で切り替えられた生地には補強が施され、腰回りには実用性を重視した装備がまとめられている。
無骨でありながら洗練されたその意匠には、日本を代表するプロヒーロー、ベストジーニストの影響が色濃く表れている。
彼が師事するヒーローから贈られたコスチュームを身につけ、爆豪は堂々と四ツ橋たちの前に立っていた。
「……爆豪君、それに……志村君? その恰好はなんのつもりだね」
爆豪は鼻で笑った。
「見りゃ分かんだろ」
そう言って右手を持ち上げると、掌の上で小さな火花が弾けた。
「ヒーローだよ」
四ツ橋の表情が僅かに強張る。
ここは泥花市であり、周囲の住民はすべて異能解放軍の構成員である。
まして目の前には最高指導者たる自分と、近属友保、花畑孔腔、気月置歳まで揃っている。
二人がどれほど優秀なヒーローであっても、まともに戦えば圧倒的な数の差を覆すことは難しいはずだった。
しかし、爆豪は周囲を見回すことすらせず、転弧に至っては、まるでこれから散歩にでも出かけるような気軽さで肩を回している。
「……なるほど。最初から我々を欺いていたというわけかね」
「勝手に信用したのはテメェらだろ。こっちは一度だって、解放軍の仲間になるなんざ言ってねえよ、クソ禿が」
「随分な言い草だな、爆豪君……本当に」
額を押さえた四ツ橋の声が低くなる。
その傍らでは、近属が端末を操作しながら構成員へ指示を送り始めていた。
搬入口の警備に当たっていた男たちが、それとなく二人の退路を塞ぐ位置へ移動し、花畑も柔和な笑みを浮かべたまま僅かに後方へ下がる。
「すませんね。じゃ爆豪、色々予定外の事もあったが、とりあえず手筈通りで」
「ウス」
爆豪は短く答え、その視線を一瞬だけ気月とフードの少年へ向けた。
四ツ橋はその動きを見逃さなかったが、意味を考えるよりも早く、志村転弧の足元に二つの光輪が出現した。
淡い光を放つ円環は、装備として身につけていた金属製の輪とは異なり、実体を持たない光の輪だった。
それが一際強く輝いた瞬間、転弧の姿が四ツ橋の視界から消えた。
「──なっ!?」
白いマントの残像が走り、一陣の風が四ツ橋の横を吹き抜ける。
転弧は地面を蹴る動作すら見せず、ほとんど水平に滑るような軌道で加速していた。
次の瞬間、背後で二つの悲鳴が上がった。
「──はっ!?」
「な、何ですかな!?」
近属と花畑だった。
転弧は二人の間へ飛び込むと、その勢いをほとんど殺さぬまま左右へ腕を伸ばし、それぞれの胴体を抱え込んでいた。
近属は端末を握ったまま目を見開き、花畑も普段の余裕をかなぐり捨てて声を上げている。
「ちょっと失礼! 二人とも、少し付き合ってもらうぜ!」
「なっ、何を──!」
近属が抗議するよりも早く、転弧の足元で光輪が再び輝いた。
凄まじい加速によって周囲の空気が押し退けられ、三人の身体が一気に地面から離れる。
転弧は近属と花畑を両脇に抱えたまま、ホテルの外壁に沿って急上昇した。
「──うわああああっ!?」
「お、お待ちを! これは一体どういう──!」
四ツ橋が見上げた時には、三人は既にホテルの三階ほどの高さへ達していた。
マントが風を孕んで大きく翻り、その両脇では近属と花畑が荷物のように抱えられている。
「スケプティック!? トランペット!?」
四ツ橋が叫んだが、転弧は振り返らなかった。足元の光輪が向きを変え、上昇していた身体が大きく傾くと、三人はホテルの屋上を越え、隣接する建物の上空へと飛び去っていった。
あまりにも突然の出来事だった。
異能解放軍の最高幹部である近属友保と花畑孔腔が、文字通り目の前から連れ去られたのである。
「分断か……いや、効果的な手段だ。志村君の個性ならば、一呼吸で何キロかは遠くに彼らを連れ出せるだろう……」
近属と花畑は、組織の運営において重要な役割を担っている。
特に近属の情報処理能力は、泥花市全域に張り巡らされた監視網を管理するうえで欠かせないものであり、彼を引き離されたことは単純な戦力の損失以上の意味を持っていた。
志村転弧が公安の人間であるというのなら、恐らくは最初から彼らの確保を目的としていたのだろう。
近属の技術力による情報統制と、花畑の政治的な影響力。
その二つを封じれば、異能解放軍の組織的な抵抗を鈍らせることができる。
よく考えられた作戦だった。
もっとも、四ツ橋がその結論に至った時には、既に爆豪勝己が動き始めていた。
「ぼっーとしてんじゃねえ!」
乾いた破裂音とともに、爆豪は両掌を後方へ向け、爆破の反動で一気に身体を押し出した。
足元のアスファルトを蹴りつけながら加速し、四ツ橋との距離を瞬く間に詰めていく。
その進路上には、四ツ橋だけではなく、気月置歳と外典の姿があった。
