緑谷出久は、崩れ落ちた建物の陰に身を潜め、どうにか荒い呼吸を整えようとしていた。
背中を預けているコンクリートの壁は、つい数分前までホテルの外壁を構成していたものだった。
今では建物の半分近くが失われ、剥き出しになった鉄筋が夜空へ突き出している。
周囲には砕けた窓ガラスや建材が散乱し、道路には巨大な亀裂が走っていた。
出久は右手で胸元を押さえ、肺の奥に残る焼けつくような痛みを堪えながら、できる限り静かに息を吸い込んだ。
「はっ……はぁ……僕より壊してないか……?」
呼吸をするたびに脇腹が痛み、喉の奥には鉄錆に似た血の味が残っていた。
左腕は肘から先の感覚が鈍く、右脚も膝を曲げるたびに嫌な痛みが走る。
どちらも動かせないほどではなかったが、先ほどまでのような機動戦を続けられる状態ではない。
何より、全身に蓄積した疲労が尋常ではなく、こうして座り込んでいるだけでも、意識が遠のきそうになる瞬間があった。
出久は震える手で口元を拭い、瓦礫の隙間から道路へ視線を向けた。
「豪快だ……アメリカンスタイルか」
街路樹は根元から薙ぎ倒され、道路の中央には巨大な陥没が生じている。
その先ではホテルの上層階が崩れ落ち、かつて車道だった場所を大量の瓦礫が埋め尽くしていた。
つい先ほどまで自分が立っていた場所も、今では跡形もなく消し飛んでいる。
スターアンドストライプが、何度か『新秩序』を行使した結果だった。
「冗談じゃない……」
出久は瓦礫へ背中を押しつけたまま、先ほどの戦闘を思い返した。
致命的な一撃は辛うじて回避できたし、続く攻撃も周囲の建物や道路の構造を利用することで、どうにか凌ぐことができた。
しかし、攻撃の軌道を読み、回避先を選び、反撃の機会を探るという一連の思考を重ねるほど、状況は悪くなっていった。
こちらが選択肢を絞り込んでいる間に、相手は既にその先まで見通しているかのように動き、出久が最善と判断した回避先へ、大気を固めた拳を叩き込んでくるのである。
単純な身体能力の差だけでは説明できない。膨大な実戦経験に裏打ちされた判断力と、理不尽極まりない個性によって、彼女は最強かつ無敵のヒーローらしく、好き勝手に暴れ回っていた。
「……どうする」
正面から戦い続けるのは論外だった。
あの女を倒せる見込みは限りなく低く、足止めするにしても、今の身体では長く保たないだろう。
ならば地形を利用して逃走し、可能であれば別の場所へ誘導するべきだが、相手の移動速度を考えれば、それも容易ではない。
出久は頭の中で幾つもの経路を検討した。
ホテルの裏手にある路地へ逃げ込めば、一時的に視線を切ることはできるかもしれない。
しかし、その先は幅の狭い一本道であり、建物を飛び越えて追ってこられれば逃げ場がない。
反対側の大通りには複数の交差点があるものの、遮蔽物が少なく、今の脚では横断する前に追いつかれる可能性が高かった。
普段なら、こうした状況でも何かしらの打開策を見つけられたはずだった。
ところが、疲労によって思考が鈍っているのか、ようやく一つの可能性を思いついても、その先でスターアンドストライプに捕まる光景ばかりが想像できてしまう。
そんな時だった。
「──どこに隠れたんだい、ぼーや?」
背後から聞こえてきた声に、出久は全身を強張らせた。
低く、よく通る女の声だった。
言葉遣いだけを聞けば、迷子の子供を探している大人のようにも思える。
しかし、その声音には隠しようのない愉悦が滲んでおり、出久にはそれが、獲物を追い詰めた捕食者の声にしか聞こえなかった。
反射的に呼吸を止めると、瓦礫の向こうから、ゆっくりと足音が近づいてきた。
砕けたコンクリートを踏み締める硬い音が、静まり返った夜の街へ響いている。
スターアンドストライプは走っているわけでも、周囲を警戒しているわけでもないらしく、その歩調には奇妙なほど余裕があった。
「さっきまで、随分と元気に飛び回ってたじゃないか。こっちの拳を避けて、あっちの建物へ逃げ込んで、今度は瓦礫の陰に隠れて……まったく、落ち着きのない子だよ」
出久は口元を押さえ、込み上げてきた咳を必死に堪えた。
肺が酸素を求めて悲鳴を上げていたが、ここで呼吸を乱せば居場所を悟られる。
もっとも、あの女が本当に自分を見失っているかどうかは疑わしかった。
むしろ、こちらが隠れていることを承知した上で、わざと声をかけている事もあり得る。
スターアンドストライプが瓦礫の山へ足を踏み入れようとした、その時だった。
「──うおおおおおおッ!」
横合いから飛び出した人影が、彼女の頭部を目掛けて跳びかかった。
緑色の髪に、黒を基調とした衣服。
顔には幾つもの擦り傷があり、右の頬には乾いた血がこびりついている。
先ほどまで追い回していた少年と寸分違わぬ姿をした人影は、両腕を大きく広げ、スターアンドストライプの首へしがみつこうとしていた。
「──ッ!」
スターアンドストライプは咄嗟に上体を捻り、迫ってきた少年の顔面へ拳を叩き込んだ。
鈍い衝突音が響き、少年の身体が勢いよく後方へ吹き飛ばされる。
頭部を大きく仰け反らせたまま宙を舞い、背後にあった街路樹へ激突したかと思うと、幹をへし折りながら地面へ叩きつけられた。
普通の人間であれば即死していてもおかしくない一撃だったが、彼女は倒れた少年の姿を確認するなり、苛立たしげに舌打ちした。
少年の身体が、溶ける。
