壊理は、木の根元に腰を下ろしていた。
泥花市から少し離れた山中だった。
周囲には背の高い杉や檜が生い茂り、地面には落ち葉と枯れ枝が厚く積もっている。
頭上では枝葉が重なり合い、昼間だというのに辺りは薄暗かった。
時折、遠くから響いてくる爆発音だけが、今も街で戦いが続いていることを知らせていた。
「……まだ、帰れないの?」
壊理が傍らを見上げると、トガは困ったように首を傾げた。
「うーん、どうでしょうねぇ。もうちょっとだけ待ってみましょうか」
「……うん」
「デクくんたちが迎えに来てくれますから。ね、お茶子ちゃん?」
「そうやね。今はここで待っとるのが一番やと思うよ」
麗日お茶子はそう言って微笑んだ。
もっとも、二人とも本物ではない。
トゥワイスの個性によって作られた複製であり、壊理を泥花市から避難させるよう命じられていた。
戦闘が終わるまでこの山に隠れ、迎えが来るのを待つ。
それが彼女たちに与えられた役目だった。
壊理は膝を抱え、木々の向こうへ目を向けた。
出久が迎えに来ると言われてから、もう随分と時間が経ったように感じる。
実際にはそれほど長くないのかもしれないが、何もせずに待っているだけの時間は、ひどく長かった。
遠くでまた爆発音が響き、壊理の肩が小さく跳ねた。
「大丈夫やよ。ここまで離れとったら、そう簡単には見つからへんから。心配せんでええよ」
「……お茶子さんも、怖くないの?」
「そりゃあ、ちょっとは怖いけどな。でも、壊理ちゃんを守るって約束したから」
「そうですよぉ。もし悪い人が来ても、私たちが何とかしますから!」
トガが胸を張ると、壊理は少しだけ安心したように頷いた。
しかし、二人とも本当の意味で安心していたわけではなかった。
トガは壊理に気づかれないよう、何度目かになる街の方角への視線を送った。
木々の向こうでは、時折、赤い光が空を照らしている。
火災なのか、それとも大きな爆発が起きているのか。
ここからでは分からないが、戦闘が始まった頃よりも、遠くから聞こえる音が明らかに大きくなっていた。
「……ねえ、お茶子ちゃん。みんな大丈夫でしょうか」
「……うん」
お茶子も表情を曇らせた。
彼女たちの役目は壊理を安全な場所へ避難させることであり、街で何が起きていようと、指示があるまではここから動かない。
それ自体は難しい仕事ではないはずだったが、戦闘がどこまで拡大しているのか分からないというのは、想像以上に不安なものだった。
何より、二人は複製だった。
本体が今どこで何をしているのか、知る術はない。
自分たちと同じ顔をした少女たちが無事なのかどうかさえ、確かめることができなかった。
「……大丈夫やと思う」
お茶子は答えたが、その言葉に確信があるわけではなかった。
ただ、壊理の前で不安そうな顔をするわけにはいかない。今の自分たちにできることは、少なくともこの子だけは無事に帰すことだった。
そう考えた、その時だった。
「……あれ?」
壊理が顔を上げた。
「どうしたんですか?」
「……明るい」
壊理が木々の隙間を指差し、トガは何気なくそちらへ視線を向けた。
そして、言葉を失った。
泥花市の方角が、白く輝いていた。
最初は街のどこかで大きな火災でも起きたのかと思った。
しかし、その光は炎の赤や橙とはまるで違っていた。
青白く、異様なほど強烈な輝きが、遠くの山並みの向こうから空を照らし始めている。
「……何、あれ」
お茶子が呟く間にも、光は次第に強さを増していった。
木々の間から差し込む青白い輝きが地面に長い影を落とし、周囲の杉の幹や落ち葉の一枚一枚までが不自然なほど鮮明に浮かび上がる。
昼間だというのに、眩しさのあまり目を細めずにはいられなかった。
頭上にある太陽の光を遥かに上回る輝きが、泥花市の方角から押し寄せていた。
「……お日様みたい」
壊理が呟いた。
トガは何かを答えようとしたが、口を開くより早く、遠くの空に浮かんでいた青白い光が急激に強さを増した。
山の向こうには巨大な光の塊が浮かんでおり、正確には泥花市のある一帯そのものが発光しているように見えた。
