四ツ橋力也が、膨れ上がった右腕を横薙ぎに振るった。
成人男性の胴体を遥かに上回る太さの腕が、凄まじい勢いで爆豪へ迫る。
巨大な質量が空気を押し退け、拳が到達するよりも早く、爆豪の髪とコスチュームが激しく煽られた。
まともに受ければ、骨ごと粉砕されかねない一撃だった。
しかし、爆豪は退かない。
「──ふー」
短く息を吐く。
右の掌から小さな爆発が生じ、身体が斜め前方へ押し出された。
爆豪は踏み込んだ足を軸に上体を低く沈め、目前を通過する巨大な腕の下へ潜り込む。
四ツ橋の拳は爆豪の頭上を通過し、その背後に停車していた配送用トラックへ衝突した。
金属がひしゃげる凄まじい音とともに荷台が陥没し、車体が数メートルにわたって押し流される。
四ツ橋が腕を振り抜いたことで生じた隙を見逃さず、さらに前へ踏み込む。
「……子どもにしては覚悟が成っている!」
四ツ橋は感心したように声を漏らすと、今度は左手を開き、接近してきた爆豪を上から叩き潰そうとした。
巨大な掌が視界を覆う。
爆豪の両手から奇妙な火花が散った。
先ほどまでの激しい爆発とは異なり、それは夜の暗がりに浮かぶ線香花火のような、儚くも美しい光だった。
掌の周囲で小さな火花が弾け、細い火の筋を描きながら消えていく。乾いた破裂音が断続的に響くばかりで、爆風らしい爆風すら感じられない。
その一つひとつが、爆豪の身体へ正確な方向と強さの推進力を与えていた。
右手から生じた火花が上体を僅かに左へ押し、続いて左手の火花が腰の回転を補助する。
爆豪は踏み込んだ右足を軸に重心を移動させ、肩を落としながら四ツ橋の掌の下を潜り抜けた。
巨大な左手が地面を叩き、アスファルトが陥没する。
砕けた舗装が爆豪の背中を掠めたものの、彼は構わず、さらに距離を詰めていった。
「……なるほど」
四ツ橋の表情に、僅かな変化が生じた。
掌から生じる極めて小さな爆発を断続的に繰り返し、その都度、身体の傾きや重心の位置を修正している。
足運びによって生じる運動を爆発で補助し、必要な瞬間にだけ加速を加えることで、ほとんど無駄のない動きを実現していた。
「──近接戦形、線香花火」
爆豪が低く呟いた。
掌から火花が散り、身体が四ツ橋の右側へ滑り込む。四ツ橋は反射的に腕を引き戻そうとしたが、既に爆豪はその肩口の真下へ潜り込んでいた。
巨大化した肉体は広い範囲を攻撃できる反面、至近距離にいる小柄な相手を捉えるには不向きである。
腕を振るうための僅かな予備動作さえ、爆豪にとっては十分な隙となった。
「……映像にあった姿勢制御か。我が社のサポートアイテムがなくとも可能な、君自身の技術だったとはね」
「ハッ、テメェらのオモチャがなくちゃ何もできねえとでも思ってたかよ」
爆豪は吐き捨てるように答え、さらに踏み込んだ。
四ツ橋が左腕を引き寄せ、懐へ入り込んだ爆豪を押し出そうとする。
しかし、爆豪はその動きに合わせて上体を捻り、腕の内側へ滑り込んだ。
線香花火を思わせる小さな光が、爆豪の周囲で断続的に弾ける。
「……これは厄介だ」
四ツ橋がそう口にした時には、爆豪は既に両足で地面を蹴っていた。
掌から生じた小さな爆発が跳躍を補助し、空中で身体の傾きを修正する。
爆豪は腰を捻ると、四ツ橋の胸元へ向けて両腕を突き出した。
「──捕まえたぞ、クソ禿!」
掌を開くと同時に、それまで抑え込まれていた爆発が一気に解き放たれた。
轟音とともに閃光が迸り、四ツ橋の胸元で巨大な火球が膨れ上がる。
至近距離から放たれた爆風は黒く変色した上半身を正面から捉え、周囲へ溢れた衝撃波が搬入口のシャッターを大きく撓ませた。
先ほどまでの繊細な火花とは比較にならない、爆豪本来の破壊力を追求した一撃だった。
爆豪は両腕へ伝わる反動に歯を食い縛りながら、さらに掌から爆発を重ねた。
初撃によって生じた爆炎が収まるよりも早く、次の爆発が四ツ橋の胸板へ叩き込まれ、押し寄せる熱と衝撃が周囲の空気を激しく震わせる。
気月置歳は咄嗟に顔を庇い、外典もまた、足元の氷を引き寄せて爆風を遮った。
「リ・デストロ!」
気月の叫びが轟音に掻き消される。
爆豪は構わず、最後の一発を放とうとした。
「……素晴らしい」
低い声が響く。
四ツ橋の胸元を覆っていた炎が、不意に押し返された。
爆発による衝撃を受けているはずの四ツ橋が、後退するどころか、さらに身体を膨張させていたのである。
黒い筋肉が胸部から腹部へと広がり、肩や背中だけでなく、腰から下の肉体までもが急激に肥大化していく。