顔面から崩れ始めた肉体は、衣服も骨格も区別なく黒っぽい泥へ変わり、地面に広がっていく。
数秒も経たないうちに人間の形を失い、やがて泥そのものが跡形もなく消えてしまった。
「……また偽物か」
スターアンドストライプは拳を開閉し、忌々しげに呟いた。
これで何人目だろうか。
最初に緑谷出久を発見した時から、奇妙なことは何度も起きていた。
追い詰めたはずの少年が突然二人に増え、片方を殴り飛ばせば泥となって消える。
ようやく本物を捕まえたと思ったところで、別の場所から同じ顔をした少年が現れ、こちらの注意を引きつけていく。
「敵連合の、ジン・ブバイガワラか……」
日本へ向かうにあたり、当然ながら敵連合に関する資料には目を通している。
トゥワイスというヴィランが持つ『二倍』は、対象の外見や能力まで再現するという厄介極まりない個性であり、条件さえ整えば、文字どおり無尽蔵に戦力を増やすことができる。
もっとも、複製には耐久力の問題があるらしく、ある程度の損傷を受ければ消滅するという弱点も存在していた。
実際、先ほどから襲いかかってくる緑谷出久の複製は、どれも一撃で片づいている。
しかし、幾ら倒しても次が現れるというのは、思いのほか煩わしいものだった。
最初のうちは面白がって相手をしていたスターアンドストライプも、こう何度も同じことを繰り返されれば、いい加減うんざりしてくる。しかも、複製たちは本物の戦闘を助けることだけを目的としているらしく、こちらの注意を引きつけられるのであれば、自分が殴り飛ばされることなど少しも気にしていなかった。
「面倒な個性ね」
そう言って、スターアンドストライプは首を鳴らした。
彼女の視線は、既に別の場所へ向けられている。
倒壊したホテルの外壁。
その陰に隠れている少年の存在を、スターアンドストライプはとうに察知していた。
呼吸を殺し、身じろぎ一つせずに潜んでいるつもりなのだろうが、あれほど派手に逃げ回っておいて、今さら瓦礫の陰に隠れたところで意味があるはずもない。
ただ、少しばかり感心するところもあった。
あの少年は、実にしぶとい。
何度も追い詰め、幾度となく逃走経路を塞いでやったというのに、そのたびに予想もしない方法で逃げ延びている。
複製を利用していることもそうだが、地形の把握や攻撃の誘導、こちらの視線を利用した駆け引きに至るまで、どれも年齢に見合わぬ水準だった。
しかし、そろそろ終わりにするべきだろう。
「……しかたない。もう少し手荒にやろうか」
スターアンドストライプは、何でもないことのように呟き、右腕を振り上げた。
瓦礫の向こうで、出久が息を呑む。
彼女が何をしようとしているのか、正確には分からない。
ただ、あの拳が振り下ろされた場合、隠れている建物の残骸がどうなるかについては、考えるまでもなかった。
既に何度も目にしている光景であり、あの女の前ではコンクリートの壁など紙切れほどの意味も持たないのである。
出久は反射的に腰を浮かせ、逃走するために右脚へ力を込めた。
その瞬間だった。
──パンッ!
乾いた発砲音が、夜の泥花市に響き渡った。
ほとんど同時に、スターアンドストライプの側頭部へ小さな金属片が飛来する。
出久は咄嗟に目を見開いた。発砲音が聞こえた方向は、彼女の背後に位置する建物の屋上付近。
射線は正確で、狙いも悪くない。少なくとも、普通の人間が相手であれば、致命傷を与えるに十分な一撃だ。
だが、スターアンドストライプは避けなかった。
弾丸が迫っていることに気づいていなかったわけではない。
むしろ、飛来する金属片へ一瞬だけ視線を向け、その軌道を確認した上で、何の対応も取らなかった。
不要だからだ。
甲高い金属音が響く。
弾丸はスターアンドストライプのこめかみに命中し、そのまま弾き返された。
ひしゃげた弾丸が宙を舞い、コンクリートの上を数度跳ねて転がる。
彼女はこめかみを指先で撫でたが、その皮膚には傷一つついていなかった。
「日本もいつの間にか銃社会になったのかい」
道路を挟んだ向かい側には、半ば倒壊した雑居ビルが建っている。
窓ガラスは軒並み砕け散り、内部も停電しているらしく真っ暗だったが、その三階部分にある窓の奥で、何かが動いたように見えた。
スターアンドストライプは呆れたように笑った。
銃器による攻撃は、彼女にとって何ら珍しいものではない。
アメリカで活動していれば、拳銃を持った犯罪者など幾らでも相手にする機会があるし、軍用の火器を持ち出すヴィランも少なくない。
しかし、彼女が自身に課している『新秩序』による身体能力の強化は、そうした通常兵器の大半を無意味なものに変えてしまう。
「おーい! 撃った奴、出てきな!」
スターアンドストライプが声を張り上げると、雑居ビルの窓から男が顔を覗かせた。
短く刈り込んだ髪に、目つきの悪い顔。
派手な柄のシャツを着た男は、窓枠へ片足をかけると、手にした拳銃をスターアンドストライプへ向けた。
「あぁ!? 何だテメェ、こっち見てんじゃねえぞ!」
「……んん?」
男は何の躊躇いもなく引き金を引き、再び乾いた発砲音が響く。
弾丸は彼女の胸元へ命中したものの、先ほどと同じように潰れて弾き返され、地面へ転がった。
「効いてないのが分からないのかい?」
「スッゾオラー!」
男は怒鳴り返し、立て続けに発砲した。
スターアンドストライプは呆れたように肩を竦めたが、その直後、別の方向からも銃声が響いた。
今度は背後だった。