青白い輝きは建物の輪郭を呑み込みながら膨れ上がり、やがて山の稜線を越えて、その上空にまで広がり始める。
「……あれ、なに」
「分かりません。でも、あそこにはデクくんたちが……」
言いかけたところで、トガは口を閉ざした。
光が一瞬だけ収縮したのだ。
それまで周囲へ溢れ出していた輝きが、何かに吸い込まれるように中心へ集まり、街の上空に白い輪郭を描いたかと思うと、次の瞬間、凄まじい光が炸裂した。
「──ッ!」
トガは反射的に壊理を抱き寄せた。
視界が真っ白になり、何も見えなくなる。
目を閉じても瞼の裏まで光が透けてくるようで、顔を背けたところで眩しさから逃れることはできなかった。
「壊理ちゃん! 目を閉じててください!」
トガは壊理の頭を胸元へ押しつけ、両腕で包み込んだ。
お茶子も咄嗟に二人へ駆け寄ると、壊理を挟み込むようにして身体を丸め、その上から覆い被さった。
何が起きたのか、二人にも分からなかった。
ただ、泥花市で途方もない何かが起きたということだけは理解していた。
それから数秒が経ち、光は徐々に弱まり始めた。
白く塗り潰されていた景色が少しずつ元の色を取り戻していく。
トガは壊理を抱えたまま恐る恐る顔を上げたが、周囲の木々には目立った変化がなく、足元には先ほどと同じように落ち葉が積もっていた。
「……何だったんでしょう、今の」
お茶子は答えなかった。
木々の隙間から見える空に、巨大な灰色の塊が膨れ上がっていたからだ。
最初は雲かと思ったが、その輪郭はあまりにも不自然で、しかも時間と共にこちらへ広がってきているように見える。
光が届くまでには、ほとんど時間がかからなかった。
けれど、もしあれが爆発のようなものだったとしたら、他にも何かがこちらへ向かってくるのではないか。
「……ヒミコちゃん。もうちょっと、壊理ちゃんをしっかり抱いといて」
お茶子の声には、先ほどまでの柔らかさがなかった。
トガは一瞬だけ不思議そうな顔をしたものの、すぐに壊理を抱く腕へ力を込めた。
お茶子も二人の傍へ身を寄せ、周囲の木々を見回しながら、何か身を隠せる場所がないか探し始めた。
しかし、その判断は遅すぎた。
遠くから低い音が聞こえてきた。
最初は雷鳴のようだった。山の向こうで何か巨大なものが崩れ落ちたような、腹の底に響く鈍い音。
それは一向に収まる気配を見せず、むしろ時間が経つにつれて大きくなっていった。
「……何か、聞こえません?」
お茶子は答えなかった。
木々の向こう、泥花市の方角から迫ってくるものが、ようやく見えたからだ。
遠くの山肌に生えていた木々が、街に近い側から順番に大きくしなっていた。
まるで見えない巨大な手で押し倒されているかのように、緑色の斜面が波打ち、土煙が次々と立ち上っていく。
それが何を意味するのか理解した瞬間、お茶子は叫んだ。
「伏せてッ!」
お茶子はトガの肩を掴み、壊理ごと地面へ押し倒した。
幸い、すぐ傍には斜面から突き出した大きな岩があった。
三人はその陰へ転がり込むように身を寄せ、トガが壊理を抱え込み、お茶子が二人の上へ覆い被さる。
直後、轟音が山を揺らした。
耳元で雷が落ちたかのような音だった。
いや、それよりも遥かに大きい。
山全体が巨大な何かに殴りつけられたような衝撃が地面を伝わり、周囲の木々が一斉に震えた。
壊理が悲鳴を上げたが、その声は轟音に掻き消された。
続いて凄まじい風が吹きつけ、地面に積もっていた落ち葉が一斉に舞い上がった。
砂や小石が身体を叩き、周囲の杉や檜は大きくしなり、枝葉が激しく擦れ合う音を立てたかと思うと、耐えきれなくなったものから次々と折れ始めた。
太い幹が軋み、根が地面から引き剥がされる。
倒れた木が隣の木へ衝突し、その木がさらに別の木を巻き込んで倒れていく。
ほんの数秒前まで頭上を覆っていた枝葉は無数の破片となって吹き飛び、木々の間から差し込む日差しが急激に強くなっていった。
トガは壊理の頭を抱え込み、地面へ押しつけるようにして庇った。
お茶子もその上から身体を丸め、岩の陰へ入り込めなかった部分を自分の身体で覆っている。