「──っ、リ・デストロ!」
気月が叫んだ時には、爆豪は既に跳躍していた。
両掌から生じる爆発を細かく調整し、空中で姿勢を捻ると、三人の頭上を取る軌道で飛び込んで右腕を振りかぶる。
狙いは三人が固まっている場所の中央。
一人を確実に仕留めるためではなく、まとめて爆風に巻き込み、それぞれの反応と個性を見極めるための一撃だった。
爆豪は周囲の警備員が退避したことを確認すると、爆風が上方へ抜ける角度に掌を向けた。
「──吹っ飛べッ!」
閃光とともに凄まじい爆発が発生し、ホテルの裏手を爆煙が呑み込んだ。
轟音が周囲の建物に反響し、散乱していた瓦礫が四方へ弾け飛ぶ。
搬入口のシャッターが衝撃で撓み、近くに停車していた配送用トラックが横滑りした。
爆豪は爆風の反動を利用して後方へ跳び、着地と同時に両足を滑らせながら勢いを殺した。
「……チッ」
爆煙の向こうを睨みつけ、舌打ちする。
手応えがない。
爆発は狙い通りの位置で発生したが、相手を吹き飛ばした感触がまるで伝わってこなかった。
それどころか、爆煙の向こうから奇妙な冷気が流れ込み、熱を帯びた空気が白い靄となって地面を這い始めている。
「……あ?」
風が吹き、爆煙が晴れると、その向こうには巨大な氷の壁がそびえ立っていた。
ホテルの搬入口をほとんど塞ぐほどの高さと、十数メートルに及ぶ横幅を持つ分厚い氷塊である。
表面には爆発によって生じた煤が付着していたものの、壁そのものには目立った損傷がなかった。
「……氷?」
爆豪は眉を寄せた。
雄英高校で幾度となく目にしてきた、轟焦凍の個性を思わせる氷壁だった。
しかし、形成された速度と規模、そして先ほどの爆破を正面から受け止めてなお厚みを保っていることを考えると、決して侮れるものではない。
氷表面には、異なる方向から集められたような幾筋もの境目が見える。
まるで、周辺に存在していた氷が一箇所へ集まり、瞬時に防壁を形作ったかのようだった。
「……なるほどな」
爆豪の口元が僅かに吊り上がった。
氷壁の向こうから足音が聞こえ、やがて氷の一部が砕けて四ツ橋力也が姿を現した。
彼はスーツの肩に付着した氷の欠片を払い落とすと、ゆっくりとネクタイを緩める。
「……驚いたよ、爆豪君。君の個性については、事前に資料を確認していたつもりだったが……実際に目の当たりにすると、なかなかのものだね」
「そりゃどうも」
爆豪は素っ気なく答えた。
「しかし、君たちには一つ、大きな誤算がある」
「あ?」
「戦力を見誤ったことだよ」
四ツ橋が背後へ視線を向けると、そこには気月置歳と、フードを被った少年が立っていた。
気月は腕を組みながら爆豪を睨みつけていたが、少年は相変わらず無言だった。
その足元からは白い冷気が漂い、地面には薄い霜が広がっている。
「分断したはいいが、解放軍の最高戦力である私と、この外典を残してしまうとはね」
「……あー、そいつが外典か」
爆豪が視線を向けると、少年は僅かに顔を上げた。
「氷使いってのは、どいつもこいつも陰気だなあ?」
爆豪はそう答えながら掌を開閉し、外典の足元と背後の氷壁を見比べた。
四ツ橋は、そんな二人の様子を眺めながら静かに続けた。
「君も知っているだろう。異能解放軍が、どれほど長い年月をかけて今日まで力を蓄えてきたのかを。我々は単に人数を集めているわけではない。異能を鍛え、その可能性を引き出すことこそ、我々の思想の根幹なのだよ」
彼が一歩踏み出すと、その額に黒い染みのようなものが滲み始めた。
最初は小さな斑点だったものが、やがてこめかみから目元へと広がり、皮膚の内側から黒い液体が染み出しているかのような異様な変化を見せる。
「……君たちは、スケプティックとトランペットをを連れ去った。確かに、彼らを失ったことは痛手だよ。組織の運営という意味では、実に厄介なことをしてくれた」
四ツ橋の声は穏やかなままだったが、その右腕は徐々に膨張し始めていた。
スーツの袖が張り詰め、布地の下で筋肉が盛り上がっていく。
四ツ橋力也。
解放コード『リ・デストロ』
──個性『ストレス』
蓄積された精神的負荷を肉体的な力へと変換する異能である。
敵連合の襲来、スターアンドストライプによる泥花市の破壊、アグパー司令の失踪、そして信用していた少年たちの裏切りと側近二人の拉致。
今夜、四ツ橋が受けたストレスは相当なものであり、彼はその蓄積を少しずつ力へと変換し始めていた。
「だが、戦闘能力という観点で見れば、話は別だ」
黒い染みが顔の右半分を覆い、右肩から胸郭にかけて筋肉が膨れ上がる。
スーツの背中が裂け、露わになった皮膚が黒く変色していった。
「……随分とデケェ腕になったじゃねえか。筋トレでもしてんのかよ」