振り返ると、路地裏から二人の男が現れていた。
どちらも柄の悪い風貌をしており、一人は黒いスーツの上着を脱ぎ捨て、もう一人は袖を捲り上げたシャツから刺青を覗かせている。
彼らはスターアンドストライプの姿を認めるなり、互いに何かを叫び合いながら拳銃を構えた。
「いたぞ、あのアマだ!」
「撃て撃て! 構うこたぁねえ!」
「スッゾオラー!」
銃声が重なった。
前方の雑居ビル、背後の路地裏、そして道路を挟んだ反対側の建物から、次々と弾丸が飛来する。
スターアンドストライプはその場から一歩も動かず、飛んでくる弾丸を全身で受け止めた。
肩や胸、腹部へ命中した弾丸はことごとく潰れ、彼女の足元には瞬く間に金属片が散らばっていった。
「……何だい、こいつら」
スターアンドストライプは、さすがに困惑した。
これほど明白に攻撃が通用していないにもかかわらず、男たちは一向に発砲を止めようとしない。
それどころか、次々と新しい人影が現れ、まるで最初から彼女を包囲するつもりだったかのように、周囲の道路や建物へ散開していく。
その数は十人を超えていた。
いずれもヒーローや軍人とは思えない風貌であり、銃の扱いにも相当な個人差があった。
慣れた手つきで発砲する者がいる一方、反動に身体を仰け反らせながら引き金を引く者もいる。
服装も統一されておらず、黒いスーツ姿の男もいれば、作業着や派手なシャツを着込んだ男もいた。
ただし、一つだけ共通していることがある。
全員、恐ろしく柄が悪かった。
「オラァ! どうした、デケェ図体しやがって!」
「調子乗ってんじゃねえぞ、コラ!」
「スッゾオラー!」
スターアンドストライプは思わず額へ手を当てた。
「……なんだコイツら……」
男たちは彼女が反撃しないことをいいことに、口々に罵声を浴びせながら銃撃を続けている。
これほど明白な実力差を見せつけられながら、恐怖するどころか、ますます勢いづいているようにさえ見えた。
だからといって放置できるものでもない。
流れ弾が周囲の建物へ飛び込む可能性もあれば、瓦礫の陰に隠れている少年へ命中する危険もある。
何より、これほど大勢の武装した犯罪者が市街地で好き勝手に発砲しているという状況そのものが、ヒーローとして看過できるものではなかった。
「……ったく、仕方ない」
スターアンドストライプは大きく息を吐き、ゆっくりと右手を握り締めた。
まずは目の前の連中をまとめて無力化し、それから改めて緑谷出久を捕まえればいい。
そう考えた彼女が、一歩前へ踏み出そうとした時だった。
「──どぉおおおおおおおッ!!」
凄まじい雄叫びが、銃声を掻き消した。
スターアンドストライプが顔を向けると、道路の向こうから巨大な人影が迫っていた。
身長は二メートルを優に超えているだろうか。
分厚い胸板と丸太のような両腕を持つ、ペストマスクをつけた男が、砕けたアスファルトを蹴り飛ばしながら突進してくる。
着込んでいる衣服は身体の各所で張り裂け、露出した筋肉には幾つもの古傷が刻まれていた。
「……お?」
スターアンドストライプが眉を上げた。
先ほどまでの男たちとは、明らかに違う。
身体の大きさだけではない。
踏み込みの力強さ、重心の低さ、そして何より、こちらへ接近する速度が尋常ではなかった。
大柄な体格からは想像できないほど素早く距離を詰めてきた男は、スターアンドストライプの眼前へ到達すると、巨大な両拳を握り締めた。
「──うおおおおおおおおおッ!!」
男の拳が、スターアンドストライプの腹部へ叩き込まれた。
続けざまに二発、三発。そこから先は、ほとんど数えることもできなかった。
左右の拳が交互に繰り出され、凄まじい速度でスターアンドストライプの身体へ突き刺さっていく。
腹部、胸部、肩口、顎。男は標的を細かく変えながら、まるで機関銃のような連打を浴びせ続けた。
拳が命中するたびに鈍い衝突音が響き、周囲の砂埃が衝撃で舞い上がる。
「──おおっ!?」
スターアンドストライプは思わず声を上げた。
大したものだった。
拳の速度も威力も、先ほどまで銃を乱射していた連中とは比較にならない。
しかも、男はただ闇雲に殴っているわけではなく、攻撃の途中で踏み込みを変え、相手の反応に合わせて打点を調整していた。
生まれつきの才能か、あるいは積み重ねた経験によるものか。
いずれにせよ、拳を振るうことに関しては相当な技量を持っている。
とはいえ、スターアンドストライプは一歩も退かなかった。
足元のアスファルトには亀裂が広がり、周囲の空気が激しく震えているというのに、その身体はまるで巨大な岩のように揺るがない。
男の拳は確かに命中しているものの、彼女にとっては少々強く押されている程度のことでしかなかった。
「……ふうん」
スターアンドストライプは興味深そうに男の連打を眺め、やがて小さく肩を竦めた。
「悪いね、アンタに付き合ってはやれない」
男の連打が僅かに途切れた瞬間、彼女は踏み込んだ足を軸に上体を捻り、正面から拳を突き出した。
特別な技術を用いたわけではない。
ただ、鍛え上げられた肉体と『新秩序』によって強化された膂力を、そのまま拳へ乗せた一撃。
それだけで十分だった。
スターアンドストライプの拳が男の腹部へ突き刺さり、凄まじい衝撃音が響いた。
「──ごぼッ!?」
男の巨体が、くの字に折れ曲がった。
両足が地面から離れ、身体が勢いよく後方へ吹き飛ばされる。