やがて、頭上でひときわ大きな音がした。
近くに立っていた杉の木が根元から折れ、巨大な幹が周囲の枝を巻き込みながら倒れ込んできた。
お茶子は咄嗟に片手を伸ばして幹へ触れ、個性によってその重さを失わせる。
宙へ浮き上がった木は押し寄せる風に煽られ、そのまま斜面の向こうへ吹き飛ばされていった。
しかし、一本の木を退けたところで、周囲では既に何十本もの木々が倒れ始めていた。
衝撃波に遅れて熱風が押し寄せた。
それまで肌を叩いていた空気が唐突に熱を帯び、最初は強い日差しを浴びた時のような熱さだったものが、瞬く間に耐え難いものへ変わっていった。
露出した頬や手の甲に焼けつくような痛みが走り、息を吸い込もうとしたトガは、喉を刺す熱気に思わず咳き込んだ。
周囲では乾いた落ち葉が黒く縮れ、吹き飛ばされた枝葉の中から小さな炎が上がり始めていた。
折れた幹の断面が赤く燻り、倒れた木々の表面を炎が這うように広がっていく。
山林は次々と燃え始め、押し寄せる熱風が火の粉を巻き上げていた。
壊理は二人の身体に挟まれたまま、必死に目を閉じていた。
頭上では何かが次々と壊れる音がしていたが、何も見えなかった。
トガが頭を抱え込み、お茶子がその上から覆い被さっているため、顔を上げることさえできない。
ただ、二人が自分を強く抱き締めていることだけは分かった。
「……トガさん……!」
呼びかけても返事はなかった。
轟音のせいで聞こえていないのかもしれない。
そう思って、今度はお茶子の名前を呼ぼうとしたが、その瞬間、背中を包んでいた腕にさらに強い力が込められた。
二人ともここにいる。自分を守ってくれている。
そう思うと、少しだけ怖さが和らいだ。
しかし、熱風は一向に収まらなかった。
トガは壊理を抱え込んだまま、背中に走る痛みを必死に堪えていた。
飛来した枝や石が何度も身体へぶつかり、熱気によって肌が焼かれていく。
衣服はところどころ破れ、露出した腕には無数の傷が走っていたが、今さら身を起こすことなどできるはずもなかった。
お茶子も同じだった。
二人の上へ覆い被さっている分、熱風や飛来物をまともに受けていた。
背中に何かがぶつかるたびに身体が大きく揺れ、痛みに顔を歪めたが、壊理を庇う姿勢だけは崩さなかった。
彼女たちは複製だった。
トゥワイスの個性によって作られた身体は、本物と同じ姿をしていても、受けた損傷に耐えられなくなれば形を保てなくなる。
既に二人の身体は限界に近づいていたが、それでも腕の中の少女を放そうとはしなかった。
壊理を守ることが自分たちに与えられた役目であり、二人とも、その役目を果たすつもりだった。
どれほどの時間が経ったのか、分からなかった。
やがて耳を塞いでいた轟音が少しずつ遠ざかり、身体を地面へ押しつけていた風の力も弱まり始めた。
頭上から降り注いでいた枝や小石が減り、代わりに何かがぱちぱちと燃える音が聞こえてくる。
壊理は恐る恐る目を開けた。
頬に触れていたものが、なくなっていた。
先ほどまで身体を包み込んでいた腕も、頭を押さえていた手も、いつの間にか消えていた。
壊理はしばらく何が起きたのか分からず、身を起こして周囲を見回した。
「……トガさん?」
返事はなかった。
傍らには黒い泥のようなものが、地面に薄く広がっていた。
その一部には見覚えのある布地の色が混じっていたが、二人の姿はどこにもなかった。
「……お茶子さん?」
壊理はもう一度呼びかけたが、やはり返事はなかった。
トゥワイスの個性で作られた複製が、強い衝撃を受けると泥のように崩れてしまうことは知っていた。
以前にも同じような光景を見たことがある。
けれど、今はそれが何を意味するのか、すぐには理解できなかった。
つい先ほどまで、二人は自分を抱き締めていた。
あんなに強く、離れないようにしてくれていた、それなのに、気がつけば二人ともいなくなっていた。
壊理はそっと地面へ手を伸ばした。
指先に触れた黒い泥は、もう誰の形もしていなかった。
「……あれ……?」