太腿は爆豪の胴体ほどの太さに膨れ上がり、足元のアスファルトには、その重量に耐えきれず幾筋もの亀裂が走った。
個性『ストレス』。
蓄積された精神的負荷を肉体的な力へ変換する四ツ橋の異能は、腕だけを巨大化させるものではない。
全身へ力を行き渡らせれば、その体格そのものを大きく変貌させることができる。
四ツ橋は爆豪の攻撃を受けながら、さらに蓄積していたストレスを解放した。
膨張した胸筋が爆炎を押し返し、巨大な両脚が地面を踏み締める。
爆発によって生じた衝撃は分厚い肉体に受け止められ、四ツ橋の身体を僅かに揺らしただけで終わった。
「……なかなかの威力だよ、爆豪君」
四ツ橋は胸元に残った煤を見下ろし、満足そうに頷いた。
「だが、私を吹き飛ばすには重さが足りない。もっとお肉を食べなさい」
「……チッ!」
爆豪が舌打ちする。
その時には既に、四ツ橋の右腕が動き始めていた。
先ほどまでのように大きく振りかぶる動作ではない。
四ツ橋は胸元に迫っていた爆豪を見下ろすと、まるで顔の周囲を飛び回る小蝿を払うかのように、巨大な右手を横へ振った。
それだけの動作だった。
肥大化した腕が生み出す速度と質量は、到底そのような軽い仕草で済むものではなかった。
「──ッ!」
爆豪は咄嗟に両掌を外側へ向けた。
小さな爆発が連続し、身体が後方へ押し出される。
四ツ橋の腕が届くよりも一瞬早く、爆豪は自ら爆発の反動で距離を取り、振り払われる方向へ身体を逃がした。
直後、巨大な掌が目前を通過する。
直撃こそ免れたものの、爆豪はその動きによって押し出された空気に煽られ、さらに後方へ吹き飛ばされた。
身体が回転し始めた瞬間に小さな爆発を起こし、その反動で姿勢を修正する。
腰を捻って両脚を下へ向けると、着地の直前に掌から生じた爆風で落下速度を殺した。
靴底がアスファルトを擦り、数メートルほど滑ったところで止まる。
「……クソが」
爆豪は低く吐き捨て、顔を上げた。
四ツ橋は依然として同じ場所に立っていた。いや、先ほどよりも遥かに巨大になっている。
全身を覆う黒い筋肉は、もはや人間の自然な体格から大きく逸脱していた。
膨れ上がった肩と胸板が首を埋めるように盛り上がり、太くなった両脚は巨体を支えながら、踏み締めた地面を陥没させている。
「……実に見事な姿勢制御だ。繊細な爆発を連続して発生させながら、最後には最大火力を叩き込んでくるとはね」
四ツ橋は感心したように頷いた。
「先ほどの動きを見る限り、君は単に個性の出力を高めてきたわけではないのだろう。身体の使い方も、間合いの取り方も、相当な訓練を積んでいると見える」
「……そりゃどうも」
爆豪は素っ気なく答えながら、両手を開閉した。
掌には十分な汗が滲んでおり、爆破の使用に支障はない。
だが、至近距離から放った連続爆発を真正面から受け止められたことは、決して軽視できるものではなかった。
し四ツ橋の肉体は今なお肥大化を続けている。
爆豪はその巨体を睨みながら、左手首に目を落とした。
コスチュームの袖口から覗く腕時計は、予定していた時刻が近づいていることを示していた。
爆豪は小さく舌打ちすると、再び四ツ橋へ視線を戻す。
「……どうしたのかね、爆豪君」
四ツ橋は巨大な両腕を広げ、腰を落とす。
次の瞬間、四ツ橋の両脚が地面を蹴った。
「──そんなに時間が気になるかね!?」
「──ッ!?」
爆豪は咄嗟に右の掌を開いた。
四ツ橋が仕掛けてきたのは、拳でも蹴りでもなかった。
肥大化した上半身を前方へ傾け、巨大な肩を突き出したまま、真正面から突進してきたのである。
タックル。
単純極まりない攻撃だったが、四ツ橋の巨体と脚力が合わされば、その威力は凄まじいものになる。
踏み込んだ場所のアスファルトが砕け、数メートルあった距離が瞬く間に消えた。
「──クソッ!」
爆豪は両掌から火花を散らし、身体を横へ押し出した。
これまで幾度となく四ツ橋の攻撃を回避してきた技術だったが、今回は僅かに反応が遅れた。
身体が横へ滑り出した、その瞬間。
四ツ橋の肩口が、爆豪の左半身を掠めた。
「──がッ!?」
直撃ではなかった。
しかし、肥大化した肉体が凄まじい速度で通過する際、その肩が僅かに触れただけで、爆豪の身体には強烈な衝撃が加わった。
左肩を弾き飛ばされ、身体が宙へ浮く。
回避のために生じさせた横方向の推進力と、四ツ橋の突進によって加えられた衝撃が重なり、爆豪は制御を失って激しく回転した。
咄嗟に右手を開き、姿勢を立て直そうとする。
視界が目まぐるしく回転する中では、掌を向ける方向すら定まらない。
無理に爆発を起こせば、かえって回転を加速させる危険があった。