道路に転がっていた瓦礫を跳ね飛ばし、停車していた乗用車の側面へ衝突したかと思うと、そのまま車体を押し潰しながら反対側へ突き抜けた。
さらに数メートルほど地面を転がり、ようやく動きを止める。
出久は瓦礫の陰から顔を覗かせ、思わず驚愕の声を漏らした。
乱波肩動。
死穢八斎會に所属する武闘派の一人であり、近接戦闘においては組織内でも屈指の実力者だった。
以前、八斎會と敵対し刺客として乱波が現れた際にも、随分と戦闘好きな人物だという印象を受けたが、まさかアメリカのナンバーワンヒーローを相手に、あれほど嬉しそうに殴りかかるとは思わなかった。
もっとも、実力差は明白だった。
乱波の拳は、スターアンドストライプにほとんど通用していない。
一方、彼女の攻撃は一撃で乱波を吹き飛ばし、場合によってはそのまま戦闘不能に追い込んでもおかしくない威力を持っている。
にもかかわらず、乱波は退かなかった。
潰れた乗用車の残骸を押し退け、腹部を押さえながら立ち上がると、男は嬉しそうな笑い声を上げた。
膝が僅かに震えていることから、先ほどの一撃が相当な威力だったことは明らかだったが、それでも乱波は再び拳を握り締め、スターアンドストライプへ向かって走り出した。
「……あれ、大丈夫なのかな」
出久は不安そうに呟いた。
乱波が頑丈な人間であることは知っている。
しかし、いくら何でも相手が悪すぎる。スターアンドストライプが本気で殴り返せば、あの巨体であっても無事では済まないはずだった。
助けに入るべきかと考えたものの、今の自分が飛び出したところで状況が好転するとは思えない。
むしろ、乱波が作ってくれている隙を無駄にしてしまう可能性の方が高かった。
「──おい、ボス!」
すぐ横から、小さな声が聞こえた。
出久が振り向くと、崩れた壁の向こうから黒いマスクを被った男が顔を覗かせていた。
「分倍河原さん! 無事で良かった」
「おう! お前も生きてたか! 複製なら何人も死んじまったがな!」
トゥワイスは周囲を警戒しながら、こそこそと瓦礫の陰へ入り込んできた。
身体を低く屈め、時折スターアンドストライプの方へ視線を向けているものの、その動きは妙に大袈裟で、かえって目立っているようにも見える。
出久は思わず苦笑した。
「囮を買って出たはいいものの、見ての通り手も足も出ないや」
「アレはしゃーない。オールマイトとかAFOとか、そう言う類の奴だあいつは」
出久は小さく息を吐き、瓦礫の向こうへ視線を向けた。
スターアンドストライプは、再び立ち上がった乱波を相手にしていた。
大柄な男は腹部を押さえながらも嬉しそうに笑い、先ほどの一撃で受けた損傷など気にも留めず、拳を振り回している。
その周囲では、銃を持った男たちが相変わらず罵声を浴びせながら発砲を続けていた。
もっとも、状況が好転しているようには見えなかった。
銃弾はことごとく弾かれ、乱波の連打もほとんど通用していない。
スターアンドストライプは時折面倒そうに拳を振るうだけで、周囲の男たちを容易く退けていた。
「……それで、あの人たちは?」
「ああ、そうだ! それを伝えに来たんだった!」
トゥワイスは思い出したように手を叩いた。
「八斎會のヤクザ共が来てくれたんだ! 助かったぜ! とんでもねえ連中を呼びやがって!」
「……そっか、来てくれたんだ。正直ダメ元だったけど」
「おうよ! 今は街のあちこちで戦争してやがる! 解放軍の連中とドンパチだ! もう滅茶苦茶だぜ!」
興奮気味に話すトゥワイスに、出久は思わず目を瞬かせた。
「……戦争?」
「戦争だよ、戦争! 黒塗りの車が何台も乗りつけてきたと思ったら、ヤクザ共がゾロゾロ降りてきやがってな。四ツ橋のところにも向かったし、こっちにも来たし、残りの連中は街中で解放軍を相手に大暴れしてるらしいぜ! 最高だな! 最悪の事態だ!」
「……それはまた」
出久は困ったように眉を下げた。
死穢八斎會が協力してくれること自体はありがたい。
彼らは異能解放軍とは異なる独自の組織力を持ち、構成員の中には優れた個性を有する者も少なくない。
オーバーホールが本格的に介入しているのであれば、四ツ橋を相手にしている爆豪たちにとっても、大きな助けになるだろう。
しかし、街中で戦争を始めたというのは、いささか穏やかではなかった。
そもそも今回の目的は、異能解放軍の中枢を無力化し、組織としての活動を停止させることにある。
幹部を一斉に拘束することができれば、末端の構成員全員と戦う必要はない。
そう考えていたからこそ、出久は四ツ橋との接触を利用し、公安を巻き込んだ作戦を立案していたのである。
それが今では、街のあちこちで銃撃戦が始まっているらしい。
「……何だか、どんどん大事になっていきますね」
「今さら何言ってんだ! お前が始めたんだろ!」
「ははは、違いない」
出久は苦笑した。
もっとも、既に始まってしまったものは仕方がない。
八斎會の介入によって解放軍の戦力が分散されるのであれば、少なくとも四ツ橋たちを拘束するための好機は生まれるはずだった。
問題は、こちらである。
「……でも、スターアンドストライプ相手じゃ、時間稼ぎにも……」
出久がそう言いかけた、その時だった。
「──おらああああああッ!!」
乱波の雄叫びが響き、続けざまに凄まじい打撃音が聞こえた。
出久は反射的に顔を上げた。
スターアンドストライプの眼前で、乱波が再び猛烈な連打を繰り出していた。