小さく首を傾げ、それからもう一度だけ二人の名前を呼んだが、返事はなかった。
周囲では倒れた木々が燃える音だけが続いていた。
壊理はしばらくその場に座り込んでいたが、やがて顔を上げ、周囲の光景を見て息を呑んだ。
そこには、もう森がなかった。
先ほどまで周囲を覆っていた杉や檜は、ほとんどが根元から折れ、泥花市とは反対側へ向かって倒れていた。
幹の太い木も例外ではなく、途中から折れたものや、根ごと地面から引き剥がされたものが、斜面のあちこちに横たわっている。
地面を覆っていた落ち葉は吹き払われ、剥き出しになった土砂には無数の枝や石が散乱していた。
折れた幹の断面からは白い煙が立ち上り、まだ火の残っている木々が乾いた音を立てながら燃えている。
壊理は倒れた木の幹へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
身体には細かな擦り傷があり、喉もひりひりと痛んでいたが、歩けないほどの怪我はなかった。
二人が最後まで覆い被さり、岩陰で守ってくれたおかげだった。
もう一度、二人が消えた場所へ目を向けた。
そこには焼け焦げた地面があるだけで、先ほどまで自分を抱き締めてくれていた少女たちの姿はどこにもなかった。
壊理は唇を噛み、遠くの景色を見た。
木々がなぎ倒されたことで、山の向こうに広がる泥花市が見えるようになっていた。
街が、壊れていた。
遠くに見える建物の多くは辛うじて形を保っていたものの、屋根や外壁を失ったものが目立ち、至るところから煙が立ち上っている。
高い建物の窓は黒く抜け落ち、道路沿いには崩れた建物の瓦礫が積み重なっていた。
街の中心部には巨大な灰色の煙が立ち上り、その周囲では、いくつもの場所から炎が噴き上がっている。
昼間の明るい日差しの下で、その惨状はかえって鮮明に見えた。
「……デク、さん……?」
壊理の口から、小さな声が漏れた。
あそこには出久がいる。
トゥワイスも、スピナーも、マグネも、コンプレスもいる。
トガとお茶子の本物だって、きっとあそこにいるはずだった。
けれど、今の泥花市は壊理が知っている街とはまるで違っていた。
建物は壊れ、あちこちで火が燃え、巨大な煙が空へ伸びている。
出久が迎えに来ると言っていた。
戦いが終わるまで、ここで待っていればいいと言われていた。
けれど、二人はいなくなってしまった。
戦いが終わったのかどうかも分からない。
出久が無事なのかどうかも分からず、今の自分がどこへ行けばいいのかさえ、壊理には判断できなかった。
それでも、あの街に行けば誰かに会えるかもしれないと思った。
壊理は一度だけ振り返り、二人が消えた場所を見た。
「……ごめんなさい」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
少女は泥花市へ向き直ると、ふらふらと歩き始めた。
山の斜面には根元から引き抜かれた木々が幾重にも折り重なっていた。
熱風によって枝葉の大半が吹き飛ばされていたため、遠くまで見通すことはできたが、歩きやすくなったわけではない。
壊理は倒木を乗り越え、崩れた土砂を避けながら、少しずつ斜面を下っていった。
どちらへ進めば街に着くのか、正確には分からなかった。
ただ、煙が立ち上っている方へ歩いていけば、いつか辿り着けるような気がした。
そうして何本目かの倒木を乗り越えようとした時、頭上から鋭い音が聞こえた。
「……?」
壊理は足を止めた。最初は飛行機か何かが飛んでいるのかと思ったが、その音はあまりにも速く近づいてきた。
空気を引き裂くような甲高い音が一瞬で大きくなり、反射的に顔を上げた壊理の視界を、黒い何かが横切った。
それは泥花市の方角から飛んできた。
青空を背景にした黒い影は、壊理の頭上を通り過ぎるかと思われたが、突然その進路を変え、こちらへ向かって急降下してきた。
「……え?」
壊理が声を漏らした直後、黒い影が目の前に着地した。
凄まじい衝撃が地面を揺らし、足元の土砂が跳ね上がった。折れた枝や小石が周囲へ飛び散り、壊理は思わず両腕で顔を庇った。