「──ぐ、ぉッ!」
背中から地面へ叩きつけられる。
肺の空気が一気に押し出され、爆豪の喉から苦鳴が漏れた。
衝撃によって身体が跳ね上がり、続いて肩と腰をアスファルトへ打ちつけながら転がっていく。
数度にわたって地面を跳ねた末、爆豪は路面に散乱していた瓦礫へ突っ込んだ。
鈍い音が響き、砕けたコンクリートの破片が周囲へ飛び散る。
「……か、はッ……!」
爆豪は瓦礫の中で身を丸め、激しく咳き込んだ。
左肩から胸にかけて鋭い痛みが走り、呼吸をするたびに脇腹が軋む。
頭を打ったせいか、視界も僅かに揺れていた。
それでも、爆豪が最初に目を向けたのは、自分の負傷ではなかった。
「クソが……一張羅が台無しだ」
千切れ飛んだ左肩の生地を睨み、忌々しげに吐き捨てる。
爆豪は瓦礫へ手をついて立ち上がると、肩口から覗く破れた生地を摘まんだ。
縫い目に沿って大きく裂けており、少し引っ張っただけでさらに破れそうになっている。
「……随分と、その衣装を大切にしているのだね」
四ツ橋は、そんな少年の姿を興味深そうに見下ろしていた。
「テメェには関係ねえだろ」
「失礼。君にとって大切なものなのだろうと、そう思っただけだよ。だがじきに……それが服であったなどと誰も気づかなくなる。それ着る君の姿もまた、生物とは判別付かないほどに丹念に叩き潰してあげよう」
四ツ橋は穏やかに答えたが、爆豪は取り合わなかった。
破れた生地を離すと、左腕の具合を確かめるように肩を回し、痛みに顔を顰めながらも再び構えを取る。
その左手首へ、またしても視線が落ちた。
「……ふむ」
四ツ橋は顎に手を当てた。
「当ててみせようか?」
「あ?」
「君が先ほどから気にしている、その時間のことだよ。恐らく、公安の増援を待っているのだろう?」
爆豪の眉が僅かに動いた。
「……何言ってんだ、テメェ」
「そう警戒することはない。少し考えれば分かることだよ。我が解放軍に潜入できるような組織といえば、限られてくる。これほど大規模な組織の内情を調査し、最高幹部の身柄を確保する作戦まで立案できるとなれば、なおさらだ」
四ツ橋は巨大な右手を開き、指を一本ずつ折り曲げた。
「君たちが公安の指示で動いていたことは、もはや疑いようがない。志村君が近属君と花畑君を連れ去ったのも、組織の指揮系統を混乱させるためだろう。そして君は、私と外典をこの場に引き留めている」
「……だったら?」
「公安所属のヒーローが、ここへ来る手筈になっているのだろう?」
爆豪は答えなかった。
四ツ橋はその沈黙を肯定と受け取ったのか、満足そうに頷いた。
「なるほど。確かに、筋の通った作戦ではある。君ほどの戦闘能力を持つ少年を囮として使い、我々の注意を引きつけている間に増援を送り込む。公安らしい、合理的な判断だ」
そこで四ツ橋は、わざとらしく肩を竦めた。
「だが、残念ながら日頃から諜報活動に従事するようなヒーローが、私や外典を相手に真っ向から立ち向かえるとは到底思えない」
巨大な右腕を広げ、四ツ橋は声を張り上げた。
「潜入や情報収集に長けていることと、戦闘能力に優れていることは別の話だ。まして、相手は異能解放軍の最高戦力たる私と外典なのだよ! 中途半端なヒーローを連れてきては、かえって足手纏いではないかね!?」
「……ハッ」
爆豪が鼻で笑った。
「何がおかしいのかね?」
「いや、随分と楽しそうに喋るもんだからよ。聞いてやってたんだよ」
爆豪は口元を歪めたまま、左手首の時計を一瞥した。
四ツ橋はその仕草を見て、ますます自分の推測に確信を深めた。
少年が待っているのは、やはり公安の増援なのだろう。もっとも、どのようなヒーローが来ようと、外典と自分を同時に相手取れるとは思えなかった。
「……さて、爆豪君。そろそろ君の待ち人が到着する頃合いかな?」
「さあな。俺が知るかよ」
「ははは。君は本当に口が悪いね」
四ツ橋が笑いながら一歩踏み出した、その時だった。
彼の背後では、外典が戦闘の準備を進めていた。
先ほど爆豪の爆破によって砕け散った氷壁の破片が、地面を擦りながら集まってくる。
大小の氷塊は互いに接触すると急速に冷却され、一つの巨大な塊へと結合していった。
外典はフードの奥から爆豪を見据え、右手を持ち上げる。
既に周囲には十分な量の氷があり、再び氷壁を形成することも、無数の氷柱を放つこともできる。
しかし、氷塊を動かそうとした瞬間、外典は奇妙な違和感を覚えた。
「……?」
右腕が上がらない。
肩口に何かが引っ掛かっているような感覚があり、続いてフードの襟元が不自然に締まり始めた。