左右の拳が残像を残すほどの速度で振るわれ、女の腹部や胸元へ次々と叩き込まれていく。
だが、スターアンドストライプは相変わらず微動だにせず、ただ面倒そうに乱波を見下ろしていた。
「……あんたも、いい加減にしな!」
女が右腕を引いた。
「──あ」
スターアンドストライプの拳が、乱波の胸元へ叩き込まれた。
鈍い衝突音が響き、大柄な男の巨体が宙へ浮き上がる。
先ほどまで地面を踏み締めていた両足が完全に離れ、乱波は凄まじい勢いで後方へ吹き飛ばされた。
そして、その進行方向には。
「……え?」
出久たちが隠れている瓦礫の山があった。
「──うおおおおおおッ!?」
乱波が歓喜とも悲鳴ともつかない声を上げた。
「ちょっ、こっち来るなッ!」
トゥワイスが叫んだ。
次の瞬間、乱波の巨体が瓦礫へ激突した。
積み重なっていたコンクリートの塊が砕け散り、剥き出しの鉄筋がひしゃげる。
出久が背中を預けていた壁は中央から大きく割れ、無数の破片となって周囲へ飛び散った。
衝撃によって大量の粉塵が舞い上がり、二人の視界が一瞬にして灰色に染まる。
「──っ!」
出久は咄嗟にトゥワイスを抱え込む。
直後、肩口へ小さな瓦礫が降り注ぎ、身体が大きく揺さぶられる。
辛うじて倒れ込むことは避けたものの、傷めていた右脚に力が入り、鋭い痛みが走った。
「いっ……!」
「うおおおッ!? 何だ何だ!? 地震か!? 違うぞ、ヤクザが降ってきた!」
トゥワイスが悲鳴を上げる。
出久は咳き込みながら顔を上げた。
つい先ほどまで目の前に存在していた壁は、跡形もなく崩れ落ちていた。
代わりに巨大な陥没が生じ、その中央には乱波が仰向けに倒れている。
「……ぐ、ぐぐ……!」
乱波は腹部を押さえながら身を捩り、苦しそうに息を吐いた。
しかし、次の瞬間には笑い始めた。
「……は、ははっ……! すっげえ……! 何だよ、あの女……!」
「……乱波さん」
出久は呆然と呟いた。
この状況で笑っていられるというのは、ある意味では大したものだった。
もっとも、感心している場合ではない。
隠れ場所が、完全に失われていた。
粉塵の向こうには、先ほどまで瓦礫に遮られていた道路が広がっている。
倒壊した建物も、砕けた街路樹も、銃を持った八斎會の組員たちも、全てがはっきりと見える。
そして、その中央には。
「……あ」
スターアンドストライプが立っていた。
彼女は拳を振り抜いた姿勢のまま、しばらくこちらを眺めていた。
その視線が倒れた乱波から出久へ移り、続いて隣にいるトゥワイスへ向けられる。
女はゆっくりと瞬きをした。
そして。
「──みーつけた」
楽しそうな声が、粉塵の向こうから聞こえた。
スターアンドストライプは、ゆっくりと拳を開閉した。
指の関節が、ぱきり、ぱきりと乾いた音を立てる。
先ほどまで周囲に響いていた銃声はいつの間にか疎らになっており、八斎會の組員たちも、彼女の注意が別の場所へ向いたことに気づいたらしかった。
しかし、スターアンドストライプはそんな彼らには目もくれず、瓦礫の陰から姿を現した二人を見つめていた。
「……なるほどねえ」
彼女は口元を歪めた。
「そこのレオタード君が、ジン・ブバイガワラだね?」
「レオタードじゃねぇ! タイツだ! あんたも似たようなの着てんだろ!」
トゥワイスが反射的に言い返した。
スターアンドストライプは軽く眉を上げたものの、すぐに視線を出久へ戻した。
「君は本物のイズク・ミドリヤかな?」
出久は答えなかった。
相手の言葉を聞きながら、周囲の状況を確認していた。
背後には崩れた建物の残骸が積み重なっており、左右には大きな瓦礫が散乱している。
逃走経路として使えそうな場所は幾つかあったが、どれもスターアンドストライプの視界から完全に外れることはできない。
何より、今の身体では十分な速度を出せなかった。
個性の制御も上手くいかず、ホワイト・ラビットは生成出来そうにない。
「……まあ、どっちにしろ」
スターアンドストライプは肩を竦めた。
「叩いて確かめるさ」
その言葉を聞いた瞬間、出久は全身を強張らせた。
相手は既に、自分と複製を見分けるための最も単純な方法を理解している。
確かめられる側にとっては、たまったものではない。
「分倍河原さん! 離れて!」
出久が叫んだ。
その瞬間には、スターアンドストライプが目前まで迫っていた。
「──ッ!?」
速い。
そう認識した時には、既に遅かった。
スターアンドストライプは一瞬で二人との距離を詰め、踏み込んだ右脚を軸に上体を沈めていた。
腰を大きく捻り、右腕を身体の側面へ引きつける。
その動作は、これまで彼女が繰り出してきた大振りな攻撃とは明らかに異なっていた。
余計な動きがない。ただ、目の前の相手を確実に打ち抜くための、極めて合理的な一撃。
「──ふッ!」
短い呼気と共に、拳が放たれた。
巨大な鉄槌を思わせるボディブローが、出久の鳩尾へ突き刺さった。
「──がッ!?」
肺の中に残っていた空気が、一瞬にして押し出された。
腹部から背中へ凄まじい衝撃が突き抜け、身体がくの字に折れ曲がる。
出久は反射的に両腕を腹部へ寄せようとしたが、その動きさえ間に合わず、ただ拳を受けた姿勢のまま硬直した。
痛みを感じたのは、僅かに遅れてからだった。
腹部の奥を直接握り潰されたような激痛が走り、視界が白く染まる。
胃の内容物が喉元までせり上がり、出久は声にならない呻きを漏らした。
「──ボスッ!?」