巻き上がった土埃がゆっくりと晴れていくと、そこに一人の人物が立っていた。
全身を黒い外骨格に覆われた、異様な姿だった。
頭から爪先まで隙間なく装甲に包まれており、顔も黒い装甲に覆われているため、男なのか女なのかさえ分からない
ただ、その姿にはどこか見覚えがあった。
肩から腕へと続く装甲の形や、身体に沿って組み上げられた外骨格の輪郭。
色はまるで違っていたものの、以前に出久が見せてくれた白い装備と、よく似ているような気がした。
けれど、壊理はそれを確かめようとは思わなかった。
目の前に立つ人物からは、これまで感じたことのないような恐ろしい威圧感が漂っていた。
何かをされたわけではない。怒鳴られたわけでも、脅されたわけでもなかった。
それどころか、相手は壊理に目を向けることさえせず、ただ静かに立っているだけだった。
それなのに、身体が動かなかった。
治崎の前に立たされた時とも違う。あの男の機嫌を損ねれば、ひどいことをされると知っていた。
だから怖かったのだと、今なら分かる。
しかし、目の前の人物については何も知らなかった。
何を考えているのか、何をしようとしているのか、まるで分からない。
顔が見えないことも、その恐怖を一層強くしていた。
壊理は後ずさろうとしたが、足に力が入らなかった。
小さな声が漏れ、膝が折れる。
逃げなければならないと思ったが、身体が言うことを聞かず、両手を地面についたまま、その場にへたり込んでしまった。
黒い人物はそんな壊理の様子をしばらく見下ろしていたが、やがてゆっくりと腕を動かした。
「ひっ……!」
壊理は反射的に目を閉じた。
しかし、何も起きなかった。
恐る恐る目を開けると、相手は腕に抱えていた人物を抱え直しているところだった。
全身に傷を負い、ぐったりと力を失っていたが、その顔を見間違えるはずがなかった。
「……トゥワイス、さん……?」
いつも賑やかに話しかけてくれる、あの男だった。
しかし、今は目を閉じたまま動かない。
衣服はあちこち破れ、露出した肌には傷があり、顔にも血が付着していた。
「トゥワイスさん……!」
壊理は思わず身を乗り出したが、黒い人物がこちらへ顔を向けた途端、再び身体を強張らせた。
ヘルメットの奥にあるはずの目は見えなかった。
それでも確かに見られているのだと分かり、壊理はそれ以上近づくことができなかった。
相手は何も言わず、壊理と腕の中のトゥワイスを交互に見ていたが、やがて何かを思い出したように小さく頷いた。
「……ああ、そうか。顔が見えなくて怯えてるんだね
聞き慣れたはずの声だった。
黒い人物はトゥワイスを片腕で抱え直すと、空いた手を胸元へ添えた。
すると、全身を覆っていた外骨格が静かに動き始めた。
装甲の継ぎ目が開き、幾重にも重なっていた黒い構造物がほどけるように後退していく。
肩から腕へ、胴体から脚へと外骨格が次々に形を失い、最後に頭部を覆っていた装甲が開いた。
そこから現れた顔を見て、壊理は目を見開いた。
見慣れた緑色の髪。頬に散ったそばかす。
何度も見上げたことのある、優しそうな顔立ち。
緑谷出久だった。
「こんにちは、壊理ちゃん」
出久はにこやかに微笑んだ。
まるで偶然道端で知り合いを見かけたかのような、穏やかな挨拶だった。
周囲の木々がなぎ倒され、遠くの街が煙を上げていることなど、まるで気にしていないようだった。
「いやあ、驚いたよ。こんなところにまで破壊が及んでいるなんて、想定外だった。少し羽目を外し過ぎちゃったみたいだね」
出久はそう言って笑った。
さっきまで、あんなに会いたいと思っていた。
街へ向かって歩き出したのも、出久を探すためだった。
だから目の前に現れた人物が出久だと分かった時には、嬉しくなるはずだったのに、胸の奥に広がったのは安堵ではなく、先ほどまで感じていた恐怖だった。
「……デク、さん……?」
「うん? どうしたんだい?」
出久は首を傾げた。
その仕草にも見覚えがあった。壊理が何か分からないことを尋ねた時、出久はよく同じように首を傾げていた。相手の話をきちんと聞こうとして、少し考え込むような顔をするのだ。