外典は咄嗟に左手を動かそうとしたが、その腕もまた、袖口から引き絞られるように身体へ押しつけられていた。
「なっ──」
次の瞬間、外典の衣服が一斉に捻れた。
袖と裾が生き物のように動き、両腕を背中側へ引き込む。
胸元から腹部にかけての生地が急激に締まり、身体を拘束された外典は、抵抗する間もなく前方へ引き倒された。
「ぐっ!?」
膝が地面へ落ち、続いて上半身がアスファルトへ叩きつけられる。
外典はすぐさま身を起こそうとしたものの、衣服はさらに強く捻り上げられ、両腕を背中へ固定したまま肩と腰を押さえつけていた。
フードの生地まで引き絞られ、首を動かすことすら難しい。
集中を乱されたことで、周囲に集まっていた氷塊が動きを止める。
「外典!?」
異変に気づいた四ツ橋が、慌てて振り返った。
外典は地面に組み伏せられ、必死に身体を捩っていた。
しかし、彼を拘束しているのは誰かの腕でも、特殊な縄でもない。
身に纏っていた衣服そのものが捻れ上がり、四肢の自由を奪っているのだ。
「これは……!」
四ツ橋は即座に周囲へ視線を走らせた。
そして、外典の背後に立つ一人の男を見つけた。
長身痩躯。全身を覆うデニム素材のコスチュームに、口元まで隠す高い襟。整えられた金髪は、戦場に似つかわしくないほど見事な7:3を保っている。
男は四ツ橋の視線を受けると、片手を持ち上げ、乱れかけた前髪を手櫛で整えた。
「お前は」
四ツ橋が驚愕の声を上げた。
日本を代表するトップヒーローの一人。
個性『ファイバーマスター』によって繊維を自在に操り、敵の拘束から大規模な救助活動までこなす男が、いつの間にか外典の背後へ回り込んでいたのである。
ベストジーニストは髪を整え終えると、四ツ橋へ向き直った。
「──中途半端なヒーローが、失礼する」
そして、胸を張り、ビシリとポーズを決めた。
その姿を見た爆豪は、盛大に顔を顰めた。
「……遅えっすよ」
「時間どおりだ、爆豪少年。君が少々せっかちなだけではないかね?」
「スターアンドストライプが来てんだぞ! 焦るわ! 」
「……それについては、こちらも把握している。まったく、予定外のことが次から次へと起こるものだ」
ベストジーニストは小さく溜息を吐きながら、爆豪の姿を一瞥した。
左肩の生地は大きく裂け、胸元には血が滲んでいる。
足元も覚束ないようで、先ほどから僅かに左半身を庇っていた。本人は平然としているつもりなのだろうが、長年ヒーローとして活動してきた男の目を誤魔化せるものではない。
「随分とパンクな装いになったものだ」
「うっせえボケ! あとで直し方教えやがれ!」
爆豪が苛立たしげに怒鳴ると、ベストジーニストは肩を竦めた。
その間にも、地面に組み伏せられた外典は必死に抵抗を続けていた。
フードの奥から覗く瞳には激しい怒りが浮かび、周囲に散らばった氷塊が不規則に震えている。
「いい加減にしろ!」
外典の怒声とともに、氷塊の一つが浮かび上がった。
鋭く尖った先端がベストジーニストへ向けられたが、彼が指先を僅かに動かすと、外典の衣服がさらに強く捻れた。
両腕を背中へ固定された外典は苦悶の声を漏らし、氷塊は勢いを失って地面へ落下する。
ベストジーニストはその様子を確かめると、外典へ視線を落とした。
「……さて。この季節感先取り少年の相手は、私が務めよう」
「ふざけるな!」
「至って真面目だよ。君の服装についても、後ほど少々話をしたいところだ」
外典の怒りなど意に介さず、ベストジーニストは爆豪へ向き直った。
「そして、そこのハルクの相手は君に任せた」
四ツ橋は怒りに満ちた目で爆豪を睨みつけた。
その肉体は、なおも膨張を続けている。
肩から背中にかけて黒い筋肉が幾重にも盛り上がり、肥大化した両腕が身体の左右に垂れ下がる。
胸板は分厚い装甲のように膨れ上がり、太腿はもはや成人男性の胴体ほどの太さを遥かに超えていた。
巨大な足が僅かに動くだけで、足元のアスファルトが砕ける。
「……爆豪君」
四ツ橋の声は低かった。
先ほどまでの穏やかな口調は残っているものの、その奥には明らかな苛立ちが滲んでいる。
「君の戦法が優れていることは認めよう。私の攻撃を避けながら、これほど正確に反撃を重ねる技術は、実に見事だ」
「そりゃどうも」
「だが……!」
四ツ橋が巨大な右拳を握り締めた。
「君は一つ、重大な思い違いをしている!」
爆豪は答えなかった。
両掌から線香花火のような火花を散らしながら、ゆっくりと腰を落とす。