トゥワイスが叫んだ。
しかし、スターアンドストライプは彼を見ていなかった。
出久の腹部へ拳を押し込んだ姿勢のまま、じっと少年の顔を観察している。
出久は消えなかった。
先ほどまで殴り飛ばしてきた複製たちとは違い、身体が泥へ変わることもなければ、輪郭が崩れることもない。
苦痛に顔を歪め、呼吸すらできずにいる少年は、間違いなく生身の人間だった。
スターアンドストライプの口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「……ビンゴ」
嬉しそうな声だった。
出久はその言葉を聞きながら、必死に身体を動かそうとした。
鳩尾へ受けた衝撃によって横隔膜が痙攣し、呼吸がまともにできない。
膝は震え、視界の端には黒い影がちらついている。それでも、今すぐこの女から距離を取らなければならないということだけは分かっていた。
どうにか右脚へ力を込めた、その時だった。
スターアンドストライプの左手が、出久の肩を掴んだ。
「『新秩序」
出久の思考が、一瞬だけ停止した。
触れられた。
名前を呼ばれた。
その二つの条件が揃ったことの意味を、出久は誰よりも理解していた。
「──イズク・ミドリヤは、動けない」
スターアンドストライプが宣言した。
次の瞬間、出久の身体が完全に停止した。
「──……ッ!?」
出久は咄嗟に身体を捻ろうとしたが、筋肉へ力を込めることすらできなかった。
足も、腕も、指先も、首さえ動かせない。意識ははっきりしており、目の前にスターアンドストライプがいることも、隣でトゥワイスが何かを叫んでいることも分かるのに、自分の意思で身体を動かすことだけが許されなかった。
呼吸はできる。心臓も動いている。
しかし、声を出そうとしても喉は反応せず、唇を開くことさえできない。
生命を維持するための働きだけを残して、出久の身体は完全に自由を失っていた。
「──ボスから離れやがれ、ゴリラ女ァッ!」
怒声と共に、トゥワイスが殴りかかった。
スターアンドストライプは、出久の肩へ置いていた手を離すと、煩わしそうに顔を向けた。
黒いマスクの男が、右腕を大きく振りかぶりながら迫ってくる。
拳の握り方も、踏み込みも、お世辞にも洗練されているとは言えない。
怒りに任せて突っ込んできたことは明白であり、相手の力量を考えれば、無謀としか言いようのない攻撃だった。
「……誰がゴリラだい」
スターアンドストライプは、軽く右拳を振るった。
トゥワイスの拳が届くよりも早く、彼女の拳が黒いマスクの側頭部へ叩き込まれた。
鈍い衝突音が響き、男の身体が横方向へ大きく傾く。
踏み込んだ足が地面から離れ、そのまま宙を舞ったかと思うと、出久のすぐ横へ叩きつけられた。
「──ぐべッ!?」
トゥワイスは地面を二度ほど転がり、出久の足元で動きを止めた。
「……ぐ、うぅ……!」
黒いマスクに覆われた頭部から、赤いものが滲み出していた。
最初は額の辺りに小さな染みが生じただけだったが、やがてそれは徐々に広がり、布地を濡らしていく。
こめかみの付近から流れ出した血が頬を伝い、顎先から砕けたアスファルトへ滴り落ちた。
出久は目を見開いた。
「──……!」
分倍河原さん。
そう呼ぼうとした。
しかし、声は出なかった。
『新秩序』によって課せられた規則は、今なお出久の自由を完全に奪っていた。
足を踏み出すことも、腕を伸ばすこともできない。倒れたトゥワイスへ顔を向けることさえ許されず、ただ視界の下端に映る黒い人影を見つめることしかできなかった。
トゥワイスは、出久の足元で苦しそうに身を捩っていた。
「……く、そ……!」
右手を地面につき、どうにか身体を起こそうとする。しかし、頭部を強打した影響なのか、腕に力が入らないらしく、肘が折れて再び地面へ倒れ込んでしまう。
「……いってぇ……! 痛くねえぞ、こん畜生……!」
いつもの調子で悪態をつこうとしているのだろうが、その声には明らかな弱々しさがあった。
出久は必死に身体を動かそうとした。
足元に倒れている仲間を助け起こす。ただ、それだけのことができなかった。
目の前にいる女を殴り飛ばすどころか、手を伸ばしてトゥワイスの肩へ触れることさえできない。
スターアンドストライプは、そんな二人を見下ろしながら小さく息を吐いた。
「別にさ、アンタらが絶対悪だなんて言わないよ。イズク・ミドリヤの言うように彼らがテロリストと言うのも本当かもしれない、だが、全ては法廷で明らかにされる事だ」
彼女は拳を開閉し、倒れたトゥワイスへ視線を向けた。
「アンタも少しは考えて動きな。あれだけ複製を使って人を振り回しておいて、最後は自分から殴られに来るなんて、随分と間抜けじゃないか」
「……うる、せえ……!」
トゥワイスが呻いた。
「その子に……手ぇ出すんじゃ……ねえ……!」
スターアンドストライプは、なおも立ち上がろうとするトゥワイスを見下ろしていた。
トゥワイスは右手を地面についたまま、何度も身体を起こそうとしていた。
しかし、頭部を強打した影響は大きいらしく、肘を伸ばすたびに身体が傾き、膝を立てようとしても上手く力が入らない。
額から流れ出した血がマスクの縫い目に沿って広がり、顎先から滴り落ちているというのに、トゥワイスはそれを拭おうともせず、ただ目の前の女を睨みつけていた。
「嫌な気分だよ、全く」
スターアンドストライプは呆れたように息を吐いた。