しかし、今は違った。
目の前の出久は、壊理が怯えていることを不思議そうに眺めているだけだった。
壊理は彼の顔をじっと見つめた。
間違いなく出久の顔だった。
声も、髪も、そばかすも、何もかも同じだった。怪我をしているようにも見えず、いつもと変わらない様子で微笑んでいる。
それなのに、何かが決定的に違っているように感じられた。
壊理には、それを上手く説明できなかった。
ただ、目の前の出久を見ていると、どうしても身体が震えてしまう。
「随分と警戒されているみたいだね。せっかく迎えに来たのに、寂しいなあ」
そう言いながら、彼は一歩近づいた。
壊理は反射的に後ずさった。地面についた手が滑り、身体が傾く。
慌てて姿勢を立て直したものの、足元には折れた枝や小石が散乱しており、思うように動くことができなかった。
出久はそんな壊理を見下ろし、困ったように笑った。
「そんなに怖がらなくてもいいじゃないか。ほら、僕だよ。緑谷出久。君の知っているデクくんだ」
「……ちがう……」
「ん?」
壊理はゆっくりと首を横に振った。
理由なんて分からない。どうして出久の顔をしているのかも、どうして同じ声で話しているのかも分からなかった。
ただ、出久は壊理が怖がっている時、こんなふうに近づいてこなかった。
泣いている時には落ち着くまで待ってくれたし、嫌がっていることを無理にさせようとはしなかった。
けれど、目の前の人物は、壊理が後ずさっても歩みを止めようとしない。
「……さて、と。そろそろ行こうか。ここも随分と危なくなってしまったし、あまり長居する理由もないからね」
出久は小さく肩を竦めると、壊理へ手を伸ばした。
「……やっ!」
壊理は咄嗟に顔を背けたが、出久は構わず腕を回し、軽々と抱き上げた。
両手で胸を押し、足をばたつかせ、どうにか腕の中から逃れようと身体を捩ったものの、出久の腕はびくともしなかった。
「いやっ! やだっ! はなしてよぉ!」
「おっと。そんなに暴れると危ないよ。君を置いていくわけにもいかないんだ。少し我慢してくれると助かるんだけど」
出久は笑いながら壊理を抱え直した。
まるで駄々をこねる子供をあやすような口調だったが、壊理がどれほど嫌がっても、地面へ下ろそうとはしなかった。
壊理は何度も出久の肩を叩いた。
しかし、出久は痛がる様子もなく、壊理を片腕で抱えたまま、もう一方の腕でトゥワイスを抱え直した
「……トゥワイスさん……!」
壊理が思わず手を伸ばすと、出久はその様子を見て小さく笑った。
「大丈夫だよ。彼もちゃんと連れていくから。君は自分の心配をしていればいい」
そう言うと、出久は踵を返した。
泥花市とは反対の方角だった。
壊理は一瞬、何が起きたのか分からなかった。
出久は倒れた木々の間を抜け、焼け焦げた斜面を登っていく。
その足取りに迷いはなく、壊理が腕の中で暴れていても歩く速さが変わることはなかった。
慌てて顔を上げると、出久の肩越しに遠くの街が見えた。
巨大な煙が空へ立ち上り、建物のあちこちから炎が噴き上がっている。
先ほどまで自分が向かおうとしていた場所が、少しずつ遠ざかっていく。
「……待って! みんながまだ街にいるよ! 助けなきゃ!」
壊理は身を捩り、街の方角を指差した。
「みんな?」
「トガさんも、お茶子さんも! スピナーさんも、マグネさんも、コンプレスさんも……! おひげの人も、ラブラバさんも!」
壊理は必死に名前を挙げた。トガとお茶子の複製が、自分を守って消えてしまったことを思い出した。
あの二人は、本物もきっと街にいると言っていた。
出久が迎えに来るとも言っていたのだから、まだみんなが待っているはずだった。
「みんな、あそこにいるの! まだ帰ってきてないの! だから……!」
「ああ、敵連合のことか。そういえば、まだ何人か残っていたね」
出久は納得したように頷いた。その口調はひどくあっさりしており、壊理は思わず彼の顔を見上げた。
「……助けに、行かないの?」