「……ふむ。君は本当に、どこまでも物怖じしない少年だね」
四ツ橋は小さく笑いながら、さらに歩みを進めた。
「……爆豪君。君は、我々の掲げる異能解放思想について、どこまで理解しているかね?」
「あ?」
「異能を自由に行使する権利。生まれ持った力を抑圧されることなく、それぞれが自らの意志に従って生きられる社会。我々は、その実現を目指している」
「知ってるっつの。耳にタコができるほど聞かされたわ」
爆豪は掌に生じた汗を指先で擦り合わせた。
「で、それが何だってんだ?」
「その先について考えたことはあるかね?」
四ツ橋の足が地面へ着くたびに、アスファルトが小さく軋んだ。
既に彼の身体は二メートルを超え、右腕は成人男性の胴体ほどの太さに達している。
「すべての人間が、生まれ持った異能を自由に行使できる社会。そこでは、異能を使うこと自体に制限はなく、能力の発揮を妨げる制度も存在しない。人々は己の力を隠す必要がなくなり、社会は本来あるべき姿へと立ち返る」
四ツ橋の口元に笑みが浮かんだ。
「だが、当然ながら、人間の持つ異能には差がある。優れた異能を持つ者もいれば、そうでない者もいる。訓練によって能力を高められる者もいれば、生まれ持った資質の限界に突き当たる者もいるだろう。それは避けられない。生まれ持った身体能力や知性に差があるのと同じことだ」
彼は巨大化した右手を持ち上げ、ゆっくりと指を握り込んだ。
「そして、異能の自由な行使が認められた社会では、その差がより明確な意味を持つことになる。力を持つ者は、より多くのことを成し遂げられる。優れた異能を持つ者は、その能力によって他者を導き、社会に大きな影響を及ぼすことができる」
「……へえ。つまり、強え奴が偉いってか」
「……端的に言えば、そういうことになる」
四ツ橋は否定しなかった。
「ただし、誤解してもらっては困る。我々は、強者が弱者から権利を奪う社会を理想としているのではない。誰もが等しく、自らの異能を行使する自由を持つべきだと考えているのだよ。だが、自由とは、結果まで平等にすることではない」
爆豪の目が僅かに細められる。
「己の力を磨いた者と、そうでない者。優れた異能を社会のために役立てた者と、何も成し遂げなかった者。その両者が、まったく同じ評価を受けるというのなら、それこそ不自然ではないかね?」
「……テメェらの言う自由ってのは、随分と都合がいいんだな」
「そうかな?」
四ツ橋は穏やかに問い返した。
「君ほどの力を持つ少年が、その能力を自由に使うことすら許されず、社会が定めた資格や規則に従わなければならない。君は、それを理不尽だとは思わないのかね?」
爆豪は答えなかった。
四ツ橋は、その沈黙をどう受け取ったのか、僅かに笑みを深めた。
「自由だ、権利だと、いかに美しい言葉で着飾ろうとも、解放思想の理想とする社会とは、つまり個性至上社会なのだよ。個性強き者が、より強い発言力を持つ。優れた力を備えた者が、その力に相応しい地位を得る。誰もが己の異能を磨き、他者と競い合い、その結果によって社会における立場を築いていく」
皮膚の下で筋肉が隆起し、両肩の幅が広がると、胸元のシャツが引き裂かれた。
「言うなれば、戦士の世界だ」
その言葉とともに、四ツ橋はさらに蓄積したストレスを力へ変換した。
スーツの残骸が肩から滑り落ち、黒く染まった上半身が露わになる。
「故に……その社会を実現しようとする我々自身が、力によって序列を定めることは、何ら矛盾しない」
巨大な足が地面を踏み締め、アスファルトが砕けた。
「思想への理解。組織への貢献。そして、何よりも、自らの異能を磨き上げる不断の努力。我々は、それらを重んじてきた。誰もが自由に異能を行使できる社会を目指す以上、その先頭に立つ者には、相応の力が求められる」
四ツ橋は爆豪から十メートルほどの距離で足を止めた。
既にその背丈は三メートルに迫り、黒く変色した両腕は成人男性の胴体を遥かに上回る太さになっていた。
「私は、デストロの血を継いでいる。その血統が、私に指導者としての責務を与えたことは否定しない。だが、血を継いだというだけで、十一万人の同志が私に従っていると思うかね?」
爆豪は巨大な男を見上げた。
その赤い瞳に恐怖の色はなく、掌から小さな火花を散らしながら、何かを待ち構えているように見えた。
「……だから何だよ。デケェ図体になって、演説ぶってりゃ勝てると思ってんのか」
四ツ橋は笑った。
「いいや。だからこそ、証明しなければならないのだよ」
彼は巨大な右拳を握り締め、爆豪を真正面から見据えた。
「解放軍の最高指導者たる私は、我が同志十一万人の頂点に立つ戦士なのだと」