「私を苛立たせれば、それだけ私の力は増大する! 君が攻撃を重ねるほど、私はさらに強くなるのだよ!」
「……知ってるっつの」
爆豪が鼻で笑った。
「デカくなりゃ勝てるとでも思ってんのか?」
その言葉に、四ツ橋の眉間へ深い皺が刻まれた。
「……君は、私の話を理解していないようだね」
爆豪は右手を持ち上げた。
掌から小さな火花が散り、橙色の光が指先を照らす。
「テメェがデカくなろうが、硬くなろうが、そんなもん知ったこっちゃねえんだよ」
そして、獰猛に笑った。
「俺は俺の仕事をするだけだ」
四ツ橋の表情が歪んだ。
「……ならば!」
巨大な右腕が持ち上がる。
「その言葉を後悔させてあげよう!」
四ツ橋が地面を蹴った。
先ほどまでとは比較にならない質量を持つ巨体が、爆豪へ向かって突進する。
踏み込んだ足元が陥没し、砕けたアスファルトが周囲へ飛び散った。
しかし、爆豪は動かなかった。
正確には、四ツ橋が腕を振り上げる瞬間まで、動こうとしなかった。
「──ッ!」
巨大な拳が頭上へ掲げられる。
爆豪の両掌から無数の火花が炸裂した。
線香花火。
四ツ橋が拳を振り下ろした時には、既に爆豪はその懐へ潜り込んでいた。
拳が地面を叩く。
轟音とともにアスファルトが陥没し、衝撃波が周囲へ広がったが、爆豪は構わず、右の掌を四ツ橋の腹部へ押し当てた。
「──オラァッ!」
ゼロ距離から放たれた爆発が、分厚い黒い筋肉を直撃した。
「──ぐッ!」
四ツ橋の巨体が僅かに揺らぐ。
爆豪は構わず左手を開き、続けざまに爆発を叩き込んだ。
轟音が重なり、四ツ橋の腹部で巨大な火球が膨れ上がる。
「──ぬぅッ!」
四ツ橋は歯を食い縛り、右腕を横薙ぎに振るった。
掌から小さな火花が散り、身体が斜め下方へ滑る。
巨大な腕が頭上を通過するよりも早く、爆豪は四ツ橋の右脇腹へ回り込んでいた。
「──遅え!」
再び爆発。
四ツ橋の巨体が僅かに傾く。
その隙を利用して背後へ回り込んだ爆豪は、両掌を巨大な背筋へ向けた。
「──まだまだァ!」
轟音。
背中を叩いた爆風が四ツ橋の身体を前方へ押し出し、巨大な足がアスファルトを踏み砕いた。
「──ぐ、ぬぅッ!」
四ツ橋は咄嗟に右足を踏み出し、体勢を立て直した。
背中には爆発によって生じた煤が広がり、黒く肥大化した筋肉の表面から薄い煙が立ち上っている。
だが、振り返った彼の視界に、爆豪の姿はなかった。
直後、左側から線香花火を思わせる小さな光が散り、反射的に振るった左腕が空を切ったところで、今度は腹部へ凄まじい爆発が叩き込まれた。
爆風に煽られて巨体が僅かに傾くと、爆豪はその隙を利用して再び距離を取り、砕けたアスファルトの上へ軽やかに着地する。
「何回同じことやってんだ、クソ禿! 図体ばっかデカくなって、頭ん中は空っぽかよ!」
爆豪は獰猛に笑いながら両掌を開き、指先で小さな火花を弾けさせた。
四ツ橋の額には深い皺が刻まれていた。
しかし、彼はすぐに反撃することなく、握り締めていた右拳をゆっくりと開いた。
「口の減らない……」
四ツ橋は小さく笑うと、爆豪から視線を逸らさないまま一歩後退した。
続いて、もう一歩。
爆豪は訝しげに眉を顰めた。
これまで積極的に距離を詰めてきた四ツ橋が、自ら後退するのは初めてだった。
「……何だよ。今さら逃げんのか?」
「まさか。君ほどの相手に背を向けるつもりはないとも。ただ、これ以上同じことを繰り返していては、せっかくの戦いが退屈なものになってしまうだろう?」
四ツ橋はそう答えながら、搬入口の脇へと歩み寄った。
そこには、彼が戦闘を始める前に手放していた黒いビジネスバッグが落ちていた。
周囲の壁は爆発によって崩れ、停車していた配送用トラックも無惨にひしゃげていたが、瓦礫の陰に転がっていた鞄だけは、表面に細かな傷を負いながらも原形を保っている。
四ツ橋は足元へ視線を落とすと、巨大な右手を伸ばした。
肥大化した指先では持ち手を握ることすら難しかったため、鞄の側面を摘まみ上げるように持ち上げ、親指を小さな窪みへ押し当てる。
「……おいおい。こんな時に仕事の書類でも確認すんのかよ?」
「仕事の道具という意味では、間違っていない」
四ツ橋が答えた直後、鞄の内部から乾いた金属音が響いた。
黒い表面を走る継ぎ目が青白く発光し、側面に設けられた複数の留め具が一斉に解除される。
鞄の上部が左右へ開くと、その内側から銀色の金属フレームがせり上がり、複雑に折り畳まれた関節機構が次々と展開され始めた。
爆豪は思わず目を細めた。
最初に現れたのは、金属製の細い支持構造だった。