彼女にとってトゥワイスの抵抗など脅威と呼べるものではなく、殺すつもりもなければ、必要以上に傷つけるつもりもない。
「大人しくしてな。これ以上やるってんなら、タダじゃおかないよ」
「……上等、だ……! やってみやがれ……!」
トゥワイスは震える腕で身体を支えながら、どうにか片膝を立てた。
視線は定まっておらず、呼吸も荒い。
それでも彼はスターアンドストライプから目を逸らそうとせず、傍らで立ち尽くしている出久を庇うように、ゆっくりと身体を前へ押し出した。
スターアンドストライプは、その姿を見て僅かに眉をひそめた。
「……さっさと終わらせるよ」
彼女が右手を伸ばした。
倒れかけている男の襟首を掴み、これ以上暴れないように押さえつけるつもりだった。
相手が抵抗するなら、そのまま意識を失わせてもいい。
少なくとも、今のトゥワイスにそれを防ぐだけの力が残っていないことは、誰の目にも明らかだった。
しかし、その手がトゥワイスへ届こうとした瞬間、出久の目には奇妙な光景が映っていた。
時間が、引き延ばされていた。
スターアンドストライプの肩が僅かに動き、そこから肘が伸びていく。
指先がトゥワイスの顔へ近づいていくまでの、ほんの一瞬の出来事だった。
実際には一秒にも満たない時間であったはずなのに、出久にはその動作の一つ一つが、途方もなく長い時間をかけて進んでいるように感じられた。
視界の端では、瓦礫の上を舞っていた粉塵がゆっくりと落下している。
遠くで響いていた銃声は、水の底から聞こえてくるようにくぐもり、スターアンドストライプの口元が何かを形作っていることは分かっても、その声は耳へ届かなかった。
出久の意識は、目の前で伸ばされている一本の腕と、その先で必死に抵抗しようとしている男の姿へ、恐ろしいほど鮮明に集中していた。
分倍河原さんが、殴られる。
今度こそ、死んでしまうかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、出久の脳裏に、まったく別の光景が蘇った。
薄暗い路地裏だった。
湿ったアスファルトの臭いと、壁際に転がった空き缶。
建物の隙間から差し込む街灯の光が、地面に倒れた飯田天哉の身体を照らしていた。
あの時、飯田は満足に身体を動かすことができず、ただ目の前に立つ男を睨みつけていた。
ステイン。
ヒーロー殺しと呼ばれた男は、血に濡れた刃物を握り締めながら、飯田を見下ろしていた。
その顔に浮かんでいたものが怒りだったのか、憎悪だったのか、それとも自らの信念を貫こうとする歓喜だったのか、出久には今でも分からない。
ただ一つ確かなのは、あの男が飯田を殺すと宣言した時、その目には一切の迷いが存在していなかったということだった。
狂気に満ちた目だった。
自分が正しいと信じて疑わず、目の前の人間を殺すことさえ、その正しさのために必要な行為だと受け入れている。
説得も、懇願も、恐らくは何の意味も持たなかっただろう。
あの男にとって飯田天哉は、もはや一人の人間ではなく、自分の信念に従って排除されるべき存在でしかなかったのだから。
そして、その目を見た自分は。
出久の記憶の中で、血に濡れた拳が持ち上がった。
ステインを殴った時の感触を、今でも覚えている。
拳が肉へめり込み、その奥にある硬いものへ衝突した瞬間、腕の骨を伝って返ってきた鈍い衝撃。相手の身体が崩れ落ちても、既に振り抜いた拳を止めることはできなかった。
あの時の自分には、相手を無力化するための適切な力加減も、殺さずに済ませるための余裕もなかった。
ただ、飯田を殺させたくなかった。
それだけの理由で、出久はステインを殴り殺した。
今になって思えば、ほかに方法があったのかもしれない。
もっと冷静に状況を判断し、相手の動きを封じる手段を探し、飯田を連れて逃げることだってできたのかもしれなかった。
しかし、あの瞬間の自分には、そんな選択肢を検討する時間など残されていなかった。
目の前で誰かが殺されようとしている。自分には、それを止める力がある。
だから、殴った。
出久は、自分の拳を思い出していた。
ステインの血に濡れた、あの醜い拳を。
『──大変だ、出久君』
その声は、ひどく穏やかだった。
スターアンドストライプの指先がトゥワイスへ迫り、今にも彼の襟首を掴もうとしている。
出久はその光景を見つめながら、どうにか身体を動かそうとしていたが、『新秩序』によって課せられた規則は依然として有効であり、指先一つ動かすことができなかった。
そんな出久の脳裏に、まるで以前からそこにいたかのような自然さで、聞き覚えのある男の声が響いた。
『君を慕う分倍河原君が、殺されてしまう』
オール・フォー・ワン。
その声を認識した瞬間、出久は息を呑もうとした。
しかし、呼吸さえ自分の意思では満足に制御できず、身体は相変わらず、スターアンドストライプの命令に従って硬直している。
不思議なことに、男の声が響き始めてから、目の前の光景はほとんど変化していなかった。
スターアンドストライプの指先はトゥワイスの襟元へ迫ったまま、空中を漂う粉塵も、先ほどから殆ど同じ場所に留まっているように見える。
出久には、現実の時間がどれほど経過しているのか分からなかった。
ただ、自分の意識だけが身体から切り離され、奇妙に引き延ばされた一瞬の中へ閉じ込められているようだった。