「うーん。彼らの個性には、あんまり興味がないんだよね」
「……え?」
「今や連合に特に価値は感じていないし……そっちはいいよ。さあ、行こうか」
出久はそう言って、にこりと笑った。
「……でも、みんな、いるんだよ……?」
「そうだね」
「……けが、してるかもしれないよ……?」
「そうかもしれないね」
「……しんじゃう、かもしれない……」
「うん。そうだろうね」
出久は穏やかに答えた。
壊理は彼の顔を見つめた。
誰かが死んでしまうかもしれないと聞いても、出久はまるで気にしていないようだった。
「……だったら、助けなきゃだめだよ!」
「壊理ちゃん。助けられることと、助ける理由があることは、別の話だよ」
「……でも……!」
「それに、僕たちにはもっと大事なことがある。ここで時間を使ってしまうのは、あまり賢い選択じゃない」
出久はそう言いながら倒木をひょいと跨いだ。
肩に担がれたトゥワイスの身体が僅かに揺れ、壊理は反射的に彼へ手を伸ばしたが、指先は服に触れることさえできなかった。
「……大事なことって、なに……?」
「それは、これからのお楽しみ」
出久は楽しそうに答えた。
壊理はもう何も言えなかった。
出久はみんなを助けに行かない。どれだけお願いしても、きっと戻ってくれないのだと、分かってしまった。
もう一度、出久の肩越しに街を見た。
泥花市は遠ざかっていた。少し前まで、あそこへ行けば出久に会えると思っていた。
トガやお茶子にも、スピナーやマグネにも会えると思っていた。みんなで一緒に帰れると、そう信じていた。
けれど、今は出久の腕の中にいる。ずっと会いたかった人の顔がすぐ近くにあるのに、少しも安心できなかった。
「……やだ……」
壊理は小さく呟いたが、出久は何も答えなかった。
「……やだよ……!」
壊理は再び暴れ始めた。
両手で出久の胸を押し、足をばたつかせ、どうにか身体を捩って地面へ降りようとしたが、出久は腕の位置を少し変えただけで、簡単に壊理を抱え直してしまった。
「こらこら。危ないじゃないか」
「はなしてっ!」
「それはできないなあ。もう少ししたら、ちゃんと休ませてあげるから。今は大人しくしていてくれるかい?」
出久は相変わらず穏やかだった。
怒ることも、声を荒らげることもなく、壊理がどれだけ泣いても嫌がっても、その態度は少しも変わらなかった。
壊理は、出久の顔を見上げた。
その目は壊理を見ていなかった。
泣いていることも、怖がっていることも分かっているはずなのに、何も変わらない。
「……デクさん……」
「うん? 何だい、壊理ちゃん」
出久が微笑んだ。
壊理は、その顔を見つめた。
違う。
この人じゃない。この人は、デクさんじゃない。
怖がっている時に手を握ってくれた人に。
泣いている時に、泣かなくてもいいと言ってくれた人に。
何もできない自分を、いつも守ってくれた人に、もう一度会いたかった。
壊理は大きく息を吸った。
「──助けて、デクさんッ!」
その声は、焼け焦げた山の斜面へ響き渡った。
木々がなぎ倒され、遮るもののなくなった山肌を、幼い少女の声が遠くまで駆け抜けていく。
「デクさんッ! 助けてぇッ!」
壊理は泣きながら叫び続けた。
すぐ傍に出久の顔があり、自分を抱えているのも出久の腕だった。
それでも壊理は、目の前にいる人物ではなく、どこかにいるはずの本当の出久へ向かって助けを求めた。
出久は足を止めなかった。ただ、腕の中で泣き叫ぶ壊理を一度だけ見下ろし、僅かに目を細めた。
「……鬱陶しいなあ」
出久はそれ以上何も言わず、トゥワイスを担ぎ直すと、再び前を向いた。
焼け焦げた山肌を、一歩、また一歩と進んでいく。その腕の中から少女の声が響き続けたが、歩みが緩むことはなかった。
遠くの街では今も煙が立ち上っていた。
山のあちこちでは倒木が燃え、時折、乾いた幹が崩れる音が聞こえてくる。そ
んな中を、出久は壊理を抱え、トゥワイスを担ぎ、背後の泥花市を一度も振り返ることなく歩いていった。
「──助けて、デクさん……!」
出久に抱えられた少女の声が、焼け野原となった山に木霊した。