それが鞄の外へ伸びると、さらに内部から分厚い装甲板が現れ、続いて円筒状の機械部品や複雑な配管が引き出されていく。
明らかに鞄の容積を超える量の機械が展開されているにもかかわらず、その動きが止まる気配はなかった。
「……何だ、そりゃ」
爆豪が低く呟く。
鞄から現れた機構は、まるで自らの意思を持っているかのように四ツ橋の右腕へ巻きついた。
金属製のフレームが肥大化した筋肉の外周に沿って伸長し、肩から肘、前腕へと固定されていく。
続いて左腕にも同様の機構が展開され、胸部と背中を覆う支持構造が組み上がると、腹部から腰、太腿にかけても複数の金属板が滑り込んでいった。
それらの部品は、単に鞄の中へ折り畳まれていたわけではなかった。
薄い金属板のように見えた部品が、展開されると本来の厚みを取り戻し、細い棒状の構造が巨大な油圧機構へ変化していく。
圧縮状態から解放された部品が、次々と体積を増しているのである。
「……米国の圧縮技術か」
少し離れた場所で外典を拘束していたベストジーニストが、僅かに目を細めた。
海外の一部企業や研究機関が開発を進めている特殊な圧縮技術については、ヒーロー用サポートアイテムの分野でも話題になっていた。
もっとも、実用化には高度な加工技術と精密な制御が必要とされ、これほど大規模な装備を携行可能な形態へ収めることは容易ではない。
「さすがはベストジーニスト。お目が高い」
四ツ橋は満足そうに笑った。
「我がデトネラット社は、以前から異能の可能性を拡張する技術の研究を進めていてね。その過程で、海外の圧縮技術に大いなる可能性を見出したのだよ」
「……確か、他国への技術公開は行われていなかったはずだが?」
「ははは。技術の発展には、時として既存の権利関係が障害となるものだ」
四ツ橋は悪びれる様子もなく答えた。
「優れた技術が特定の企業によって独占されることは、自由な異能社会の実現にとって好ましくない。そう考えれば、我々が独自の方法で技術を取得し、解析したことにも十分な意義があるとは思わないかね?」
「……つまり、盗用したということか」
「解釈は自由だよ」
ベストジーニストは小さく息を吐いたが、それ以上の追及はしなかった。
現在の彼には外典の拘束という役割があり、四ツ橋への対応は爆豪に任せている。
何より、展開されつつある装備の構造そのものが、看過できないほど奇妙だった。
通常のパワードスーツであれば、装着者の筋力を補助する駆動装置や、外部からの衝撃を軽減する装甲が中心となるはずである。
しかし、四ツ橋の身体を覆う機構は、そうした用途を前提としているようには見えなかった。
胸部と背中を支えるフレームには、内側へ向けられた円筒状の装置が複数取りつけられている。
肩や腹部、太腿の周囲にも同様の機構が配置されており、その先端には鋭い金属製の杭が備えられていた。
しかも、それらの杭は装甲の外側ではなく、装着者自身の肉体へ向けられている。
「……おい」
爆豪が眉を顰めた。
「テメェ、それ……」
「紹介しよう、爆豪君」
四ツ橋は両腕を広げた。
その動きに合わせて金属フレームが軋み、背中に設けられた巨大な高圧機構が低い駆動音を響かせる。
既に装備は四ツ橋の全身へ固定されており、肩や胸部を覆う分厚い金属板の隙間から、黒く肥大化した筋肉が露出していた。
「デトネラットが誇る技術陣が、長年の研究成果と圧縮技術を結集し、私のためだけに開発した特別製の装備だ」
四ツ橋は胸を張り、誇らしげにその名を告げた。
「──負荷増幅高圧機構『クレストロ』」
機構の各所で青白い光が点灯した。
背部の高圧装置が低く唸り、胸部と腹部に配置された円筒状の機構が一斉に作動する。
内部に収められていた金属製の杭がゆっくりと押し出され、その鋭い先端が、装甲の内側で肥大化した四ツ橋の肉体へ突きつけられた。
「ウォーミングアップは十分だ。負荷100%で捻り潰してくれよう!」
四ツ橋が右拳を握り締めた。
直後、背部の高圧機構が激しい駆動音を響かせた。
無数の杭が一斉に前進し、四ツ橋の胸部や腹部、肩口へ深く食い込む。
分厚い筋肉が圧迫され、関節には通常の動作では生じ得ないほどの負荷が加えられた。四ツ橋は一瞬だけ顔を歪めたものの、すぐに口元へ笑みを浮かべる。
「ぐっ、ううぅ。ふう……ん」
苦痛が生じる。
それは四ツ橋にとって、単に耐えるべきものではなかった。
個性『ストレス』。
蓄積された精神的負荷を肉体的な力へ変換するその異能は、怒りや苛立ちだけでなく、肉体へ加えられる継続的な苦痛によっても刺激される。