『困ったことになったねえ。彼は随分と君を気に入っているようだ。自分が傷つくことも厭わず、あんな恐ろしい相手に立ち向かってくれるなんて、なかなかできることじゃない。君も、そう思うだろう?』
優しい声だった。
叱責するでもなく、嘲笑するでもなく、ただ出久の置かれた状況を案じるような声音で、オール・フォー・ワンは語りかけてくる。
その調子は、かつて保須市の路地裏で、ステインと対峙していた時と少しも変わっていなかった。
あの時も、そうだった。
飯田天哉を殺すと宣言したステインを前に、出久は恐怖と怒りで頭がいっぱいになっていた。
何をすればいいのか分からず、どうすれば飯田を助けられるのかも分からない。
ただ、目の前の男が本気で人を殺そうとしていることだけは理解できていた。
そんな時、オール・フォー・ワンは出久に語りかけた。
大丈夫だ、と。
君は友達を助けたいんだろう、と。
だったら、あの男を殺してしまえばいい。
そして、その言葉を聞いた自分は、ステインを殴り殺した。
今でも覚えている。
あの男の顔が拳の下で歪んでいく様子も、何度殴っても消えなかった怒りも、全てが終わった後に自分の手を見つめた時の、どうしようもない感覚も。
オール・フォー・ワンは、何も強制しなかった。
最後に拳を振るったのは、自分自身だった。
出久の視界では、スターアンドストライプの手がなおもゆっくりと進んでいた。
指先とトゥワイスの襟元との距離は、もはや数センチも残されていない。
トゥワイスは女の手を振り払おうとしているらしく、血に濡れた右腕を持ち上げていたが、その動きには力がなく、仮に間に合ったところで何の意味も持たないだろう。
出久は、叫びたかった。
分倍河原さん、逃げてください。
もういいから、僕のことなんて放っておいてください。
そう伝えたかったが、口を開くことさえできなかった。『ニューオーダー』は出久の意思を無視し、彼の身体を完全に支配している。
何を考え、何を望もうとも、それを行動へ移すことは許されない。
『可哀想に』
オール・フォー・ワンが囁いた。
『あれほど頑張ってきたのにねえ。君は随分と傷ついたし、もう立っているのも辛いだろう。それでも仲間を守ろうとしているのに、今度は身体を動かすことさえ許してもらえない。アメリカのナンバーワンヒーローというのは、なかなか容赦がないものだ』
その言葉には、出久を責める響きが少しもなかった。
むしろ、出久がこれまで積み重ねてきた苦労を誰よりも理解し、その努力を認めてくれているようにさえ聞こえた。
今の出久に何ができるのか、何ができないのかを丁寧に確かめながら、できないことを責めるのではなく、できないのだから仕方がないと慰めてくれる。
全てを委ねたくなる。
『君は悪くない出久君。相手が強すぎるんだ。あの女は君より速く、君より強く、おまけに触れた相手へ好き勝手な規則を押しつけられる。そんな相手に、満身創痍の君が勝てるはずもないだろう?』
出久は答えなかった。
答えられなかったのではない。オール・フォー・ワンの言っていることが、あまりにも正しかったからだった。
スターアンドストライプとの実力差は、既に嫌というほど思い知らされている。
こちらがどれほど頭を働かせても、どれほど必死に逃げ回っても、彼女は圧倒的な力で全てを覆してしまう。そして今、その個性によって身体の自由を奪われた出久には、仲間が傷つけられる光景を眺めることしかできない。
何もできない。
何一つ、できない。
『……でもね、出久君』
オール・フォー・ワンの声が、僅かに柔らかくなった。
『だからといって、分倍河原君を見殺しにする必要はないんだよ』
出久の意識が、その言葉へ引き寄せられた。
『君は、あの子を助けたいんだろう? 彼は君を信じている。君のためなら、あんな怪物にだって立ち向かってしまう。実に健気じゃないか。私はね、そういう気持ちは大切にしてあげるべきだと思うんだ』
出久は、足元に倒れているトゥワイスを見つめた。
分倍河原仁。
初めて出会った頃から、何かと騒がしく、言っていることも滅茶苦茶で、少し目を離せば妙な騒動を起こしてしまう男だった。
それでも、彼は出久を信じてくれていた。自分のような人間をボスと呼び、危険な仕事にも付き合い、今こうして、勝ち目のない相手から守ろうとしてくれている。
そんな男が、目の前で傷ついている。
彼が死んでしまうかもしれないという恐怖は、ステインと対峙していた時に感じたものと、何も変わらなかった。
あの時も、飯田を助けたいという気持ちだけは確かだった。
ほかに何をするべきなのか分からず、正しい選択を考える余裕さえなかったが、それでも友人を見捨てることだけはできなかった。
今も、同じだった。
ただ一つ違うのは、今の自分には拳を振るうことさえ許されていないということだった。
出久は必死に身体を動かそうとした。
トゥワイスを庇うために前へ出ようとする。
しかし、どれほど強く願っても身体は応えず、スターアンドストライプの手だけが、ゆっくりと仲間へ近づいていく。
その時、背後から誰かがそっと肩へ手を置いたような感覚があった。
実際には何も触れていない。
身体の自由が戻ったわけでもなく、出久は依然として、指先一つ動かすことができなかった。
それでも、先ほどまで自分一人で受け止めていたはずの重圧が、ほんの僅かに軽くなったような気がした。
オール・フォー・ワンの声が、すぐ傍で聞こえた。
『もう大丈夫だよ、僕が来たからね』