クレストロは装着者の身体へ意図的に負荷を与え、その苦痛が生み出すストレスを利用するための装備だった。
「変態じゃねえか……」
黒く肥大化した筋肉が、さらに盛り上がる。
肩から背中にかけて筋繊維が膨張し、装甲の隙間から溢れ出した。
四ツ橋の巨体を支える金属フレームが軋み、足元のアスファルトには新たな亀裂が走る。
「やはり、異能の可能性には限界など存在しない。人間が自らの力を解放することを恐れず、その能力を最大限に発揮できる社会こそ、我々が目指すべきものなのだよ」
「ご立派な演説だな、クソ変態禿!」
爆豪は両掌から小さな火花を散らし、ゆっくりと腰を落とした。
「そのご自慢のオモチャで、俺をぶっ倒せるといいなァ!」
「もちろん、そのつもりだとも」
四ツ橋は穏やかに答えた。
そして、巨大な右足を一歩踏み出す。
クレストロの支持機構が地面を踏み締め、背中の高圧装置が再び唸りを上げた。
四ツ橋は前傾姿勢を取り、爆豪との距離を一気に詰めようとしたが、その瞬間、背後から近づいてくる足音に気づいた。
「……?」
四ツ橋は訝しげに眉を顰めた。
瓦礫の散乱する路面を踏み締める、軽い足音だった。
走っているわけでも、気配を殺しているわけでもない。
むしろ、これほど激しい戦闘が行われている場所とは思えないほど、自然な歩調だった。
外典はベストジーニストによって拘束されており、気月も少し離れた場所に退避している。
少なくとも、自分の背後へ何の警戒もなく近づいてくるような人間には、心当たりがなかった。
四ツ橋は正面へ視線を戻した。
爆豪もまた、彼の肩越しに何かを見つめていた。
先ほどまで獰猛な笑みを浮かべていた少年が、不意に口を閉ざし、奇妙な表情を浮かべている。
その反応に、四ツ橋は確信した。
誰かがいる。
「……何者だ、君は──」
振り返ろうとした瞬間、背中の装甲へ何かが触れた。
ほんの僅かな接触だった。
叩かれたわけでも、掴まれたわけでもない。ただ、何者かがクレストロの装甲へ手を置いたのである。
四ツ橋は反射的に身体を捻ろうとしたが、その直前、背後から奇妙な音が聞こえた。
ぱきり、と。
乾いた音だった。
続いて、同じ音が幾つも重なった。
「……?」
四ツ橋は動きを止めた。
背部の高圧機構から聞こえてくる駆動音とは、明らかに異なっている。
金属が圧力によって軋む音でも、内部の部品が破損する音でもなかった。
何かが砕けている。
そう認識した直後、背中の装甲が大きく揺れた。
「……なっ!?」
四ツ橋が振り返るよりも早く、クレストロの背部装甲へ無数の亀裂が走った。
最初に崩れ始めたのは、何者かの手が触れていた中央の金属板だった。
分厚い装甲の表面が細かくひび割れ、そこから無数の破片が剥がれ落ちていく。
亀裂は瞬く間に周囲へ広がり、装甲板を固定していたボルトや支持構造までもが、次々と形を失い始めた。
爆豪は目を見開いた。
「……?」
クレストロが崩れていた。
それも、爆発や衝撃によって破壊されているのではない。
金属そのものが脆くなったかのように砕け、細かな破片となって地面へ降り注いでいるのである。
背部の高圧機構を支えていたフレームが崩壊し、内部に封じ込められていた気体が激しい音を立てて噴き出した。
「何だ……何が起きている!?」
四ツ橋は慌てて右腕を背中へ回そうとした。
しかし、巨大化した肉体と装甲が邪魔をして、背後の様子を確かめることができない。
その間にも破砕音は大きくなり、背部から肩口へ向かって亀裂が広がっていった。
「……馬鹿な!」
四ツ橋の表情が歪んだ。
デトネラットが誇る技術陣によって開発された、最高傑作とも呼ぶべき装備である。
圧縮格納技術の解析から始まり、自らの個性に合わせた高圧機構の設計に至るまで、膨大な時間と資金を費やして完成させたものだった。
それが、ただ触れられただけで崩れていく。
四ツ橋には、その現象を理解することができなかった。
だが、理解できないからといって、何もできないわけではない。
背中の装甲が崩れ落ちると、続いて胸部の支持フレームが不自然に震え始めた。
肩口を固定していた金属板にも細かな亀裂が走り、内部の高圧装置から断続的な異音が響く。
その瞬間、四ツ橋は背筋が冷たくなるのを感じた。
クレストロは単なる装甲ではない。
全身へ張り巡らされた支持構造によって肉体へ固定され、その内側には無数の金属製の杭が配置されている。
もし、装備の崩壊がさらに進み、肉体へ食い込んだ杭にまで及んだならば。
あるいは、装甲を破壊している何らかの異能が、そのまま自分の身体へ作用したならば。
「──ッ!」
四ツ橋は咄嗟に胸元へ手を伸ばした。
「緊急解除!」
怒鳴ると同時に、胸部装甲の内側へ指を押し込む。
そこには、機構の暴走や装着者の負傷に備えて設けられた、物理式の緊急解除装置が存在していた。
通常であれば使用する必要などないものだったが、今はそんなことを考えている余裕もなかった。
四ツ橋は巨大な指で解除レバーを掴み、力任せに引き下ろした。
甲高い警告音が響く。
胸部と腹部に食い込んでいた杭が一斉に引き戻され、肉体を圧迫していた高圧機構が停止した。
続いて肩と腰の固定具が解除され、全身を覆っていた金属フレームが分離を始める。
しかし、背部の崩壊は止まらなかった。
分離しかけた装甲板の表面へ新たな亀裂が走り、右肩を覆っていた金属板が音を立てて砕け散る。
「──くそッ!」
緊急解除装置は作動している。
だが、崩壊によって一部の固定具が変形したのか、背中の装甲が完全には外れない。
四ツ橋は両腕を大きく広げると、肥大化した筋肉へ力を込めた。
黒い筋肉がさらに膨張し、緩みかけていた金属フレームを内側から押し広げる。
肩口の固定具が破断し、胸部を覆っていた装甲板が大きく浮き上がった。
「──ぬううううッ!」
四ツ橋はそのまま上体を捻り、背中の装甲を無理やり引き剥がした。
金属が引き千切られる轟音とともに、クレストロが彼の身体から離れた。
巨大な装甲の塊が宙を舞い、数メートル先の路面へ叩きつけられる。
激しい衝撃によってアスファルトが砕け、周囲へ破片が飛び散った。
装備が地面へ落ちた後も、崩壊は止まらなかった。
背部から始まった亀裂が胸部、腹部、両脚の支持構造へと広がり、複雑に組み上げられた機構が次々と砕けていく。
四ツ橋が誇らしげに披露したばかりのクレストロは、ほんの数秒のうちに原形を失い、細かな破片の山へと変わっていった。
「……な……」
四ツ橋は呆然と呟いた。
装備を脱ぎ捨てたことで、肉体への異常な干渉は避けられたらしい。
背中や肩には杭によって生じた痛みが残っていたものの、少なくとも、あの不可解な崩壊が自分の身体へ広がることはなかった。
それでも、目の前の光景は到底受け入れられるものではなかった。
「……馬鹿な……!」
四ツ橋は震える声を漏らした。
「クレストロが……私のクレストロが……!」
足元には、かつて装備だったものの残骸が散乱している。
その中には、原形を留めている部品など一つとして存在しなかった。
四ツ橋はゆっくりと顔を上げた。
そして、背後に立つ人物を睨みつける。
「……貴様ァッ!」
怒声が夜の街へ響き渡った。
「何をした! 私の装備に、何をしたァッ!?」
しかし、その人物は答えなかった。
ただ、四ツ橋の巨体を見上げ、露骨に不愉快そうな表情を浮かべていた。
黒いジャケットに、首元を覆う白いファー。整えられた黒髪の下には鋭い目が覗き、口元には鳥の嘴を思わせるマスクが装着されている。
男は足元へ散らばったクレストロの残骸を一瞥すると、忌々しげに舌打ちした。
「……汚えな」
そして、懐から小さな容器を取り出した。
男は容器の蓋を開けると、先ほどクレストロに触れた右手へ液体を垂らし、指先から手首にかけて丹念に擦り合わせ始めた。
四ツ橋は、その光景を呆然と見つめた。
「……何を……」
男は答えなかった。
手の消毒を終えると、まだ何かが気に入らなかったのか、もう一度消毒液を手に取り、右手の指先へ擦り込んでいく。
「こんなもの、触らせやがって」
小さく吐き捨てる。
その態度には、目の前の男が異能解放軍の最高指導者であることへの警戒も、巨大な装備を破壊したことへの達成感もなかった。
ただ、汚れたものに触れてしまったという不快感だけが滲んでいた。
「……おい、テメェ」
爆豪が声をかけた。
男は消毒を続けながら、視線だけを向ける。
「あ?」
「何モンだ。いきなり出てきて、何してやがる」
「見れば分かる事だ。手を消毒している」
「そこじゃねえわ!」
爆豪の怒声にも、男は眉一つ動かさなかった。
むしろ、うるさそうに目を細めると、消毒液の容器を懐へ戻し、改めて周囲を見渡した。
破壊された搬入口、ひしゃげた配送用トラック、地面に散乱する氷塊と瓦礫。
そして、足元で無惨な残骸と化しているクレストロ。
男はそれらを順番に眺め、最後に小さく溜息を吐いた。
「……貴様!」
四ツ橋が怒鳴った。
「私の質問に答えたまえ! 何者だ、君は!」
男は面倒そうに顔を上げた。
そして、ようやく四ツ橋へまともに視線を向ける。
「……敵連合同盟──死穢八斎會若頭、オーバーホールだ」